別に神様から許される必要なんてなかった気がする。   作:ぞんぞりもす

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高1-4

 夏休みは僕も朝陽も帰省した。僕は久しぶりに緑に囲まれたので、静寂に囲まれるあの感じを懐かしく思った。人の立てる物音は僕を妨害することがしばしばあった。

 

「都会の喧騒と緑の喧騒だと、緑の喧騒のほうが優しいと思わない?」

 

 家までのアスファルトを歩きながら、僕は朝陽に問いかける。

 

 照りつける日差しが不健康な二人の肌をじりじり焦がした。

 歩幅は小さく、速度もゆったりめで。僕たちは並んで歩く時間を引き延ばそうとしていた。それでもどうしたって遠景は近づいてくる。

 風によって青田に波が生まれ、まだ青い稲の先と木の葉が音を立てる。膨らんだ風船がぱちんと弾けるみたいに、一瞬にしてセミの大合唱が脳内を一色に染め上げる。

 

 朝陽はしばらく「えー」「うーん」と悩ましげな声を出して、「分かんないかも」と照れくさそうに笑った。

 白い頬が陽光を照り返す。僕はその輝きを久しぶりに見た。なんだか悲しいことに思えて仕方がなかった。高校に上がってからの彼女は、ほとんどの時間を病室で過ごしていた。僕の記憶の中に、病室の中に、彼女は閉じ込められている。彼女はいつももっと、人工的な白い光を跳ね返して笑っていた。

 

 

 家に帰って夕食やら風呂やらを済ませて課題を進めていると、不意にライン通話がかかってきた。朝陽からだった。

 緑色をタップしてスライドした途端『花火がしたいの』と聞こえてくる。こんなに活発な声を通話で聞いたのは久しぶりだ。病室じゃなくて自室だからだろう。

 

「花火?」

『うん』

 

 通話をスピーカーに変え、スマホをローテーブルに置く。声が天板を震わせるせいで音が大きくなったように感じた。

 でも実際は、彼女は声を落としていた。

 

『もっと言えば花火大会に行ってみたい』

「花火大会かぁ」

『でも心臓びっくりしちゃうから行かないほうがいいのかもって思ってたり。人ごみで倒れたら大事な服が踏んづけられちゃうし、もしも何かあったら、今度こそ本当にずっと幽閉されちゃいそうで。なんか今ぴりぴりしてるんだよね。私の体があんまり思わしくないから』

「本人はけろっとしてるね」

『本人より周囲が事を荒立てるのなんてよく見てきたでしょ』

「学校での人間関係とかね」

 

『そう』という朝陽の声はやけに冷ややかだった。容態について話すとき、朝陽は両親に対しての嫌悪を隠そうとしない。彼女には彼女の経験と感情と考え方――たとえば何を大事にするかとか――があるから、僕はこういうときはそっとしておく。

 同様に、愛娘を、それもたった一人の娘を大事にしようとする両親の気持ちも分からなくはないので、朝陽に寄った発言をすることも控えている。両親がそれくらいしかできないことを、僕だって重々承知はしているのだ。

 

 かりかり、きゅる、さー、と紙面を滑るシャー芯は多様な音を立てた。ノートやワークを押さえるとき、手に触れた紙面の冷たさに驚くことがある。夏は天然の氷として、冬は忌々しい雪として、冷感は記憶にこびりついている。

 

『……ふぅ』

 

 血流に乗って体内を巡る毒を少しは吐き出せたのか、四角い端末越しに朝陽の雰囲気がやわらかくなる。

 

『考えてみてもほしいんだけどね』

「うん。考えようか」

『高校に入ってから私ほとんどずっと外出てないでしょ? 思い出が何一つないんだから、この夏にせめて少しくらい作っても天罰が当たらないと思わない?』

「そう……だね」

 

 目は文字を舐めていくばかりだった。問題文が心を滑り読解できず、文字列がぐらぐらと震え出す。

 

 僕が感じているのは、怒りか、あるいは深い悲しみか、裂傷によって流れ出た血が冷えていく感触だった。お前との日々は思い出と名付けるには刺激が足りないと言われているみたいで。僕は精いっぱい彼女のと時間を作っていたつもりだった。

 

 思い出とは本来、僕と朝陽と世間の繋がりとを指すのだろう。僕と朝陽がそこにあるだけでは日常だ。そこにちょっとした世間という刺激物、調味料を足せば思い出という料理ができあがる。

 日常と思い出。ハレとケみたいなものだ。僕はどちらがより特別かを判断する能力を持たない。どっちも特別、なんて御託はどうでもよくて。僕はきっと朝陽の両方を占有したいだけなのだ。醜い独占欲に、また一つ自分が嫌いになった。

 

 朝陽が僕を占有する分には構わないが、逆は駄目だ。僕にはそんな固定観念がある。

 

 本来であれば、高校一年の半分が虚無になっている朝陽の境遇に悲しみを覚えるべきなのだろう。僕は駄目なやつだ。

 

『――でさ、もしもおばあちゃんになったときに自分が何も覚えてないのって嫌じゃない? ねぇ聞こえてる? おーい』

「うん、聞こえてるよ。静かに話聞いてただけ」

『考え事してたんでしょ。相槌ないからすぐに分かったよ。君って話聞いてるときいっつも相槌打つから』

 

 気がつけば紙面が熱を持っていた。手に汗をかいたせいで紙が変に歪んでしまっている。僕は指の体操をしながら、「そうだね」と適当に流した。

 

「自分が年老いたときのことを考えるのは……なんだろうな、寂しくない?」

『うーん、どうだろ。分かんない。ていうか君にも寂しいなんて感情あったんだね』

 

 からからに干からびた雑巾を絞るみたいにして捻り出した言葉が、朝陽の耳には異様な調子で響いたようだった。僕がこれを口にしたのは、一般的にこの場合には寂しいと言うべきである、と人生経験が囁いたからだった。けれど僕の言葉でないことは瞬時に看破されてしまった。

 朝陽の声は朗らかに僕の耳まで届いた。

 

『私がおばあちゃんになったら、おじいちゃんになった君がいるんじゃないの? だからあんまり寂しいとかはないかも――えっなに、まさか先に死ぬ気? それは私に譲ってよ! ほら、キャラクター的にさ?』

「死のイス取りゲームなんて嫌すぎるんだけど」

『空席の目立つイス取りゲーム』

「注文の多い料理店みたいな語感で言われても」

『宮沢賢治の隠れた名作なんだよ』

「あぁうん、隠れた名作だね」

 

『流したな!?』という大げさな声に二人そろってぷくぷく笑った。

 

 朝陽の境遇で明日が続くことを当然と考えるのは奇妙だった。

 老いてもなお翌朝を迎え続けると信じられるのは異常だった。

 

 僕には朝陽の言葉が一種の決意であるように感じられた。

 死と清潔が撒き散らされた病院で長いこと過ごしていれば、自分に明日があるのだろうかと考える夜は、一度や二度ではないだろう。それなのに、なぜ朝陽は絶望の黒に染まっていないのか。どこで光のどん底を捉えたのか。不思議でならなかった。

 

 僕には朝陽の願いを叶えることが急務であるように思われた。

 

「祖父が町内会の景品で花火もらったって言ってたけど」

『ほんと!?』

 

 朝陽は食い気味に反応を返した。両手をテーブルについて前のめりになっている姿がありありと浮かぶ。

 次の朝陽の声は控えめな調子だった。

 

『今度お父さんたちがいない夜にそっち行くよ。ついでに泊めて』

 

 昔は寛容だったのに、と思う。両親の寛容はおそらく、朝陽が持ち直したときに再び訪れるものになるのだろう。

 

「泊めるのはちょっと……僕が泊まるならたぶん大丈夫」

『じゃあ君んちで花火して私の家に行こう。私んちの前に証拠残したくないからさ』

「おっけー。それで行こう」

『作戦名は雨天決行で』

「運動会でしか聞いたことないな……」

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