別に神様から許される必要なんてなかった気がする。   作:ぞんぞりもす

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中3-2

 僕はさっき市営プールなんて言ったけれど、蓋を開けてみれば、ほとんど管理の行き届いていない施設だった。

 電気がついているだけで人の姿は見当たらない。たまたま受け付けの人がトイレにでも行っていたのか、とにかく僕らは誰とも会わずに更衣室に進んだ。

 

 もちろん僕は水着なんて準備していない。だから着替えもスキップした。一応靴下だけ脱いでウエストポーチと一緒にロッカーに入れたが、鍵はついていなかった。

 

 ぺた、ぺたと素足がアスファルトを踏む。足の裏にざらざらした破片みたいなものがくっつく感覚は何年も感じていないものだった。

 照明はアイドルのステージみたいにいろいろな方向から注ぐ。浅いプールと深いプールがあって、深いプールは二五メートルのレーンが八個もあった。水面は凪いでいて、静けさのせいで僕たちが今年始めての利用者なんじゃないかと思わせた。

 底が水色だったから、本来は透明なはずの水もぎらついた水色に変色していた。昆虫がけっこうな数浮かんでいる。

 

 天井を仰ぐと照明が瞼の裏を灼いた。鼻から吸った空気に塩素を感じ取ってむせそうになった。

 

「え~見てるだけなの~?」

 

 背後から聞こえる声は楽しそうだった。僕は深いプールのプールサイドに突っ立っていて、このままだったら押されるんじゃないかと身の危険を察知した。飛び退いた僕を朝陽は不思議そうな目で追った。

 

「……君も水着着てないじゃん」

 

 朝陽はにやにやしながら「見たかった」と尋ねてくる。答えに窮した僕は強引に話題をそらした。

 

「君が誘ったから、てっきり君には楽しむ用意があるものだと思っていた」

「さすがの私でも入院するってときに水着は準備しないかなー。荷物だし」

 

 旅行慣れした人が荷物を少なくするように、入院に慣れてしまうと心配事が減って、その分だけ荷物も少なくなってしまうのだろうか。

 

「……じゃあ、どうするの? 見てるだけ?」

「まさか。せっかく遊びに来たんだよ?」

 

 朝陽は浅いプールのそばまで歩いていって、ジーンズの裾をまくり始めた。一回、二回、三回、と折れるたび、太陽を知らない肌があらわになる。

 となりに立った僕を、変に腰をかがめた朝陽が見上げる。笑っていた。学校では見せることのない純粋で邪悪な笑みだった。曇天の日くらいは太陽だってこんなふうに笑いたくなるのだろう。

 

「準備は?」

「できてない」

 

 あはは、と朝陽は短く天井に声をぶつけた。それから滑らないように注意しながら足を水に浸す。深いほうのプールに入らなかったのは、彼女の数多いやらかしの中でも英断のやらかしと言えた。

 

「先手必勝!」

 

 スキル発動の掛け声みたいなものとともに、朝陽は両手で掬った水をかけてくる。

 なんでだよ。薄々思ってたけどなんでそうなるんだよ。僕は着替えも水着も持ってきてないんだよ。

 

 

 ばしゃばしゃ、ばしゃばしゃ、と僕は石化したまま水を受け続けた。もはや悟っていた。服は重く、体に纏わりついてくる。普段は意識しない肉体の重みを感じた。

 そのうち面倒くさくなって、大暴れしてやろうと思った。

 

 水に勢いよく飛びこんだら足を滑らせて尻餅をつき、水しぶきが朝陽に飛んだ。

 幻みたいにプールサイドが揺らめいて、飛んで弾んで濡れ光る。塩素の味が鼻を突き抜け、直接胃に流れ込む。アスファルトに水が当たったときの独特なにおいが立ち上り、それはどこかこの光景を記憶に焼きつけようと世界が訴えかけているみたいだった。

 

「ちょっと大丈夫!? そんな濡れていいの!?」

「もともと君がかけてくるからおんなじだよ!」

「だってメッシュ素材の服だからいっかなって! でも私違うんだよ!?」

「自分だけ罪を逃れようとした犯罪者って、だいたいもっとひどい目にあってると思わない!?」

 

 怯む彼女に猛攻を仕掛ける。水は少しだけ生ぬるく、底に溜まっていたぬらつきがぶわっと舞った。床に落ちていた埃が舞うように、沈殿した汚れは浮いたあと再び落ちた。

 ぱしゃんと飛んで、重力そのままぴちゃんと落ちる。水音は作り込まれたゲームの効果音みたいに細かく違っている。

 

 こだまする明るい声と、多くの照明に照らされる四角い箱の中、ぬらつきは場にそぐわない異様な感触として僕の脳に刻まれた。得体の知れない病原菌を思わせる。

 そこに思い至ったとき、僕は不意に手を止めた。

 

 朝陽の体は弱い。もしかしたら、病原菌なんかも駄目なんじゃなかろうか。彼女の体の弱さについて、具体的に何が駄目だとかこれは大丈夫だとか、僕はまったく聞いたことがなかった。

 

「反撃だ!」という掛け声に合わせて顔面に水がぶつかってくる。

「ちょっと」と言いかけるが、僕がさんざん彼女を汚した分、彼女は手心を加えるつもりがないようだった。「待った、待った」という僕の抗議は、彼女の興奮というか攻めっ気を大いに刺激してしまったのだと思う。懸命に近づこうとしても朝陽が逃げ回るせいで一向に距離が縮まらない。

 

 結果として僕は大いに濡れ、朝陽もまた濡れた。見慣れたブラジャーはシャツから透けているというだけで、見てはならないもの感を強める。慌てて横を向いた僕を見て、朝陽はけらけらと笑った。

 

「何回も見()てるじゃん!」

「見てるじゃなくて見せてるなあたり、もうちょっと警戒心持とうよ……」

「どんなに凶暴な動物でも、警戒心の強い動物でも、家族の前ではリラックスするものなんだよ。いつも気を張ってると疲れちゃうでしょ?」

 

 水をかき分ける音とともに「いいのいいの、これくらい」なんて気楽そうな声が遠ざかる。

 

「シャワー浴びよ? たぶんこの水すっごい汚いよ!」

「じゃあなんで……いや、君に問うだけ無駄か。楽しそうだったとか、来たなら入らないととか、あるいは――」

「宝箱にしまうものを増やしたかったから、とかね?」

「鍵が錆びついて開かなくなっても知らないよ」

「それでも抱きかかえておくからいいもーん。ふとした拍子に開くかもしれないし」

「重いだけじゃない? 荷物だよ」

「軽さを誇ることは哀れだと思わない? 私はそう思うなー」

「軽い旅装だと遠くまで進めるよ」

「遠くまで進んで何をするの? 追っ手からでも逃げてるの? 確かにいろんな景色が見られるのはいいことかもしれない。でも、手ぶらで進んだ距離を誇るような人に、見てきた風景を感性豊かに文字に起こす能力はないんじゃないかな」

 

 朝陽は何かを痛烈に批判するような口調だった。

 僕は肩をすくめることを返答とした。彼女は思い出を大切にしようとするあまり、思い出を不用品と思っているような人間に対して、ときおり攻撃的になることがあった。ハリネズミやフグがトゲを持つのに似た自衛の手段なのだろう。

 プールサイドに足を上げようとする僕に、朝陽は手を貸してくれた。

 

「思い出を荷物と呼ぶような人じゃないって、私は願ってるからね」

「信じられるほどではない?」

 

 手を繋いだまま、朝陽は悲しそうに笑った。

 濡れ羽色となった髪がうなじに貼りついている。髪は光を反射していっそ眩しいほどの黒さをしていた。

 

「……僕が君との思い出を荷物とすることはない。その勘違いによって感情にさざ波が立ってしまったのなら謝るよ」

「他の人とのものは荷物?」

「場合によっては。積載量には限りがあるんだ。ゲームでもなんでも、同じだけ荷物の枠を圧迫するのなら、できるだけ価値のあるものを選びたいだろう? 銅の剣よりもキラーピアスだよ」

 

 朝陽は僕を握る手に力を込めた。射抜くような目を向けてくるけれど、今度は僕が視線をそらす番で、二人の架け橋に視線を向ける。

 

「それより、汚いのなら病原菌とかは大丈夫なの? 体が弱いのならそういったものにも細心の注意を払わないといけないんじゃないの?」

「あぁ……それはたぶん、大丈夫。いや、どうだろう。蒲柳(ほりゅう)の質とか虚弱体質とか言われてるから、もしかしたら大変なのかも?」

 

 朝陽は繋いでいないほうの手を顎に当てる。

 

「でも体が弱いとか言っても、その体質のまま戦地を転々として人々を救った女の人もいるでしょ? 考えすぎもよくないんじゃないかな」

 

 湿り気を含んだ足音は蒸し暑い夏の夜をいくらか涼しくした。さらに風が濡れた服を通って肌に当たるのでなお冷たく、秋の夜みたいに感じられた。

 乾いたアスフォルトには、僕たちから滴った水によって濃い染みが作られた。

 

「君といるときくらい、私だって汚れたいよ。綺麗なものばっかりってのも嫌でしょ?」

「そんなこと――」

「ある。私が嫌なの」

 

 きっぱりと言い切って、朝陽は僕を見上げる。黒く輝く瞳の奥で、炎が舞っていた。

 ちょうどそのとき僕たちはある程度まで進んでいたので、女子更衣室に向かう道まで来ていた。男子更衣室に繋がる道はもう少し奥にあった。

 

「誰もいないし。こっち」

 

 朝陽は僕の手を引いた。思いのほか強い力で引かれたが僕は踏ん張ってこらえた。彼女の意思の力を僕は拒んだのかもしれない。だが振り返った朝陽の気迫に押され、結局足の力を緩めて二人で歩き出す。

 室内プールから一歩外に出ただけで、あたりは一面まっくらだった。

 

「みんな羨ましいんだよ」朝陽は前を見ていた。「世間と触れ合って、少しずつ自分の白かったころを忘れていく。それなのに私は外側から眺めているだけ。すりガラスの向こう側から景色を眺めているだけだから、みんなの変化をまねして白を汚していくしかないの。それが正しい汚れ方なのかも知らないまま。守られてるって言えばそうなのかもしれないけど、それって滑稽じゃない?」

 

 手には熱を持つほどの力が込められている。朝陽の声は震えていた。頼りない震え方でなくて、力を込めすぎた結果ぷるぷると震えてしまうような、制御できない荒波によってもたらされていた。

 

 彼女は基本的に運動をしてはならない。だから運動するのなら世間をかいくぐる必要がある。でも、もしも何かあったときのために共犯者が必要だった。

 僕の前でだけふざけるのは、僕が共犯者であり、不要な心配をしない人間性も買われてのことだと思う。なのに病原菌だとか心配したのが気に食わなかったのだろうか。

 

「ごめん、取り乱して」

「うん」

「……気にしてないとかって言わないでいてくれてありがとう」

「だってけっこうダメージ入ってるし。でもそれを直接言うのもなんだかなぁって感じだったし」

「そういう優しさもあるんじゃないかな」

「優しくないよ。僕はね」

「はいはい」

 

 シャワールームはがらんとしていた。照明が落とされているから、漏れ出る室内プールの明かりを頼りにするほかない。

 

「貼りついて気持ち悪い」とか「重いんだけど」とか言いながら彼女はためらいなく服を脱いでいって、丸めてひとかたまりにしたそれを僕に投げつけた。

 ほのかに体温の残る、重い一撃だった。彼女の全裸よりも、服に残る体温のほうが僕に日常を感じさせてくれる。水分に甘い香りがまじっていた。

 

「やっぱりモザイクがかかった現実よりも無修正のほうがいいと思わない? たとえそれによって幻滅してしまうときが来るとしてもさ」

「絶妙な加減で反応に困る言葉遣いなのやめてくれない?」

 

 朝陽は楽しそうに笑ってから個室に入り、勢いよくカーテンを閉めた。彼女本来の魂が戻ってきたと感じさせる動作だった。

 僕はそれから朝陽の服を絞って畳み、自分の服を絞ってからとなりに入った。

 

 

 朝陽のタオルを借りて服を着たあと、自分のロッカーまで戻ってタオルを回収し、最終的な拭き作業をする。

 二人の服は生乾きで異様なにおいがした。それにしわくちゃだった。でもこれがきっと僕らの求める幸せの形だと思った。

 

 僕たちはプールの受け付けで笑ったあと、自販機の飲み物を分け合って帰路についた。

 

「シャワーの時間終わってるし、あとでトイレででも着替えないとね~」

 

 もらいあくびをしたあとで、朝陽の涙目が街のきらめきを反射する。濡れた髪を夜風に吹かせる朝陽はさっぱりした顔つきになっていた。

 

「こっちのほうが楽しいな。黙って外から見てるよりも」

 

 声音はむしろしっとりと水気を含んでいた。僕に一瞥を向けた朝陽と目が合った。

 

「やっぱりときどきこうやって約束破らないとさ、息苦しくてかなわないよ」

「そういうものかなぁ」

「『ちゃんと約束は守らないと駄目だよ!』って言って」

「ちゃんと約束は守らないと天罰が当たるよ」

「課金してるからお天道様は私の味方だし! なになに、このまま水掛け(・・・)論でもしちゃう?」

「言いたかっただけじゃん!」

 

 自暴自棄とどこまでもいけそうな翼を、思春期とあらわすのだと思う。

 

 病院に戻ってから看護師さんたちに「やりすぎだ」とこってり絞られたが、僕たちはあまり反省しなかった。

 油断だと思う。今まで大丈夫だったから今回も大丈夫でしょ、みたいな。でも底にはおそらく、どうなってもいいという破滅願望が横たわっていて、それが破裂して身を持ち崩したところで、僕たちは平気な顔をしているのだろう。

 

「怒られちゃったね」と笑う彼女に、僕もまた「それくらいのことをしたらしいね」と笑みを返した。

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