別に神様から許される必要なんてなかった気がする。 作:ぞんぞりもす
作戦決行の夜は晴れた。朝陽はるんるんと弾むように、カエルの合唱を引き連れてやってきた。
Tシャツにショートパンツの気楽な服装は、きらきらと輝く夜空と澄み深まった夏の自然に彩られて、世界が彼女のためにこしらえた装置みたいにぴたりとはまっていた。
「お、二つも!?」
A3くらいの大きさを見て朝陽は目を輝かせた。本当は一つだけ用意して僕は見ていようと思ったのだけれど、気づいたらカゴの中には二つ入っていて、勘定も済まされてしまった。
一つを朝陽に渡すと、彼女は早速袋から取り出した。こういうとき袋を破かずに丁寧に裏面のビニールを剥がすあたり、朝陽らしいと思う。お歳暮やお土産の紙の包みもなんだかんだ丁寧に剥がしそうだ。
「水と蝋燭は用意しておいたよ。終わったら片付けの時間がほしい」
「いいよ。一緒にやろう」
庭先は暗いが、外灯の光が遠くからこぼれてくるので見えないほどではない。
朝陽は厚紙にはまったいろんな花火を見つめて、その中からやっと一つを選んだ。そして迷ったすえに大袋を敷石に置く。ちらと目を向けられ、僕も同じ種類のを出した。
「ちょっと! なんでチャッカマン持ってるの!」
「蝋燭は君のために用意したものだし、こっちのほうが早いから」
「風流に早さなんて求めちゃ駄目だよ! 侘び寂びが聞いたら泣いちゃう」
「泣いちゃう侘び寂び、もはややかましいよ」
「ひっどい貶した!」
着火すると、朱色のススキはたちまち石を焦がした。気の早い二人きりの秋を僕らは何度も生み出した。
そうして煙と願いを天に捧げて、トリである線香花火をしたときのこと。五本ある線香花火の三本を無言で楽しんだあと、朝陽は出し抜けに声を出した。花火の夜とは思えないしっとりした声音だった。
「私の命みたいだよね」
いつの間にか花火の音しか聞こえなくなっている。それも小さな、お城の中で姫様が立てるような音でしかない。
「すぐに尽きてしまいそうなところが?」
「ひっどーい! 私はそんな直接言わなかったのに!」
声が大気を震わせて、僕たちの間に収まる暗闇を弾き飛ばす。澄んだ声は澄んだ空のどこまでも遠くに響いた。お菓子を散りばめたような星空を見上げ、呼吸することで肺に満ちる空気が甘く、熱く、愛しいものに感じられた。
あまりに大きな声をあげたものだから、彼女が咳きこむ。咳きこんだ拍子に火の雫が地面に垂れ落ちた。火は走馬灯のようにゆっくりと尾を引いた。瞼の裏に軌跡を残して、やがて赤色が潰える。人が死ぬときもこんなふうに鮮烈にあればいいと思う。現実はままならない。
「あーあ、君のせいで消えちゃったじゃん! 君のも落ちろ!」
僕のはしばらく持ちこたえた。近く寄ってきた朝陽は「落ちろ」と連呼するわりに物理的な妨害はしてこない。
とうとう火が消えた。はしゃいでいた朝陽は黙り込んだ。
「小さく儚く、今を一生懸命に生きる希望の光だった」
「君さぁ……人を騙すのとか向いてそうだよね」
呆れまじりに喉を震わせた朝陽は、僕が彼女の横顔を見る前に離れた。闇と同じくらい深い色の髪の奥に、頼りない身体がある。
やわらかな音を立てて線香花火はバケツに飛びこんだ。バケツには多くの仲間がいた。独特の臭気が鼻を突く。
「詐欺師に向いてるって褒められても嬉しくないなぁ」
言いながら、最後の一本を取り出す。
朝陽と付き合っているとはいえ、僕たちの関係は押すことも引くこともないものだ。駆け引きなんて二の次で安寧を求めてしまうのは、子どもの恋愛だからだろうか、それとも疲れ切っているからだろうか。
あぁ、僕たちはそういえば付き合っているのだ。思い出さなければならないほど、実感は日常に埋もれていた。
最低限の愛情を伝えることすら難しい。僕は不意にそう思った。
「好きだよ」
朝陽は言葉の意味を取りそこねたように僕を振り返る。「今なんて言ったの?」と聞き返した朝陽の声には戸惑いの色があった。
「好きだって言った」
僕は朝陽の横を通って蝋燭に向かってしゃがんだ。朝陽はしばらく立ち尽くしていた。
突風が吹いた。僕はそれを蝋燭の火が消えた現実で認識した。遅れて、ぶつかるような衝撃。朝陽が僕を抱きしめたのだ。
顔にやわらかな胸が押し当てられ、甘い香りが脳で踊る。そう言えば彼女は、風呂上がりにはブラジャーをつけなかったなと思い出す。興奮よりも安心が先にくる触れ合いだった。抱きしめられただけで感情がせり上がってくることが、あるのだと思う。
これはきっと幼少期に与えられるべき体験だ。しかし僕の記憶にはなかった。
僕は両親から愛されていたが、愛を受け取る僕の能力が欠落していたせいで、おそらく特別な体験として記憶できなかったのだろう。その気付きを悲しく思う能力すら持ち合わせていないのだから、薄情だ。こういうことを思うたび、自分は駄目なやつなんだって脳に刻まれる。
夜の闇は遠くから僕たちを見守っているみたいにあたたかかった。こんな日は、暗いのも悪くない。
抱擁のきつさや勢いに反して、僕らはやわらかな心をひたと寄せ合うような時間を共有した。
「私は大好き」
朝陽は耳もとで囁いた。慈しみのこもった声だった。
やがて朝陽が離れ、「あっ」と彼女は蝋燭の火が消えていることに気がつく。
「チャッカマン持ってきててよかったね」と僕はからかうように笑った。
「なんか反応してよ。抱きしめたのに」と朝陽は口を尖らせる。
「いや、なんて反応を返したらいいのか分からなくなっちゃって」
「照れてくれればいいよ。最初のほうとかちゃんと焦ってくれたじゃん。普段は全然そんな感じしないのに私のことちゃんと女の子として見てくれてるんだなーって嬉しかったのに」
「……人のそういう反応で自分への愛情を確かめるのはよくないんじゃないかな」
僕はときたま、こういうことを言ってしまう。空気を凍りつかせる一撃がこらえきれなくて、何度後悔しただろう。
朝陽は「あはは」と笑い声をあげた。それから「確かに」と頷いた。彼女は僕の心に火を分け与えるみたいに優しい調子だった。
「じゃあからかうくらいがちょうどいいのかな」
「……でも、人の愛情表現をからかうのもあれだね」
「難しいこと言うなぁ……。それなら、あれだよ。ちゃんと受け止めたあとにからかえばいいんだよ。そうすれば相手を大切にしたいって気持ちも、一方でできるだけしんみりしたくないって気持ちも伝わるでしょ?」
「既視感すごそうだけどそれ」
「いいから好きって言って」
そんな乱暴な振り方はあるかと思ったが、僕は大人しく朝陽の指示に従った。無心を意識しなければ心の温度が顔にあらわれてしまいそうだった。
はにかんだまま、朝陽は何も言わずにチャッカマンを握る。わざとらしく髪を耳にかけて僕の気を引いてきた。彼女がしゃがんだのに合わせて僕もしゃがんだ。
炎の勢いは弱かった。脆い熱と光だった。
朝陽はしんみりとした雰囲気をまとって、「私は大好き」と言った。
先ほどのやり取りからするに、この状況で僕にボケろと言ってきていやがる。僕もまたしんみりした雰囲気をまとって「うん」と頷いた。溜めを作ってから「自己紹介?」と惚けた。
「……今度そういうこと言ったら虫かごに閉じ込めるから」
「君がボケろって振ってきたんじゃん。そんな虫みたいな扱いしないでよ」
「虫みたいな、じゃないよ」
「ぼく虫なの?」
「虫けら」
「思ってた以下が来た」
「ひっどいなー。一寸の虫にも五分の魂だよ」
「なんで僕が貶したことになってるのか分からないけど、君が勝手に貶して、勝手にフォローしたんだからね。自分で沈没させた船を自分で引き上げたにすぎないからね?」
「最初に貶しておきながらプラマイゼロなら実質プラスでしょ」
「すっごい性格悪いプラス思考きた」
ぱちぱち弾けていた熱は徐々に衰え、やがて球を形作る。ぷっくりと膨らんだ熱い雫は、たっぷりと時間をかけて、重力に引き伸ばされて落ちた。
「君が沈没とか言うから落ちちゃったじゃん」
「理不尽だなぁ」
「君のも落ちろ! 沈没! 沈没! 沈没!」朝陽は片手を上げ下げして叫んだ。
「とんでもないコールだね……」
「イッキのコールに似てると思わない?」
「花火イッキとか人間じゃないって」
「君は虫けらだからいける」
「ここまで日本語通じない人初めて見た」
「私は君の初めて?」
話している間に火は潰えた。
「片付けるよ」
「私の片付け?」
「殺し屋かな――あぁもう駄目だこれ」
このままじゃ朝陽のペースに飲まれて話が進まないと思ったので、僕は話を切り上げて立ち上がる。朝陽は焦りの声を上げながら僕を追った。
一時間ほど経っていた。
実感として疲労はある。勉強を済ませ、昼食を用意し、好きな本の世界に羽ばたき、花火をしたのだから。体は疲れていて当然だ。
けれど、心が充実していたせいか、体と心の疲労感の訴え方が違うのが不思議だった。
心に牽引されるみたいに重い体を引きずった。もしかしたら、追いついてから実際に僕の手を引いてあちこち動き回ってくれた朝陽のおかげなのかもしれなかった。
二人とも片方の手が塞がっていたので無駄に往復したのだが、そんなことは気にならなかった。
片付けを済ませて朝陽の家に向かうとき、「さすがに体を洗い直さないといけないから」と言われて僕は着替えを準備した。
リュックを背負って玄関を出ると、朝陽は星を見ていた。
「もう一着、服とズボンだけほしい」
「汚す用事でもあるの?」
「私が着たいから」
僕は朝陽をじっと見た。奥にある草木が外灯に照らされる。庭に入り込む朧気な光は周囲の暗さをより濃密にしていた。
僕をからかうような雰囲気は一切なかった。「わたし彼ティーしたいの」と、朝陽は月光のもと密やかにほほえんだ。