別に神様から許される必要なんてなかった気がする。   作:ぞんぞりもす

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高2-3

 僕は言葉を発する能力を奪われて化石した。僕は朝陽の目にどのように映ったろうか。本音を包み隠して何も言ってくれない朽木な気がした。

 

 僕もいつかその範囲から外れてしまうのかな、なんて。聞けるはずもない。朽木であろうと今のところ切り倒されていないのだから、根を張って風雨に耐え忍んでいるのだろう。

 普通は外れないように努力するのかもしれない。しかし今日の僕は努力の方向を間違えて、外れてしまう未来を選んでしまった。

 

 唐突に湧き出た不安は、炎が風によってみるみる延焼を広げるように指先にまで行き渡る。

 

 弱音を吐く僕は僕ではない。強がる僕も、きっと僕ではない。どうあろうとする僕が僕の本質なのだろう。

 昔から何を考えているのか分からないと言われてきた。だから伝えることを端から諦めるようになった。自分の輪郭さえおぼつかない僕と一緒にいてくれる彼女は不思議だ。だって濃密な影みたいに中見のない人間と、一緒にいてくれる人は珍しいと思うから。

 

「わわ!」という朝陽の声で僕は我に返った。前面から伝わってくる人肌の弾力とあたたかさは、僕の心を鎮めた。仄かな甘い香りに、これじゃなきゃ駄目なんだ、と思う。

 僕はどうやら朝陽に抱きついたらしい。

 

「ちょっと……どうしたの」朝陽の言葉は優しかった。「こぼれちゃったじゃん……かかってない?」

 

 ほんのわずかに首が(かし)いで、目尻も下がって、唇の両端だけが器用に持ち上がる。彼女の笑い方だ。

 出会ったときは同じ高さで世界を見ていたのに、いつの間にか僕のほうが空に少しだけ近くなった。その体格差で、僕は朝陽の首の後ろに腕を回していた。紙皿をどこにやったのだろうと思ったが、おそらく折りたたみのテーブルにでも投げたのだろう。いま重要なのはきっとそこじゃなくて。

 

「ごめん。どうだろう……少しかかったかも」

「じゃあ後で拭かなきゃね。そのままにしちゃったらなかなか取れなくなっちゃうから、後で水洗いだけでもしたほうがいいよ」

 

 こく、と頷いたら朝陽の肩口に顎がぶつかった。朝陽は慎重に箸と紙皿を片手で持つようにして、空いた片手で僕の頭を撫でる。誰かにこんなことをしてもらうのは初めてだった。そのはずなのに僕は強烈な懐かしさに襲われた。

 彼女の手はどうしていいのか分からないと言うみたいに旋毛の周りをぶらついた。やがて手櫛で後頭部を梳く形に収まった。

 

「もう、どうしちゃったのさ。焦げちゃうよ。最後に口にするのが灰でいいの」

 

 こんなに戸惑う朝陽の口調を僕は知らない。同様に、こうやって抱きついてくる僕を朝陽は知らなかっただろう。

 思いもよらぬ一面を見せたとき、それが否定されるか受け止めてもらえるかは、人間関係で最も重要な部分の一つだと思う。安心感に直結するから。

 

 その点、朝陽は語りかけるような口調で問いかけを口にした。疑問符をつけないわずかな優しさを感じられる僕たちの関係を、僕は愛おしく思った。

 

 ささやかな幸福を抱きしめていると思った。潰れるほど抱きしめていると思った。幸福が潰れて砕けて、破片が飛び散って。それが僕に深々と突き刺さったとしても、僕は胸から滴り落ちる赤色に笑いかけることができると思った。気づけば僕は余裕を取り戻していた。

 

「構わない」と僕は口にした。

「君は灰にはならないよ、大丈夫」と朝陽はほほえんだ。

 

 少しの間そのまま無言で過ごした。朝陽のぬくもりよりも半袖にかかったタレの冷感が気になり始めてから、僕はようやく抱きつく力を緩める。

「落ち着いた?」と耳もとで声がした。彼女は自分の声が、やわらかい心に打撃を加えるんじゃないかと心配しているような語調だった。

 

「うん。ごめん。取り乱しちゃって」

「いいよ。珍しい君を見れて得した気分」

 

 朝陽は僕を一度強く抱きしめ、体を離す。

 

「夏の夜の魔法だね」

「そんな素敵な言い回しでごまかせるものじゃないよ」

「そうかなー……私としては今日が終わっちゃうのが残念でたまらない。ときどき弱ったところを見せてよ。じゃなきゃ心配になっちゃう」

「どうして君が心配になるの?」

「君があまりにも直立して立っているように見えるから。同じ人間なのかなって少し怖くなる」

「それは……」

 

 僕は眉を寄せて言葉を返さなかった。朝陽の心配は、一足分の幅しかない縁石の上を歩くように、一歩間違えれば罵倒という道路上に出てしまうようなものだった。

 付き合いの長さから僕の受け取り方を熟知したうえでの言葉選びなのだろう。僕の心に配慮して、しかし自分の気持ちも尊重して、ちょうどいい日本語を探す。朝陽は普通の高校生よりも大人びている。

 

 光に伸ばした手が地面へとぐったりした回数が多くなるにつれ、人は大人になっていくのだと思う。

 僕の思考を断ち切ったのは「えへへ、でもなんだか嬉しいな」という気の抜けた声だ。

 

 彼女はしばらく緩んだ笑みを浮かべ続けた。初めて好きな人から好きと言われた乙女みたいに初々しい。彼女は夕映えによく似合う白い女の子だった。死にゆく太陽が見せる鮮烈な輝きを全身で受け止めることができるのは、朝陽しかいないと思った。

 

 

 残照の明るさが取り払われないうちに僕の服を洗ったまではよかった。

 しかし変なスイッチの入った朝陽が、ここで水浴びをしてみたい、と喚いた。僕たちの他は誰もいないキャンプ場には、すぐ近くに川があった。

 

 橙と濃紺のせめぎ合いが終わり、あたりはすっかり暗くなる。遮るもののない星空は広く、高い。

 川から戻った僕たちは、バーベキューの片付けが終わった足で、再び川に向かった。もちろん最初ぼくは荷物を見ていようと思った。

 

「人がいないんだから盗まれないよ! それで盗られてたらクマとかの可能性も考えて帰ったほうがいいし」

 

 結局は朝陽の押しが強かったこともあって、僕は承諾した。

 

 スマホを手持ちランタン代わりにして森を冒険する。中学の記憶が懐かしい熱とともに浮上する。ここには家の灯火もアスファルトの道も存在しない。周りを支配するのは大自然だ。

 

 踏み固められた土は歴史を感じさせるし、両どなりを延々と陣取る奥行きのある闇は物静かに佇んでいて、黒い影となった葉の上にはきらきら輝く屋根が覆いかぶさる。

 日中だと安心する葉擦れの音は、夜だと心臓を後ろから舐め上げるみたいに不気味なものに変わる。

 

 夜の森には特有の空気がある。湿っていて、澄んでいて、草木の甘い香りもまざっていて。そんな、保健室とか図工室とか図書室とかみたいな独特の空気は、僕の心に根づいていた。

 

 朝陽はしきりに「懐かしい」と口にした。僕も同調した。それから中学で深夜に外を練り歩いた話に花を咲かせた。

 静寂を破らないように気を遣ったやり取りは、岩に染みていく水みたいに僕の心をひんやりと満たした。夏の夜は熱い。だからこれくらいの冷感がとても心地いい。

 

 高校に入ってからは夜の森を出歩くなんてしなくなった。

 

 朝陽がアパートにいるときは二人でのんびり過ごすし、入院しているときだって、外灯が多い大通りを帰るのでまっくらじゃない。

 こんなぞくぞくするような冒険は久しぶりで、心臓がうるさかった。

 

 恋とはたぶん、一緒にいるだけで心臓がうるさくなる感情だ。

 愛とはたぶん、一緒にいるだけで時間が緩やかになって心が安らぐ関係だ。締め忘れた蛇口みたいにちょろちょろと流れるあたたかな気持ちが心を満たし続けてくれる感情だ。

 

 恋みたいな夜は久しぶりだった。

 

 セミの代わりにフクロウが鳴いた。カエルの声もあふれた。やがて鳴き声にせせらぎがまじった。徐々に水音は大きくなり、獣道が開けた途端にきらきらと月明かりを反射する水面が飛び込む。

 世界に闇が満ちているからか、ところどころにある光はより濃密だった。

 

 川に揺らめく月の大きさに、今日は満月なのだな、と思った。一片も欠けるところのない月が、川の流れで醜く歪む。僕の心そのものであり、世間が断定する僕と朝陽の関係なのだと思った。

 

「意外と深いよ!」

 

 朝陽はじゃぶじゃぶ水に分け入って叫んだ。流される危険を察知したのか、川の中腹に行くのを避けて岸まで戻って来る。手に持ったバケツをひと振りして水を掬ったと思えば僕にばしゃっとかけてきた。

「隙あり」じゃないんだよ。どちらかというと朝陽の笑い声のほうが隙だらけだ。

 

 いきなり水をぶっかけられた僕の目はまだしょぼしょぼしていて、光と闇の境界線が曖昧になる。砕け散った二色は朝陽の笑い声で明るく色づいたような気がした。

 前髪をかき上げた。見上げた空はなんとなく薄く澄んでいる。そのままあたりを見回せば、世界はこんなに鮮やかだったのかと意外に思った。深い夜には深いなりに様々な色があった。

 

 あぁ、せっかく上の服を着替えたのに、また冷たくなった。

 僕は渋々水に分け入った。これは誘われている。やられたからにはやり返さないと。

 

 ここでやり返さないと、僕は朝陽の期待に応えられない。世間一般の汚れ方を知らない不器用な朝陽は、こうして穢されたがっている。好きな人から穢されたいというのは、彼女の本質に似つかわしい欲望だった。

 破滅願望。疲れ果てた彼女は、心のどこかで壊されたがっているんじゃないだろうか。

 

 朝陽は弾んでいた。声も顔も満天の星空によく似合っていた。だから、満月まで届いた心が地面に落っこちて潰れるほどの衝撃を求めているのだと直感した。

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