別に神様から許される必要なんてなかった気がする。   作:ぞんぞりもす

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高1-6

 風呂から戻ってきた朝陽は、部屋に入るなり自分の服のネックをぎゅっと握って、大きく息を吸い込んだ。それから堪えきれないと言うように笑った。

 

「私いま君のにおいが全身からするんだ……どうしよう、もう死んでもいいかも」

「月って綺麗だよね」

 

 朝陽は首を傾げてとなりに座った。自分の持っている服を彼女が着ているというのは、違和感として僕の目に映った。似合っているのだけれど、どうにも胸の底がくすぐられるみたいに落ち着かない感じがする。

 

 僕はシミュレーションRPGをしていた。胡座をかく僕の肩に朝陽はもたれた。

 マップのギミックがどうとか成長率のわりに渋いとか話しているとき、朝陽は不意に「逆じゃん」と言った。

 

「さっきの受け答え。逆なの全然気づかなかった」

 

 こういう、引っかかった事柄を考え続けて口にする能力は、人間関係で必要なものだと思う。朝陽がこんなふうに接してくれるから僕もまた同じでありたいと思えるのだった。

 

「せっかくなら花火大会にも行きたいな」

 

 朝陽は囁くように言った。寝る間際、暑い夜なのに体をくっつけた僕たちは、秘密の計画を進める子どもみたいに無邪気だった。離れたほうが効率的、効果的なのに、「そんなの知らない」ってぷいと横を向いて現実の感触を楽しむ愚かなおこないだ。

 僕らは賢いことを求められがちだけれど、効率と効果を突き詰めた先にある現実は、色彩の剥がれ落ちた何かだと思う。

 

「ここにもあるんだよね? 中学生だったとき、夏休みにみんな浮かれてたときがあって。聞いたらそうだって教えてくれたの。誘われたんだけど、その日はちょっと病院が……って言ったっけ」

 

 朝陽が上を向いた気配がした。

 

「言い訳として便利なんだよ。通院とか病院とかってワード。それだけで子どもも大人もだいたいみんな察してくれるの。そこで踏み込んでくる人もいるけど、そういう人とはたぶん合わないだろうな……みたいな指標にもなるし」

「来週の水曜日、確かあるよ。このへんで」

「ほんと」と朝陽は食いついた。

僕は「確か駅一つか二つくらいいったところ」と朧気な記憶を引っ張り出す。「海の近くだった気がする。僕も最後に行ったのは小学生のときだったから定かではないんだけど」

朝陽は僕に笑いかけて「行こうよ」と言った。

「僕は……僕は……」

 

 そのとき、不意の衝動が理性を出し抜いて、僕に口を開かせた。

 

「僕は人混みにいすぎると、苦しくて……頭がまっしろになって、呼吸がしづらくなる。体や脳に流れている血液が全部ミルクに置き換わったみたいに。それで乳化するみたいにどろっとして詰まって、でも何も掴めないって状態になってしまう。だから、あまり……。全校集会とかだって、ものすごく我慢している」

「……うん」

 

 仰向けだった僕の体に、朝陽がそっと体重をかける。

 まだ冷房のタイマーは消えていない。タオルケット越し、沈黙が心臓にめり込んでくる。朝陽は僕をそっと何かから守ってくれるみたいだった。そのうち、とん、とん、と一定のリズムで胸が叩かれる。

 

 僕はそれきり言葉を発しなかった。自分の感覚を口にしたときに何度もかけられた「なにそれ」「よく分かんない」という言葉を脳の中で噛みしめていた。噛んでも、噛んでも、それはガムみたいに無味無臭になるわけではなかった。いつまでも食感鮮やかに苦い。

 その記憶には嘲笑が含まれていなかった。でも僕はそのとき、確かに傷ついたのだと思う。理解されないのはいい。理解しようとすら思われなかったことが、悲しかったのだと思う。

 

 またそうなるのかなって思ったら、ため息がこぼれた。怖さを押し殺すための諦めの吐息は、ほのかな体温と湿り気を帯びた呼気だった。小さいころは、よくこんなふうにいろいろな物事をこらえてきた。

 

「なんか」と朝陽は言葉をこぼす。彼女は「うーん」と僕に触れる力を強める。「人混みが苦手なのは知ってたんだけどさ」と彼女はようやく口を開いた。朝陽の雰囲気はやわらかく、彼女の声を聞いた僕は真珠を撫でるような不思議な心地を覚えた。

 

「具体的にどんな感じがするとか、どれくらい苦手なのかとか、私は知らなかったんだよね。初めて聞いた」

「本当に、本当に、嘘じゃないんだけど……叫び出したくなるくらいに胸が内側から張り詰めて、弾けてしまいそうになることもある。周囲にたくさんの人がいるっていう、たったそれだけの状況で」

「その『たったそれだけ』は君の価値観じゃなくて、たぶん、君の中では大事(おおごと)なんじゃないかな」

「でも、社会はそれをたったそれだけと表現するから、僕の中でもそうなってるんだよ」

 

「うん」と朝陽は僕の頭を撫でた。それから「話してくれてありがとう」と言った。彼女の言動は、からからに乾いて土みたいになっていた僕の心に慈雨を浸透させる、辛抱強いものだった。朝陽は慎重に僕へ問いかける。

 

「今の話を聞いて思ったんだけどさ。普段は、どうやって我慢してるの? その……衝動? 気持ち? みたいなものを」

「普段は平気だし、なんていうか……普通、なんだよ。普通の人が普通みたいな感じで。でも僕の中には着実に何かが溜まり続けていて……我慢している自覚はないんだけど、ある一定の容量を超えたら、いきなり無理になる」

「でも、全校集会とかでは我慢している? さっきの話に戻るんだけど」

「僕がさっきそれを言ったのは……駄目になっちゃったあとの話。駄目になったら、なんにも頭が働かなくて、ただその場から逃げ出したくなる。それを必死に我慢している。ごめんね、ぐちゃぐちゃで。普段はもうちょっと筋道立てて話すよう心がけてるんだけど」

「いいよ。慣れないことしてるんでしょ、たぶん」

 

 朝陽はちょっとしてから「我慢してる自覚がないのに溜まっていくのは大変だね」と呟いた。僕にはそれが普通だったけれど、僕は彼女に合わせて「大変かもしれない」と答えた。ここらへんの話は、僕が端から話すことを諦めている部分だった。

 朝陽はゆっくりたっぷり時間を設けてから、「他には何かある?」と僕に囁く。

 

 僕は黙っていた。あるにはある。それこそ一晩では語り足りないほどに。でも僕の感覚は社会が定義する感覚から乖離している。彼女にこれを浴びせかけ続けるのは、毒の注射をし続けたり、毒ガスの中に彼女を居座らせるのと同じに思えた。

 

 彼女は穢されたがっている――社会に。僕の理解不能な考えに、ではない。そこを勘違いしてはならない。

 僕は彼女への誠意を示すために「あるけど君には言えない」と返答した。

「なんでよ」と朝陽はむくれたけれど、すぐに僕の意固地なところを読み取ったらしく、「そっか」と声を落とす。

 悲しげだった。彼女を悲しくさせたのは、僕だった。

 

「君のことを傷つけたかもしれないけど、これだけは譲れない。今は駄目なんだ。これ以上は駄目なんだ」

「いつか話してくれる?」

「どうだろう」

「勢いが増した日とか、お酒を飲めるようになったらとかかな。次に聞くのは」

「たぶん。そんな日来るのかな」

「分かんない。今のままでいられたら来るんじゃない?」

 

 朝陽の感覚とは異なり、僕は自分の心に正体不明の常識がじわじわ侵食してくるのが不快だった。だからその侵略を防ぐためにいくつもバリケードを用意して、がっちりと心を閉ざし続けた。せめてもの抵抗を続けながら社会に擬態してきた。

 

「昔から……何を考えているのかよく分からない子、と言われてきた。でも僕には、自分の感覚をきちんと言葉にしようと努めた時期があった」

「……うん」

「僕はこれまで、他者からの理解と共感を拒んだことはないんだ。ただ……社会が、両親が、僕の考えを分からないと言ったから。僕はその日からそうなったんだよ。人は学習する生き物だから」

 

 生きづらい、なんて。心の中でしか言えないことだ。リアルでは語ることの許されない邪神像だ。

 なぜならリアルの人は、生きづらいって言う人に冷ややかな侮蔑を浴びせかけるから。「みんな苦しいんだよ」とか「みんな頑張ってるんだよ」とか言って。常識の述べる苦しさとか頑張りとは別の軸のそれ(・・)を想定せずに、みんな口を開く。

 世間は思っているよりも優しいけれど、その優しさは限定的で、冷たいと思う。そして制度に宿る機械的な優しさを僕ら(・・)は享受できない。

 

 本当に生きづらい人は、誰にも何も言わずに、ひっそりと朽ち果てる。

 

「僕はきっとある一定の強度で、人を恨んでしまって――」

 

 僕の言葉は甘い香りに遮られた。誰かとキスをするのは初めてだった。ぬるついた感触と体温が、しばらく唇に留まる。朝陽の髪は長く、覆い被さられると視界が黒一色になった。わずかな明かりすら閉ざされた純粋無垢な漆黒が、今現在の僕の居場所。僕の頬にかかる彼女の髪は、僕がヘアオイルを塗り乾かしたもので、僕がこの世界にいたことの証明。

 普通の人はどんなとき、生きていると思うのだろう。自分の感覚を否定し続けた僕は、生の実感をさえ、自分に許すことができない。

 

 唇を触れ合わせている間は無音だということに、僕は初めて気がついた。キスはもっと水音がするものだと思っていた。

 

「これ以上は駄目。おかしくなっちゃう」

「もうなってるよ」

「じゃあ今以上に狂っちゃう。崖に落ちて行かないで」

 

 朝陽は内心では懇願していたのかもしれない。でも彼女の口調は始終落ち着いていて、僕に言い聞かせるようだった。鼓膜をくすぐる優しい声に、涙の色はない。そのことに僕は安堵した。

 朝陽は分かりやすく声音を変えた。

 

「人混みなんて人の展覧会だよ。両親や家庭という作者の作品みたいなさ――って思えたら、きっとずっと楽だったのにね」

 

 子どものころ着ていた服が小さくなっていることに気づいて、「もう着られないね」とほほえむみたいに。

 もう戻れないことに気がついたとき、人は寂しさを覚えるのかもしれない。僕は必死に考えてかんがえて、感情を解釈し続けることでしか、心の訴えを感じることができない。

 

 現実が僕を打ち据える。僕は体を横たわらせる。その連続。

 純粋な眼差しをお星さまへ向けて手を組み合わせるには、僕らはすでに現実を知りすぎた。闇は深く、道路は暗い。

 白い無邪気は社会に捻じ伏せられて、土の色を知った。でも、歩いたら歩いた分だけスニーカーが汚れるように、その汚れは距離の証明でもあると思う。

 

「なぜだろうと疑問に思う時期は過ぎてしまったんだ。何度自分に問いかけても、答えは一向に出なかった」

「そしてその問いかけは何度もなんども、他人からぶつけられてきたものでもあるんだよね」

「そう、そうなんだ」

 

 僕は勇者から打ち倒された魔王が心情を吐露するように、自分に最期の瞬間を与えてあげた。吹き込まれた命は、今日潰える。

 僕みたいなやつは合わない規格をむりやり合わせながら歩くしかないのだと思う。合わない靴で歩くのは苦しいけれど、その足跡は……たぶん、僕のものであるはずだから。僕の歩幅、僕の足の大きさでないとしても。

 

 朝陽はもぞもぞ動いて、僕の頭を胸に抱く。

 

「いつも私ばっかりでさ、君もときどきはわがまま言ってよ。言ってくれてもいいんだよ。言われないと寂しいよ」

 

「うん」と僕は頷いた。声を聞いたのは僕だけで、その音は世界の無音にすらかき消されてしまうほどに力なかったかもしれない。僕を包む朝陽の体温が世界の温度であればいいのにと思った。

 

「僕は……今の僕は、歪んでいることに甘えていたりはしないだろうか」

「歪んでいることに甘えているわけじゃないよ。私に甘えてるだけ」

「……うん」

「うん」

 

 朝陽の「うん」は、僕の沈み方よりもいくらか海面に顔を出した「うん」だった。そのうち気休めでも僕らは一緒に並んだ。

 翌週の金曜日、僕らは海に行った。

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