別に神様から許される必要なんてなかった気がする。 作:ぞんぞりもす
結局、朝活動が終わる少し前に有坂先生は戻ってきた。「せっかくならもうちょっといてよ」と入れ違いに出ていこうとする僕を引き止めた朝陽は、それきり何を言うでもなく、僕を座らせ続けた。
朝陽はベッドの上から窓を見て、保健室のどぎつい白さに負けっぱなしの灰色をしばし眺めていた。
雪は三時間目まで降り続いたが、勢いが弱かったこともあり、銀世界とまではならなかった。きっと昼休みには溶けてしまうだろうが、それでも外に顔を向ける朝陽は始終楽しそうだった。となりを見ると、いつもつややかな黒髪が視界を陣取っている。
午後からは残念そうにしながらもノートを取る姿がなんだかおかしかった。
それから、もう一年が経とうとしている。今年の初雪は昼休みだった。僕らは保健室にいた。がやがやするランチルームの喧騒を縫って「静かだね」ととなりを見たら「もう懲りたよ」と返された。
空を見つめ続ける朝陽はきっと恨めしそうな表情をしているんだろうな、と思ったらそんなことはなくて。横顔を盗み見た僕は固まってしまった。澄んだ表情をしていた。曇天の先を見ているのだ、と思った。
風呂で火照った体を冷たい室内の空気にさらしながら、灯油ヒーターの温風に当たる。室内の空気はこれからますます乾燥していくことが予想された。
肌の水分が外側から引っ張られ、皮膚を破って出ていく感じがした。
ラグマットを敷いていても、底冷えが下から上へ這い上がってくる感じがした。
ユーチューブのホーム画面をスクロールしているとき、不意に画面が切り替わる。朝陽からの通話要求だ。緑に触れて指をスライドさせた。応答した瞬間にスピーカーに切り替えてしまうのは癖だった。
「どうしたの?」
朝陽はすぐに返事をよこさなかった。いきなり通話がかかってくることはときたまあったし、今みたいに沈黙が返ってくることもあったので、僕は深く気に留めなかった。勉強机に向かって冬休みのワークを解き始める。
定位置に立てかけたスマホからは一切の音がしない。電波状況が悪くて切れたのか、と思って二、三度顔を上げても繋がっていた。
『いま』目が覚めたら深夜だったときのような唐突な暗闇が襲いかかってくる。朝陽の声は最初から暗かった。
水底にうずくまっているみたいな沈み調子の声は僕の返事を待たずに続きを話した。
『私のお父さんとお母さん、会社に泊まらないといけないみたいで。ほら、師走だから……年末までもう少しあるにしても忙しいみたいで』
「うん」
『それで……言っちゃったんだ。陸空と通話するから何か起こってもあんまり心配しないでって』
「あぁ……」
得心しかけたが、それで通話してきたにしては時間が遅い。シャーペンを転がしてスマホの時計を凝視する。
一人で過ごしたくてこの時間までゆっくりしていて、それで急に寂しくなったとか。なんだか当たっているような気がした。
「それでかけてきた感じ?」
『うん。大丈夫だった?』
「もう十分前だったら湯に浸かってたから、逆にちょうどいいタイミングだった。風呂上がりでぼーっとしてた」
『でもペン動かしてる音聞こえたよ?』
「勉強始めたから」
『なるほどね』
私もしようかな、と聞こえたと思ったら、大きめの雑音が耳を叩いた。もしかしたらベッドに寝転んでいたのかもしれない。
『部屋寒すぎる……! ヘイ陸空、あっためて!』
「無茶振りです」
口を開けば、寒い、寒いと呟く朝陽をよそにシャーペンを走らせる。
話していると気が散ってしまうから、ときどき言葉をかわす程度に抑えた。朝陽との勉強は捗るから好きだった。分からない問題なんてほとんどないが、躓いたときに相談すれば二言目に『写真送って』と言ってもらえるのが心強い。朝陽も同様のことを思ってくれていたら嬉しかった。
『ペットを見守る用のカメラとか、見守りアプリとかがあるのって、知ってる?』
ペンを転がしたなと思ってからしばらくしたあと、朝陽は口を切った。
彼女の話は、バウンドして天高く跳ねた調子が再び地面に落ちてくるみたいに間隔があいていた。それは通話初めの鎮痛な雰囲気の延長線にあった。
「田舎に住んでる高齢者を都会に済む家族が見守ったりする――とかのやつと一緒?」
『そうそう、そんな感じ』
「あぁ、うん。もう分かったよ」
朝陽はふっと息を吐いて『窮屈なんだよね』と言った。
「僕が隠れ蓑になれるなら喜んでなるよ。でも口裏合わせるためにできるだけ――」
肩の力を抜いてほしいが、僕が協力者として情報をせがむのなら、それはそれで朝陽にとって窮屈なんじゃないか。
僕はほとんど言いかけて「いや、なんでもない」と自分の話を終わらせた。
朝陽はあははと笑って『最後までちゃんと言いなよー』と僕を窘める。
耳で膨らんだ暖房の音は、言いにくそうな朝陽の声によって弾けて消える。
『私が思ってるよりも心配されてるから、落差がね。ひいおばあちゃんも私と同じだったみたいなんだけど、体が弱すぎるってだけで、なんともなかったみたいだしさー』
僕は律儀にワークを両面開きにして、左手でページを押さえて書いていた。シャーペンが動かなくなった今、左の手のひらと右手の小指のつけ根から、ものすごい速度で冷えが侵食してくる。迫ってきた冷えは肘で淀み、それきり沈黙する。
僕は伸びをした。
『文明によって手札が増えると、割り切るのも苦手になるからさー。昔よりもすごいいろいろしてるんじゃないかな。ランクマは汎用性が大事だけど、メタゲームは割り切りが必要でしょ? 私、メタゲームのほうが好きなんだよねー』
あれもこれもと手段を講じているうちに、目指していたゴールが見えなくなるのはよくあることだ。しかし朝陽の両親は優秀だから、朝陽
手札が少ないほうが幸せなのは僕も同じだが、それは多くの場合、少数派に分類されるだろう。
「親と子どもなんて言うけど、所詮は血が繋がっているだけの他人じゃない?」
朝陽は笑い声を上げたあと、殺人鬼の家に保管されてあるナイフみたいな声で『君のご両親が聞いたら泣いちゃうよ』と言った。
共感できるからこそ、この声音なのだ。それ以上進んではいけない。踏み込むな。引き返せ。自分にもそう言い聞かせているのだろう。
家族は、家という同じ空間に存在する個にすぎない。
『なんか、君に話したらもっとすごいこと言われちゃった気分』
伸びをしているのだろうな、という色っぽい声が次いで聞こえた。
『ふぅ……正直に言います。気分が沈んでいます』
「まぁ女の子だしね」
『今たぶん全女子を敵に回したよ』
「え、そんなこと言った僕」
『生理中だとホルモンバランスが崩れて浮き沈みが激しくなるんだよねって聞こえた』
「すっごい嫌味なおばさんみたいな拡大解釈」
『おばさんじゃない!』
「知ってるよ!」
朝陽は普段こういった変調を乗りこなすように努めているらしいのだが、今日に限ってはできなかったらしい。
朝陽は告白をひどく恐れていた。のらくら歩き、寄り道をした。だからその話を聞いたのは、通話が始まってから一時間三○分たったころだった。
努力の結晶が割れて内容物が飛び出たところで、僕にはそれを包みこむ手配がある。僕はだいたいにおいて余裕があるのだった。
『家に来てって言ったら、来てくれる? もう一回言うけどお父さんとお母さんはいないの』
「よし。見守りカメラの電源を入れに行くよ」
『全裸待機しておくよ。思いっきり痴態を見せつけてやろう』
「じゃあ僕も全裸で行く」
『凍死するよ!?』
カーテンを見ながら笑っているうち、通話は切れていた。