別に神様から許される必要なんてなかった気がする。 作:ぞんぞりもす
もしも何か起こったらすぐに連絡する。朝陽から目を離さない――もちろんこんな言い方ではなかったが要約すればこんな感じだった――といくつかの約束のもと、僕らは広大な自然に投げ出された。
実家と風景はほとんど変わらないのに、家が近くに見えないだけで世界に二人しかいないみたいに感じられた。
翼のない鳥は、鎖くらいなら外されたのかもしれない。
僕が言うと朝陽は心底おかしそうに笑った。「やっとだね」と、これから再び鎖がはめられることを想像していながらも、気丈に。晴天に響くウグイスみたいな声を聞けただけで、僕はもう満足していた。
昼を跨いでテント設営をし、それから昼食とも夕食ともつかないバーベキューをした。
金網に乗った瞬間から聞こえ始める音には、それだけで人をわくわくさせる力があると思う。想像が膨らんで手に持ったトングがかちかち鳴った。
「次は何にしよっかなー」なんて、朝陽のほうからはもっと激しい音が聞こえてくる。
歩くたび、下から草の絨毯が踏み分けられる音がした。靴裏から伝わる土の感触はやわらかく、けれどもがっしりとした大地の力強さを感じさせてくる。
視界の下を埋める草も、木々に豊かに実った葉も、どれ一つとして同じ色はない。張り合うことなく共存する姿が美しかった。その中を朝陽が動き回っている。
ぎらぎらと陽光を照り返す緑が目の裏を射抜いて離れない。夏本番を迎えた森の緑は深く、重かった。空の底では稜線が青く霞んでいた。
蝉の声が四方八方から聞こえて、耳の奥で膨らんで。大きな風船を弾けさせるみたいに朝陽の声と肉の焼ける音が届いた。激しい音の合間にそっと添えられるのは自分の足音だった。思考はまとまらないけれど、漠然とした快楽を遠目から感じるには十分だった。
僕は夏を満喫した。主語が僕たちであれば、もうこれ以上望むものはない。
紙のお椀にタレを入れ、そこに浸したキャベツを頬張りながら、朝陽は僕に口を開いた。
「高校二年生の私の夏は、今日始まって今日終わるんだ」
グリルが実体を失い、僕は遅れて言葉の意味を取りかねていることに気がつく。ピントが合わないまま顔を上げた。ゆっくりと現実が戻ってきて、やっと朝陽と目が合った。朝陽の雰囲気は真剣そのものだった。端正な顔が特別な無表情を貫いている。
「六月に始まって八月に終わる夏があるのなら、たった一日に詰めこまれた夏があってもいい。二ヶ月間のすべてが思い出の夏だなんて、笑っちゃうと思わない? そんなに漠然としていてどうするのって。鮮烈に焼きつけられた一番の笑顔は誰の顔なのか、その人たちは言えるのかな。私はそんなものを思い出と認めたくないの」
朝陽の割り箸から乾いた音がした。タレで変色した割り箸の先が小刻みに震えた。安い元禄箸でも、朝陽が持てばモデルを飾り立てる装置の一部に見えた。
「二ヶ月のほうが抱える荷物はきっと多いよ。昔そんなこと言ってなかったっけ」
「む。君って人は……よく覚えているなー、もう。揚げ足取りは好きじゃないよ」
「今はそう思っているってこと? 矛盾じゃなくて、感性がアップデートされたみたいな」
「うーん……どうなんだろう。君の話は一回立ち止まらないと答えが出せないから好き」
彼女はむすっとした表情の裏で器用に笑っているような感じがした。それから考え込んで、何回か箸を口に運んでやっと言葉を発する。彼女はちゃんと食べ終わってから話した。
「私は選り好みしてたくさん抱えたいんだ。背負ったたくさんの石の中にダイヤが紛れていても、ほしいときに探し出せないでしょ? だったら全部ダイヤにしちゃえばいいんだよ。私はそれができると思ってる。もちろん一人じゃ不可能だけど、君となら私の理想を追いかけられると思ってる」
「地獄の底まで付き合おう」
「不吉だなー。せっかくなら天国までついてきてよ」
「どっちも死んでるじゃん」
朝陽は僕にほほえみかけ、それから肉を頬張った。口の端に赤茶けたタレがついて夕陽を照り返す。僕は手もとのタオルに目をやった。すぐさま朝陽は察して「ん」と唇の先をつき出した。
野菜と肉を焼きながら、ときおり食べながら、僕らは無言をさえ味わう。言葉の隙間を満たすのは気まずさではない。ジグソーパズルの台紙の灰色に焼肉のタレをかけていくような、欠損を静かに埋めていく慈しみだ。
用意した材料のすべてがグリルに乗ったころ、僕はようやく口を開いた。
「背負っているものがダイヤばかりなら、誰かに狙われちゃうと思わない? 私にもちょうだいって」
「そうだね」と朝陽は頷いた。彼女の唇は笑みを形作っている。
「でも私にとってのダイヤがその人にとってのダイヤとは限らないよ。それに、仮に私がその乞食と一緒に過ごしたとして。他人を羨んで欲しがってばかりいる人との間にダイヤは育たないと思うな」
ばっさりと切り捨てた朝陽は、僕が言葉を返す前に「石だよ」と続けた。
「そんなの石だよ。道端に落ちていて、私が興味本位で蹴っ飛ばしちゃいそうになるようなね」
「手厳しいことを言うなぁ」
「私との出来事が私以外にとってのダイヤになるのは構わないんだけど……でも、ちょっときついなって思ったら私は自分から離れていく」
朝陽の胸には絵が飾られている。それは僕にだって分からない、大きなキャンバスに描かれた『美学』という題名の絵だ。
僕は彼女を通して彼女の理念に触れるのだ。理念は朝陽を
ヒグラシの声がした。ミンミンゼミとアブラゼミが呼応するようにそれぞれの声を上げた。生を叫ぶ大合唱は世界の隅々からこだまして聞こえる。
朝陽の声は小さい。教室でとなりの人と話しているような調子だ。それなのに彼女の声しか通さない特殊な耳で音を聞いているみたいに、僕には彼女の声がはっきり聞こえた。
「私は私が大切にしたいと思う人を大切にしたいの。それ以外の人を大切に思う強さがないから。大切な人にならどれだけ傷つけられてもいいけど、それ以外の人からはできるだけ傷つけられたくない」
山の向こうへと夕陽が死んでいく。僕を見つめて黙り込んだ朝陽は、どうやら返答を求めているらしかった。
僕が答えに窮するのを肌で感じ取り、とうとう「この考えって変なことなのかな」と告白した。
「自分が選んだことの責任を、できるだけ自分で取りたいの。どれだけ体を振り絞ってもからからのボロ雑巾で、最低限の責任すら背負えない体だけど、可能なら選択の責任を取りたいの」
その果てにあるのが無茶な行動らしい。もしかしたら朝陽は、責任を目に見える形で、命を損なうという形で実践したいのかもしれない。それが最初で最後だと胸を張るつもりで。
共感などできなかった。朝陽が死ねば僕は指標を見失う。背骨のない人間は生きることができない。僕は彼氏としてどのように振る舞うべきだろう。朝陽を大切に思う個人としてどのように振る舞うべきだろう。
朝陽に寄り添いたいなら、彼女の行動のすべてを受け止めるべきだと思う。
「それは……困るよ」
僕はここで、自分自身に寄り添う愚か者だった。朝陽の気持ちをほんの少しだとしても蹴ってしまったのだ。
朝陽はへたくそに気を遣って笑った。僕にはそれが上等の笑みに見えた。なぜなら、人前にいるときの朝陽はどんなときも理想的な笑みを作るからだ。
朝陽は口の端を持ち上げたまま目を伏せて、タレに浸ったままのキャベツを箸で持ち上げた。焼き肉色のタレがキャベツの下部に集まって膨らみ、雫となって垂れ落ちる。何滴も、何滴も、小さな音を立てて落ちた。
朝陽はキャベツを口にして「冷たいね」と呟いた。
「でも私は、自分が大切にしたいって思っている人からはいくらでも傷つけられてもいいから」
それならどうして自分に言い聞かせるみたいにして言うのだろう。思えば、居心地の悪い沈黙は初めてだった。