別に神様から許される必要なんてなかった気がする。   作:ぞんぞりもす

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中3-3

 進路相談として進学先の高校のすり合わせをしたあと、担任教師は神妙な顔で僕を見た。最低でも一○分は話さないといけない、みたいな面倒くさいルールがあるのかもしれない。

 僕としては無言でもよかったので、椅子に深く座り直して目を閉じた。

 

「朝陽のことなんだが……」

「え? あ、はい」

 

 担任教師は三○代前半の、活力にあふれる人間だった。中学生に逆に元気を与えるんじゃないかというほどふざけるときはふざけて、締めるところは締めるいい教師だと評判だった。生徒からも保護者からも、そしておそらく周囲の先生からも慕われていた。彼と話すとき、話し相手はいつもにこにこしている。

 そんな担任が精悍な顔つきを険しくするのを、僕は初めて見た気がした。

 

「お前と同じところが希望だから、これからも頼みたくてな」

「それなら、全然。というか別々の進学先でも一緒にいると思いますよ?」

 

 担任は肩の力を抜いて笑った。僕にはそれがひどく不吉な笑い方に見えた。この手の人間は「がはは」と大口を開けて笑うに限るのに、どうして脱力して笑うのだろう。

 僕の予感通り、担任は「ただ」と言い渋った。しばらく横を見てからとうとう口を開く。

 

「俺はどちらかというと、お前のほうを心配しているんだ」

 

 担任は罪を自白する罪人のようだった。この二者面談は〝総合〟の時間割中におこなわれたもので、三年生の教室からほど近い相談室には、自習に失敗した三年生の元気な声が届く。天井灯の白い明るさが嘘のように空気は重たかった。窓から見える紅葉には水色の屋根がかかっていた。

 

 僕が窓から視線を戻しても担任は口を閉ざしている。キャスター付きの薄灰色の長机には傷や染みがないのに、彼は意固地になって何かを探しているみたいに黙って俯いている。これではどちらが進路相談をする側なのか分からない。

 

「僕が心配、ですか?」僕は担任の言葉を繰り返した。担任はやっと顔を上げて「ああ」と頷いた。

 

「お前は……その、なんて言えばいいんだかな。中学生らしくないんだ。かといって大人っぽいかと言われれば、それとはまた少し違ったように見受けられる。言いたいこと分かるか?」

「……いえ、あんまり」

「だよな。俺も分かってないんだ」

 

 担任は首に手を当てた。その腕は日に焼けていて、そういえば野球部の顧問だったなと思った。

 

「変に肝が座りすぎているんだ。そのおかげで修学旅行とかは大いに助けられたんだが……もうちょっと子どもっぽく振る舞ったほうが、俺としては安心できる」

「珍しいですね。大人になれ、じゃなくて、子どもっぽくしたらどうかなんて言うのは」

「俺も大学出てからずっと学校いるけど、初めて言ったよ」

「まぁ今みたいに教職の方と話していること自体おかしいのかもしれませんしね」

「ほら、そういうところだぞ」

 

 担任は僕を顎でしゃくってから「今みたいなの」と言った。僕は肩をすくめて「さっぱり分かりません」と返した。担任は白い部屋に大きなため息を落とした。

 

 担任が追加で何かを言ってくる前に、僕は席を立った。一応立つ前に時計は確認したから、文句を言われることはないだろう。

 

 午後の陽が差し込まないせいか、廊下には秋らしい涼しさが漂っていた。窓のない廊下はそれだけで薄暗かった。

 掲示板には僕とまったく関係のないフライヤーがところ狭しとピン留めされている。

 他人事みたいな喧騒は少しずつ大きな音で耳を打った。

 

 

 いつからこんな立ち居振る舞いだったのかなんて覚えていない。

 でも記憶にあるころから僕はずっとこんなだった。

 

 変わってると評されたり、一人が好きと評されたり、内向的と評されたり、僕は大人からそんなふうに指さされた。面と向かってではなく、顔を寄せ合ってひそひそ話したあとに指さされた。むしろ僕と同年代の人は僕に無関心だったように思う。それは幼かったころの僕をひどく傷つける振る舞いだったように思う。

 だから、僕はいつからか名称のつけられない関係を居心地のいいものとするようになった。友だちではない、どちらかというとただのクラスメート、みたいな。いつでもまっさらに戻せるのはいい。クラスや学校が変わったら一切の繋がりを断ててしまうほうが僕にとっては気楽だった。ラインの友だちも言わずもがな。

 

 そんな僕がどうして朝陽のことを好いたのか、僕にだってまるで見当がつかない。朝陽が僕のことを好きになった理由もよく分かっていない。

 一つ言えるのは、好きになった理由は不明でも、好きな事実は覆らないということだ。好きになった理由が分からないままでもいいなんて、僕は案外理屈っぽくないらしい。

 

 

 教室の扉を開けたところで、誰も僕のことを振り返らない。朝陽は保健室にいる。次の人のところまで足音なく近づき、後ろから声をかけたら驚いてしまうだろうと思って、一人分ほどの通路を縫うように歩いて気持ち斜め前に立った。

 

 

 

 朝陽からヘルプのラインが来たのは、高校の合格発表を目前に控えた寒い日だった。『助けて。家に来てほしい』なんて寒々しい文面からは落ち着きが伝わってきたが、熱した心で動く彼女がそんな言葉を使うなんて、つまるところ火山が急速に冷えたようなものである。

 

 僕は家を飛び出して闇を駆けた。

 

 夕方から降り続いた雪はブーツの丈を越すほどだった。誰も除雪していないし、国道から外れた田舎道だから車もほとんど通っていなくて、轍もなかった。たぶん朝三時とかにブ除雪車が来る程度だろう。

 

 息が切れたころ、歩くついでに家族に連絡を入れた。すでに朝陽の家の前だった。

 

「ごめんね」

 

 朝陽は開口一番に謝った。薄い毛布を巻いた体を抱きしめるようにしたまま、朝陽は玄関の扉を閉める。中も外もまっくらだった。沈黙の隙間にしんと雪が差し挟まれる。

 

「あの文章は最大限取り繕ってのものだと思ったんだけど、僕の予想は合ってるかな」

「……最近の天気予報くらいの精度」

「ほとんど合っているとみてもいいかな。通り雨なんて夏しかないだろうし」

「すこーる」

「それは熱帯。国境の長いトンネルを抜けると、雪国な熱帯であった」

「なに、トンネル抜けたら銀世界でカーニバルでもやってた?」

「リオのサンバ」

「トンネル抜けたら?」

「後日、原因不明の高熱が流行り――」

「雪の中で踊るからだよ……」

 

 朝陽は気力を振り絞るような細い声で言い、それから力を抜いて笑った。体の内側に張り詰めている緊張が少しでも紛れればいいと思った。

 朝陽のスマホに照らされ、僕は凍えるブーツを脱ぎにかかる。靴下までぐっしょりだ。

 

「ちょっと待ってね。タオル取ってくる」

「待てなかったら歩き回るから気をつけてね」

「時間内に取ってこないと徘徊するエネミー……!?」

「具体的には僕が靴下を脱ぎ終わるまで」

「すでに片方脱いでるじゃん……!」

 

 朝陽の声には覇気がない。夕方からの白い孤独が、彼女の心にも降り続いているようだった。

 とったとったとった、といつもより体重を感じる足音が遠ざかっていく。

 走っているときは気にならなかった冷えは僕が停止した途端に体にまとわりついてきて、首筋を垂れた汗を心臓めがけて凍らせた。僕は何度、こういう鋭い冷たさに刺し殺されればいいのだろう。

 

 

 中学二年の一件以来、僕は朝陽の家で寝たことがない。病院も夏の一件だけだ。僕たちはずっと一緒にいるようでいて、その実、数学の問題みたいに交点を結んだり結ばなかったりした。いずれ戻ってくる関係であることだけが確かだった。

 

 スマホの光線だけを頼りに朝陽の自室に向かった。そこもまた暗闇に覆われていた。ストーブすらついていない。寝ようとしていて失敗――ちょっとだけ今日の分の元気が余っていたらしい。彼女は僕に気を遣った。

 

「飲み物取ってくるよ。汗かいたままだと風邪ひいちゃうかもしれないから」

「リオのサンバの伏線回収がここで来るかぁ」

「そういうのいーから」

 

 ストーブの電源を入れてから毛布をベッドに置き、朝陽は出ていった。いつもなら朝陽は毛布をぶん投げるのに。

 というか部屋の電気すらつけていかなかったのだが、これはどういった心境からだろうか。迷ったすえ僕はとりあえず常夜灯をつけた。

 

「コーヒーでよかったよね」

 

 温風の吹き出し口に足裏を当てる僕に、朝陽はそっとマグを差し出す。温風を二人で分け合うように、腕が触れ合うほどの距離で並ぶ。

 

「珍しい。ココア?」

「そう。こんな日は甘くてあったかいココアがいいの」

「へぇ」

 

 何度もこの部屋でゲームをしたが、明るいか暗いかで受ける印象はがらっと変わる。部屋の香りは一定のはずなのに、周りが暗いのと静かなことが合わさって情報量が少なくなり、甘い香りが際立って脳で踊る。怪しい快感は、ざらざらする舌で背筋を舐め上げられるみたいに僕を刺激した。

 

「……出しておいてなんだけどさ、コーヒーなんて飲んだら眠れなくならない?」

「僕が先に寝ちゃ駄目でしょ」

「確かに」

 

 朝陽は唇の先にマグをつけてちびちび飲んだ。僕は灯油ストーブの上部にマグを置いてのんびり飲んでいる。

 

 朝陽の両親はいなかったが、僕は特に触れなかった。女子中学生の精神がごりごり削られるこの時期に一人にするなんて、と思わないでもない。だが家庭の事情だから何も言わない。朝陽だって両親を貶されるのは嫌だろう。まして彼女の両親が一生懸命働いているのは、娘から吸い上げられる莫大な金を稼ぐためでもあるのだから。

 僕らはただ日常の呪縛から逃れたくて交流を結んでいるだけで、デモ団体とかとは違って、何かを批判するために集まったわけではない。僕らは現実にほとんど不満を抱かない。だから、何かを貶す会話もしない。僕らはその会話で自分たちが傷ついてしまうほどに脆かった。

 

 空になったマグカップをテーブルに置き、僕たちはベッドに横になった。部屋があたたまりきる前にストーブは消した。

 

 冬用のシーツと掛け布団の間には、努力の証がかすかに残っていた。何も見えないのに、僕たちは向かい合っていることが当然のように分かっていた。

 

「頑張って寝ようとしてたんだね」

「……あんまり言わないで。なんていうか、気遣いですら、一人で眠れないやつなんだなって言われているみたいで」

「僕の足まだ冷たいから、この中途半端なぬくもりが気持ちいいよ」

「えっなに下ネタ?」

「そんなわけあるか」

「ギロチンって……ぎろ、ちんって……!」

「本当にどこでどう聞き間違えた!?」

 

 思わず体を起こしてしまい、掛け布団に室内の空気が流れ込む。

「寒い、寒いよ」と朝陽は僕を布団に戻した。彼女は沈黙の隙間を埋めるみたいに体を寄せて「ごめんなさい。続けて?」と甘えた声を出す。

 

 釈然としなかったが、時間の経過でその気持ちは薄らいでいった。

 

「冷たいときに熱すぎるものに触れるとさ、むしろ痛いときあるじゃん。それがなくて心地よかったんだよ。さっきのぬくもり」

「……そろそろあったまってきた?」

「それはまぁ、うん。いきなりどうしたの?」

「思い切りくっついてもいいかなって」

 

 言いながら朝陽はぐいぐい体をこすりつけてきて、だから布団よりもあたたかな灯火を間近に感じた。

 いったん大人しくなった朝陽は声を落として言った。

 

「ちょっと弱みを見せていい?」

「……君の弱みを握れるのなら喜んで」

「私も握れる位置にあるのを忘れないでね」

「待ってそこはだめ握るじゃなくて握り潰すになっちゃうから」

 

 たまらず腰を引いた。きゃっきゃ騒ぐ朝陽は空いたほうの片手を首に回して僕を逃れられなくする。そして耳もとから聞こえた囁き声は甘く、頼りない細さをしていた。

 

「私ね、陸空に一番頼りたいの。家族にはこんな姿見せられないけど、君になら見せられるから。だから見せてる。見せたい」

「……構わない、けど」

 

 自分が普通と違っていることがたまらなく怖くなったのだ、と朝陽はぽつぽつ語り始めた。まっくらだというのに顔を見られるのが嫌らしく、朝陽は僕から一向に離れない。

 彼女の言葉には、小雨の日に屋根を滑り落ちた水が軒先で膨らんで、ぽた、ぽたと落ちるみたいに不規則な間があった。

 

 普通と違っている体質だから、普通よりも優れた成績を収めたとしても拒否されるんじゃないか。多様性だなんだと謳いながら、結局のところ少数派はいつもびくびく怯えていないといけない。

 

 重くのしかかる不安は、襲い来る理不尽は、朝陽を怒らせるのではなく怯えさせた。朝陽はまだ子どもなのだ。あるいは、怒ることは弱さの証明かもしれないし、生きようとすることに前向きで莫大なエネルギーのあらわれなのかもしれない。

 僕たちにはそんなものない。僕は起毛の寝間着をそっと叩いた。

 

「私ってどうしても浮いちゃうでしょ? それで……浮いたら叩かれるでしょ? だからネットとかあんまりやらないんだよ。君のことを信用しているのも、ネットをあまりやっていないからって理由が一部あったりするんだよ」

 

 僕の交際が狭いからこそ、彼女は僕に安心して激突できるらしい。そもそも二人きりなら、浮くなんて状態に陥らないわけだから。彼女はおそらく両腕を広げて待っていてくれる人には近づけないのだろう。僕の予想をはるかに超えて警戒心が強い。

 

「僕はたまたま、適切なポジションに都合よくいたみたいだね」

「人間関係の始まりなんてそんなものだよ。運命とか偶然とかで出会って、あとは個々人の努力で結ばれる(ちぎり)なの」

 

 言い終えるが早いか、朝陽は掛け布団に潜って僕の胸に額をぶつけた。「話したらすっきりしちゃった」とくぐもった声が聞こえる。

 額をぐりぐり胸板に押し当てられ、僕も朝陽も痩せているせいで骨同士がこすれて痛む。きっと心の触れ合いもこんなふうに痛みを伴う。僕は抵抗しなかった。

 

 気が済んだのか、朝陽は枕に頭を戻した。空気の流れに乗ってやわらかく甘い香りが僕に猛進する。一瞬だけ室内の冷たさが脳から弾き飛ばされ、彼女一色に染まった気がした。

 

「悪いことしてるみたい」

 

 朝陽は僕を見つめて言ったのだと思う。

 

「実際にしてるんじゃないの?」と返したら、天井に向けている片方の頬を撫でられた。

「どうして?」朝陽の声は重くも軽くもなくて、低くも高くもない。自然な優しさがあった。

 

「私はあなたにしか話せないことがあって助けを求めたんだよ? そしてあなたは私を助けに来てくれたヒーローなんだよ。それなのに世間のみんなは、実際に悪いことをしているんだって言うの?」

 

 朝陽は頬に手のひらを添えたまま、親指で静かに僕を撫でる。やがて耳をぎゅむっと掴んだ。赤色が巡る音が聞こえる。しばらくそうしていた。手が離れると、室内の冷たさが耳にこたえた。

 

「許せない」と朝陽は言った。

 

 怒っているようには聞こえなかった。だが、沈黙の暖簾をそっとくぐってやってきた感情は、鬼のような憤怒の形相をしていた。

 

「他人にとって私たちは世間の一部かもしれないけど、私たちにとっては、私たちが確固たる唯一なんだよ。それなのに、どうして周囲によって歪められなきゃいけないのかな。私は私でありたいのに、どうしてそんな見えないものに揺らいじゃうんだろう」

「……一つ、質問してもいい?」

「いくつでもいいよ。私が知ってる範囲でなら全部答える」

「君は前、他の人が汚れていく様子を羨んでいただろう? そして自分も世間と触れ合うことによって汚されたいと言っていただろう? それなのに今は、世間を憎んでいるように聞こえたから。知りたくて」

 

 僕の声はだんだんと勢いを失った。最後はほとんど雪に消え入るくらいだった。でも部屋は静かだったから朝陽に届いたらしい。

 朝陽は「あはは、矛盾しちゃってるね」と言った。言葉は楽しげだったが、声の調子はとても静かだった。

 

「どうしてだろう。矛盾しちゃいけない?」

「そんなことはないよ。人間はいくらでも矛盾しているし、矛盾してこそ人間だと思う。理論が分かるくらいに賢いから矛盾しちゃうのかな」

「論理、機械。それと本能、動物。この対極にあるのが人間なのかもね?」

「それに葛藤して悩み続けるからこそ僕たちは僕たちでいられるのかもしれない」

「やだなぁ。考えないほうが楽なのに」

「死体が服を着て歩いても世界はなんにも面白くならないよ」

「それはそうだ」

 

「ねぇ」と朝陽がほほえんだ気がした。

 

「なんだか依存しちゃってるみたいだね、私たち」

 

 縁起でもないことを言う朝陽の声には、雨が降っているときに「晴れればいいなぁ」と呟くみたいに、実際に起こり得ないことを望むような響きがあった。

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