雛芥子の芽吹く頃 作:西楚の一平卒
銃声が響いた。
乾いた音が一つ。少し遅れて、遠くで鳥の群れが飛び立つ。ばさばさと重なった羽音もすぐに遠ざかり、辺りにはまた静けさが戻った。
「…………」
粥を食べる手を止める。
「今の、近くない?」
「近いな」
項司は気にした様子もなく、自分の器を傾けている。
「大丈夫なの?」
「一発だけだ。こっちじゃない」
「そう」
ならいい。食事を再開する。
最近知ったことだけれど、この辺りでは銃声なんて珍しいものでもないらしい。元々この国には、それほど多くの銃が出回っていたわけではないそうだ。それでも警察や自衛隊、それ以外にも銃を扱う人間はいた。国がまともに機能しなくなり、それを管理する側までいなくなれば、残された銃がどこへ行くのかなんて考えるまでもない。
項司も一丁持っていた。警察署から拝借したものらしい。
「泥棒ね」
「誰もいなかったんだからいいだろ」
「泥棒はみんなそう言うのよ」
「お前にだけは言われたくねえな」
「失礼ね。私はまだ何も盗んでないわよ」
「まだって言ったな?」
言ったかしら。覚えてない。
そんなことより粥である。昨日よりさらに薄くなった気がする。
「項司」
「なんだ」
「これ、水?」
「粥だ」
「米が見つからないんだけど」
「探せ」
箸で器の中をかき混ぜる。一粒、二粒、三粒。
「…………」
「数えるな。悲しくなる」
仕方がないので飲んだ。腹は膨れない。それでも温かいものが腹に入れば、何も食べないよりはずっといい。
ここに来てから分かった。項司たちは、いつも腹を空かせている。水も足りない。食べ物も足りない。薬もない。薪だって好きなだけ燃やせるわけじゃない。拾ってきた服は継ぎ接ぎし、壊れた道具は何度も直して使っている。
昨日、項司は朝から何かを探しに出ていった。夕方になって帰ってきた時、食料は増えていなかった。
代わりに子供が一人増えていた。
本当に馬鹿だと思う。
◇
「項司!」
昼を少し過ぎた頃、入口の方から声が上がった。前に私を出迎えた、あの男の子だった。
「誰か来た!」
空気が変わる。遊んでいた子供たちが動きを止めた。
「何人だ?」
「四人。たぶん」
「知ってる奴か?」
「前に来た人がいる」
「分かった。小さいの連れて奥行け」
「うん」
少年はすぐに動いた。幼い子の手を取り、年長の子供たちにも声を掛ける。泣きそうになった子を抱き上げ、奥の部屋へ押し込んでいく。
随分と慣れている。
項司も立ち上がり、腰の後ろへ手を回した。拳銃。
私も立ち上がる。
「お前も中にいろ」
「なんで?」
「なんでって……危ねえからだよ」
「私、建物に潰されても死ななかったけど」
「それとこれとは別だ」
「何が?」
「いいから」
意味が分からない。けれど項司はもう外へ向かっていたので、仕方なく後を追う。
「おい」
「中にはいるわよ」
「じゃあなんでついてくる」
「入口も中でしょう」
「屁理屈覚えるの早えな……」
褒められた。
入口まで行くと、さっきの少年が壁際にいた。
「奥にいろって言っただろ」
「みんな連れてった」
「お前もだよ」
「でも──」
「行け」
「…………」
少年は不満そうだった。それでも逆らわず、奥へ戻っていった。
私は残った。
「お前もだっつってんだろ」
「私は言うこと聞くって言ってないもの」
「……後で覚えてろよ」
何を覚えておけばいいのかしら。
外には四人いた。全員男。見覚えはない。ただ、項司の方は先頭の一人を知っているらしい。
「またお前か」
「悪いな」
男が言った。悪いと思っている顔には見えない。でも、楽しそうにも見えなかった。
「食い物、余ってないか」
「余ってるように見えるか?」
「少しくらいあるだろ」
「ない」
「この前はあった」
「あったから渡した。もうない」
男が舌打ちする。後ろの三人も苛立っていた。頬がこけ、服は汚れ、髭も伸びている。ひどく疲れた顔をしていた。
なるほど。あっちも腹が減っているらしい。
「こっちも限界なんだよ」
「だからって、ないもんは渡せねえ」
「ガキばっかり十何人も抱えてるじゃねえか」
「だからないんだよ」
「こっちにもガキがいる!」
男が怒鳴った。項司が黙る。
「昨日から何も食ってねえ奴もいる。乳の出ねえ女もいるんだ。このままじゃ赤ん坊が死ぬ」
「…………」
「少しでいい。分けてくれ」
「少しってどれだけだ」
「米。缶詰。何でもいい」
「ねえよ」
「あるだろ!」
「こいつらの明日の分しかない!」
「だから言ってんだろ! こっちにも子供がいる!」
男の視線が建物の奥へ向いた。そこに、額から角の出た子供がいた。
「……ああいうのまで抱えてるくせに」
項司の目が細くなる。
「何だよ」
「俺らの子供は昨日から食ってねえんだ。だったら、そっちに回す分を少し寄越せって言ってんだよ」
ああ。面倒臭い。
「そんなのに食わせる飯があるなら、俺らの子供に食わせてくれよ」
「……そんなの?」
「見りゃ分かるだろ」
項司が振り返る。奥にいる子供を見る。
「こいつもガキだ」
「だから何だよ」
「だから、食う」
話を聞いていて分かった。どちらも食べ物が欲しい。どちらにも子供がいる。そして、どちらも譲れない。
なら、簡単な話だ。
「奪えば?」
全員が私を見る。
「雛子」
「何よ」
「黙ってろ」
「だって欲しいんでしょう? そっちの人たち」
男を見る。
「項司は渡したくない。あなたたちは欲しい。なら奪えばいいじゃない」
「お前な……」
「勝った方が食べればいいでしょう?」
沈黙。
何かおかしなことを言ったかしら。
外では普通だった。食べ物を持っている。欲しいなら奪う。奪われたくないなら抵抗する。それでも欲しければ殺す。殺された側は食べない。生き残った側が食べる。
単純な話だ。
男の一人が笑った。
「ガキの方が話分かるじゃねえか」
「笑えねえよ」
項司はそう返した。
「帰れ」
「手ぶらじゃ帰れねえ」
「こっちだって渡せねえ」
「だったら──」
一人が前へ出た。
項司が拳銃を抜く。それでも男は止まらず、代わりに片腕を顔の前へ出した。
皮膚の色が変わる。灰色。表面がひび割れるように盛り上がり、石のような質感へ変わっていく。
面白い。
「撃てよ」
「…………」
「弾が勿体ねえか?」
項司の眉が動いた。
なるほど。撃たれても平気なのね。
「便利ね、それ」
「雛子!」
怒られた。けど、そういえば。
「あんたのところにもいるじゃない」
私が硬い腕の男を見る。
「何がだ」
「同じでしょう?」
男は一瞬黙った。
「こいつは役に立つ」
次の瞬間、別の男が項司へ飛びかかった。
銃声。
空へ向けて一発。狭い場所で聞くと、耳の奥まで痛い。
「次は当てる!」
項司が叫び、男たちが止まった。
「……撃てるのかよ」
「試すか?」
睨み合いが続く。誰も動かない。
奥の暗がりを見る。さっきの少年が、壁から半分だけ顔を出していた。
項司は気づいていない。
私は項司の背中を見る。面倒ね。
「私がやろうか?」
「何を」
「追い払うの」
「駄目だ」
「なんで?」
「ガキを人殺しに使えるか」
「…………」
何を言っているのか分からなかった。
「私、あの人たちより多分強いわよ」
「そういう問題じゃねえ」
「じゃあどういう問題?」
「ガキはガキだ」
「…………」
本当に、何を言っているのか分からない。
研究所では、私が子供だから実験をやめようなんて言う人はいなかった。切る時も、潰す時も、血を抜く時も同じだった。外に出てからだってそうだ。子供だろうが、弱ければ奪われる。強ければ奪える。
年齢なんて関係ない。
項司だけが、違うらしい。
「話は終わりだ」
項司が言った。
「帰れ」
「だから、こっちは──」
「分かってる」
「分かってねえよ!」
硬い腕の男が踏み込んだ。今度は止まらない。
項司の拳銃がそちらを向く。
銃声。
男が腕で顔を庇った。弾丸が硬化した皮膚へ当たり、小さな破片と血を散らす。
「ぐっ……!」
完全には防げないらしい。それでも腕は吹き飛ばなかった。
大したものだ。
そのまま男が項司へ突っ込み、拳銃を持った腕を掴む。残りの三人も動いた。
「だから私が──」
「来るな!」
仕方がない。見ていた。
殴る。蹴る。掴む。転ばせる。拳銃を奪おうとして、奪われないように腕を捻る。硬い腕があるからといって、戦い方まで特別になるわけではないらしい。
随分と原始的だった。異能があっても、結局やることはそんなに変わらない。
項司が一人を殴り倒す。横から別の男に組みつかれ、二人まとめて壁へぶつかる。硬い腕が振るわれ、項司の頬を掠めた。
赤いものが飛ぶ。
「…………」
血。
勿体ない。落ちる前に回収したくなる。
もう一発、銃声。
今度は地面。弾けた石片に、男たちが怯む。
「帰れ!」
項司の口元から血が流れている。
「次は足を撃つ!」
嘘ね。たぶん。撃てるなら、とっくに撃っている。
でも向こうには分からない。
四人が項司を見る。拳銃を見る。傷ついた仲間を見る。
やがて一人が吐き捨てた。
「……覚えてろ」
「忘れられるなら忘れたいね」
しばらく睨み合ってから、男たちは離れていった。誰も追わない。項司も拳銃を下ろした。
奥から、あの少年が飛び出してくる。
「項司!」
「だから奥にいろって言っただろ」
「血出てる!」
「これくらい平気だ」
「でも──」
「大したことねえよ」
項司が少年の頭を乱暴に撫でる。少年は納得していない顔をしていた。
「終わった?」
「ああ」
「殺せばよかったのに」
「嫌だよ」
「また来るわよ」
「その時考える」
「またそれ」
便利な言葉ね。
項司が顔の血を袖で拭う。
「怪我したじゃない」
「大したことねえ」
「そう」
頬から顎へ伝う血を見る。
「舐めていい?」
「やめろ。怖えよ」
冗談だったのに。半分くらい。
◇
項司が拳銃を弄っていた。弾倉を抜き、残っている弾を一つずつ机へ並べる。
さっきの少年も少し離れたところに座っていた。項司が追い払わないところを見ると、見ていてもいいらしい。
「何してるの?」
「数えてる」
「見れば分かるわよ」
隣に座って、私も数える。
「十三」
「…………」
「十三発」
「二回言うな」
「少ないわね」
「分かってる」
「今日三発使ったから、朝は十六発?」
「数えんな。嫌になる」
少年が机の上の弾丸を見る。
「これ、なくなったら?」
私が聞こうと思っていたことを先に聞かれた。
項司は少しだけ黙る。
「どうにかする」
「どうやって?」
「それを今考えてる」
「さっき考えてどうにかなるなら、とっくに考えてるって言ってなかった?」
「お前は余計なことだけよく覚えてんな」
「雛子が言ってた」
「お前も言うな」
少年が少し笑う。項司はため息を吐きながら、弾丸を拾い上げた。
「また警察署から取ってくれば?」
私が言う。
「もうない」
「別のところ」
「行ける範囲はだいたい漁られてる。警察署も交番も、自衛隊の施設もな」
「作れば?」
「俺が?」
「誰かが」
「作れる奴がいたら紹介してくれ」
いないらしい。
「じゃあ、本当になくなったらどうするの?」
「さあな」
「考えてないの?」
「考えてどうにかなるなら、とっくに考えてる」
結局、同じ答えだった。
少年は何も言わず、十三発の弾丸を見ている。項司はそれを一つずつ弾倉へ戻した。
外から銃声が聞こえた。一発。少し間を置いて、二発。遠い。さらに別の方向から、腹に響くような爆発音がした。銃なのか、何かの爆発なのか、異能なのかは分からない。
項司は少しだけそちらを見て、すぐに手元へ視線を戻した。
私も窓の外を見る。
食べ物がない。薬がない。燃料もない。弾もなくなっていく。昨日まで当たり前に作られていたものを、今では誰も作ってくれない。残されたものを拾い、使い、奪う。壊れても補充されない。使えば減る。そして、いつかはなくなる。
それでも腹は減る。病気にもなる。冬になれば寒くなるし、誰かを守ろうと思えば武器だって必要になる。
作る人間はいないのに、使う人間だけはいくらでもいた。
それが、この時代だった。