雛芥子の芽吹く頃   作:西楚の一平卒

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ep.08 専横あるいは規範の旗

「老けたわね」

 

「君は変わらないな」

 

 久しぶりに会った彼は、そう言って笑った。

 

 最後に顔を見た時より、ずいぶん歳を取っていた。髪には白いものが混じり、頬は少し痩せ、目尻には深い皺が刻まれている。昔、項司のところへ食料袋を背負って帰ってきた青年の面影はまだ残っていたけれど、あの頃より肩は落ち、座っているだけでも身体のどこかを庇うような癖がついていた。

 

 腕には、まだあの印があった。

 

 ただし、もう珍しいものではない。同じ印を染め抜いた旗が、この町のあちこちに立っている。

 

「何年ぶりだったかしら」

 

「二十七年」

 

「よく覚えてるわね」

 

「君と違って、俺にはそれなりに大事な二十七年なんだよ」

 

「失礼ね。私だって覚えてるわよ。大体」

 

「大体か」

 

「細かいことを気にすると老けるわよ」

 

「もう遅い」

 

 彼が笑う。笑い方は昔とあまり変わらなかった。

 

 私はこの町へ戻ってくるつもりがあったわけではない。そもそも定住する理由がないので、あれからずっと適当に暮らしていた。気が向けば一つの土地に数年留まり、飽きれば出る。働くこともあれば、しないこともある。食べ物があれば食べるし、なければ探す。血が足りなくなれば、その時に考える。どこにいても、それなりには生きられた。

 

 だから、この土地へ戻ってきたのも偶然だった。

 

 もっとも、昔と同じ場所だと気づくまでには少しかかった。道が違う。建物が違う。何より、人の数が違う。

 

 項司と暮らしていた頃には、崩れかけた家と瓦礫ばかりだった。人が向こうから歩いてくれば、まず手を見る。刃物を持っているか。服の下に銃を隠していないか。後ろに何人いるか。それを確かめてから近づく。道端に倒れている人間が生きているか死んでいるかを確かめるより、その懐に食べられるものが残っているか確かめる方が先だった。

 

 今は違う。

 

 町へ入る少し前、私は何年かぶりに走っているトラックを見た。

 

 塗装は剥げ、荷台には継ぎ接ぎの板が張られ、片方だけ色の違う扉が付いていた。排気は黒く、エンジンも今にも咳き込んで止まりそうな音を立てている。それでも動いていた。荷台には穀物の袋が積まれ、その上に何人かの男が座っている。車体の横には、あの印が描かれていた。

 

 昔、この辺りの道路にも車はたくさんあった。

 

 ただし、走ってはいなかった。道を塞ぐように乗り捨てられ、窓を割られ、使えそうなものを剥ぎ取られ、錆びていくだけだった。雨風に晒されて草に埋もれたものもあれば、食料や寝床を探して何度か中を漁ったものもある。

 

 今は、その車が減っている。

 

 道路の端に転がっていたものが運び出され、使えるものはばらされ、部品になった。そうやって集めたものを継ぎ合わせて、まだ走れそうな車を直しているらしい。

 

 町の端には、そのための場所まであった。屋根だけ直した古い工場に、動くのか怪しい車が何台も並び、外した部品が壁際へ積まれている。油まみれの男たちが一台の車の下へ潜り込み、その横では腕が四本ある男が、二本で部品を支えながら残りの二本で工具を使っていた。便利そうね。

 

 燃料は貴重らしい。だから誰でも車に乗れるわけではない。遠くの村から穀物を運ぶ時、病人を運ぶ時、組の人間を急いで動かす時。そういう、歩くより燃料を使った方が得だと判断された時だけ走らせるのだという。

 

 誰が判断するのかは、聞くまでもなかった。

 

 道の脇には店が並んでいる。野菜、乾燥させた肉、布、木工品、錆を落として修理した道具。古い硬貨を使う店もあれば、組が認めた札や穀物との交換で済ませる店もある。それでも、とにかく値段というものが決まっていた。昨日は麦一袋だった品が、店主の機嫌だけで今日は二袋になる、ということは少なくとも表通りではないらしい。

 

 市場の奥には倉庫がある。農村から運ばれてきた穀物や薪炭が積まれ、代わりに工具や布、薬、塩なんかが外へ出ていく。全部が十分にあるわけではない。むしろ足りないものの方が多い。それでも、足りないものを足りないなりに集めて、運んで、分ける仕組みができていた。

 

 井戸には順番がある。荷を運ぶ者がいる。日が暮れる前には見張りが交代する。市場で喧嘩が始まれば、腕や襟に同じ印を付けた男たちがやってきて、殴り合いになる前に両方の話を聞く。

 

 異能を持つ人間も、もう珍しくない。荷運びをする者の中には身体の大きさが普通の人間の倍近い男がいるし、屋根の上の見張りには鳥みたいな目をした女がいる。額から角が生えている程度なら、誰もいちいち振り返らない。

 

 皆が仲良くなったわけではないのだろう。露骨に距離を取る人間もいるし、異形の人間が触った品を嫌がる客も見た。それでも荷物を運べるなら運ばせるし、遠くが見えるなら見張らせる。二十七年前にも始まっていたことが、そのまま当たり前になっただけらしい。

 

 そして、その全部に同じ印を掲げた旗が立っていた。

 

 ずいぶん立派になったものだと思った。腕に描かれていた頃は、誰の仲間か分かればそれで十分だったのに。

 

「随分増えたわね」

 

「何が?」

 

「あなたたち」

 

「ああ」

 

 彼は窓の外へ目を向けた。

 

 ここは町の中心近くにある屋敷だった。昔なら、こんな傷みの少ない建物が残っていれば、それだけで何人も奪いに来ただろう。今は来ない。入口には武器を持った見張りがいて、屋根にも一人いる。この町であの印を敵に回せばどうなるか、皆知っているからだ。

 

「最初は二十人もいなかった」

 

「知ってる」

 

「今じゃ、この町と外の村をいくつか見るだけでも結構な人数だ」

 

「何人?」

 

「組に入ってる奴だけなら数えられる。けど、見張りを手伝う奴、荷運びを請け負う奴、畑や水路の管理を任されてる奴、車や機械を直してる奴まで含めたら、どこまでを身内と呼ぶかで変わるな」

 

「偉い人なのに?」

 

「偉くなったから、余計に分からなくなるんだよ」

 

「変なの」

 

「そういうもんだ」

 

 どこかで聞いたような言い方だった。

 

 彼は組の中で、それなりに偉くなったらしい。

 

 兄貴。

 

 そう呼ばれていた。

 

 どれくらい偉いのか聞いたら、「この町で俺の顔を知らない奴でも、名前を聞けば大体話を聞くくらい」と返された。

 

 分かりやすい。彼は昔から、項司よりこういう説明が上手かった。

 

 ただし、この旗がどこまでも続いているわけではない。町を抜け、山を一つ越えれば別の印が立っている。東の街道は別の組、西の川沿いはまた別。その間で荷を通したり、揉め事を起こさない取り決めをしたり、時には一緒に盗賊を追ったりする。燃料を融通する代わりに食料を受け取ることもあれば、橋を直すために人を出し合うこともある。仲が悪くなれば、昨日まで通れた道が閉じることもあるらしい。

 

 国というには小さい。

 

 ただの徒党というには、大きすぎる。

 

 そういうものが、この国のあちこちにある。

 

「で」

 

 私は机の上を見る。

 

「これ、何?」

 

 黒い液体の入った杯が置かれていた。酒ではない。匂いで分かる。

 

「毒」

 

「見れば分かるわよ」

 

「じゃあ聞くなよ」

 

「何のための毒?」

 

「飲むため」

 

「あなたが?」

 

「ああ」

 

「どうして?」

 

 彼は少しだけ考えた。

 

「負けたから」

 

「何に?」

 

「権力争い」

 

「ふうん」

 

 分かりやすい。

 

 昔は縄張りを取るために外の人間と殴り合っていた。今は縄張りが形になったせいで、その内側で誰が上に立つかを争うようになったらしい。

 

 成長したと言えば、成長したのかもしれない。

 

「誰に負けたの?」

 

「聞いてどうする」

 

「別に」

 

「殺す気ならやめてくれ」

 

「まだ何も言ってないけど」

 

「君は昔から分かりやすい」

 

「失礼ね」

 

「褒めてる」

 

「そう?」

 

「たぶん」

 

 彼は杯へ手を伸ばした。私は、その手首を掴んだ。

 

「何だよ」

 

「逃げないの?」

 

「逃げない」

 

「どうして?」

 

「逃げたら、俺についてきた連中までまとめて処分される」

 

「じゃあ、あなたを殺そうとしてる人を殺せば?」

 

「誰が」

 

「私が」

 

「やめろ」

 

 即答だった。

 

「どうして?」

 

「面倒だから」

 

「私なら簡単よ」

 

「君にとってはな」

 

「なら問題ないじゃない」

 

「問題だらけだ」

 

 彼は私の手を外した。昔なら力任せに振り払ったかもしれない。今はそんなことをしなかった。手首を掴んだ指を一本ずつ外すようにして、ゆっくり手を戻す。

 

 年を取ったから。

 

 当たり前のことだけれど、少し変な感じがした。

 

「俺が勝手に逃げて、俺を殺せって決めた奴らを全部殺して、それでどうなる」

 

「あなたが生きる」

 

「その後は?」

 

「知らないわ」

 

「だろ?」

 

「その時考えればいいじゃない」

 

 そう言うと、彼はしばらく私の顔を見て、それから声を出して笑った。

 

「何よ」

 

「いや」

 

「何」

 

「変わらないなと思って」

 

「さっき言ったでしょう」

 

「ああ」

 

 笑いながら目元を拭う。

 

「本当に変わらない」

 

 失礼な話だ。

 

「そんなに死にたいの?」

 

「死にたくはない」

 

 今度はすぐに答えた。

 

「じゃあ逃げれば?」

 

「嫌だ」

 

「死ぬ方が嫌じゃない?」

 

「嫌だよ」

 

「じゃあ?」

 

「俺だけ従わないってわけにはいかないだろ」

 

「……何に?」

 

「決まりに」

 

 私は机の上の杯を見る。

 

「負けたら毒を飲むのが決まりなの?」

 

「別に紙に書いてあるわけじゃない」

 

「じゃあ決まりじゃないじゃない」

 

「そういうところ、相変わらず面倒だな君は」

 

「あなたに言われたくないわ」

 

 彼は苦笑した。

 

「俺は長いこと、人に従えって言ってきた。場所を使うなら払え。水を使うなら順番を守れ。揉め事を起こしたら裁きを受けろ。組に入ったなら上の命令には従え。違う町へ荷を運ぶなら、向こうの取り決めも守れ。そうやってここまで来た」

 

「そうね」

 

「今さら自分の番になったら、俺だけ知らん顔して逃げるのは違うだろ」

 

「でも、それを決めたのは勝った方でしょう?」

 

「ああ」

 

「じゃあ、その人が自分で負けた時にも同じことするの?」

 

「知らん」

 

「変なの」

 

「知ってるよ」

 

 彼は笑わなかった。

 

 私はもう一度、窓の外を見る。旗が風に揺れている。昔、彼が腕に入れていた印。誰の仲間か分かるようにするだけだった印が、今では町の人間を守る旗になっている。

 

 この旗の下では商売ができる。水が飲める。荷物を運べる。畑を作れる。燃料を貯められる。壊れた車を直せる。夜に眠れる。誰かに殴られたら、少なくとも殴り返す以外の選択肢がある。

 

 旗の下で決まりを守れば、たぶん昨日より長く生きられる。

 

 便利だ。

 

 昔そう言ったら、項司には嫌な顔をされた。

 

「そういえば」

 

「何だ」

 

「項司のこと、覚えてる?」

 

 彼の顔から表情が消えた。

 

「忘れると思うか?」

 

「分からないから聞いたのよ」

 

「忘れないよ」

 

「そう」

 

「夢に出ることもある」

 

「怖い?」

 

「いや」

 

 彼は少し考えた。

 

「嫌そうな顔してる」

 

「項司らしいわね」

 

「ああ」

 

 しばらく二人とも黙った。

 

「俺は、あの人より上手くやったと思うか?」

 

「何を?」

 

「生きるのを」

 

「知らないわよ」

 

「そこは少しくらい考えてくれ」

 

「だって、比べるものじゃないでしょう」

 

「そうか?」

 

「項司よりたくさん食べさせたんでしょう?」

 

「ああ」

 

「項司よりたくさん守った?」

 

「たぶん」

 

「じゃあ上手いんじゃない?」

 

「その分、たくさん殺した」

 

「そう」

 

「……それだけか」

 

「だって、今さらでしょう」

 

 彼は黙った。

 

「あなたが人を殺したことなら知ってるわ。最初に見たのだって項司だし」

 

「そうだったな」

 

「今になって綺麗な人間だったみたいな顔されても困る」

 

「ひどいな」

 

「事実でしょう?」

 

「そうだよ」

 

 彼は椅子へ深く座り直した。窓の外から、遠くでエンジンの音が聞こえた。さっき見たトラックかもしれない。昔なら銃声でも聞こえなければ、こんな距離から人間の作った音が届くことなんて滅多になかった。

 

「孤児院、見たか?」

 

「まだ」

 

「見てけよ」

 

「どうして?」

 

「どうしてって……」

 

 少し困った顔をする。

 

「項司の真似をした」

 

「あなたが?」

 

「悪いか」

 

「別に」

 

「屋根はもっとまともだぞ」

 

「それは大事ね」

 

「だろ?」

 

 少しだけ得意そうだった。

 

 彼は杯を持った。

 

 今度は止めなかった。

 

「本当に飲むの?」

 

「ああ」

 

「死ぬわよ」

 

「知ってる」

 

「苦しいかも」

 

「脅すなよ」

 

「助けてほしくなったら言って」

 

「言わない」

 

「そう」

 

 彼は一度だけ窓の外を見た。

 

 旗が揺れている。

 

「俺は、あれを作る側だった」

 

「そうね」

 

「なら、最後まで中にいるよ」

 

 杯を傾けた。

 

 黒い液体がなくなる。

 

「不味い」

 

「でしょうね」

 

「飲んだことあるのか?」

 

「ないわよ」

 

「じゃあ適当言うな」

 

 それが最後だった。

 

 しばらくして指が震え始めた。呼吸が浅くなり、額に汗が浮かぶ。私は椅子の向かいに座ったまま見ていた。

 

 助けようと思えば助けられた。

 

 たぶん。

 

 血を入れ替えるなり、毒を吸い出すなり、身体の中へ入り込んでどうにかするなり。試したことはないけれど、やれば何かしらできただろう。

 

 でも、本人が嫌だと言った。

 

 だから何もしなかった。

 

 彼は椅子に座ったまま死んだ。

 

 後から男たちが入ってきた。誰も驚かなかった。脈を確かめ、目を閉じさせ、頭を下げる。それだけだった。泣きもしない。叫びもしない。

 

 決まっていたことなのだろう。

 

 男たちは彼の身体を運んでいった。

 

 窓の外では、旗がそのまま揺れていた。

 

 

 彼が作った孤児院は、項司の家よりずっと立派だった。

 

 まず、雨漏りしない。

 

 それだけでかなり違う。

 

 寝台が並び、毛布がある。台所には大きな鍋がいくつも置かれていた。倉庫には穀物が積まれ、乾かした豆や芋もある。薬を保管する棚には鍵まで付いていた。裏手には小さな畑まであって、年上の子供が何人か土をいじっている。

 

 子供の数は多かった。数えるのが面倒になるくらい。

 

 角の生えた子がいる。腕が三本ある女の子もいる。見た目には何も変わらない子もいる。三本腕の子は一番小さな子供を二本で抱え、残った一本で器を片付けていた。便利そうね。

 

 でも、誰が誰なのか分かるようになっていた。

 

 名前、年齢、体調、身寄りがあるか、どこで保護されたか、できる仕事、読み書きがどこまでできるか。

 

 それに。

 

「異能は?」

 

 入口近くの机で、帳簿を持った男が新しく来た子供へ聞いていた。十歳くらいだろうか。頭の左右から、小さな角が二本生えている。

 

「……角」

 

「それだけか?」

 

「たぶん」

 

「痛くしたり、大きくしたりは?」

 

「できない」

 

「他には?」

 

 子供が首を振る。

 

 男は帳簿へ何か書き込んだ。

 

「分からないことがあったら後で言え。急に何かできるようになった時もだ。怒らないから、隠すなよ」

 

「うん」

 

「よし。次」

 

 妙な聞き方だと思った。

 

 机の横から帳簿を覗く。火を出す。力が強い。皮膚が硬い。角だけ。不明。そんな短い言葉が名前の横に並んでいる。

 

「これ、何のため?」

 

「事故を防ぐためですよ」

 

 帳簿の男が答えた。

 

「火を出す子を薪の近くで寝かせたり、力の加減ができない子に小さい子を抱かせたりすると危ないでしょう」

 

「ふうん」

 

 それはそうか。

 

 少し離れたところで、別の子供が職員らしい女と話していた。十二、三歳くらいの女の子だった。見た目は普通だけれど、袖口から覗く皮膚に薄い鱗のようなものがある。

 

「親は?」

 

「いる」

 

「場所は分かる?」

 

「うん」

 

「帰りたい?」

 

 女の子は黙った。

 

 職員は急かさなかった。

 

「……帰ってくるなって」

 

「誰に?」

 

「お父さん」

 

「どうして?」

 

 女の子は袖を引っ張った。

 

 鱗が隠れる。

 

「これが出てから」

 

「そう」

 

 職員はそれ以上何も聞かなかった。帳簿へ何かを書いて、隣の欄へ印を付ける。

 

「ここにいていいよ」

 

「……いいの?」

 

「そのための場所だからね」

 

 女の子はまだ不安そうだった。

 

 珍しい話ではないのだろう。

 

 角が生えたから家に置けないと言われた子供を、昔見た。

 

 二十七年経っても、似たようなことをする人間はいるらしい。

 

 変わらないものもある。

 

「この子たちはどうなるの?」

 

 近くにいた男へ聞く。

 

「これまで通りです。運営に必要な分は組から出ます」

 

「誰かが止めるって言ったら?」

 

「一人の判断では止められません。孤児院へ回す分は、組の取り決めとして決まっていますから」

 

「そう」

 

 少しだけ引っかかった。

 

「異能がある子も?」

 

 男が不思議そうに私を見る。

 

「もちろん」

 

「嫌がる人はいないの?」

 

「いますよ」

 

 あっさり返ってきた。

 

「でも、ここに入れるかどうかとは別です」

 

「そう」

 

 昔なら、嫌だと言った人間の方が強ければ、それで終わっていた。

 

 今は違うらしい。

 

 項司が死んだ時、子供たちは彼が引き取った。

 

 彼が死んでも、今度は誰か一人が引き取る必要はない。

 

 人が死んでも、仕組みが残っている。

 

 項司は帳簿なんて作らなかった。名前くらいは覚えていたけれど、年齢も生まれも曖昧な子がいた。異能が何なのかを紙に書いたりもしなかった。

 

 目の前にいたから。

 

 それだけで拾った。

 

 だから何だという話だけれど。

 

 今の方が多く助かる。

 

 たぶん。

 

 私は孤児院を出た。

 

 町の中を歩く。

 

 旗がある。同じ印が、門にも、市場にも、井戸にも、倉庫にも掲げられている。修理工場にもあった。さっきとは別のトラックが、荷台に木箱を積んでゆっくり通り過ぎていく。道の端へ人が避け、通り過ぎればまた元に戻る。

 

 人はその旗を見て安心する。

 

 あれがある場所では、決まりがあるから。

 

 水を汲む順番。市場へ店を出す時に払う量。荷を通す時の取り分。盗みをした時の罰。喧嘩をした時に誰が間へ入るか。孤児院へどれだけ食料を回すか。

 

 昔は、強い人間が奪った。

 

 今は、強い人間が決まりを作るようになった。

 

 それを進歩と呼ぶのかどうかは知らない。

 

「すみません」

 

 後ろから声をかけられた。

 

 振り返る。

 

 二十歳を少し過ぎたくらいの若い男が立っていた。細身で、着ているものは悪くないが仕立ては地味だ。腰に武器はない。代わりに、腕へ何冊かの古い本と紙束を抱えている。

 

「何?」

 

「一つ、聞いてもいいですか」

 

「内容によるわね」

 

「あなたは……かなり前から、この辺りにいたんですよね」

 

「いたけど」

 

「記録で見たんです」

 

「記録?」

 

「二十年以上前の写真に、あなたとよく似た人がいました」

 

「私でしょうね」

 

「やっぱり」

 

 若い男が少し身を乗り出した。

 

「超常黎明期の頃も?」

 

「いたわよ」

 

「じゃあ、その頃のことを」

 

「先に言っておくけど、期待してるような話はできないわよ」

 

「どういう意味です?」

 

「私、子供だったもの」

 

 若い男が止まった。

 

「……子供?」

 

「そう」

 

「でも、その写真では今と」

 

「その写真はもっと後でしょう」

 

「ああ……」

 

 見るからに困っている。

 

「裁判所がどう動いてたとか、警察がどうやって町を守ってたとか、税金をどう集めてたとか。そういうことを聞きたいんでしょう?」

 

「……はい」

 

「知らないわよ」

 

「そうですか」

 

「学校にもまともに行ってないし」

 

「それは……」

 

「研究所にはいたけど」

 

「研究所?」

 

「気にしなくていいわ」

 

 余計なところへ食いつかれても面倒だ。

 

 私は歩き出した。

 

 少し進んで、足音がついてきていることに気づく。

 

「何?」

 

「もう一つ」

 

「まだあるの?」

 

「昔の制度そのものを知らないなら」

 

 若い男は紙束を抱え直した。

 

「今のこの町を見て、どう思います?」

 

「どうって?」

 

「昔より良くなったと思いますか」

 

「良くなったんじゃない?」

 

「簡単ですね」

 

「だって、昔は道端で人が死んでたもの。今は店もあるし、車まで走ってるし」

 

「そうですね」

 

「孤児院もある」

 

「はい」

 

「なら良くなったでしょう」

 

 若い男は少し黙った。

 

「今日、人が一人死にました」

 

「知ってるわよ」

 

「知ってるんですか?」

 

「見てたもの」

 

 彼の顔を見る。

 

「権力争いに負けたから?」

 

「そうです」

 

「本人が受け入れたわよ」

 

「それも知っています」

 

「じゃあ何が問題なの?」

 

 若い男は少し黙った。

 

「決まりがあることと、その決まりを誰が決めるかは、別なんじゃないかと思って」

 

「そうなの?」

 

「分かりません」

 

「分からないの?」

 

「だから調べています」

 

 腕に抱えた本を見る。表紙は擦り切れ、題名の読めないものもある。紙束には細かな字がびっしり書かれていた。

 

「本に書いてある制度が、本当にどう動いていたのかは、本だけじゃ分からないので」

 

「昔の役人に聞けば?」

 

「聞いてます。元警官にも、教師にも、役所にいた人にも」

 

「ちゃんとしてるじゃない」

 

「でも」

 

 若い男が町を見る。

 

 旗がある。

 

「昔の制度は、国があることを前提にしているんです」

 

「当たり前じゃない?」

 

「その当たり前が、今ないでしょう」

 

 税を取る。裁判をする。警察が捕まえる。役所が記録する。道路を直す。燃料を運ぶ。決まりを作る。

 

 昔は、それぞれをする場所があったらしい。

 

 今は、大体あの旗の下にある。

 

「昔の制度をそのまま持ってきても、動かす人がいない。国が決めたからと言っても、その国がここまで来てくれるわけじゃない。警察が捕まえると言っても、今ここで武器を持っているのは組です」

 

「じゃあ組がやればいいじゃない」

 

「今はそうなっています」

 

「動いてるでしょう?」

 

「動いてます」

 

「ならいいじゃない」

 

「良くなったことと、これ以上良くしなくていいことは別でしょう」

 

「面倒ね」

 

「よく言われます」

 

 少しだけ、項司を思い出した。

 

「じゃあ、どうするの?」

 

「調べます」

 

「それから?」

 

「考えます」

 

「それから?」

 

「試します」

 

「失敗したら?」

 

「直します」

 

「また失敗したら?」

 

「また直します」

 

「馬鹿なの?」

 

「よく言われます」

 

「そう」

 

 若い男は少し笑った。

 

「最終的には、誰か一人が全部決めなくても回る仕組みにしたいんです」

 

「そんなもの作れるの?」

 

「分かりません」

 

「またそれ」

 

「やったことがないので」

 

「やめれば?」

 

「嫌です」

 

「そればっかり」

 

「すみません」

 

 私は歩き出す。

 

 若い男もついてくる。

 

「何?」

 

「手伝ってくれますか」

 

「嫌よ」

 

「即答ですね」

 

「面倒だもの」

 

「昔のことを知らなくてもいいんです。今の町を見て、変だと思ったことがあったら教えてください」

 

「変なことだらけだけど」

 

「それでいいです」

 

「あなたも変よ」

 

「それもよく言われます」

 

 しつこい。

 

 でも、嫌いではなかった。

 

 たぶん。

 

 振り返る。

 

 町の上で旗が揺れている。

 

 あの旗は人を守る。水を配る。荷を運ぶ。市場を開く。孤児へ食べ物を与える。異能があるというだけで追い出される子供も、少なくともあの孤児院では拾われる。

 

 同じ旗が、人を殺す。

 

 彼は、その旗の下で生きた。

 

 その旗の決まりに従って死んだ。

 

 専横と呼ぶのか。

 

 規範と呼ぶのか。

 

 たぶん、どちらでもある。

 

「ねえ」

 

「はい?」

 

「名前は?」

 

 若い男が少し驚いた顔をした。

 

 それから、名乗った。

 

 私は一度聞いて、それで覚えた。

 

 この時は、それだけだった。

 

 その名前を、後になって何度も目にすることになる。記録の中で、人々の口から、そして本人が一番嫌がりそうな場所で。

 

 この時の私は、そんなことを知らない。




この時期にしてはちょっと平和な街。
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