別に神様から許される必要なんてなかった気がする。 作:ぞんぞりもす
夏が終わった、なんて言うけれど。帰宅部がそれを感じるのはいつだろうか。中学に入ってから二年考えている。この時期になるといつも思う。
三年目の夏が終わりかけても、答えは見つからないままだった。
虹の始まった場所みたいに、なんとなくの位置と方角が分かるだけ。いざ探し始めると見つからない。それが僕にとっての夏の終わりだった。
朝陽は夏休みを活用して入院し、精密検査をするのだと言っていた。
『少し不安』
ダメージ計算をしていたらスマホ上部に通知がきた。一戦終えてスイッチをスリープにし、四角い端末と向き合う。
『今まで通りなんじゃないの』と返信しようとしたが、彼女がこんなふうに言ってくるということは、心の片隅で蹲っている恐怖心を無視したくないということだろう。僕は恐怖の居場所を作る手伝いをするべきだ。平静や活力だけが彼女のすべてではない。
『なんなら僕も泊まる? 前言ってなかったっけ? 泊まれるけどどうって』
『いいの?』
既読が早く、冗談で返してこない。一息に釣り針に食らいついてきた。
冗談が返ってきたときのために『怪しい商材みたいな勧誘だったよ』と打っていたが、消して考え直した。端末に触れている親指の先から、気持ちだけが朝陽に寄り添おうと必死になっていた。
数回のやり取りで僕が病院に泊まることが決まった。
僕のスイッチはもうすでにだいぶ年季が入っていて、ゲームをしているとファンの音がすごい。その音がない部屋は静かだった。
沈黙を破ったセミの声が耳で膨らみ、着替え、本、数学のワークなどと整理する頭にたくさんの卵を産みつける。ときどき、雑音に思考がかき乱されることがあった。孵化した蝉の鳴き声に抗いながら、僕は押し入れからボストンバッグを引っ張り出した。僕はこんな状況でも失敗しない術を心得ている。それは経験による慣れだった。
泣き出したくなる、あるいはその場から急いで走り去りたくなる状況に抗うのは、小さいころ両親に迷惑をかけないようにしていた習慣で、慣れていた。田舎って、ちょっとしたことで有名人になってしまうみたいだから。僕はあまり覚えていなけれど、僕もたぶんいろんな失敗をしたんだと思う。
ところで僕の部屋には置き時計がない。だからなんとなくスマホを見たあと窓を見るのが癖になっていた。まだ日は高いので昼ごろには病院に到着できるだろう。車で送ってもらうため、僕は祖父母のご機嫌取りに向かった。遠いはずのセミの声は足音よりも大きく耳に届いた。命をすり減らす元気な声の儚さは、どことなく朝陽の声と似ている。
僕はセミが嫌いだった。うるさいから。それでも今は――。廊下の窓から木立を見る。顔を上げると晴れていた。青に白をまぜたような空だった。
心配する祖父母を適当に言いくるめてリュックを背負う。ボストンバッグが必要ないほど荷物は少なかった。諦めている事柄が多いと、逆に荷物は少なくなるように思う。希望を託してあれもこれもと準備する必要がないからだ。
僕はいろいろと寛容で、適当で、不衛生でも平気だった。
家を出る前に朝陽へ連絡を入れようとラインを開くと『陸空が夕方まで寝るような人だったら、私はきっと一人寂しく過ごしていたと思う。ということで、これからも規則正しい生活をよろしく!』と送られてきていた。愛嬌と勢いのある文章に口角が上がる。
りょうかい、と猫が敬礼をしているスタンプを送っておいた。九○度頭を下げる動きつきだ。
『今から行くよ、君のところに』
『びっくりしてます、倒置法に』
病院についてからは、同じ部屋で本を読んだり、勉強したり、話したりした。彼女が担当医と話しているときだけ僕は離席して、それ以外は一緒にいた。
「プールに入りたい」と言われたのは夕食を取ってからのことだった。
さっそく馴染みの看護師さんの協力を取りつけ、朝陽は「平気へいき」と得意げに笑う。何回か抜け出したことがあるらしい。都会育ちの朝陽には、もしかしたら病室は牢獄なのかもしれない。
三年間一緒にいても朝陽はそれらしい素振りをまったく見せなかったから、僕は馴染みの看護師がいることもときおり外に出ていることも初めて知った。おそらく他にもいろいろあるだろうが、そこは僕だって似たようなものだ。
秘密のない人間関係は弾力がなくて息苦しい。酸素の薄い部屋とよく似ている。
「それでは作戦会議をしよう」
朝陽はそう言って、ベッドに取りつけられている薄い天板に肘をそっと乗せた。祈るように手を組み、重々しい雰囲気を作る。
保健室と同じ白い部屋は、夕日のベールがかかって淡い色味になっている。儚さと重さが喧嘩しているせいでとっ散らかった印象を受けたが、黙っていた。
「分かったけど、どうして急に?」
「どうしてって、えぇ……」
思いついたから。顔にはどでかい広告のようにそう記されていた。難しい表情を作って朝陽は黙り込んだ。眉間にしわを寄せるのが珍しい気がして、また、いまだに両肘を天板に乗せているものだから厳めしい感じになって、エヴァンゲリオンみたいだな、と思う。
やがて朝陽は観念したように表情をやわらかくした。
「思い出を作りたいんだよね。この景色を見てばっかりって、ほら、嫌じゃん」
窓の外には死にゆく太陽があった。
橙色を見つめる横顔が淡く照らされた。朝陽は目を細めて、唇をきゅっと引き結ぶ。
「この街もこの景色も綺麗だけど……綺麗なばっかりじゃ、なんか違うっていうか。そういうことじゃないの」
カートを押す音とスリッパの音が近づいてきて、部屋の前を通り過ぎて遠ざかる。
僕はなんとなく窓に近寄った。車の往来や信号の明滅、店の様子や人の出入りなど、薄く冷たいガラスを隔てた外は賑やかだった。僕は離れた場所から何も聞こえない営みを眺めた。
朝陽は何度もこんなふうに手の届かない風景を眺めたのかもしれない。そのたびに心が外側から少しずつ削り取られていく思いをしたのかもしれない。
「まぁ、前に僕は時期じゃないって止めちゃったしね。付き合うよ」
「あ、そういえばそうだ!」
朝陽の感傷は一瞬にして吹き飛んだ。脳の中で過去が急に色を取り戻したみたいにはしゃいで、僕に人さし指を向けて「そうだ、言ってた」と訴えてくる。
「君ってば本当にノリが悪かったんだから」と言いながら黒い瞳は輝いていた。その事実があったことを、僕がそのやり取りを覚えていたことを、喜ぶような調子だった。
二○時少し前、朝陽は病衣から着替えるからちょっと出ていてほしいと僕に頼んだ。
「あぁ、分かった」
朝陽のことだから「一回見たことあるしいいでしょ」とか言ってすぐさま服を脱ぐものだと思っていた。しかし朝陽にも恥じらいがあるらしい。なんだか意外だった。
思い返せばあのときの彼女は不調だった。そのために少し妙だったのかもしれない。普段からしょっちゅう下ネタをふっかけてくる事実に僕は目をつむった。
ジーパンに半袖シャツというラフな格好に手を引かれ、僕は夜の街へと飛び出した。
「本当はショートパンツとか履きたかったんだけど、夜の病院を歩くには不適切な格好かなーとか思って自重したんだ」
「なんかものすごいところで自制心はたらいてるね」
確かに「病人って何よ」とはなるが。朝陽の口からまっとうな考えが出てくることに僕は驚いた。
病院のきらめきを背中に受けて、タクシーの並ぶロータリーを信号へ歩く。何度も歩いたはずの道がいきなり原型を失ったように、僕にはこの道が初めて歩いたもののように感じられた。
セミが寝静まり、カエルの鳴き声もほとんどなく、景色だって日中よりはおとなしいから、自然と嗅覚と触覚に意識が向いた。家の周りとは異なる香りがする。木々の香りがない。雑多なものがまじっていて、一つのにおいに意識を集中させることは難しかった。
「まるで違う生き物みたいにきらめいてるよね。夜の街って。それはどこも変わんない」
信号を渡りながら朝陽は口を開いた。
「すれ違う人の数はぜんぜん違うけど。私はこっちのほうが好きかな。呼吸がしやすいの」
僕たちの他に歩いている人はいない。車のヘッドライトが二人分の影を横に長く伸ばした。頭部まで影が伸び切ることはなく、闇に溶けている。
目的地は歩いて一○分ほどの市営プールだった。ここも屋内プールなのだが中学のときとは別の場所で、地元の高校の近くらしい。この地域出身の僕よりも、なんなら朝陽のほうが詳しいくらいだった。
道中、僕たちはぽつりぽつりと話した。
朝陽は日中よりも声の調子を落とした。冗談が減り、周囲の模様をぼんやりと眺めているように感じられた。
あんなに楽しみにしているように見えたのに、どうして悲しそうに見えるのだろう、と思って僕は何度も横顔を見た。そのたびに朝陽は首を傾げて僕を見つめ返した。
車屋の看板やコンビニが異様な明るさを僕たちに向ける。今の僕にとっては闇こそが親和性の高いもので、光こそが凶器に感じられた。朝陽もそんな表情をしていた。
「どうしたの? さっきから。見惚れてた?」
「……うーん」
「夜って女の子の魅力を三倍に引き上げてくれるもんね。見惚れるのもしょうがないか」
「なんだか静かで、悲しそうに見えたから。楽しそうにしてたのにどうしてだろうって」
マタニティブルー? なんてふざける気分でもなかった。
朝陽は「あぁ……」と一人静かに頷いた。それから二階建てくらいの位置にある看板を見上げる。もしかしたら星空を見たのかもしれない。つられて見上げて僕は思う。
「焼きつけようと思って。この光景を」
「どうして?」
「中三だから、この夏が終われば一つの節目みたいなものじゃん? 中学最後の夏だから。だからかなー」
要領を得ない答えだったが、朝陽は僕と話すことで自分の中に眠る答えを探しているようにも感じられた。答えが分かっていないのにせっつくのもおかしな話だ。
「思い切り笑うのもいいけど、それと同じくらい静かなのも好きなんだよ、私。思い出を均等にするために今は静かなの。いつもうるさいでしょ?」
「うん。セミみたい」
「すぐに死んじゃいそうなところとか特に似てるよね」
「自分で言ってて悲しくならない?」
「ハロウィンのコスプレは決まったかな」
「ハロウィンでセミのコスプレとか聞いたことないし、あれ仮装だよ」
「仮想敵は君。もしも私に何かあったら火葬してね」
「あーすっごい同音異義語なのに漢字が全部浮かぶ」
朝陽は一拍置いてから、「これからさらにセミみたいにうるさくなるかもね。なんせプールだから」と笑った。砕けた星の光が頬に当たって、笑みは、白く、白く輝いていた。