老境の末にある会話。

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秋桜をあなたに

すまないね。少し、出なくてはいけなくなった。

時間もかかるし、待ってくれなくて結構。家のものは好きに使いなさい。

君は君の好きに、やりたまえ。

 

筆を置く音が、やけに静かに響いた。

灯の揺らぎが机上の原稿を淡く照らし、墨の香がわずかに鼻をくすぐる。

──もう言葉は要らない。

綴ろうと思えばいくらでも出てくるが、これ以上は無粋だろう。

 

思えば三十七年。

彼女にはずいぶんと無理をかけた。

こんなにも面白みのない男についてきてくれたのだ。

文句ひとつ言わず、ただ静かに、少し離れて後ろを歩いてくれる。

本当に、良い妻を持ったものだ。

 

家鳴りが、軋むように鳴った。

古びた木造の骨が、まるでこちらの胸の奥をなぞるように呻く。

特に気にも留めず玄関へ向かうと、灯の先に人影があった。

 

見間違うはずもない──彼女だ。

背には大きな風呂敷を抱えている。

月明かりを背に立つ姿は、まるであの頃と寸分違わない。

長い年月が流れたというのに、あの微笑だけは、少しも老いを知らぬようだ。

 

「今日の月も、良い形でございますね」

 

その声は柔らかく、夜気に溶けていく。

見上げれば、まんまるな月が天に浮かんでいた。

あの頃、論文に行き詰まった夜、こうして独り歩きをしたものだ。

そういえば、結納の前にも、ふたりで歩いたことがあった。

──すっかり忘れていた。

 

「そうだね。……でも、君にとっては退屈じゃないかい?」

 

「ふふっ。退屈だなんて。あなたと一緒なのですもの」

 

「そうかい」

 

かつて交わした言葉を、なぞるように語り合う。

もう二度と会えぬ身だというのに、こうして夢のように並んでいる。

それだけで、充分だ。

どこからか、虫の声が聞こえた。秋の終わりを告げるように、寂しく、優しく。

 

「さて──遊びはこれまでだ。早く中へお入りなさい」

 

「ふふっ」

 

「どうしたのかな?」

 

唐突に笑った彼女は、まるで少女のように愛らしかった。

皺のひとつひとつまでもが月光に照らされ、透明な光の輪郭を纏っている。

 

「顕斎さん。あなたは、本当にわかりやすい方ですね」

 

「おやおや。これでも鉄仮面には自信があるんだがね」

 

「いいえ。わかりますとも」

 

彼女は一歩、月明かりの中へ進み出た。

白い息が、ほのかに夜気に溶けて消える。

凛として気高い姿。

どう言葉にすれば、この美しさを伝えられるだろう。

それは、人生の黄昏に咲いた花のようだった。

 

「私は、あまり賢いほうではありません。

 でも、それでもわかるんです。……ずっと、あなたの背を見てきたんですもの」

 

「それで?」

 

「私も──連れて行ってくださいな」

 

その言葉が、胸の奥深くに沁みた。

ああ、そうか。

この人は、ずっとこうして、共に歩くために生まれてきたのだ。

そのために、今日まで笑い、耐え、祈ってきたのだ。

 

「……秋桜」

 

「え?」

 

「いや、秋桜のようだなと思ってね」

 

「もうっ、はぐらかさないでください」

 

頬を膨らませるその姿を、愛しいと思えてならない。

風がふたりの間を抜けていく。

秋の匂い。少し冷たいが、心地よい。

 

「ふむ。私にはもう財などないが?」

 

「見損なわないでください!」

 

月光を映すその瞳が、夜の闇よりも眩しく輝いている。

その一言に、すべての年月が報われるような気がした。

 

「──あなただから、いいのです」

 

「……そうか。じゃあ、行こうか」

 

月の照らす夜道に、下駄の音がふたつ。

静かに響きながら、少しずつ遠ざかる。

その音は、やがて風に混じって消えていった。

 

あぁ、なんと良い夜だろう。

この上なく、満ち足りた夜だ。

 


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