別に神様から許される必要なんてなかった気がする。   作:ぞんぞりもす

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高1-3

 ファッション誌をめくっていた朝陽は僕の話に絶句した。天井から降り注ぐ淡い光を受け、朝陽の目は黒い満月みたいに見開かれた。

 

「え……私なんにも聞いてないよ?」と朝陽はようやく言葉にした。

「なんか祖父が知り合いに掛け合ってくれたみたいで」

 

 幸運な早さと言えるだろう。韋駄天や赤兎馬に並んで歴史の書物に記録されてもいいとすら言える。

 下見をろくすっぽしていないこと、提出する個人情報や審査を両親の友だちが融通してくれたことが大きい。僕がわがままを言うことなんてほとんどないから、最初は反対していた両親も、協力するとなったら全面的に協力してくれた。「本当に大丈夫?」と一言心配されたくらいだ。

 

「両親づてに話が入ってきてもいいと思うんだけどな……わたし本当に何も聞いてないよ?」

「そりゃ朝陽のご両親に伝える時間すら惜しかったんだよ。とんとん拍子で話が進んじゃったとはいえ、準備するものはそれなりにあったから。だから慌ただしくてお見舞いも通話も疎かにしちゃったでしょ?」

「それは……うん。寂しかったよ。このごろどうしちゃったのかなって。考査の時期でもないし小テストに君がそこまで準備をするとは思えないし」

 

 朝陽は声のトーンを落とした。まっくろな水晶も声につられてファッション誌に落ちる。朝陽の指はいまだに紙面の薄い一枚を挟んだまま動かない。

 

「とっても嬉しいけど……でも欲を言えば教えてほしかったな」

「ときどきサプライズがあってもいいだろう? マンネリ防止だ」

 

 本音を言えば、連絡するかどうかかなり迷った。けれど確定させてからのほうがいいと僕は判断した。なぜなら、彼女はすでに何度も期待を裏切られておきながら、それでもなお期待することをやめられない性分だからだ。

 

「どうしよう。次はびっくりしすぎて心臓止まっちゃうかも」

「君が言うと冗談に聞こえないな」

「私の心臓は一度止まったら二度と動かないから気をつけてね」

「僕もだいたいそうだから安心してほしい」

 

 あはは、と朝陽はそこで初めて笑顔を見せた。無垢と言うには寂しさの滲む笑顔だった。彼女はぱらんと薄い雑誌を閉じてベッド脇に寄せ、両腕を広げる。

 意図を察した僕はベッドに片膝を乗せた。力強い抱擁だった。寂しさを埋めるために、心の奥底に僕の体温を行き届かせようとするために、朝陽は僕を逃さない。

 

 僕の制服よりもやわらかい生地の病衣は、そっくりそのまま彼女の心が表出したみたいな感触と色合いだった。

 

「初めての一人暮らしだよね」と耳もとでくぐもった声がする。僕の肩に顔をうずめている感触がある。

「うん」

「そんな一世一代のことを勢いで決めちゃっていいの?」

「大決心をしたんだよ。むしろ勢いなしじゃ決められなかった」

「……確かに。じゃあもう今日から?」

「うん。帰ってもご飯は用意されていないし、掃除も洗濯も全部自分でしなくちゃいけない」

「私が退院したら手伝ってあげる」

「住み着く気満々じゃん」

「そんな妖怪みたいに言わないでよ」

「一人にしてはちょっと広いんだ」

「先見の明があるね」

「分かりきってたから」

「私に愛されてるって?」

「うん。ずぶずぶの同棲がきっと始まるって」

「恋の予感だね」

「もうしてるんだよなぁ」

 

 あははと朗らかに笑い、朝陽は最後に一度ぎゅっとしがみついて、離れた。正面に捉えた朝陽の顔は心なしか赤かった。目が合うと照れくさそうに笑った。彼女がはにかむのは珍しくて、僕は次の言葉をかけるのが若干遅れた。

 

「……何を読んでいたの? ファッション誌だっていうことはなんとなく分かったんだけど」

「ちょっと見てみれば分かるよ」

 

 朝陽から手渡された雑誌は、リュックに入れている文庫本よりも薄かった。それとカラフルだった。

 斜め読みするつもりでめくった。夏の特集が組まれている。

 

「売店で買ったんだ。いい水着ないかなって思って」

「水着? なんでまた」

「ほしくなったんだよ。夏近いし。プール行けたらいいなって思ってさ」

 

 朝陽の体調を思うに、今年は少なくとも無理である。どこからかやってきた重い空気に僕は確信を深めた。でも僕たちはそんなこと口にしない。希望が叶うかどうかでなく、希望を持てるかどうかが重要なのだ。

 

「海でもいいかな。けっこう近いんでしょ?」

「ここからは遠いよ。実家のほうが近い……車で三十分くらいかな」

「げ、思ってるよりも遠い」

「海はあっても海水浴場は少ないからね」

「そっかぁ」

 

 朝陽は天井を仰いだ。朝陽の喉笛は白かった。

 僕の目には、そのうち水着でなく他の衣類が飛びこんだ。これは下着だ。

 

「下着もほしかったんだよ?」

 

 目ざとい朝陽がこれみよがしににまにまする。手が伸びてきたので僕はとっさにページを変えた。

 

 僕からぺらぺらの雑誌を取り上げた朝陽は、どこに何が書かれているのかを熟知しているみたいに、手早くそのページを開いて僕に見せつける。

 僕は「う」と少しのけぞった。

 

「自分で見たらどうなんだ。僕が見てもしょうがない」

「反応がいいやつを頼もっかなーって。私きみの好きな色よくよく考えたら知らないんだよね。やっぱり黒? それともデザインでそそる感じ?」

「こらこら、自分でほしいの買いなよ……」

 

 朝陽は自嘲するように鼻を鳴らして、いやにゆっくりとページを閉じる。もういいらしい。それから、表紙を飾るモデルの体を一人二人と親指でなぞった。

「本当はね」朝陽の声は先ほどまでの明るい感じから一転して、異様なおどろおどろしさで耳を打つ。

 

「年に一回、特別な人に見せるための水着を買いに行きたいの。水着だけじゃなくて、服も、下着も。その人のために、その人のことを思いながら、選んで、買って、見せてあげたかったの。それすら私には難しい夢なの」

 

 朝陽の肉体は軽い。ともすれば天国に行くんじゃないかと思ってしまうほどに。心にも体にも翼が生えているような彼女はとても頼りなく映る。

 

 僕には分からない。学校に通うことと、ショッピングモールで買い物をすることの違いが。

 中学時代にどこかへ行くためには親の送迎が必須だったけれど、高校に上がった今であればある程度は――。

 

「そういえば君は、駅に併設されたカフェとかに立ち寄らなかったよね。ときどき文房具を買いに行くくらいだったかな」

「どうしてだったと思う?」

「最初は不思議に思っていたけど……そのうち、疲れるからかなって思うようになっていたね」

「まぁ、だろうね。私も、君がそんなふうに考えているんだろうなって思っていたから黙っていたわけだし」

 

 GPSなどだろうか。

 朝陽と彼女の両親は、間違いなく安全面への配慮の度合いが違う。朝陽の両親のほうが配慮(束縛)がすごい。一方でその彩度、明度は日によって違うように見受けられる。

 

 僕が先ほど挙げた学校もショッピングモールも、どちらも不特定多数への接近である。けれど

朝陽は前者を許されて、後者を許されていない。

 誰の判断かを音にしてしまったら、僕はその人を呪い殺してしまうと思った。たいていは親の意向が子どもの意向だ。安全面への配慮、心配だから、なんて言葉によって進路を定められる。そしてその自分(両親)の心配を和らげるために、僕らは縛られる。

 両親だって人間だ。大人だけれど、人間だ。この世には、成熟した人間がとても少ないと思う。

 

 子どもは両親の腹から生まれる。でも、へその緒が切られても、鎖は繋がったままの子どもがいるのだと思う。オブラートに言えば防護装置だ。じゃらじゃらうるさい冷たい金属は、当分の間僕らをそこに留め続けるだろう。

 

 籠の中の鳥は大空を夢見るものだ――なんて言えるわけもなく。言葉の隙間で心だけがひとり虚しく踊っている。沈黙は募る一方だった。

 

 彼女の病は奇妙だ。ご両親の判断も奇妙だ。

 そういったあれこれを聞き出そうとは思わない。僕が聞き出そうとしないからこそ、変に吹聴する心配がないからこそ、僕は朝陽と関われているのかもしれないのだから。

 

「いつか海に行けるかな。でも許可なんて下りないよねきっと」

「医師からの許可? それともご両親からの許可?」

「どっちも。立ち塞がる狼にも虎にも勝てるわけないじゃん。私はか弱い女の子だよ?」

「でも人間だから知恵がある。僕たちはいつだって許可なしでやんちゃしてきたじゃないか」

「そんな落ち着いた口調でやんちゃしてきたなんて言われても信じられないなぁ」

「胸に手を当てて記憶の泉に飛びこんでみるといい」

 

 朝陽は本当に胸に手を当てた。ご丁寧に目まで閉じている。

 少ししてからゆっくりと目を開いて僕を見つめた。淡いほほえみが浮かんでいた。

 

「泉は冷たいのにあたたかかったよ。思い出の温度がした」

「いつか水嵩が増すことを祈ろう」

「そのへんびっちゃびちゃになって怒られそう。知ってた? 植物って水を与え過ぎたら根腐れするんだよ」

「そのときは僕も一緒に腐るから安心しなよ」

「安心する要素どこよ」

 

 ははは、と僕たちはやわらかく笑いあった。僕は出し抜けに「君にはオレンジ色が似合うよ」と言った。どうして朝陽にはオレンジ色が似合ってしまうんだろう。黒や紺が似合うほうが、背負わされたものにふさわしいのに。パステルカラーが似合う人に、濃密にまとわりつく影は似合わないよな。

 朝陽は目を丸くした。

 

「え?」

「なんでもないよ」と言って、今度は僕だけがやわらかく笑った。

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