別に神様から許される必要なんてなかった気がする。 作:ぞんぞりもす
僕はすぐさま着替えて家族ラインに言葉を流した。面と向かって伝えた場合、朝陽のところに行くのが遅くなる可能性があった。
朝陽の家に向かっている途中で返信があった。電話もかかってきたけれど、僕はそれを無視した。『緊急だから』とだけ追加で送り、あとは通知を切ってしまった。電話も一旦着拒した。同居している祖父母に見つからなかったのは幸運だった。
このように心配してくれる僕の両親はいい大人である。世間も僕も、両親をいい大人と判断している。
鍵は開いていた。朝陽は明かりをつけて僕を待っていた。彼女は僕をリビングに通し、「これが例のカメラですぞ」と芝居がかった口調で言う。彼女の家は全体的に、僕の家よりも清潔だった。
家族が少ない分だけ物が少なく、年齢層が若いために衛生面に気を払っている印象を受ける。高齢者は衛生面の感性がかなり杜撰だと思う。
僕たちがリビングで遊ぶことはない。ゲーム類をすべて自室に置くようになったから、遊ぶなら基本的に私室だった。この他にも、人の家で寛ぎすぎるのはよくないだろうという考えがあることや、家族が在宅な場合も多いことなども理由として挙げられた。
そして僕たちには、互いが話し始めない限り家族について尋ねない、という暗黙のルールがあった。ルールというより気を遣うポイントが同じなので自然とルール化しただけだ。
僕は半円のカメラを覗き込み「へぇ」と言うだけで何もしなかった。
リビングは寒かった。おそらく朝陽の自室だけ暖房が利いているのだろう。だが僕の拳は火が出そうなほど熱くなっていた。
弾力性と柔軟性のあるメンタルだからこそ朝陽は平気な顔をしていられるのだ。思いやりと現実が擦れてありえないほどの摩擦になっている。摩擦は熱に変わり、彼女を痛めつける刃となっている。
低い位置にあるカメラを観察するためには腰をかがめる必要があった。朝陽は僕のとなりに同じ姿勢で並んだ。
「こんなの置かれてもさぁ……私ペットじゃないんだけど」
そう言うわりに、カメラに触れる手つきは優しい。両親の心遣いそのものと思っているのだろう。それを乱暴に扱うということは、すなわちそういうことになってしまう。
いったん冷静になった僕は、朝陽が求めているであろうボケに思い至った。僕はある程度まで手が冷えるのを待ってから口を開くことにした。
そのあいだ朝陽はゆっくりと、まるで大人が幼子の頭を撫でるみたいにして、気遣いの首輪を撫で続けた。
「……お手」
「わん」
「おかわり」
「わん」
「……」
「待ってるよ、待ってるよ次のセリフを!」
「腰に手をかけながら言わないで!」
「目にもの見せてくれる!」
「意味が違ーう!」
流れるようなノリに二人そろって吹き出した。田舎の夜はしんとしている。だから僕たちの声は家を飛び出して道路で踊ったことだろう。誰かの耳に入ってもよかった。大きな声を出さなければ、朝陽に絡みつく触手を断ち切ってやれないと思った。余裕なんてないよ。誰にも、どこにも。でも、僕はこのあたりに降り積もった雪がすべて角砂糖に変わる魔法に挑戦したかった。
朝陽は自分に余裕がないことなど構わず僕に笑いかけた。
「よかった。なんか
「素早さ二段階ダウン?」
「あぁうんいつも通りで安心したかな!」
ぷいと顔を背け、朝陽はどしどし階段に向かう。僕は慌てて後を追った。
自室のドアノブに手をかけながら、彼女は深刻そうな顔で「言ってなかったけど、自分の部屋にも別な首輪があるんだよね」と言った。彼女は疲れたような笑い方をした。
自室でしばらくくっつきながらゲームをした。二人用の協力ゲームだ。朝陽の部屋にも僕の部屋にも、それぞれプロコンが二つずつある。
気がつけば日付けを跨いでいて、朝陽は思い出したように「お風呂はいってないや」と口にした。
「ちょっと待ってて。湯張ってくる!」
ぴゅー、という擬音がつきそうな身軽さで廊下へ出たと思うと、途端に引き返してきて「もちろん一緒に入るよね?」と言い残して去っていく。
朝陽の最大風速を馬鹿にしてはいけない。僕が口を開く暇すら与えなかった。
戻ってきた朝陽に風呂を済ませたことを伝えると、彼女は瞠目して「え」とまじまじと僕を見た。神妙な顔になったかと思えば「明日いきなり私がばたっといったら、後悔するんじゃない?」と言い出した。
「そりゃまあ、するだろうけど」
「でしょ? だから、私の裸を見ておけばよかった~! 写真撮っとけばよかった~! てなっちゃうでしょ? じゃあもう決まりだよね?」
「僕、多数決って票の重さが同じだからこそ意味を成すと思ってるんだけど」
「それでお決まりの流れになるんだよね? 男女二人で入浴、何も起きないはずもなく……って」
「感性がおじさん」
「せめておばさんって言って!」
「感性がおばさん」
「おばさんじゃない!」
「知ってるよ!」
うきうきで替えの下着を取り出す彼女を眺めがら、僕たちが恋人になるのが早くてよかった、としみじみ思う。
僕たちは互いの存在が新鮮であるうちに恋人になることができた。すなわち、友だちとしての日常が固着する前に恋人という関係になった。
幼馴染やいつも一緒にいる男女が恋仲に発展しづらくなるような、時間の経過に伴う腐れ縁じみた付き合いがなかったのだ。だから恋人になるためのエネルギーが少ないうちにこんな仲になれた。
これがもしも、二年間一緒にいるけど恋愛関係じゃありません、なんて言ったらもうお互いを異性として見られなくなって、その塵が積もった未来のしわ寄せでぐちゃぐちゃ苦しんだことだろう。
僕たちは幸運だった。朝陽は幸運という細い綱を手繰り寄せられるほどの策士だった。そしてもう片方の手で僕を引いてくれた。
「お風呂わいたって! 行くよ!」
今日の彼女は不安定だ。ならば何も言わずに近くにいるのが最善手だ。
「そういえば生理中ってお風呂に入っていいの?」
「生理じゃないし! ちょっと落ちこんでただけだし! さいてー!」
冷たい思考と体で行動するよりも、血の奔流に任せて熱い思考で行動することのほうが楽しい。僕はよく理解できないが、そういうのが特別楽しい人もいる。
朝陽は服を脱ぎ捨てて風呂に突撃した。
僕は着替えを持ってきていなかったから、服を丁寧に畳んでから曇りガラスをがらりとやった。
脱衣所で裸になったときよりも、脱衣所から浴室に入ったときのほうが冷えを認識した。冷たい空気が体の前面から側面へ流れ、体を縮こまらせる。
フックでシャワーを浴びていた朝陽は僕を振り返った。そして手を伸ばしてシャワーヘッドを掴んだ。僕が扉を閉めると同時にお湯が空気を切り裂いて飛ぶ。
「寒いんだけど!」
僕にシャワーを当てる朝陽が叫んだ。白い体は見るからに寒々としていた。貧相とかそういう意味でなく、淡いオレンジの天井灯を受けて水滴が下へ流れ落ちるさまがなんとなく寒そうなのだ。
シャワーは熱いのに浴室の空気はあたたまり切っていなくて、シャワーの当たっていない箇所から冷感が肌に吸いついてくる。ぐいとお湯の向きが変わった。
「もう自分にかける!」
朝陽の体から飛ぶお湯の破片は冷たかった。
光のシャワーは自動車のフロントガラスを流れる雨のように、不規則な蛇の道となって白い肢体を流れ落ちる。音もなく湯気が立ち込め、快楽に耽る俺たちを世界から隠すかのようにして包む。だんだんと、浴室はあったまっていった。
冷えと孤独はよく似ている。お湯、つまるところ人間のあたたかみがあるせいで孤独が際立ってしまうのだ。
汗をかいたら体がより冷えてしまうように、温情を受けたら落差でより冷たく感じてしまう。それを孤独と人は呼ぶんじゃないだろうか。だから、落差を与えてくる温情のほうが、僕は純粋な一人よりも悪だと思う。だからといってずーっと冷水シャワーを浴びたいかと言われれば答えられないし、朝陽を悪と言いたくはないけれど、温情という関係性や人の振る舞いはそういった残酷な一面も持ち合わせていると思う。
すべて洗い終えていた僕は、何も言わずに浴槽に浸かった。朝陽は浴室があたたまるまでシャワーを浴びたあと、ボディソープに手を伸ばした。たちまち、蜜が気化したような甘みが広がる。
朝陽の体はすでに女性的になっていた。白く丸く、男とは違うと一目で分かる。小学校で使っていた保健の教科書の絵を思い出すが、確かに似ているかもしれない。当時は小中学生の裸なんて見ることはないだろう、見られるのは犯罪者くらいだろう、と思っていた。だが僕はこうして合法的に裸体を見ている。
「見とれちゃった?」
「うん」
「え~」
生返事に対して楽しそうに抗議しながらも、朝陽はモデルみたいに様々なポーズを取る。バスクリップで髪がまとめられ、普段は見ることのできないうなじや背筋がしなやかだった。裸体は天井灯を受けて宝石みたいにきらめいていた。
やがて朝陽は体が冷えたのか身震いをする。
「考え事してるでしょ」
「貴重な体験をしているのかもしれないな、って思って」
「そりゃそうだよ。私と一緒にお風呂に入ってるんだもん」
すべての工程を終えた朝陽はつま先からお湯に浸かった。そして流れるように僕の薄い胸板に背中を預けた。
「はぁ~」と朝陽は魂ごと吐き出すような気の抜けた声を出す。彼女が天井を仰ぐと、僕の肩に後頭部がぶつかった。横目と目が合い、どちらともなく雰囲気を緩める。
「なかなか見ないでしょ。小中学生の裸なんて」
朝陽は中空を見つめて黙ったあと「確かに」と笑った。
「性犯罪者くらい? 確実に見られるとしたら。小中学生って言ったらちょうど一人でお風呂に入る時期だろうし」
「僕とまったく同じこと考えてる」
あはは、と楽しそうな声が反響した。朝陽はさらに脱力して、僕の体に背中を押し当ててくる。不思議と痛みは感じなかった。むしろあたたかみのある絹に程よい弾力が加わったような肌触りで、ずっとこうしていたくなる。
それきり僕たちは閉口した。
曇りガラス越しの景色は僕の家と全然違っている。僕の家はもっと褪せている。朝日の家は新築だからか、それとも住んでいる人が若いからか、色味に富んだ印象を受けた。
「ねぇ」
「うん?」
朝陽は自分がもたれているのとは反対の肩に向かって、お湯をぶつける。何をするにしても楽しそうに笑っているので、つい僕も笑みを返してしまう。
「髪乾かしてみない? けっこう時間かかるから」