別に神様から許される必要なんてなかった気がする。   作:ぞんぞりもす

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中3-4

 僕たちは何事もなく進学校に合格し、晴れて中学を卒業することができた。部活の集まりなどがある中、帰宅部のエースである僕たちは二人で颯爽と人々をかいくぐって校門に進む――はずだった。友だちがいないのは僕だけで、朝陽は各所から引っ張りだこだった。

 

 田舎の卒業式に桜はない。それどころか僕の視界には一箇所に集められた雪の山がある。去年からの雪は土や泥に塗れてぐちゃぐちゃに色がついていた。それは彼女の言う世間によって染められた色かもしれない、と思った。

 汚いと思うのは、思うことだけは、誰の目にも触れないのなら許されるはずだ。

 

 見透かされているのか、雪から校門に目を移すと朝陽と目が合った気がした。

 

 校門の前から動けずにいた彼女が開放されたのは、三○分がすぎたあたりだった。

「疲れた」と彼女は澄み渡った空にそぐわない青白い顔で僕のもとにやってくる。卒業式とは思えないほど虚ろな目をしている。ゾンビみたいに猫背になって腕をだらんとしていた。

 

 一陣の風が吹いたのはそんなときだ。

 

 疲れた勢いか朝陽の手は突風にさらわれた。円筒に入っているはずの証書は撮影のために朝陽の手に収まっていた。

 

「あ」と朝陽の驚き声が響く。

 

 空に証書が舞い上がる。希望の鳥みたいに優雅に飛んでいった。僕は幸福の青い鳥の影を追った。反射的に走ったけれど、運動不足の脚はすぐさま悲鳴をあげる。僕の運動能力は朝陽のそれに毛が生えた程度のものであり、なおかつブーツを履いていたから、僕は鈍重なピエロみたいになった。

 僕は手に持っていた荷物を捨て、故障した車が黒煙を巻き上げるのも構わず、犬がフリスビーを追いかけるみたいに全身全霊の風になる。とても滑稽な絵面だと思う。だって犬がお尻から黒煙を出して進んでいるのだから。

 

 心臓が熱源となり、僕の全身に血潮を行き渡らせる。その働きかけで神経の末端までもが目を覚まし、僕の体を遠くへ運ぶ。呼気は荒く、白く、銀世界に僕の存在を訴えかける。

 僕は彼女の記念品を追いかけた。彼女の生きた証を汚れさせてはならないと思った。証書を委ねてもらうのは風などでなく、僕であってほしかったから。ザラメ雪すら沈み込ませることのできない軽い足跡かもしれないけれど、それでも彼女が生きたことを証し立てるものだから、なくしてはならない。僕よりも彼女のほうが重要だった。

 

 はたして朝陽の証書は雪や道路に埋もれることなく僕の手に収まった。僕は見事に鳥を素手でキャッチしてみせたのだ。いくらか乱暴だったように思うが、この際気にしないこととする。羽を折ったとかではないし。

 

 声なく振り返り、僕は優勝したレスラーが両手を上げるように勝ち誇ろうとした。肩のあたりで腕は止まった。

「ちょっと」と朝陽は僕を追いかけていた。マフラーが尾を引くような速度だった。先ほどまで青白かった顔は赤い。息を切らしたためでなく、怒りのためだった。

 

「君の証書!」

 

 朝陽は世界中に説教を聞かせるみたいに怒鳴る。朝陽の証書が無傷だった反動として、道路に打ち捨てられた僕の筒はタイヤの餌食となったらしい。底のほうがぺしゃんこになっていた。

 朝陽はわざわざそれを丁寧に拾い上げて走り、僕にぶつけるように示す。

 

「これ! どうするの!?」

「でも君のは無事だったよ?」

「そうだけど……そうだけど……そうじゃない!」

 

 朝陽は僕の手から、なかば奪い取るような勢いで証書を取った。そして平たく鋭くなった円筒の底で僕の胸をちくちく刺した。

 朝陽は僕らの両親と合流するまで一切の口を利かなかった。せっかく僕の家でパーティーがあるというのに、それを楽しみだねと言い合うのは二人の両親だけで、肝心の僕たちの空気は微妙だった。

 家族の車に乗ったとき、今さらのように、凍りついた肺が痛みを認識した。

 

 

『世間的な誤り』をおこなったわけではないと思う。けれど、朝陽は僕の何かが気にくわないらしかった。

 

 

 家に帰ったあと、証書が歪な理由を聞いた家族は僕に対して「この傷は勲章だね」と冗談っぽく言った。畳の上で丁寧に伸ばしても、折れた跡は決して消えない。心のようだった。傷つけられたのは誰の心だろうか。三者三様に答えは異なるだろう。

 僕は両親が跪くみたいにして畳と向かい合い、何度も伸す姿を黙って見下ろしていた。致命的な間違いを犯さなかっただけで、不正解を選んだのかもしれない、と思い直した。

 

 長く引き伸ばされた沈黙が、そっくりそのまま僕と両親の隔たりだと思った。言葉の隙間には、さー、さーという音が黒く降り積もる。僕はそのうち着替えのために自室に戻った。

 

 

 朝陽たちが来るころに和室に行くと、証書が飾られているのが目に入った。ニスの塗られた額縁の外枠が、僕の頭上で蛍光灯を反射する。入れ物も中身も新しいのに、収まっている紙切れには傷があった。

 和室にはガラス扉があって、そのまま庭に出られる構造になっている。そこに立ったら夕方だった。逃げ場のない感情が照らされた気がした。

 僕は自分の体を使って消火活動をおこなう人が感じるような焦げ臭さと不快と痛みに悩みながら、しばらくそこにいた。

 

「取り乱してごめん。あとありがとう」

 

 酒が入り始めた大人はうるさい。その喧騒を縫うようにとなりから声がした。ここにやってきた朝陽の機嫌はそこそこ回復しているように見受けられたけれど、どうやら演技だったらしい。朝陽は周囲の不幸を一手に引き受けたみたいに暗い顔をしていた。

 僕以外に誰もそれに気づかない。周囲にいらぬ心配をかけぬよう、おそらく朝陽は本音を打ち明けるタイミングを見計らっていた。正座した上で重ねられた手が落ち着きなく動いている。

 

「気持ちを整理する時間がほしかったの。あのときはなんていうか……君が、せっかくの三年間の思い出を……それに、ご家族が大切にするであろうものを荷物みたいにして扱っていたのがムカついて」

 

 言おうかどうか迷い、豪快な笑い声に背中を押されて口を開く。言っちゃ悪いことなんだろうなって自覚していたから翼を生やすまでに時間がかかった。

 

「紙一枚に、何が詰まっていると思う?」

 

 話の途中で僕は目を伏せたが、結局もういちど朝陽を見つめ直した。

 朝陽は肩を落として悲しそうに僕の目を見る。交渉が決裂して別れるしかない相手を見る目だと思った。それでも一緒にいることだけは確かだと僕は直感した。人間とエイリアンが互いを尊重する映画だってあるじゃないか。

 

「君のもちゃんと大事にしないと駄目なんだよ」

 

 その言葉を最後に、朝陽はまた僕以外に向ける明るいモードに切り替わった。オンオフのスイッチの片方が僕のためだけにあるのだと自覚し、僕の心には甘い電流が生じた。

 僕は彼女に依存しているのだろう。朝陽と一緒にいることが存在意義のようになっている。

 

 

 僕の家族から朝陽が絡まれているとき、僕もまた朝陽の父親から話しかけられた。べろんべろんに酔っているように見えていたが、瞳には理性が宿っている。オードブルの空容器が氾濫するテーブルには水の入ったコップがあった。

 

「高校でもよろしくね」

「いえ、こちらこそ。いつもよくしてもらってます」

「なんか保護者と話してる気分なんだけど」

 

 酒が抜けきっていないのか朝陽父は朗らかに笑った。それから幾度か言葉をかわしたあと、朝陽父は思い詰めたように神妙は表情になり、「ふぅ」と小さく息を吐いた。

 その吐息だけで世界から音が消え去った。物静かな迫力に僕は圧倒された。

 

「陸空くんが朝陽と一緒にいてくれて本当に感謝してるんだ。たくさん迷惑をかけるかもしれないけど、君の話をするあの子はとても嬉しそうにしているから。ほんと……末永くよろしく頼みたいな」

 

 中空を見つめる彼の目には僕なんて映っていない。きっと大事な愛娘の笑顔が映っている。気持ちは分からないでもないけれど、彼と話しているのは、僕のはずだった。

 

 他者への怒りという、使い古した感情に火がついたような気がした。

 拳からゆっくりと力を抜く。意識を離していく。噛んでいた上下の歯を緩ませて、目頭に集まった熱からも距離を置いた。朝陽が一番の気持ちは、やっぱり分からないでもないからだ。

 

 でも僕の両親ならここで「迷惑に思ったらすぐに言ってね」と付け加えてくれると思う。

 

 自分の子どもを一番に考えてしまうのが朝陽の両親。

 相手の子供の都合を優先させてしまうのが僕の両親?

 

 どちらが優れているとか優しいとかじゃなくて、ただ、それだけなのだ。

 

 家族は僕を愛しているのだと思う。その証拠として、僕は物質的に困ったことがほとんどない。スマホや漫画本など、ほしいと相談すれば、次の日には買いに出るかアマゾンの注文履歴に並んだ。

 でも僕には、愛されている実感がわかなかった。僕の感じている家族からの愛は、あくまで自分を取り巻く環境をスキャンした結果として、そう判断されるだろうというものでしかなくて。物質的に豊かであったからにすぎない。僕には家族と出かけた記憶がほとんどない。例外として先ほど挙げた買い物や、朝陽の病院への送迎などがあった。

 

 そんな人間が、人を愛する。人に恋する。とんだお笑い草だ。

 

 分からないな。僕にはきっと……分からないんだよな。何かを愛でる優しさも、何かを慈しむ心も、きっと僕は一生をかけても理解できないはるかな高みにあるんだ。それは。

 

 人は月に手を伸ばし、やがて輝きに降り立った。僕は偉業も栄光も欲しない。諦めとは、幸福の第一歩のように思う。そう思わなければ僕は幸福になれない気がした。こういう手のひらサイズの幸福が僕の宝物だった。

 

 

 都合を見て立ち上がった朝陽父の背中を見送ったあと、胸に手を当ててみる。僕の知らなかった欲みたいな何かを、いつのまにか朝陽が満たしてくれていた。

 

 僕には自分の意志なんてものはなくて、かといって僕の両親はレールを敷いてくれなくて。僕にレールを敷いてくれたのは朝陽の両親だった。それがたとえ歪んでいようとも僕は自走できるようになったし、踏破する意志だって燃え上がっている。

 何より、レールに従っている間は、僕の周りのみんなが幸福そうな顔を浮かべている。もうそんなんでよかった。

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