別に神様から許される必要なんてなかった気がする。 作:ぞんぞりもす
チャイムを皮切りににわかに騒がしくなる校内は、僕の背中に忙しなく音をぶつけた。その音は一ヶ月もすれば蝉の声でかき消されるだろう。窓から見える緑にはもう少し深くなる余地があった。
保健室には時間の流れがない。扉を閉めると、風景も音もレースのカーテンを通したみたいに遠のく。
毒々しい清潔と痛々しい静寂が広がる白い空間で、朝陽はベッドにくるまって眠っていた。今は五限が終わったころである。
彼女は僕たちが授業を受けている間、一人でここにいる。ぽつんと特異な空間に取り残されたような心地になるんじゃなかろうかと僕は思った。
「りく?」
「うん」
カーテンを開ける音で目が覚めたのか、いまだ寝ぼけた様子でなんとなく声を出す朝陽。彼女はゆっくりと体を起こした。ベッドには三次元の地形図みたいな生々しいしわが寄っている。
「よく眠れた?」
「うん……いまなんじ」
「五限が終わったところ。様子を見に来た」
「つぎ……数二だっけ。そっか。教室移動がないから」
「だね」
朝陽は灰色のまだら模様の天井を見て「三時間くらい眠ってたんだ」と呟いた。それから椅子の上にあるスクールバッグに目をやった。
「お昼……食べてる気力ないや。君がずっとここにいてくれるなら頑張って食べるんだけどな」
「さすがにそれはできないよ。君に教えないといけないし、授業にはできるだけ出たい」
「そうして。家に帰ってから食べるから。また教えてもらえると嬉しいな」
「構わないよ」
「えへへ、やった」と朝陽は弱々しく笑った。
高校二年に上がってから、朝陽の体調は一度安定した。一年前が嘘だったみたいに活発な様子を取り戻したのだけれど、今日だけは電池が切れてしまったのか熱を出してしまったのだった。
僕はなんとなくベッドの上に手を放っていた。朝陽はそれをもにもに揉んだ。そうしてぽつぽつと話し始めた。
ときたまの高熱のほうが生理よりもしんどいらしかった。油断していた分だけダメージが大きくなるらしい。朝陽は重々しいため息をつき「今年の夏はキャンプとか行きたかったんだけどなぁ」と呟く。彼女は僕が言葉を挟む前に続けた。
「この分じゃ頼んでも駄目そう」
「そんなこと言いながら、君のことだからこっそり行く方法を考えているんじゃないの?」
「陸空って私のことよく分かってるよね」
「どれだけ一緒にいると思ってるのさ」
「長い時間一緒にいても、相手を知ろうとする心がないと案外何も分からないものなんだよ。家族が何好きとか、君は分かる?」
僕が目をそらしたことにくすりと笑い、朝陽は「だよね。私もあんまり分からない」とほほえむ。
「栗林先生の彼氏さんが道具一式持ってるみたいで、もし行くなら貸してあげるよって。それに送ってくれるとも言ってくれてて」
「至れり尽くせりじゃん。どんな手を使ったの?」
「手よりも大きなものを使ったよ」
「体?」
「使っててほしい?」
「……いや」
「ふぅん。嫌なんだ」
「とにかく、行けるなら日にちを教えてよ。いろいろ調べておくから。キャンプなんて行ったことないし」
「八月の初めかなー。私のお父さんお母さんお盆前だからって仕事ばたばたっと片付けようとするだろうし、バレないと思う」
僕は養護教諭のデスクに置かれた小さな卓上カレンダーを見た。シルバーのノートパソコンが鈍い輝きを放っている。使い込まれているなと思って、まるで僕たちの命みたいだと思った。なんだかくたびれている感じがした。
それとよく似た色の曇り空みたいな声音で、朝陽は「こういうところだけ詳しくなっちゃったな」と言った。
朝陽は天井を見ていた。返答は求めてはいないのだろう。ただ、聞いてほしいだけなのだ。独り言の体を装いながら、でも、本当の独り言じゃなくて誰かに聞いてもらったほうが気が楽になる、みたいなことがある。
だからといって沈黙を引き伸ばしてほしいわけでもないだろう。こういうときはだいたい適当に聞き流して話を振ってほしいものだ。
なんでもない道路で宝石を見つけたとして、それを拾い上げてまじまじと観察しない配慮が人間関係には求められると思う。
「栗林先生の彼氏ってどこから話いったの?」
ふとした疑問を口に出せば、朝陽は意味ありげに僕を見た。だが僕はきょとんとした顔をしていたのであてが外れたらしい。彼女は「なぁんだ」と見るからに残念そうな顔をした。
僕は遅れて、栗林先生の彼氏に僕が妬いているんじゃないか、と朝陽が思ったことに気がついた。
「そういうんじゃないよ」
「話の流れからすれば妥当だと思うけどな……だって私の体は君のものなんでしょ?」
「心と財産もだよ」
「どうしよ私思ってたよりやばい男に引っかかったのかもしれない」
「今なら逃げられるんじゃない?」
「えぇ……だって私きみのところに逃げ込んできた日から羽がもがれてたでしょ? 知ってる? 羽のない鳥って飛べないんだよ」
「ダチョウみたいになったら?」
「この体で走れって? だったら媚びを売るよ」
「買い手は多いだろうね」
「持ち主が売るまで私は所有者のものだけどね」
朝陽は僕を言い負かしたことよりを喜ぶより、自分の運命を呪っているような、歪で深い笑みを浮かべた。
どこまでいったって僕は朝陽に特別な感情を抱いているのだ。鳥籠の扉を開けることはあれど、手ずから飛び立たせることなどないのだろう。
しかし僕は彼女に「好き」と言っておきながら、これを好きと名づけてもいいのか分からなかった。
特別だとは思っている。他の人に向ける矢印とは異なっているのだって分かっている。でもそれが僕にとっては、いくつも種類のある道路標識みたいに、名前は違うけど道路に何かが立っているな、くらいの感覚でしかない。
「感情に名前をつけてしまったら、それこそ自由な羽ばたきが封じられてしまう気がする」
僕は唐突に口を開いた。朝陽は何も分からないだろうに、目を見開いたのは一瞬のことで、すぐに「うん」と続きを促す。
「気持ちなんて遠くの標識みたいにぼんやり見えるくらいがちょうどいいと思う。でもそれは僕だけの感覚だって、僕は人生経験から把握してる。だから僕が感情を名づけるプロセスを誰かに伝えたことはないんだ」
「へぇ」と朝陽は言った。何かを考えているふうに中空を見つめている。僕は謝った。けれど朝陽は静かな語調で「ううん。むしろ話してくれてありがとう」と僕のおこないを肯定した。
誰かに受け止めてもらえると、僕は無性に泣きたくなる。息が詰まって内側から決壊しそうになる。でもここで自分の感覚を話しすぎちゃいけないと思って、僕は自分を律した。破裂しそうな風船を押さえつけることに慣れてしまっていた。臆面もなく泣くことが、僕にはできない。
朝陽は少ししてから、担当医の栗林先生と個人的にやり取りをしていることと、その中で互いの彼氏のことが話に挙がったことを口にした。
キャンプとかもしてみたいと言ったら、彼氏に相談してみよっかと提案されたらしい。
僕は六限のチャイムが鳴ってからも保健室にいようと思っていたのだけれど、まさかの担任が入ってきたので退散することにした。「おぉあ……いたのか」と言われてしまったら出ていかないわけには行かないだろう。
保健室で朝陽と先生が話す姿を、僕は何度か見たことがある。
先生の前の朝陽はいつも明るい。自由自在に光量を変えながら、暗くなることはないような感じだ。
彼女は僕の前でだけ、自然体に明るく自然体に暗くと気分によって振る舞いを変える。スポットライトの当たる位置が変わるというよりも、彼女が作り上げた小さく脆い心の隙間に僕が入り込み、密室で抱き合うみたいに朝陽の様々な部位に触れているのだと思う。
翻って、僕の目には先生が虚像みたいにおかしく見えた。
保健室にいる先生は雰囲気が変わる。授業を受けているときはぶっきらぼうに聞こえる先生の声も、大多数に向けて命令するみたいに威圧的に話す先生も、保健室のマジックにかかって声の調子を落ち着かせる。その演じ分けは杜撰で、ちゃんちゃらおかしな話だった。
ところで担任が来たのは修学旅行が近いからその話か、あるいは進路についての話をするためだろうか。いずれにせよ僕が又聞きしていい話ではない。
大事なことはきっと彼女の口から聞かせてくれるだろう。クラスメートと朝陽は絶対に違う。朝陽のほうが僕の中で比重が大きい。
僕は朝陽を待つだけである。僕が大学に進んで、働いても、朝陽との縁が続くであろうことだけは予想できるのだから。焦ったって意味がないのだ。僕は彼女がつらいときにできる限り、自分の能力の許す限り支える――そんな決意だけで十分だった。
お返しを求めない僕のこれは単なる奉仕精神などではなく、ただ、生きる手立てとでも言えばいいのか、背骨だった。僕は朝陽を中心とした生活に贅肉がついて彩りを与えられているにすぎないのだ。僕と朝陽の関係が不平等であろうと不公平であろうと不健全であろうと、それは世間から見た僕たちの形であって、内側から見れば関係がないのである。
一種の依存とも言えるだろうが、一つでは不安定な物質が二つ集まることで安定性の物質を作ることだってあり得ると僕は考える。