ひどい雨だ。空気が粘つき始めたかと思えば、二間ほど歩いた時には道の両端を一度に見渡せないほどになっていた。
「屋根探さなきゃ」
秋口の黄昏時、せめて水から上がらなければ一刻と待たず力尽きる。せめて身体を冷やすまいとの思いもあり、明かりのない林道を駆ける。鳥目とはあくまで人間に対する術の名である。
「あった」
方角としては里に向かっていたがそろそろ…… とあらぬ不安がよぎる頃、一軒の家屋が道沿いに現れた。勝手から漏れる釜戸の火を羨望しながらも避け、開きっぱなしの納屋に飛び込んだ。
すすきを踏んだ音がした。夜目をこらすと、それは砂地の床をまばらに覆う稲穂のくずであった。なるほど納屋に俵を積んでいるらしい。米を置けるなら水の心配は要らないだろう。そういえば納屋の地面は少し高い。
脱いだ衣を手で絞り、俵の一つにもたれかかった。風のないことのなんとありがたいものか、強張り震えていた呼吸もなんとか落ち着いてきた。それでも背に滴る水が止まらないので髪を下ろし、泣く泣く雑巾のように絞る。
すると極端である。今度は強烈な睡魔が肩にのしかかった。雨に濡れたことで慌てて作り始めた熱が今度は余り、膝で山を作り背中を丸めていると、自分の熱でぼうっと胸が熱くなってくる。初めこそ頭を揺らしつつなんとか堪えていたものの、疲れと安堵とで、丸めた膝に顔をうずめて眠りについた。
目が覚めると身体は横になっていた。起き上がり、右の半身に食い込んだ砂を払い落とす。木の格子窓を覗くと、ちょうど朝日が木々をまたいで昇るところであった。
俵の陰に広げて掛けておいた服はまだ生乾きとさえいえないが、人間が起きる前にここを離れなければならなかった。袖を通し釦を留めているその最中である。
納屋の戸から、砂を蹴る音。振り向くと主人だろうか、壮年の男が立ち、こちらを睨みつけていた。
「ごめんなさい、夕べ急に降られたものですから…… ええすぐに出て行きます。すぐに。ごめんなさい」
「待て」
横を抜けようとしたその手首を掴まれる。
「え」
「鳥の妖怪? 毎晩毎晩忍び込んでは削ったばっかりの米食い荒らしやがってよ」
「えっ、ち、違います。私ほんとにただ」
「何升も食い散らかしといてまァだシラを切るつもりかい、良く舌の回るクソガキだよ。どうしてやろう」
壁に頭を押さえつけられた。もう一方の手で男は暗い砂地を探っている。
「ほんとに知らないんだってば!」
「どうせ妖怪に何をしたってお咎めなしだろ、しっかしこんなガキに変なイタズラ仕掛けてるとこ女子供に見せらんねえよな…… よォし口開けろ。口開けろって」
間抜けにも半開きであった口にまだ泥ひとつつかない朝の指がねじ込まれた。芯が痛むほどの力で舌を抓まれたことに驚き咄嗟に歯を食いしばる。
「っっっっっっってえな」
歯に擦られながらずるりと引き抜かれたその拳が顔面めがけて帰ってくる。一度では済まない。右にねじれ倒れたところ、肘をつく暇さえ許さず二発三発、前から横から胴を潰しにかかった。(もっと文が欲しい)
「ありゃ四つ足の仕業じゃねえ。お前ら妖怪は俺たちとおんなじだけの脳みそがあるくせに稲踏み荒らして俵を破いていきやがる。おまけに人を襲うとなりゃ、こうしない理由がないだろうよ…… 相応の罰で許してやるってんだ、感謝しろよお前」
そのまま殺されるかと思っていた。しかし衝撃で散りかけた意識を集めて見上げたところにあったのは、とても私をひと思いにやれるような得物ではなかった。
「鳥は頭が良いらしい…… 二度と刃向かえんぐらいにしてやらねえと後が怖いだろ。何が見える? ん?」
男の足下に玄翁(げんのう)と釘。左手に椋鞘(むくざや)のドス。
「一回ぐらい聞いて! やってないことは証明できないじゃないの! 私に何かしたってお米が守られるわけじゃないし!」
「お前じゃなけりゃまたそいつを捕まえて、食った米全部吐き出すまではらわたひっくり返してやりゃいい。お前がやった可能性が少しでもあるならやるだけだ」
やっと身体を起こすが組み敷かれた。寒さか怖じ気づいてか震える胸部に、男の膝が乗た。不意に肺の息を抜かれるのは、息を止めるのとはわけが違った。緊と身体が強張ったかと思えば、それを自ら知るか知らぬかというところで一気に意識を奪われる。
それを僅かに醒ましたのは、ふいに舌先を貫いた極めて不快な何某かの感覚であった。男の膝がずれて地を衝いたらしく徐々に頭の回ってくる間にその正体を知った。これは痛みだ。舌先半寸の表から裏を、先の釘が通っている。慌てて口を閉じなかったのは幸運だった。わずかに頬をゆるめ眺めている男の股下で間抜けに舌を突き出して、冷たい鼻息を傷口に吹きかけている。
「こっち来い」
男が立ち上がった。右に身体をひねるのが精一杯で、口から零れた鮮血が砂に混じり黒々とするのを見つめているうち。痺れを切らしたのか腕を掴んで引きずられた。
「いや。ごえんなはい」
「謝んのかよ、罪を認めたな」
釘が踊るのを承知で首を振った。それが罷り通るとは思えなかった。喉が裂けるような酸い不安のやり場として、それでも意思を表示せねば気が済まなかった。
男は舌に繫がった釘をさもただの釘を立てるかのように引き戸の敷居に突き立て、舌の震えをものともせず垂直に持ち直した。
嫌な想像そのままのことが順序よく進められていく。少しでもましな想像をすべて棄却して、最悪の点に向かっていく。ここまで来れば次もわかる。男が右手で玄翁の柄の真ん中あたりを握るのだ。
「やぁあっ!」
傷を痛める吐息に乗せて声を出すたび顎に敷居のささくれがめり込む。これから流れる血を想像すれば些細なことだ。
「いっっっ、ああっ、!」
目の前の空気が震えるのを鼻先で感じた。まるで毎回私の身体が小刻みに縮まるのをいちいち楽しむかのように、もったいぶって、一打一打丁寧に釘を打つ。とても目を開けて目の前に降りかかる黒色の質量を直視できなかった。できることといえば、座る犬みたいに肩をすぼめて手を前に揃え、低い敷居に合わせて頸を上向きに伸ばし待つことくらいである。
何度目かで空気の震えは止まった。肉を貫く釘がさらに木に食い込む痛みなど恐怖ですっかり忘れていた。
「ふう…… さあいよいよ…… って時にお前はもう小便垂れ始めてんのな。砂にするのはいいが米に掛けんなよ、掛けたら腹掻っ捌いて膀胱も切り落としてやる」
私はどうすべきか。最悪のシナリオを甘んじて受け入れてそれまでの時間をこうして無駄な感情に任せ泣いて過ごすか、それとも絶望的に薄い望みに賭けて舌を釘から引き抜き逃げるか。まあ現実味を失い始めた頭で冷静ぶって考えることはできても、身体は血の気の引いたままドスの出番を待つだけでいる。
「どこを切るかな…… 根元からいきたいよな、やっぱ」
頭を上から掴み舌を引き延ばされる。乖離し空気中に溶け出し始めていた意識が一気に引き戻され、息が乱れた。男が丁寧に拭かれた刃を見せびらかしている間にもひどい過呼吸で指先は痺れつつあった。
「そんなにヨダレ垂らしたってこいつは錆びねえよ」
穴が今に千切れるといったほど伸びた舌に触れるかどうかというキワに刃が突き立てられた。あとはそのまま横に引き倒せばということだ。夜雀としてあるまじき声で泣き、目で乞うた。
「良かったじゃねえか、地獄へ堕ちる前に罪を償えてよ」
引いていた血の気が一気に戻るのがわかった。頭の血管の隅々を熱湯がくぐるかのようだ。魚の骨を断つような格好で左側から倒れる刃と下の間からその熱は次々に逃げてゆく。
「!!!、っは、あああああ……!」
舌が半分も切れていなければ私は痛いと叫んだろうが、はねた油と刺さった縫い針の区別がつかないように、凍えた体から脂汗を絞り出すそれがなんという感覚なのかわからなかった。
ああ、腹くくって自力で舌引っ張って千切る方が早く終わるだろうな、と誰に見せるでもない強がりが頭をよぎったところで、年端もいかない小娘に嗜虐心を燃やし汗ばんだ男の手のひらが滑り、みちっ、と自分が強いられている今にも心臓が飛び出やしないかと疑うほどの激情をあざ笑うかのような間の抜けた音を以て、私の舌は根元三割を残してぶち切れた。
ない。当たり前にあった場所の感覚が、敷居に打ち付けられた肉塊の表すとおり本当にない。風に当たって沸き立つ激痛を境に、そこから先のあらゆる感覚が完全に途切れている。もう無くすまいとして口を閉じたが、血の出は早く、慌てて緩めた口から滝のように流れ出た。
「もう手は出さん。これでお前の罪は償ったことにしてやる。二度と来んな」
身体と地面とをつなぐ鎖が切れた私の首を持ち上げて、尻を蹴飛ばした。度重なる度を超えた仕打ちに身体が追いつかず、生乾きの泥に頭から突っ込んだ。
「早く行けよ、これ以上ここを汚すんじゃねえ…… 行け!」
男が母屋へ戻るのを聞きながら、しかし逃げることを優先し両手をついて立ち上がった。身体は動いている。敷地からふらふら抜け出そうとしている。誰がこの身体を動かしているかと真面目に考えるほど現実味を失っている中で、薄い意識を懸命に寄せ集め考えた。この朦朧は何が起こしている? 下を見ると、上から順に留めかけていた釦のそのちょうど留め終えた第三まで、緩んだ口元から零れ出た血液によってその小豆色をより濃色に染めていた。しかしこの程度の出血にここまで意識を持っていかれることはない。そう信じたい。
息は上がっている。夕べ歩ききるはずだった林の外周の道を、痺れて感覚を失った脚を前へ前へ動かして、考えなしに歩いている。ああ、どうせ歩けるなら助けを求められる場所に向かう方がいいな、誰かが身体を操縦して、自分は上の空…… きっと過呼吸と、解離ってやつだ。
解離ってやつだ。解離しながらそう言っている。じゃあ無節操に泣きじゃくって、舌に触れた涙に余計泣かされてるのは誰? 奇妙な感じ。
目蓋に泥が垂れてきた。だけど私の操縦席にいる私は気づかない。構わず闇雲に、また夕べみたいに遠くの民家を探している。道の先に家が見えるのを待っている。もうここが記憶にある場所のどこなのかさえ思い出さない。
家なんてなかった。いくら歩けど同じ景色が目の前に現れる。何かに化かされているんじゃなかろうかと疑るほど景色が変わらない。
昔から運は悪いほうだった。だから弱者なりにも確実を取って今まで生きてこられた。なのにそれを越える不運にこうも簡単に押しつぶされるなんて。ああもう笑うしかない。惨めな喜劇だ。悲劇だなんて誰も気づかないくらいにばかでかい不幸だ。
見当識さえ残っていれば竹林の医者へ向かえただろうに、この身体はパニックを起こして闇雲に歩いている。
しかし遂に闇雲の甲斐あってか、前方に小さな民家を認めた。この際にも人間に親切を求めることを我ながら滑稽に感じるが、他に術がない。思い切って戸を叩く。そして留守を疑い始めたその矢先にそれは開いた。
言葉は話せないし、言葉は要らない。腫れた残りの舌が邪魔をして半開きになった口から暑い吐息と共にどろどろの血液が漏れているのをただ見せるだけでいいだろうとして、そうした。
「……妖怪?」
その一言で全身の力が抜けた。もうだめだ。まともに妖怪の相手をする人間なんか普通いない。仕方なく肯いた。
「どんな妖怪? 人を食うの? ……素直に認める奴なんかいないか」
血のべったりつくのも構わないで若い男の袖に縋りついた。それを血の滴るかどうかというところで彼は振り払い、私を突き飛ばして、戸を閉めてしまった。
「恨まないでくれよ…… 人間としてすべきことをしただけだ」
以降微かな物音さえしなくなった。やっぱり人間に何か期待するほうが間違っていた。とはいえたった一本の蜘蛛の糸を簡単に切ったことを恨むなという方がおかしい。私は身体が示す絶望に任せてめいっぱい泣いた。彼がこの声を一生忘れないように。私を死なせてからめいっぱい後悔するように。それが今の私にできる最大限の、人間への復讐だった。