別に神様から許される必要なんてなかった気がする。 作:ぞんぞりもす
僕がやり返すと、朝陽は口では「女子にそんなことするなんて!」「手を出すなんてさいてー!」と言った。彼女はきゃっきゃと笑った。
しかし僕が一方的に水をかけられ続けた。いかんせん手とバケツではスペックが違いすぎる。手でかけた水がバケツのそれで跳ね返ってきたらどうしろって言うんだ。
「はあぁ~」と一息ついた朝陽は、最後には自分に水をかけた。そして「冷たいね」と僕に笑いかけた。
重くなった体を引きずるみたいにして僕らは岸にこぎつける。あれだけ激しく遊んだというのに、自然はこれっぽっちも原型を失っていなかった。
もしも世界の果てに行くことができたら、朝陽の髪みたいな漆黒の輝きを見ることになると思った。僕にとって彼女は世界の中心であり、同時に果てでもあった。
「日中の汗を流すとやっぱり気持ちいーね」
「汗はベタつくからね」
「ついでに嫌な気分も洗い流されたんじゃない? 憑き物が取れた顔してるよ」
「そうかな……そうかも」
廃油に浸されたような不安は確かになくなっていた。
「でしょ!」と朝陽は自信満々に笑って、最後にもう一度水を掬った。そして頭からかぶった。
「あは! つめたーい!」
じゅぶ、じゅぶ、とスニーカーが重い音を立て、僕に衝撃が襲い来る。朝陽は僕に抱きついた。僕たちの体からたくさんの水が滴った。投げ出されたバケツがガラゴロと音を立てた。
僕よりもずっと長い前髪を朝陽がかき上げたら、水滴が顔に打ちつけられる。
「水着着てきてよかった! 今日のためにまた新しく選んだの。オレンジ色が好きなんでしょ? ねぇねぇ、オレンジ色が好きって前に言ったよね?」
「……好きなんじゃない。君によく似合うって言ったんだ」
「あとで見てよ。せっかく君のために選んだんだからさ!」
朝陽は晴れやかに笑った。
濡れた服を絞って、僕たちはテントに戻った。
湿ったままではいられないからテントの中で互いの体を拭いた。朝陽の体はランプの光と同じくらい白かった。テントと同じ色の水着も、よく似合っていた。
「スマホ防水でよかったでしょ?」
着替え終わった段になって、朝陽は自分のスマホを拭きながら僕を見る。「いつかこういうことすると思ったんだよねー」と屈託なく笑った。
僕の生活には、細部に至るまで朝陽の息遣いがある。
僕は替えの服がもうなかったので、仕方なく絞った服を身につけた。朝陽は着替えを持ってきていたけれど、なぜだか濡れた服を着たがったので、体を拭いたあとにそれを着た。
僕は朝陽の髪の水気を取ってあげた。一緒に夜を過ごすときの日課だから慣れたものだ。
二人でバスタオルにくるまって三角座りをすると、急にしんと静まり返る。テントの周囲のすぐそこまで夜が迫っていると思った。
襲い来る平穏をいなしているうちにこんなところまで来てしまった。テントの中は僕の人生そのものだった。薄っぺらい素材でできた孤独の膜は僕を安心させた。朝陽にとってもそうであればいいと思うが、口には出さない。
「濡れた服を着てると凍死しやすいんだって」
朝陽は沈黙をそっと開いた。僕にもたれかかった朝陽は、腹の服をちょこんとつまんで引っ張った。手を離すと湿った音がする。
「凍死しやすいっていうか、低体温症になって死にやすくなる……みたいな? さすがに真夏じゃできないと思うけど。今はちょうどよく涼しいだけだし」
「へぇ」という僕の腕を朝陽は抱きしめる。それから本当に眠そうな声で「眠いね」と言った。
「毎日明るく振る舞うの……ちょっとだけしんどいんだ」
ややもすればこのまま別の世界に引きずっていかれそうな声音だった。
「片方だけが異様に大きく振れるメトロノームって異常でしょ? それみたいに、闇に背を向け続けると光しか入ってこなくなて目の裏側が焼け付いちゃうの。君にしか見せられない痴態なんだから喜んでよ。……最近の君は裸でも喜んでくれなくなったしさー。困っちゃうよ」
「……僕は十分、君とこうやって過ごすだけで満たされるからね。それ以上何を望むというんだ」
「人間は欲深いものなんだよ」
「ぼく遠回しに機械って言われてる?」
「アンドロイドと病弱な少女の物語――」
「それっぽいからやめてよ」
「あはは。でも君は……やっぱりどこか、怖いところがあるよ」
「そうかなぁ」
「そうだよ。私が裸になっても冷静に下着を渡してくるんだもん。胸とかおっきくなったんだよ? どうなの、女子の裸を見ない男子高校生は!」
「僕はどこに怒られてるの……?」
水着のショーに満足した朝陽は、先ほど確かにいきなり脱ぎ始めた。僕は目を丸くして彼女のカバンから下着を探し当てた。彼女が僕の前で着替えをおっ始めるのはわりとよくあるから、裸をできるだけ見ないようにして服を探すというのが習慣になっていた。
興奮しないとかそういう話ではない。体がそう動くのだ。
「初めて君の裸を見た日からちゃんと興奮してるって」
「それはそれで気持ち悪いかも」
「ひっどいトラップカードだ。なんで手のひらをセットしてターンエンドしてるの」
朝陽は朗らかに笑った。四角錐の頂点を突き破って星空の演奏会にまざるような、明るくて、弾んでいて、でもどこか物悲しい声だった。彼女は結局、一人だ。誰も朝陽の身体のことを真に理解していない。
取り出した思い出からは、ほんのりと生乾きのにおいがした。出会った日を思い出す。振り返ったとき、過去からの輝きが途切れずに現在まで続いていることを願った。
朝陽は明るく無邪気な仮面の裏に、陰湿な牙を隠し持っている。その牙からは毒が滴る。そして白い彼女を果てさせる。疲れたときに僕が止まり木になれたらどれだけいいことだろう。
朝陽はひとしきり笑って僕の腕にしがみついた。
「疲れたね。こんなふうによく眠れそうだなーって思うの、久しぶり。体が疲れるってこんな感じなんだね」
僕らはほどなくして横になった。寝袋を準備していたものの結局使わなかった。濡れていても、バスタオルとタオルケットだけで十分心地よかったのだ。
朝陽は僕を抱き枕にしたがる。それは今日も同じで、となりの呼吸は安らかだった。
完全な暗闇に慣れきった目と視界はなかなか休まらない。なだらかな膨らみの奥でとくんとくんと火が揺れていた。風に吹かれれば消えてしまいそうな蝋燭の火だった。
彼女の胸は心みたいにやわらかくて、力を加えたらすぐに変形した。胸は元に戻るけれど心は戻らない。だから大切にしたいのに、ふとした拍子に力んじゃって歪めてしまって、それからもう戻らないなんてことがある。
歪んだらもう、歪んだまま、無理に普通の形に戻ることを目指さなくてもいいのかもしれない。だって、歪んでいたのが元に戻ったら、それはそれで歪んだことになるのだし。
僕が身じろぎすると抱きつく力を強める朝陽は、遊園地で風船をもらった子どもみたいにいとけない。そよ風にすら糸を握る力を強めて、今日一番の大切が飛んでいかないように神経をすり減らす。
「なんでさっきから動くの……? あつい?」
「起きてるとは思わなかった」
「んー……うつらうつらしてただけだよ。こうしてれば眠れるかなって」
「そっか」
「うん」
朝陽は出し抜けに声を発したきり、重そうな瞼を再び閉じる。
話をしてもしなくてもいい。そんな沈黙。
「どこかに行っちゃいそう」
「君が?」
「きみが」
「そんなまさか」
「そう言ってくれているうちは……まだ安心できるかな」
影を背負った彼女と、何度も二人きりの夜を明かした。僕の記憶にはまた一つ新たな朝陽が刻まれた。表情は見えないが、それ以外が雄弁に心情を語った。
朝陽の口調は普段よりも間延びしていて、覇気がない分だけ寂しそうに聞こえる。朝陽は僕の側頭部に額をぐりぐりと押し当てる。
恋とはたぶん、あなたの視界に映りたいと思うことなのだと思う。
愛とはたぶん、あなたの見ている世界をすぐ近くで感じたいと思うことなのだと思う。だから、自分の存在が相手から認知されているかどうかなんてのはどうでもよくて。感情の定義なんて、その場で変わってしまうあやふやなものだ。それなのに、僕はそれを見定めようとして苦しむ。
自分の感情は、恋と呼ぶには衝動が足りず、愛と呼ぶには執着しすぎているように感じられた。
「こんなふうに願いがかなったら、また新しい願いを考えなきゃ」
「どうして?」
「ん? ん~」と朝陽は少し間を置いた。言い渋る様子を見せたあと、照れたように笑う。
「願いの数だけ寿命が伸びるような気がしているの。だから、叶ったら叶った分だけ増やすんだ」
僕は最初、強欲だ、と思った。けれども考え直すと、違う気がした。
一人じゃ駄目だから、願いの数を自分の背中を支えてくれる手にしようと決めた境遇はあまりにも寂しい。願いが叶ったら背中を支えてくれる手が一本減るから、補って一本増やすのだ。幼い日の朝陽は、自分ひとりじゃ到底立てないと思ったのだろう。そうだ。寂しいのだ。
「寂しいね」と僕は言った。朝陽は間の抜けた声を出したあと「そうかもしれないね」と言った。六等星みたいな静かな口調は思いこみの魔法にかかって、弾けるように一瞬だけ輝いた。