別に神様から許される必要なんてなかった気がする。 作:ぞんぞりもす
「ん?」と僕は朝陽を首だけで振り返る。
「悩み事っていうか、いいや。せっかくなら質問みたいにしちゃおう。私の両親が、心配な私を置いてたくさん働くのはどうしてだと思う? 君はぜんぜん聞いてこないけど、気になるところじゃないかな」
僕は朝陽と朝陽の両親とを切り離して考えている。だから、朝陽について疑問に思うことはあれど、朝陽のご家族の行動を不審がることは少なかった。バスが一台遠くで動いているのを見るみたいに、動いているのだと分かってもその行動に興味を持てないから流してしまうのだ。
朝陽の問いについて考えてみれば、案外あっさりと結論は出た。
朝陽は僕が黙っている間、手をさすり続けた。不安を解消するためかもしれないし、僕が保健室でぐにぐにくんを手放さなかったのと似ているのかもしれなかった。
「将来的にお金が必要になるかもしれないから? たとえば、手術とかに」
「正解。やっぱり分かってたか」
「いや? 今ぱっと考えただけだよ」
「県内一の進学校に入学する人の目は欺けないね」
「代表の挨拶をした人が何を言ってるんだ」
朝日は一拍置いてから、いかにも言いづらそうに「言いづらいことだから」と前置きした。それから僕の背中にそっと抱きついてくる。両肩から前に回される腕は、僕の腹の位置で結ばれた。
初めて触れる病衣の質感だった。彼女のやわらかさはいつも通りで、頼りない重さもいつも通りだった。僕たちは変わっていないのに、僕たちを取り囲む環境は着実に変化している。
代わり続ける環境にいてもなお不変でいられる僕たちは、ある種異常な精神を持っているのかもしれない。
「私、将来……その。働けない……からさ」
「自分を切りつけてまで言わなくていいよ。言いたいことだけでいい」
「うん」
朝陽の声は、思い詰めた心情をありありと伝えてくれた。不安定な抑揚がそっくりそのまま彼女の心だろう。今度は僕が彼女の手をさする番だった。
朝陽が老後まで生き続けると仮定して、彼女のご両親は医療費や生活費を今のうちから工面しておきたいのだろう。
もちろん、なんらかの医療制度を利用したり、生活保護を受けたりと、取れる手立てはいくらでもある。ただ……今の政治状況や世の中が変わるスピードを考慮したとき、その予測をどれだけ当てにしていいのかは分からない。
自分の身を守れるのは、結局のところ自分しかいないのだ。政府はあくまで国を運営するのであって、国民は歯車にすぎない。一般的で大衆的な歯車のために奔走するのが国会議員で、僕らは少数派に分類される。この点で、僕は国に期待が持てない。信頼はしている。
医療制度や生活保護については、僕も手を尽くして調べていた。けれど僕は肝心の朝陽の主症状を知らない。だから調べると言っても表層をなぞるくらいしかできていないだろう。
耳もとから聞こえる朝陽の声は、囁き声とは違う震えをまとっていた。
「一応、おじいちゃんとおばあちゃんがたくさん残してくれてるみたいなんだけど。念には念をって」
「へぇ」
「私だってこんなことを言うのは惨めで嫌な気持ちになるんだけど――」
「無理に自分を痛めつける必要はないんじゃない」
「相手が君だから言いたいの。私は聞いてほしいの」
「なら……聞こう」
朝陽の両手にきゅっと力がこもる。
「私、人に……人に寄生して生きるしかないんだよね。だから、寄生しているくせにさらに宿主に甘えるのかとか思っちゃうこともあって、両親にあまり甘えられなくて。家で顔を合わせてもそんなことばっかり考えちゃうから、顔合わせたくないんだ。反抗期だとか、思春期だとかって受け取ってもらえてるから今はいいんだけど、そのうちきっと化けの皮が剥がれると思う。そう思うと苦しいの」
「こんな話ができるのも僕くらいか」
「そうだよ。君は貴重なんだよ」
「じゃあひとまず嬉しく思っておこうかな。ご両親とは違う位置にいるみたいだし」
「……いつか君が社会に出たとき、私たちの関係はどうなっちゃうのかな」
優しい口調で紡がれた不安は、僕の胸を深くまで刺し貫いた。
そうか。僕たちが結婚すれば、朝陽の言葉を借りて言えば、朝陽は僕に寄生して生きることになる。その事実は遅効性の毒みたいに朝陽を蝕むだろう。想像しただけで今みたいに弱るのだから、現実となったときの痛みは計り知れない。
伸びた爪は切らなきゃいけない。花壇の雑草は抜かなきゃいけない。僕に爪や花の気持ちが分からないように、世話される人の惨めを、僕は想像することしかできない。実際には、分からない。
そんな未来のことまで不安に思っているのか。そうか。僕はなんて思い至らない未熟な人間なんだ。
呼吸ができなくなって、外部からの圧力で胸が潰れるみたいに骨が軋む。自分の胸を見下ろしても血は流れていない。ゆっくりと息を吸ってペースを戻そうとした。しかしやはり胸が塞がるような思いが僕を邪魔する。
僕が正常に戻るまでにはしばらくの時間を要した。朝陽は身動きをしなかった。
へそで結ばれる朝陽の両手をそっとほどいた。朝陽が首を傾げる気配がする。髪が片一方に寄って、僕の制服にぱさぱさ当たったのだった。
僕は首だけで後ろを振り返って目を見つめた。星のない夜空を写し取ったみたいに、澄んだ黒さの瞳だった。
「どうしたの?」と朝陽が言った。
「どうしたと思う?」
「分かんない。気でも狂っちゃった?」
「君に狂っているって言ったら?」
「ちょっと。本当に狂っちゃったんじゃないの」
「どっちに?」
言いながら腰を捻って朝陽を抱きしめた。途中、中腰で立ち上がって朝陽を正面に据え、抱きしめる拘束力を強めた。
朝陽は理解が追いつかないらしく呆然としている。
僕は初めて彼女を押し倒した。朝陽は無抵抗だった。
下敷きになった朝陽は、振り絞るようにして言った。
「いい親だよ……本当なんだよ。私は頭が上がんない」
「君の心を締めつけているって点を除けば、完璧だと思う」両親としてどうかと思わないでもないけれど。「ご両親にはご両親の考えがあって、誰を最優先にするか、誰の何を最優先にするかもきっと君とは違っているだろうからね」
「うん」
「僕は何も言えないよ」
高校に入学したばかりというタイミングで、なぜ朝陽がセンチメンタルになったのかは分からない。それも高校生活のことではなく、もっと先のことで思い詰めているのだ。奥行きのある森に迷い込んだ心だけが確かだった。
神様が朝陽の考えを弄んでいるみたいに脈絡がなかった。あるいは、ずっと考え続けたことをついに我慢しきれなくなったのかもしれない。
僕に分かるのは、朝陽の火が不安定に揺れていることと、今にも消えてしまうそうなことだけである。手で覆って、せめてもの風除けになれればいい。
いずれ僕が朝陽の負担になるときが来ようとも、今このときだけは味方でいることを伝えたかったのかもしれない。
「よりどころなんだ」
消え入りそうな声で朝陽は僕に訴えた。
「僕が近くで一人暮らしをすれば、ここに入り浸ってもよくなるかな」
「はは、なにそれ、できるの?」
朝陽の声は始終穏やかだったが、心はきっと張り詰めて叫んでいたろうと僕は想像する。あまりにも実現不可能だから彼女はたったいま笑ったのだ。
僕は朝陽を抱きしめる力を強めた。それが何かの代わりになればいいと思った。僕に僕などなく、いつだって何かの代わりでしかない。
「できちゃったよ」と笑いながら朝陽の病室を訪れたのは、それから一週間後の放課後だった。