別に神様から許される必要なんてなかった気がする。 作:ぞんぞりもす
靴も脱がずに言葉を交わし、それが一区切りついたころ「あがってもいい?」と朝陽は首を傾げる。彼女は僕の背後に目をやった。
「いきなりだし手土産も何もないんだけどさ」
「いいよ。昨日もらったし」
「あれ東京で有名なお菓子なんだよ。おいしいよ」
「へぇ……食べる?」
「なんで渡した本人が食べるの! でももらう!」
朝陽は昨日と打って変わって、屈託のない笑顔を僕に向ける。利口そうな瞳の奥に喜色の輝きがあった。
僕は休日はもっぱら読書を嗜んでいて、だから「なにする?」と朝陽から尋ねられたとき、とっさに答えることができなかった。ドッキリ企画などで見知らぬ土地に降ろされた人がそうするように、思わずリビングを見回したほどである。
朝陽は埃を被ったスイッチに目を留めた。それは僕の誕生日に両親が贈ってくれたものだった。
ドッグに埃が被っていたので、もちろんジョイコンにもソフトのケースにも埃が被っていて。僕らはジョイコンの充電が終わるまで、ウーロン茶とお菓子をつまんでいた。二人とも会話のペースを探っているふしがあって、まだどこかぎこちない。それがすっかり打ち解けたのは、ゲームを始めてからだった。
僕は複数人で遊べるゲームソフトをあまり持っていなかったけれど、たまたまあったマリオカートを一緒にやった。
「ジョイコンで遊ぶのなんてすごい久々」と朝陽は語り、話を聞くと、どうやらかなりのゲーマーらしい。
「プロコンっていうね……純正品の……あー、なんて言えばいいのかなぁ。ゲームをやり込んでいる人なら絶対に複数個は持っているコントローラーがあるの。それでいっつも遊んでて」
そう口にした朝陽はどこか居心地悪そうだった。
病室でやっていることに後ろめたさがあるのだろうか。それともみんなが授業に出ている中、そんなふうに遊ぶことに罪悪感を覚えるのだろうか。
僕は小学生だったときに早退を数えるほどしかしたことがないので、むしろ早退が決まったときは、保健室で「家に帰ったら何を読もうかな」などと考えたものだ。もちろん体調が終わっているから早退するのであって、僕の試みはすべて画餅に帰した。夕方に布団の上で後悔するのだ。僕の完璧な計画はこんなはずじゃなかったのに、と。
もしかすれば、早退や欠席を何度も経験するうちに、僕のような浅はかな弾み方をしなくなるのかもしれない。さながら社会人が――これはなんとなくの想像でしかないのだけれど――会社を休むことを申し訳なく感じるみたいに。
ところで、朝陽がゲームをやり込んでいる理由を聞いてみると、彼女は液晶テレビから目を離さずに「入院中にやれることって限られてたから」と素っ気なく答えた。その間もずっとコントローラーの音が聞こえていた。
朝陽は最初、スマホをリビングのローテーブルに置いていた。やがてそれをバッグにしまった。僕は彼女がバッグから顔を上げたタイミングを見計らって声をかける。
「据え置きのゲームって病室に持ちこんでもいいものなの?」
「長いから許されてた」
「へぇ」
「スマホゲーは通信量食うし、3DSみたいな携帯ゲームで新しいのってもう出なさそうじゃん? だからそういうので遊ぶよりは~って、看護師さんたちもときどき遊びに来てたよ」
「えっ看護師さんとゲームしてたの?」
「ときどきね、ときどき。でも『みんなには内緒だよ』って、みんな言うの。あれ絶対裏でみんな知ってたって」
朝陽はいろいろな人から気にかけてもらえていた事実を、やわらかい言葉と口調と表情と声音で語った。
彼女はおそらくこの瞬間に、彼女の過ごしてきた春を、返却されたワークのようにぱらぱらと記憶の中でめくっていたのだと思う。次第にそれは後半へいき、一ページずつ正確にぱらぱらすることができなくなり、あるとき突然ぱたりと背表紙が現れる。刻一刻と現在に置き去りにされていく過去は、今だ。僕は彼女にとって解きごたえのある問題となれているのだろうか。似ているとか、思ったくせに。
画面の右側をぼんやりと見つめる横顔は寂しげだった。
僕は少しだけ距離を詰めて座る。ズボン越しに伝わってくるラグは、冷たかった。朝陽は僕に目配せをし、「ちょっとぉ」と唇を不器用に歪めるような笑みを形作った後、冷たさを共有した。触れ合った腕から伝わってくる体温が、お日様みたいに感じられた。
僕は春休み中、そんな生活がずっと続くと考えていた。だが急に途絶えた。なぜなら入学式の直前に朝陽が倒れたからだ。
僕は丈夫で、病院のお世話になったことがほとんどない。だからきょろきょろしながらロビーを抜けて朝陽の個室に向かった。
病院内には生ぬるい温度の空気が充満していた。廊下の光はやわらかく、あたたかい。
いきすぎた刺々しいまでの清潔と薬品のにおいが混ざっている。死には程遠い、内ポケットに押しこめるくらいの希望を感じさせるような感じがする。そんな治療で……むりやり人を生きながらえさせるには必要十分の、優しく、でもどこか死と類縁の香りがする。僕は廊下で何度かえずいたが、幸いなことに誰からも心配されなかった。
朝陽はベッドの上で静かに本を読んでいた。最初に僕に視線を向けて、それからゆっくりと顔を上げた。
見慣れた私服じゃないからか、それとも病衣がとても淡い色味のせいか、朝陽は吹けば飛んでいきそうだった。
「お見舞い?」
「うん。どこ置けばいい?」
「そのへん置いといていいよ」
「うん」
朝陽は「わざわざ来てくれたの?」と、ちっとも嬉しくなさそうに言った。
「行ったほうがいいかなって。一緒にゲームしたし。でも祖父を待たせてるから長居はできないかな」
「祖父って……えぇ? まぁいいや、分かった」
僕たちのやり取りは一年後の天気を話しているみたいだった。朝陽にとって、体の脆弱性はすでに長い時間をかけて肉に馴染み、ときおり思い出したように存在を訴える存在らしかった。
やはり肉体よりも人間を鬱陶しく思っているように感じられる。僕は朝陽の、闇に取り憑かれたような瞳を観察した。宝石というよりも黒い満月みたいで、どうしても魅了されてしまう。
「この本、知ってる? 『君の膵臓をたべたい』」
「あぁ、うん。読んだこともあるよ」と僕は朝陽のベッドに近寄る。「僕には難しい話だったけれど」
「えぇ? そう? 主人公が最後に泣くのとかさ、夜にホテルに行くのとかさ、よかったじゃん」
「憧れてるの?」
「……どうだろう。頭の中ではたくさん考えてきたけど、やろうっては思ったことないかな。だって一人でやってもしょうがないんだもん」
表紙を撫でていた朝陽の手が唐突に僕の腕を引っ張り、煎餅みたいに硬いベッドに僕らは並ぶ。近くのテーブル端には『恋する寄生虫』や『さくらのまち』『今夜、世界からこの恋が消えても』『恋に至る病』などが積まれていた。寡聞な僕には馴染みのないタイトルが多かった。
それから少し、話をした。つるつるの本の外側を手でさするみたいに、心の外側を流れていって、浸透しないような話を。
僕らは心のどこかでは生きづらいと叫びながら、なんとか周囲の人と同じ規格の人生を歩もうと、自分の形を拡大縮小、捻じ曲げながら生きていて。多様化した常識とたくさんの思想に窒息しそうになりながら生きていて。
毎日キャパオーバーすれすれの低空飛行。もっと高く飛べたら、その景色の雄大さに胸を打たれるだろう。
でも、無理だった。
僕の積載量は少なかった。常識の空気を呼吸していると、なんだか自分がすり減っていく感じがした。合わせたいんだけど、合わせようとすると、なんだか苦しい。常に車道を歩いているような、でもその車道には車両がぜんぜん来なくて、ただ不安なだけみたいな。
僕はまた吐きそうになった。
僕らはさ、手のひらに収まるくらいの幸せで十分なのに、身分以上の問いかけを重ねられて疲れているのかな。
「え……?」
朝陽はまじまじと僕を見た。そうして僕らはしばらく見つめ合って、不思議そうな顔で揃って首を傾げたのだった。
長居するつもりはなかったのだけれど、気づけばけっこうな時間が経っていて。話が弾んだわけではない。無言すぎたわけでもない。
ゲームをしているときのようなキャッチボールが続いたと僕は記憶している。ただ、そこからゲームによる物音を取り払ったのだから、静けさの多い時間なのは想像にたやすい。
だがそこには居心地のよさみたいなものがあって、しまいには足が貼りついてしまったのだ。密度の大きな時間を過ごしたと僕は満足していたし、口にすると「私も」と朝陽もほほえんでくれた。
僕がのっそり立ち上がると、「今度は私が見送る番」と朝陽は張り切り、ベッドから足を出す。
「生きているだけでこんなふうにしわが寄る」
シーツを指さして言った僕に、朝陽はため息をついた。
「君さー」
立ち上がった朝陽はそこでふらついた。中学に上がったばかりの僕の体はまだ完成されておらず、ふらついた彼女を抱き止めた僕もふらついた。
腰をそらして踏ん張って、転ぶのはこらえる。この瞬間から僕たちの歩き方は決まったのだと思う。薄い体は、桜の花びらとよく似ていた。季節は春だった。でもまだ桜は咲いていなくて、死ぬまでには当分の猶予がありそうだった。
僕は病院の自動ドアを、行きと同じように一人でくぐった。
病院から吐き出された風がうなじを顎にかけて抜ける。ちょうど自動ドアが閉じたとき、僕は病院を振り返った。
人の営みがあるはずの高くかたい箱は、夕日に照れされていた。静かにそびえていた。彼女はたぶん、一人だ。
死に近い場所にずっといたら、いずれ気が狂ってしまう。
春といえども夕方は冷え込む。僕は自分の体を抱いて身震いした。
一歩踏み出した僕は何か恐ろしいものに追われているような気がして、祖父の待つ駐車場まで走った。一心不乱に、朝陽のいる場所なんて振り返ることなく走ってしまった。
車がロータリーを回って出口へ向かうとき、僕は後部座席の窓から自動ドアを見た。病室の窓を見上げることはできなかった。
自動ドアはなんにもなっていない。先ほどの僕は、ドアが勝手に開いて、黒い触手の軍隊が迫ってくる想像をした。誰に言っても誰にも分かってもらえないような想像をかき消して街を見た。
街は橙色のオーロラに包まれていた。朝陽によく似合う景色だと思った。彼女は今、気が狂いそうな箱の中で安静にしているはずだ。
最初は五円玉の穴を通れたはずの絶望は、気がつけば、車を降りた僕の影くらいの大きさになっていて。そしてぴったりとついて歩くようになっていた。
「アマゾン」と僕は呟いた。僕がネットショッピングをするには、親のケータイを借りなければならなかった。