雛芥子の芽吹く頃   作:西楚の一平卒

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ep.09 車輪の再発明

 彼は、古いものを集めていた。

 

 正確には、古い仕組みの痕跡を集めていた。

 

 役所だった建物の書庫から運び出した法令集。学校の図書室に残っていた公民の教科書。警察署跡から見つかった規則集。誰かが大事に保管していた戸籍の写し。地方自治、税、裁判、選挙、警察、議会。紙そのものは黄ばみ、端が崩れ、虫に食われているものも多かったが、文字はまだ読める。

 

 読めるからこそ、余計に分からないらしい。

 

「これ、全部国家がある前提なんですよ」

 

「でしょうね」

 

「でしょうね、じゃないですよ」

 

「私に言われても」

 

 机の上には、開かれた本と紙束がいくつも積まれていた。白紙はもったいないので、彼が書き込みに使っているのは古い帳簿の余白や、裏側が空いている紙ばかりだ。その真ん中で彼は頭を抱えている。

 

 私は少し離れた椅子に座り、勝手に茶を飲んでいた。

 

「裁判所は判決を出す。警察は捕まえる。行政は記録を管理して、税を集めて、道路や水道を維持する。議会は規則を決める。ここまでは分かります」

 

「ならいいじゃない」

 

「よくないです」

 

「どうして?」

 

「誰がやるんです、それ」

 

 知らない。

 

 そう答えようとしたら、先に睨まれた。

 

「言っておきますけど、『知らない』は禁止です」

 

「横暴ね」

 

「あなたに聞いても本当に知らないのは分かりましたから」

 

「失礼ね」

 

「事実でしょう」

 

 そうだけれど。

 

 私は彼より少しだけ昔を知っている。本当に、少しだけ。

 

 別に旧時代の社会制度に詳しいわけではない。普通に車が走り、店へ行けば物が売っていた頃の記憶だって、子供の頃のものしかない。その後は研究所にいて、外へ出た時にはもう各地で超常絡みの混乱が起きていた。役所や警察というものが存在していたことくらいは知っている。でも、どういう書類を何枚出せば何ができるのかなんて知らない。

 

 普通の子供は、そんなもの知らないと思う。

 

「前の社会を知ってる人から聞けばいいでしょう」

 

「聞きましたよ」

 

「じゃあ解決した?」

 

「してたら、こんなことしてません」

 

 彼は机の上の本を軽く叩いた。

 

「昔どうしていたかは、だいぶ分かってきました。役所が何をしてたか。警察がどう動いてたか。裁判所が何を決めてたか。税金をどう取ってたか」

 

「ちゃんと聞いてるじゃない」

 

「聞いてます。だから困ってるんです」

 

「どうして?」

 

「昔の人に『どうしてそれができたんですか』って聞くと、だいたい途中で国が出てくるからです」

 

「国が?」

 

「はい。役所が記録を持ってる。警察が捕まえる。裁判所が判決を出す。払わなければ差し押さえる。命令に従わせる。どこかで必ず、『それをする権限があったから』になる」

 

「なるほど」

 

「で、その権限を誰が認めてたのかまで辿ると、また国に戻る」

 

「便利ね、国」

 

「なくなって初めて分かりましたよ」

 

 別に彼がなくしたわけではないと思う。

 

「じゃあ、昔と同じ国を作れば?」

 

「簡単に言いますね」

 

「作ったことないもの」

 

「俺もないですよ」

 

「じゃあ同じね」

 

「一緒にしないでください」

 

 ひどい。

 

「制度の形は分かるんです」

 

 彼は机の上へ指を置いた。

 

「問題は、その形を動かしてた土台がないことです」

 

 本をめくる。

 

「たとえば税金。昔は国や自治体が徴収してた。払わなければ、法律に沿って差し押さえたり処罰したりする」

 

「今も場所代取ってるでしょう」

 

「取ってます。でも、それは組が取ってるだけです」

 

「同じじゃない?」

 

「違います」

 

「どう違うの?」

 

「昔の税金は、少なくとも建前では徴収する側にも決まりがあった」

 

「今もあるでしょう」

 

「ある。でも、最後に決めるのは上です」

 

「偉い人なんだから当然じゃない?」

 

「その偉い人が昨日と言ってることを変えたら?」

 

「今日の方に従えば?」

 

「それが嫌なんですよ」

 

 知ってる。

 

 彼は、偉い人が嫌いなのではない。偉い人の気分一つで決まることが嫌いらしい。

 

「じゃあ偉い人に決まりを守らせれば?」

 

「どうやって?」

 

「もっと偉い人を置く」

 

「その人は?」

 

「さらに偉い人に」

 

「最後は?」

 

「……一番偉い人」

 

「戻ってるじゃないですか」

 

「難しいわね」

 

「だから困ってるんです」

 

 彼は机に突っ伏した。このところ、よくこの姿を見る。

 

 昔の制度について調べ始めてから、彼は人に会い、本を読み、記録を集めている。そして、以前より困るようになった。

 

 知らなければ簡単だったのだろう。偉い人が決める。それに従う。それで町は回る。

 

 実際、回っている。

 

 食料は集められ、道は守られ、市場は開き、水も管理されている。村から穀物を積んだトラックが来て、町からは工具や塩や薬を積んで戻っていく。燃料をどこへ回すか決める者がいて、壊れた車を直す者がいて、道が崩れれば人を集めて直す。昔みたいに、今日生きていても明日誰かに殺されるかもしれない、という場所ではなくなった。

 

 それをやっているのが国ではなく、組だというだけだ。

 

 そして、その「だけ」が彼には大問題らしい。

 

「警察が悪いことした時って、昔はどうしてたんです?」

 

「知らない」

 

「あ」

 

「禁止って言ったでしょう」

 

「今のは私じゃなくても知らないと思うわよ」

 

「まあ……」

 

「警察より強い警察がいたんじゃない?」

 

「たぶん、そういう話じゃないです」

 

「じゃあ何?」

 

「分かりません」

 

「同じじゃない」

 

「一緒にしないでください」

 

 本当に失礼。

 

「裁判官が賄賂を受け取ったら?」

 

「捕まえる」

 

「誰が?」

 

「警察」

 

「じゃあ警察と裁判官が仲良しだったら?」

 

「困るわね」

 

「でしょう?」

 

「偉い人に言う」

 

「だから、その偉い人が」

 

「分かったわよ」

 

 彼はまた紙へ何かを書き込む。

 

「何書いてるの?」

 

「権力は、権力だけで止めようとすると終わらない」

 

「へえ」

 

「今の、あなたが言ったんですよ」

 

「そんな立派なこと言った?」

 

「言ってません。俺がまとめました」

 

「ずるいわね」

 

「そういう仕事です」

 

「まだ仕事になってないでしょう」

 

「これからします」

 

 そういうところだけは妙に自信がある。

 

 

 古い仕組みを調べるのと同時に、彼は今ある決まりも集め始めた。

 

 こっちの方が、古い本を読むより大変だった。

 

 場所代はいくらか。井戸は誰から使うのか。水路が干上がった時はどの畑を優先するのか。盗人を捕まえたら何を返させるのか。荷車が人を轢いたら誰が弁償するのか。村から町へ穀物を運ぶ時、燃料代を誰が持つのか。

 

 組が決めたものもある。昔から住んでいる人間がそうしてきたものもある。前の幹部が口頭で決めたもの、揉め事のたびに担当者が適当に決めたもの、その場では上手くいったから何となく残ったもの。

 

 紙に書いてあるものは少なかった。

 

 だから彼は聞いて回った。

 

「ここでは?」

 

「昔からこうだ」

 

「どうして?」

 

「知らねえよ。そう決まってる」

 

「誰が決めたんです?」

 

「爺さんの頃にはもうそうだった」

 

 そんな答えばかりだった。

 

 それでも彼は書いた。古い帳簿の裏へ、炭の欠片で木板へ、紙が手に入れば紙へ。どこで、誰が、何を決まりとして扱っているのか。

 

 その中には、異能に関するものもかなりあった。

 

「共同井戸。異形の者は使用を禁ずる」

 

 彼が読み上げた。

 

「異形って?」

 

「分かりません」

 

「角とか?」

 

「たぶん」

 

「どうして?」

 

「分かりません」

 

「便利な言葉ね、それ」

 

「便利じゃないから困ってるんですよ」

 

 次の紙を見る。

 

「穀物倉庫。火を出す異能を持つ者は中へ入れない」

 

「それは分かるわ」

 

「俺も分かります」

 

「じゃあ残せば?」

 

「次。毒を持つ者は共同炊事場での作業を禁ずる」

 

「それも分かるんじゃない?」

 

「どんな毒かによります」

 

「毒は毒でしょう?」

 

「触っただけで移るのか、血にしかないのか、本人が出そうと思わなければ出ないのか。それで違うでしょう」

 

「面倒ね」

 

「面倒なんです」

 

 彼はさらに紙をめくった。

 

「夜間、異能を持つ者は一人で出歩いてはならない」

 

「それは?」

 

「隣の地区です」

 

「どうして?」

 

「昔、夜に異能を使った襲撃が続いたからだそうです」

 

「今も?」

 

「二十年以上前の話でした」

 

「じゃあ消せば?」

 

「その地区の人間は嫌がってます」

 

「どうして?」

 

「また起きたらどうするって」

 

「起きるの?」

 

「分かりません」

 

「またそれ」

 

「分からないから決めないといけないんです」

 

 彼は机の上へ紙を並べた。

 

 角があるから井戸へ近づくな。火を出すなら穀物倉庫へ入るな。毒を持つなら料理をするな。異能があるなら夜に出歩くな。

 

 同じように「異能に関する決まり」として残っている。

 

 でも、同じではないらしい。

 

「これも決まり?」

 

「決まりですね」

 

「残すの?」

 

「……そこなんですよね」

 

「角の人が井戸を使うと何か起きるの?」

 

「聞いた限りでは何も」

 

「じゃあ消す?」

 

「それは消していいと思います」

 

「火は?」

 

「燃料庫や穀物倉庫なら、制限した方がいいでしょうね」

 

「毒は?」

 

「だから、どんな毒かによります」

 

「夜は?」

 

「今の俺に聞かないでください」

 

「決めるんでしょう?」

 

「これから考えるんです」

 

 随分面倒なことを始めたものだ。

 

 昔なら簡単だった。

 

 嫌なら追い出す。怖ければ近づけない。役に立つなら使う。

 

 それで済んだ。

 

 今は、追い出さないことを前提にして、どう一緒に暮らすかを決めなければならないらしい。

 

 進歩というのは、面倒になることなのかもしれない。

 

 

 机の上で考えているうちは、まだ簡単だった。

 

 問題は、実際に起きた。

 

「こっちは水路を掘ったんだ!」

 

「水までお前らのもんじゃねえだろ!」

 

 昼前。町の外れまで怒鳴り声が響いていた。

 

 私は通り過ぎようとした。

 

 彼は走った。

 

「行きましょう」

 

「嫌」

 

「またですか」

 

「面倒そう」

 

「だから見るんです」

 

「あなた一人でどうぞ」

 

「あなたも来てください」

 

「どうして?」

 

「昔から生きてるから」

 

「便利に使わないで」

 

 それでも結局ついていった。

 

 揉めていたのは、水だった。

 

 大きな水源から分けた水路が、二つの畑の間を通っている。一方の家は、その水路を数年前に自分たちで掘ったらしい。崩れたところも直し、泥もさらい、維持してきた。だから優先的に水を使う権利がある、と主張している。

 

 もう一方は、水源そのものは組が管理している共同資源であり、水路を掘ったからといって水まで独占できるわけではないと言う。

 

 どちらも正しそうだった。

 

 そういう揉め事は嫌いだ。どちらかが明らかに悪いなら、話は簡単なのに。

 

「規則は?」

 

 彼が聞いた。

 

 その場にいた組の男が答える。

 

「ある」

 

「どんな?」

 

「水路を作って維持してる奴には優先権がある」

 

「じゃあ終わりじゃない」

 

 私が言う。

 

「いや」

 

 別の男が口を挟んだ。

 

「水源は組の管理だ。特定の家が使い切るのは禁止されてる」

 

「……両方あるの?」

 

「ある」

 

「じゃあどっちが上なの?」

 

 沈黙。

 

「決まってない?」

 

 彼が聞く。

 

「今までは担当が決めてた」

 

「どうやって?」

 

「状況見て」

 

「基準は?」

 

「その時その時だ」

 

「前の担当は?」

 

「死んだ」

 

「記録は?」

 

「ねえ」

 

 彼が嫌そうな顔をした。

 

「決まりがないわけじゃないんですね」

 

「あるって言ったろ」

 

「ありますね」

 

 水路を指す。

 

「こっちには、水路を作った人間を優先する決まりがある」

 

 水源の方を見る。

 

「こっちには、水を独占させない決まりがある」

 

「ああ」

 

「どっちも守ろうとしたら?」

 

「無理だな」

 

「ですよね」

 

 彼はしばらく黙った。

 

「決まり同士が喧嘩してる」

 

 誰も何も言わなかった。

 

 私は少し分かる気がした。

 

 決まりがないから困っているのではない。むしろ、決まりがいくつもある。昔からの慣習、組が決めた規則、地区ごとのやり方、個人同士の約束、前任者が口頭で決めた例外。全部それなりに意味があって、全部それなりに使われてきた。

 

 ただ、重なった時にどうするかを誰も決めていない。

 

 今までは、その場で一番偉い人が決めていた。

 

 それで回っていた。

 

 彼は、それが嫌なのだ。

 

 結局、その日は、水路を作った家が朝の一定時間を優先して使い、その後は他の畑へ回すことになった。水量が一定以下まで減った場合は、優先権より各畑への最低限の配分を優先する。

 

「これでいいの?」

 

「今は」

 

「今だけ?」

 

「来年、水量が違えば変えるかもしれません」

 

「決まりなのに?」

 

「決まりだから変えられない方が困るでしょう」

 

「面倒ね」

 

「本当に」

 

 彼はその内容を書いた。

 

 誰が何を言って、どう決めたのかまで。

 

「そこまで書くの?」

 

「次に同じことで揉めた時、前にどうしたか分かるように」

 

「前と同じにするの?」

 

「同じにするかどうかを考える材料にはなるでしょう」

 

 なるほど。

 

 少しだけ分かった。

 

 

 次は市場だった。

 

 場所代について、二つの決まりがあった。

 

 一つは、店の大きさに応じて一定額を取る。

 

 もう一つは、市場の警備に人手がかかった日は追加で取る。

 

「両方取れば?」

 

「今そうなってます」

 

「じゃあ問題ないじゃない」

 

「追加分を誰が決めると思います?」

 

「偉い人」

 

「はい」

 

「また?」

 

「またです」

 

 警備を増やしたから今日は高い。盗賊が出たから今週は高い。人を雇ったから追加で払え。

 

 理由はある。

 

 でも、いくら増えるのかは、その時にならないと分からない。

 

「商人が嫌がってる?」

 

「嫌がってます」

 

「じゃあ安くすれば?」

 

「警備の人間に払う分がなくなります」

 

「じゃあ高くする」

 

「商人が逃げます」

 

「面倒ね」

 

「そればっかりですね」

 

「だって面倒なんだもの」

 

 結局、基本額と追加額の上限を決めた。追加する場合は理由を記録し、一定以上を取るなら市場の代表にも話を通す。

 

「何で代表がいるの?」

 

「払う側にも聞いた方がいいでしょう」

 

「嫌だって言われたら?」

 

「話します」

 

「それでも嫌だって言われたら?」

 

「もっと話します」

 

「殴った方が早くない?」

 

「それをやめたいんですよ」

 

「知ってる」

 

 彼は疲れた顔をしていた。

 

 でも、少し楽しそうでもあった。

 

 

 盗みの決まりもあった。

 

 盗んだ物を返す。返せなければ働いて返す。二度目なら市場への立ち入りを禁じる。食料を盗んだ場合は事情を見る。武器を盗んだ場合は重くする。

 

 それぞれ別の時期に、別の人間が決めたらしい。

 

「これ、全部一緒に起きたら?」

 

「どういうことです?」

 

「二回目に、食べるために武器を盗んだ」

 

「何で武器を食べるんです?」

 

「売って食べ物にするのよ」

 

「ああ」

 

 彼は悩み始めた。

 

「面倒ね」

 

「誰のせいだと思ってるんです?」

 

「盗んだ人?」

 

「そうですけど」

 

 さらに、裁く側の問題もあった。

 

 組の幹部の親戚が喧嘩をして、相手の腕を折った。

 

 担当は罰を軽くしようとした。

 

「身内だから?」

 

「たぶん」

 

「じゃあ、その担当を替えれば?」

 

「俺もそう思います」

 

「簡単じゃない」

 

「珍しく意見が合いましたね」

 

「失礼ね」

 

 その時から、直接の身内や利害関係がある人間は、その揉め事を決める側から外すことになった。

 

「偉い人も?」

 

「偉い人も」

 

「もっと偉い人も?」

 

「できれば」

 

「弱気ね」

 

「いきなり全部やると殺されるので」

 

「大変ね」

 

「他人事ですね」

 

「他人だもの」

 

「手伝ってるでしょう」

 

「勝手についてきてるだけよ」

 

「それを手伝ってるって言うんです」

 

 そうとも言うかもね。

 

 

 そして、異能が絡むと話はさらに面倒になった。

 

 町の外れにある鍛冶場で火事が起きた。

 

 幸い死人は出なかった。屋根の半分と、隣の物置が焼けたくらい。

 

 原因は、そこで働いていた異能持ちだった。

 

「手から火を出せる?」

 

「はい」

 

「便利ね」

 

「便利だから雇われたんです」

 

 火を出した男は、掌から炎を出せる。大した火力ではないらしい。それでも炉へ火を入れたり、送り込む風を熱したりするには十分で、薪や炭を節約できる。だから鍛冶場の主人が高い給金で雇っていた。

 

「前のところでは使うなって言われてたんです」

 

 男が言った。

 

「どうして?」

 

「危ないからって。気味悪がる奴もいたし」

 

「今は?」

 

「使わないなら雇う意味がないって」

 

「勝手ね」

 

 男は困ったように笑った。

 

 異能が変わったわけではない。

 

 人間の都合が変わっただけだ。

 

 問題は、火の粉が積んであった布へ移ったことだった。

 

「じゃあ火を出した人が悪いんじゃない?」

 

「本人は、主人にもっと火を強くしろって言われたと言ってます」

 

「じゃあ主人が悪い」

 

「主人は、加減を間違えたのは本人だって」

 

「じゃあ半分ずつ」

 

「何を?」

 

「知らない」

 

「そこで『知らない』使うのずるくないですか?」

 

「禁止されたのはあなたの質問だけよ」

 

 彼はため息をついた。

 

 鍛冶場には、火を扱う時の決まりがある。火種は決められた場所から出さない。燃えやすいものを炉のそばに置かない。夜には消火を確認する。でも、それは普通の火を使う前提の決まりだった。

 

「手から火を出す人間を熱源として使う場合なんて、書いてないですね」

 

「昔はいなかったんでしょう?」

 

「たぶん」

 

「じゃあ新しく決めれば?」

 

「何を?」

 

「火を出す人は火事を起こさない」

 

「それで起こらなくなるなら楽なんですけどね」

 

「面倒ね」

 

「異能を使わせた側に責任があるのか、使った本人にあるのか。本人が加減できる範囲ってどこまでなのか。そもそも、どの程度扱える奴なら仕事で使わせていいのか」

 

「本人に聞けば?」

 

「『普段は大丈夫だった』って」

 

「じゃあ事故じゃない」

 

「事故なら誰も責任を取らなくていいんですか?」

 

「そうなの?」

 

「俺に聞かないでください」

 

 聞いたのはそっちでしょう。

 

 結局、その時は鍛冶場側が建物の修理費を多めに負担し、火を出した男も給金の一部をしばらく差し引かれることで話がついた。

 

 たぶん、誰も完全には納得していない。

 

 でも、それより彼が気にしていたのは、その後だった。

 

「同じ異能を持ってる人間が、また別の工房で働いたら?」

 

「また火事を起こす?」

 

「起こさないかもしれません」

 

「じゃあいいじゃない」

 

「もっと強い火を出せる人だったら?」

 

「もっと気をつける」

 

「誰が、どこまで気をつければ安全だと決めるんです?」

 

「……偉い人?」

 

「戻りました」

 

「もうそれでいいんじゃない?」

 

「嫌です」

 

 そうだった。

 

 彼は、それが嫌なのだった。

 

 土地の相続、借金、商売の契約、婚姻、親のいない子供の扱い、外から来た人間の住居、燃料の配分、車両の事故、異能を仕事に使わせる時の責任。問題はどこにでもあった。

 

 しかも、たいてい何らかの決まりはすでにある。

 

 ないのではない。

 

 多すぎる。

 

 そして、そのどれがどれより強いのか、誰が解釈するのか、間違えた時にどう直すのかが決まっていない。

 

「昔の社会って、よくこんなの回してたわね」

 

「たぶん、回してる人がたくさんいたんですよ」

 

「暇だったの?」

 

「仕事です」

 

「こんなのが?」

 

「こんなのが」

 

「大変ね」

 

「今、俺がやってるんですよ」

 

「だから大変ねって言ったじゃない」

 

 彼は何か言いたそうだったが、諦めた。

 

 

 全部を一度に直すのは無理だった。

 

「諦めた?」

 

「優先順位をつけます」

 

「同じじゃない?」

 

「違います」

 

 またそれだ。

 

「まず、広く関係するものを上に置く」

 

「広くって?」

 

「組の人間も、商人も、住民も使うもの」

 

「偉い人も?」

 

「偉い人も」

 

「嫌がりそう」

 

「嫌がるでしょうね」

 

「じゃあ無理じゃない?」

 

「だから、全部はやらない」

 

 彼は紙の上にいくつか線を引いた。

 

 水。市場。裁定。記録。

 

「まずはこれです」

 

「少ないわね」

 

「これでも多いですよ」

 

 水を使う時の優先順位。市場で取る金額と変更の仕方。揉め事を裁く者が当事者と近い場合は外れること。何を決めたのか残して、次の人間が読めるようにすること。

 

 どれも、聞けば当たり前に思える。

 

 でも、今までその当たり前を保証していたのは、人だった。

 

 担当がまともならまともに回る。幹部が約束を覚えていれば守られる。次の人間が違うことを言えば、それまで。

 

 彼は、それを人から少しずつ剥がそうとしていた。

 

「組が強いから従うんじゃなくて、決まりがあるから従うようにしたいんです」

 

「今も決まりはあるでしょう」

 

「だから、その決まりに組も従う」

 

「自分で作ったのに?」

 

「自分で作ったからですよ」

 

「変なの」

 

「そうですか?」

 

「自分より強いものを自分で作るんでしょう?」

 

 彼は少し考えた。

 

「そうなればいいですね」

 

 やっぱり変だと思う。

 

 当然、組の中では揉めた。

 

「何で俺たちまで同じ場所代を払うんだ」

 

「身内の揉め事を外の奴と同じように裁くのか」

 

「昔からこの地区はこうやってきた」

 

「余計なことをするな」

 

 長い沈黙があった。

 

 結局、全部は通らなかった。

 

 当然だと思う。

 

 でも、一部は残った。

 

 水、市場、裁定、記録。

 

 まずはそこから。

 

 正式な原本は、紙へ書いた。ただし何枚も同じものを作る余裕はない。市場の柱には内容を炭で書き写し、水場には削った木板を立てた。組の建物には原本を置き、人が集まる場所には短く要点だけを書く。文字が読めない者には、担当が口頭で説明した。

 

「これで何が変わるの?」

 

 私は市場の柱を見る。

 

「分かりません」

 

「またそれ?」

 

「でも、昨日までは『誰かがそう決めた』で終わってたでしょう」

 

「そうね」

 

「今日からは、『どこにそう書いてある』って聞けます」

 

「書いてなかったら?」

 

「書きます」

 

「変だったら?」

 

「直します」

 

「誰が?」

 

「そこも決めます」

 

「どんどん増えるわね」

 

「そういうものなんでしょうね」

 

 彼は市場の柱を見上げた。

 

 炭で書かれた文字は、雨が降れば薄くなる。誰かが消そうと思えば簡単に消せる。木板だって燃やせるし、原本だって破れる。

 

 大したものには見えない。

 

「揉め事をなくしたいの?」

 

「無理ですよ」

 

「じゃあ何のため?」

 

「殴らなくても終われるようにするためです」

 

「ふうん」

 

 昔、人はもっと立派な仕組みを持っていたらしい。法律があり、裁判所があり、警察があり、議会があり、それぞれが役割を持っていた。

 

 全部、知識としては残っている。誰かが覚えている。本にも書いてある。

 

 でも、それを支えていたものは消えた。建物だけでは足りない。名前だけでも足りない。昔の規則を写した紙を壁に貼ったところで、それに従わせるものがなければ紙切れでしかない。

 

 それに、昔にはなかったものまで増えている。手から火を出す人間、三本の腕を持つ子供、人よりずっと強い身体を持つ者。昔の仕組みをそのまま持ってきても、そこから零れるものはもうある。

 

 国家という大きな仕組みが壊れた後、その部品だけを拾って並べても、元通りにはならない。

 

 だから彼は、自分たちの手で組み直そうとしていた。

 

 使えるものは拾う。合わないものは削る。足りないものは考える。間違えたら直す。

 

 昔と同じ形になるかは分からない。もっと悪くなるかもしれない。途中で壊れるかもしれない。

 

 それでも、一度人間が作ったものを、また人間が作り直している。

 

 随分、遠回りだと思う。

 

 でも、たぶん。

 

 こういうのを、必要というのだろう。

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