デビルサマナー葛葉ライドウ 対 神魔狩りのツクヨミ 作:木下望太郎
――その戦いの始まる、少し前。
黴臭い広間の中、闇に覆われた天上を見るともなく見上げ。満月のツクヨミは、ふん、と鼻を鳴らした。
「
傍らで、彼の
光が舐めていくのは明かりの灯らぬシャンデリア、傾いたままぶら下がる額縁入りの絵画。剥がれた壁紙が垂れ下がる壁の地肌にはいくつも、品の無い言葉がスプレーで書き殴られていた。
都心を離れた山上、寂れた観光地の廃ホテル。その広間が、相手が指定した取引の場所だった。
眼鏡を押し上げ、いつはブレザーの学生服を羽織った肩をすくめる。
「こんな取引ですからね、気の利いた店で食事でもしながら、とはいかないでしょう。何せ、僕らは重大な裏切りをしようとしているんですから」
深紅の仮面――フルフェイスヘルメットのように頭全体を覆う形、顔面に大きく鳥居の意匠をあしらったもの――を小脇に抱え、満月は首を横に振る。
「二つ間違っているな、いつ。一つ、裏切りならもうしちまった」
満月が懐から取り出したのは指輪。黒い大理石のような素材から削り出されたもので、表面には幾何学的な文字らしきものが刻まれている。
ソロモンの指輪。満月らが所属する組織――維持正常化機構日本支部――の保管庫に、厳重に仕舞い込まれていた秘宝。ソロモン王の伝承にあるとおり、この秘宝を手にする者は七十二柱の悪魔を始め、様々な超常の存在――組織ではそれらを『
「二つ、『僕ら』のじゃあない。『俺の』裏切りだ。俺担当の
いつは首を横に振る。薄く微笑んだ。
「いいえ。僕らの、ですよ。どこまでも、お供します」
「いい子だ」
満月は唇の端で笑って、指先で、つ、といつの頬をなぞる。
いつが口を開きかけたとき、離れた所から声が響いた。押し出すような張りのある、脂の乗った女の声。
「そろそろいいか? ご歓談のところ悪いが」
いつの間にそこにいたのか。二人から十歩ほど離れた場所で、その女はいた。まるで玉座に座るかのように、豪奢な――かつては豪奢であったろう、
「照れるじゃないか、これからがいいところだったんだ。じっくり見物してくれても良かったんだぜ、
素早く身を引いて女へと懐中電灯を向けるいつとは対照的に、満月は頬を緩めて笑みを投げかけていた。ただしその目は、値踏みするように相手の目の奥へと向けられていた。
「
長い髪をかき上げ、目の前のテーブルを一つ、指で叩く。一流ブランドのものらしいスーツの胸元で、
「ああそうだな、時間は大事だ。お前がもう少し遅れたら、こいつを池の鯉にくれてやるところだったぜ。それより、そっちのものは」
満月は指輪を手の上で
のり子は背を反らせたまま、あごをしゃくる。その先、満月らの背後のテーブルには。いつ置かれたというのか、大振りなアタッシェケースが載せられていた。
のり子から目を離さぬまま、満月がケースの方へ回る。ふたを開けた中には、隙間なく札束が詰まっていた。
いつの方へケースを押しつける。
「確かめとけ、新聞紙でも混ぜられてたらかなわん。後はこいつが約束のものだ」
指輪を示してみせ、言葉を継ぐ。
「一つ聞かせろ。こんな
のり子は笑みも見せず、射るように指輪を見据える。
「それこそお前が聞くには過ぎたことだ、満月のツクヨミ。ただ、その金。使うなら早い方がいいだろうな」
「何だと?」
のり子はそこで初めて笑った。全てを見下すような、
「じきに使えなくなるからな。何しろ、この国は程なく破壊し尽くされる。この私が
そこで言葉を止め、むしろ優しく微笑んだ。
「安心しろ。生きていれば訪ねてくるがいい、今日の報酬を改めて渡してやろう。我が復讐が果たされた後の、新たなる正しき国の――国津神、
背をのけ反らせて笑い出すのり子に、満月は口の端を吊り上げて笑った。
「面白い女だ。お
人差指を頭の横に当て、ネジを巻くように回してみせてから、のり子へと指輪を
手にした指輪を打ち返し眺めた後、のり子はそれを指にはめた。立ち上がり、満月らに背を向けて歩き出す。
「契約は果たされた、互いにここまでだ。
ヒールの音を残して遠ざかる背が
未だ札束を調べているいつへ、満月は声をかける。
「行くぞ。上だ」
「えっ?」
もはやいつの方は見ず、歩き出しつつ満月は言う。
「さっきここらをうろついたとき、
約束の時間よりもかなり早く来た満月は、暇潰しの探検と称していつを連れ回し、廃墟の中を巡っていた。忍び込んだ者の落書きを横目に歩き回り、いくつも貼られていた――霊障を鎮める意味があったのか、ただのいたずらか――古い御札を踏みにじって。
「奴があの指輪で何をしでかす気か知らないが。おそらくはここで何かするつもりだ。奴が漏らした
先住の国津神を滅ぼしあるいは勢力下に加え、天より降り来た――ということになっている――天津神らがこの国を征した。なぜなら、この国はそもそも天津神の祖たる
それが『古事記』『日本書紀』に記された、この国の神話的歴史。神話の形にぼかされた歴史である、たとえば先住の者を押し退けて、後から来た者が現在へ連なるこの国を形作った、というような。
「何にせよ。面白くなりそうだ」
そうだ、面白くはなるだろう。今の決まりきった世よりも。組織に鎖で首をつながれてそのつまらぬ世を維持する、今のツクヨミの在り方よりも。
「見世物としては悪くない。ひとつ見物していこうぜ」
慌てて札束を詰め直していたいつはようやくケースのふたを閉め、小走りに後を追う。
「なるほど……妙なものがあるとは思いましたが、
歩調を緩めず満月は歩く。
「罠でも仕掛けられてたら不愉快なんでな。俺様はコソコソと卑怯な真似をする奴が大嫌いなんだ」
「な、なるほど! でも満月さん、僕たちも割とコソコソして組織を裏切ってるような気も――」
「…………」
満月は口を円く開け、それからはっきりと顔をしかめた。無言のまま、いつを待たずに廊下を走り出す。
「ちょ、待って下さい、満月さん、満月さーーん!」
間延びしたいつの声と、騒がしい足音が廃墟にこだまする。