別に神様から許される必要なんてなかった気がする。   作:ぞんぞりもす

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中途-5

 髪なんて三○分もあれば乾くだろうという見立ては甘かった。まずヘアオイルからと言われて――さすがにボディクリームは自分でやらせた――呆然とした僕は、ゆっくりと髪にそれを馴染ませながら、朝陽がゲームするのを眺めた。謎解きゲームは僕も朝陽も得意とするところだ。ヒント機能を使うまでもなく進み、朝陽がプロコンから手を離して僕の腿を叩いたときにのみ、僕は口を出した。

 このあとドライヤーというのだから、驚きである。毎日やるなんて、地獄の刑罰と同じくらいの負担だ。

 

「私はこれ毎日やってるんだからね」と、朝陽は嘆くわけでも誇るわけでもない、嬉しそうな調子で言った。彼女はプロコンから手を離し「君と会うためだけにこんなにしてるんだから、もうちょっと惚れてくれてもいいんだよ?」と体を反転させた。向かい合ったのもつかの間、体が密着する。

 彼女は寝るときはブラジャーをつけないらしかった。オーバーサイズの部屋着から、じかに弾力が返ってくる。感触と香りとが脳で弾けて、僕は危うく理性を見失いかけた。

 

 

 朝陽が「散歩に行きたい」と言い始めたのは、深夜三時を回ったときだった。

 風呂に入ったあとに散歩に行くのは嫌だったが、今日の彼女は少し心配だから、僕は何も言わずに同意を示した。

 

 ざく、ざく、ざく、と雪が固まってザラメ状になった道を進む。一二月下旬にしては気温が低いらしい。

 六等星すらも一番星の輝きを放っているような、鮮やかに澄んだ星空だった。こういう日は凍て風くらい許してやってもいい。空の広さに心まで広くなるいい天気だった。

 

「私のスマホのパスコードって知ってる?」

「いや、知らないけど」

 

 朝陽は数歩先をスマホで照らしたまま、足をぶらつかせるみたいに歩いた。小さな子が俯き加減で歩く様子によく似ている。彼女の気分だけが晴れていない。

 

「君の誕生日」

 

 朝陽はスマホを僕に差し出した。そのせいでライトが変な場所を照らす。受け取ったあと、僕は自分のスマホでライトをつけて「はい」と渡した。

 冷たい夜風に木々が唸る。一人であれば不吉な歌に怯えるところだったが、あいにく僕は一等星とともにいた。そんな呪詛程度では打ち破られない。

 

「……君のやつは私の誕生日じゃないんだね。うわ、君のでもない」

 

 本当にパスコードを入れてもいいのか迷っているうち、はやばやと朝陽は試していた。

 

「何回か間違えるとロックかかるから勘弁してね」

「知ってるって、もうやめる。ていうか君もやってよ。教えてあげたんだし」

 

 蹴り上げられた氷が月光に舞い散り、ブーツの先がめり込むみたいに心臓を圧迫する。

 

 僕のスマホのロック画面が初期設定なのはよかった。

 朝陽のロックを本当に解けたまではよかった。問題はホーム画面で起こった。なぜか僕があぐらをかいてゲームをしている後ろ姿が設定されている。肩が変に丸まって、ついでに首を痛めそうな姿勢だった。

 

「いいと思わない? この写真。自慢なんだ」

「誰に自慢するんだ……」

「えークラスの子とか? 陸空って近寄りがたいイメージ持たれてるからけっこう聞かれるんだよ? どうして付き合ってるのーとか、付き合ってるって本当? とか。そのたびに口で説明するのもあれだし、これ見せるようにしてるんだ」

 

 画期的な発明だとでも言いたげだった。僕は無言でスマホを返した。朝陽は文句を言いながらも、薄い端末をコートのポケットにしまった。

 

「私に何かあったときとか、君のスマホが使えないときとかのためにね」

 

 よく通る声は真剣味を帯びている。冬の寒さによって磨き上げられた景色が痛みすら覚えるほどの美しさを纏うように、朝陽の声には感情と季節が乗っていた。

 渋々とか、嫌々とかじゃなく、現実問題として彼女はそれを見据えているのだろうか。なんともないと言われているのに。そんな……好きって告白されたから逆に気になっちゃうみたいなノリで余命を。

 

 それを意識して生きる中学生は、まともになんて育たない気がした。そうして育ってきた人種が朝陽だった。空間を捻じ曲げて自分自身は直立であると示すような子になってしまった。

 

「ていうか僕のスマホ」

「やだ。持っときたい」

 

 手を差し出したら恋人繋ぎになった。朝陽はわざわざ手袋を外して、コートに仕込んだカイロで手をあたためてから手を繋いだ。いつもと温度差が反対だった。

 

「私があっためてあげる」

「パスコード変えるから」

「えーじゃあ履歴とか見ちゃおっかな~」

「好きにしていいよ」

 

 朝陽は笑い声を上げてから「見ないって~」と言った。暗闇を切り裂いて進む声はどこかにぶつかって跳ね返り、またしても僕の耳にぶつかる。

 僕たちは一線がないほどぐずぐずに溶け合っているが、それでもなお一線を引こうとする彼女の振る舞いが僕は好きだった。駅のホームで線路を挟んで向かい合うみたいな、そこから笑いかけられて手を振られるみたいな、そういう心の温度みたいな。

 

 僕らを包むのは、幽霊ですら凍えそうな夜だった。田舎の細い道に外灯なんて期待しちゃいけない。僕らの地区をこのまま歩き続ければ冥土にだって行けそうだ。山も家も寝静まっている。世界中で起きているのは僕ら二人だけみたいに。

 このままどこまでも歩いて、二人で知らないところまで……たとえばこの世界が遭難届を出すくらいまでの場所に、僕たちは行けない。

 

 

 三○分ほど歩いて、適当な場所で折り返した。行きと同じ道なのに、光源がスマホのライトしかないと同じ道なのか判別できない。

 足跡をつけて歩いたと思った。でも損なわれていた。氷が硬すぎてほとんど跡が残っていなかったのだ。ひたすらに奥行きのある闇が僕たちを見守っている。

 

 僕は彼女の心に生まれた暗さを少しでも押しのけたくて口を開く。

 

「君と歩くと、見慣れた風景でも宝ものになる」

「歌みたいだね」と朝陽はほほえんだ。声は気分に振り回されたせいか疲れて聞こえた。「作詞したら? 私が作曲と編曲とボーカルで。ついでにMVも作っちゃう」

「……僕は作詞の他にギターとドラムとベースで」

「器用な千手観音もいるもんだね。奈良から出張?」

 

 気の早い朝陽はひとしきり声を潜めて笑ったあと「絶対できないって。念とかじゃないんだから。ライブとか実際はどうするつもり?」と前のめりに尋ねた。

 

「そこはもう誰かを雇うとか音源を使うとか……」

「え~。せっかくなら二人で生ライブしたかったのに、それなら生詐欺じゃん」

「なまさぎ……?」

 

 とりとめのない話は心の外側をつるつると滑り落ちて、だからこそ誰かを傷つけることはない。その代わり誰かの心に留まることもない。

 

 人の心に触れるためには、それだけの衝撃が必要になる。打撃でも斬撃でもいい。痛みがないと駄目なのだ。それなのに僕を含めた現代的な人は痛いのを嫌がる。そのくせ心に触れてもらいたがる。

 

 人の背中を無責任に押すことにさえ勇気を振り絞らなければならないのなら、もういっそ関わるなよと思う。

 僕はそう思いながら、朝陽の心に触れることを避け続け、望み続けた。みっともなかった。でも、光と闇の境界線が少しでも曖昧にいけばいいと本気で願っている。

 

 

 気がつけば、手から伝わるぬくもりが弱くなっていた。

 

 朝陽はなにかのメロディーを口ずさんでいた。そのせいで体の力を抜いていたらしい。彼女はよく声を張り上げるが、それからは想像がつかないほど揺らぎのある歌声だった。

 となりに向けて首を傾げると、朝陽は「今作ったの」と口の端を持ち上げる。

 

「Aメロ。Aメロの……二回繰り返すAメロの、二回目の繰り返し。サビに入るための助走みたいな歌詞だった」

「天体観測とかにありそうだね」

「ぽい! ちょうどバンプが浮かんでたの。オンリーロンリーグローリーの一番ってAメロ二回繰り返すよなぁって。ドーナツホールとかもそうだなって思ってた! シンパシーだね! 『私たちは見えないところでも繋がっているって信じてるんだ!』」

「……よく分かんないけど」

「えぇ~!?」

 

 どうしてよぅ、と言葉尻が穏やかに閉じていく。ぷくっと膨らませた頬は中華まんみたいだった。

 

 

 

 僕はその日のうちにワイヤレスイヤホンをこっそり見繕った。彼女の感性を作り上げた曲を聞くことで、感性の一部に触れられるような気がした。

 僕はもしかしたら朝陽と一緒にいる権利がほしかったのかもしれない。恋人という枠とは別に、朝陽からより近づいてもらえるような何かがほしかったのかもしれない。

 

 たとえ一緒にいるための権利が必要ないとしても、僕は手ぶらで彼女のとなりに立つ自信がないから不可視のそれを欲するのだ。

 

 

 

「いいじゃん、こんなときくらい。心がジェットコースターみたいに乱高下したって。見せてもいい人がいるから全力で操縦桿に振り回されてあげてるんだよ」

 

 宵闇に溶かすような静かな語調に、僕は肩の力を抜いて笑う。

 僕たちの言葉の隙間を埋めるのは、互いの心の叫び声だった。

 

 僕たちは理由を求めがちだ。好きを無条件に好きでいることは、とても難しい。そして、好きな理由が多いことを正義のように捉えているふしがある。そんな訳はない。質も量も正義な訳がない。そんなものは確固たる信念がない空っぽが生み出す、まやかしの思想だ。

 

 僕は、成長するにつれて常識や世間に無意識のうちに汚染されていたのではないかと自問した。屈辱だった。

 

 やわらかな手を潰れるほど握ってしまいそうで、ゆっくりと呼吸をする。たぎっていた血潮は肺から指先にかけて冷めていった。意識を眉間から離せば、僕は完璧に感情を偽れる。

 

 朝陽は……朝陽には、聞かないことにした。好きな理由を聞いてしまえば、僕はおそらくその理由に取り憑かれてしまうと思った。薄暗い影に一生を貫かれたら自殺するしか道がなくなってしまう。

 

「私と君で音楽作ったらさ、世界に行けないかな。まずは日本一から!」

 

 弾んだ声だった。蹴り上げられた内心を追いかけたら星空と目が合った。どれも輝いている。順位を競っていない純粋な輝きが夜空には宿っていると思う。

 

「そんな……コンビニ感覚で日本一位になるなんて言われても」

「コンビニ行くのって難しいんだよ!? 私はここに来てから一回も実績解除してないし! 車で一五分とかするじゃん、無理だって」

 

「都会じゃ考えられないんだからね」という声は悲鳴じみていた。澄み深まった空に透き通った声が響いて、だからか楽しげな雰囲気で耳を打つ。

 世界も日本も目指さなくていい。僕は安穏とした日々に浸っていたい。

 

「マンションの一階にコンビニとかあったのに、ここ来たらなくて、びっくりしちゃった。コンビニだけじゃないよ。もうほんと……なんにもないんだね。東京から埼玉に行くまでの道にもなんにもない河川敷みたいなのがあるんだけど、それとは別格。空いた口にクロワッサン突っ込めちゃうよ」

「おいしそうだなぁ」

「そこは、私の口はそこまで大きくないプリティベイビーなサイズだよって返すところでしょうが!」

「知らないよ! 八つ当たりだよ!」

「八回も当たってないし!」

「知ってるよ!」

 

 往路では気にも留めなかった自販機が寂しげな光を放っていた。四六時中同じ光量なのに、夜だけ際立って寂しげに見えるのが不思議だった。

 何を意図しているのかよく分からない政策や上層部の決定に振り回されて疲れているのかもしれない。ここに置いたところで元は取れないだろうから左遷された自販機なのだ。

 

「せっかくなら買っていこ!」

 

 駆け出す朝陽を僕は追う。いまだにスマホを返してもらっていないから、彼女が離れると光源がないのだ。

 自販機は近づくにつれ輝きは増していった。青白い光はスマホと同じくらい眩しかった。一人ぼっちで何かに抗って……でも、周囲の闇には負けている。

 

「実はブーツの下に一○○円を仕込んでて……」朝陽はどこからか財布を取り出した。

「密輸入?」

 

 ラインナップを見上げるために、視線が左から右へ、一段下がって右から左へ流れていく。光を受けた朝陽は、アイドルに応募できそうなくらい圧倒的なビジュアルだった。人の目を惹きつけて離さない強烈な魅力がある。かわいい、綺麗、なんて生やさしい表現だった。

 

「ヘロインってさ、ヒロインと響きが似てるよね」

 

 そのビジュアルでなんてことを言うのだろう。

 

「最悪だよそのヒロイン」

「最初の一文字にモザイクかければ一緒じゃん。似たようなものだって――あ、コンポタある! 一緒に飲も!」

 

 もしも帰り道に自販機があったら、僕らはときどき今みたいな贅沢をしたのかもしれない。人はそうやって贅肉をつけて日々を過ごすのだろう。

 

 三回小銭の音がして、白かったボタンが青に変わる。指先が触れた。朝陽は財布をしまい、大きな落下音が聞こえてから透明なケースを開いた。

 

「あつ! パス!」

「え」

 

 ぽんと中を舞う缶は、青白い光を受けて雪に影を作った。手の影がそこに迫った。思っていたよりも熱い。熱は刺すような鋭い痛みとして認識された。僕や朝陽に迸る血流の温度はきっとこれくらいだろう。僕はそれをしっかと握った。

 

「熱いんだけど」

「ナイスキャッチ! さすが帰宅部のエース、鍛え方が違う。冷めるまでカイロ代わりにしよっか! また手繋ご、あっためて!」

 

 手を差し出して朝陽は笑った。長い黒髪が艷やかに光っていた。僕たちはそうして朝陽の家に戻った。夜のちょっとした冒険譚はここで幕が閉じるのだ。

 

 

 冷え切った朝陽の部屋で「寒いさむい」なんて言いながら温風にあたり、やがて部屋があたたまってくると、指先にまで熱が灯ったような感じがした。僕たちはその熱に浸るように寄り添って眠った。

 夢の中でありがとうと言われた気がした。

 

 お礼なんて。

 

 彼女の言葉や関係よりも静かな夢を見られるとは僕自身思っていないのに、僕はそれをちゃんと伝えられているのだろうか。自問は雪のように冷たく降りしきり、降り積もり、やがて家屋を潰してしまう。でも別に、そうなってもいいような気がした。

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