別に神様から許される必要なんてなかった気がする。 作:ぞんぞりもす
朝陽は修学旅行に行けなかった。中学、高一はともかくも、高二では一貫して体調が安定していたにもかかわらず。
僕と朝陽の間で修学旅行の話は三回出た。朝陽は二度「仕方ない」と話を終え、一度「行きたかった」と締めくくった。
望みを抱いていたのは僕だけだったのかもしれない。あるいは、三分の一にはとんでもない重さの願いが乗っていたのかもしれない。推測することしかできない僕は非力だ。
僕は一人だけの修学旅行で、数合わせに入ったグループでほどほどに立ち回った。
土日を跨いだ旅行は、僕の肺を都会の汚れた空気でいっぱいにした。僕は自分の血を流れる不潔な酸素が気持ち悪くて気が狂いそうだった。でも僕の衝動を収められるのは、僕しかいなくて。
僕は団体行動と人波ですっかり疲れてしまい、なんとか持ち直そうと、戻ってきてから深呼吸を繰り返した。のどかな空気を呼吸することに僕は全身全霊をかけていたのだった。
『楽しかった?』
荷ほどきをする僕に向かって朝陽は尋ねた。僕は深く考えず「楽しかったよ」と返答した。
『ほんとに~?』とスピーカーから聞こえてくる朝陽の声は僕よりもずっと楽しげだ。にやにやする表情までばっちり脳の裏側に描くことができる。
僕の旅行中、朝陽は僕のマンションに一人でいることを希望したのだけれど、彼女の周囲はその程度の願いにすら頷かなかった。だから僕は秋の夕暮れの侘しいマンションに戻り、朝陽は明日の早朝に実家を発つ。
ところで僕が『帰った』とラインを送ってすぐ、朝陽は通話をかけてきたのだった。彼女は、『だからお風呂のあとのケアも何もしてないんだよね』と話の途中で口にした。
そして僕は風呂に入り、朝陽は日課をこなす。通話はつけっぱなしだった。
僕たちはこのごろ毎日通話していた。これは朝陽が入院中でも欠かさない日課である。そのため、ここ数日の通話断ちは双方こたえていたと見える。
「数日会えなかっただけで禁断症状が出るなんて、織姫と彦星が聞いたら憤死するかもしれない」
『笑ったら変に力んじゃうじゃん! 今ストレッチ中だからあんまそういうこと言わないでよ!』
「まだ続けてたの? それ」
『うん。大事なんだよこういうの。病室ってできること限られててさ、癖になっちゃった』
「日課か」
『そうなの』
それきり黙った朝陽は、不意に『一年に一度なんて考えられないよね~』としみじみ言った。
一年に一度だけ会える喜びよりも、過程の三六四日に耐えられないのが普通だ。有頂天になるような喜び一つで過程のすべてが許せるなら鬱になんてならない。作り話を現実に持ちこんじゃいけない。
『もしかしたら、七夕でしか会えないその二人が私たちの境遇を聞いたら羨むのかもしれないけどさ。でも幸福って人の境遇と比べるものじゃないよね。〝この人よりはマシな幸福〟ってもういっそ哀れですらあるじゃん』
言い終えてから朝陽は最後の伸びをしたのか、大きく息を吐いた。
ゲームをする気にもならず、僕はなんとなくベッドに寝転がる。朝陽は雑音だけで僕の動きをおおよそ予測したらしい。『コントローラーを置く音が聞こえなかった!』と言い切り、続けざま『私もごろごろしよ~』と声を弾ませる。
『いいな~。私も行きたかったなー。思い出話とお土産は期待していい?』
「お土産は宅急便で送ったから少し時間がかかると思うよ。僕のマンションと君の実家にも多少」
『そんなにいっぱい買ってくれたの!? じゃあ期待しちゃお』
「思い出話は……あー、旅館のご飯がおいしかった話なら。あとはみんなでアナログゲームをやったとか、それくらい」
『えぇ……だってユニバ行ったんだよ? なんかないの? このアトラクションが面白かったとか、班のみんなでコスプレしたとか』
僕の沈黙にため息をつき、『君は私と違って、そのあたりちょっと淡白だもんね』と言った。朝陽が苦笑をすることはめったにない。でも、通話越しの朝陽の笑みは苦しげだった気がした。目を伏せて笑っているのだろうな、と思う。
「君が好きそうなのは多かったよ」
『もう……そういうんじゃないってば。私と出会わなかった世界線の君って、どうなってたんだろう』
「それはそれでうまいことやってたんじゃない? 水と油は溶け合わないけど、同じ空間にいること自体は可能だろうから」
『寂しくない? それ』
「耐えかねたらたぶんペットを飼うよ」
『朝陽って名づけてね』
「君と出会ってない世界線なのに?」
『出会っていなくても君を感じていたいの』
その夜はペットの話で盛り上がって、僕たちはそれぞれ眠りについた。
旅行というものに朝陽がどれだけの憧れを抱いていたのか、やはり僕には見当がつかなかった。
『旅行行けるかも』とラインが入ったのは、それからすぐ後のことである。
通話で詳しく聞いてみると、栗林先生が新婚旅行に行くらしいのだが、その行き先が関東の温泉街なのだという。よければ一緒に行くかと誘われたらしい。
飛行機や新幹線をあまり使わせてもらえない彼女にとって、これは願ってもない申し出だった。
「でも新婚旅行なんでしょ? そこに部外者がまざるのってなんか悪くない?」
『て、思うじゃん? 私も思ったんだけどね? ダブルデートしてみたかったんだって。女医さんって少ないみたいで、看護師さんと行こうにもそこまで親しくなかったり人間関係面倒くさかったりでいろいろあるみたいなの。ちょこちょこ近場の海外とか二人で行ってるみたいだし、デートのアクセントになれば――って、むしろ先生のほうが乗り気だったよ』
朝陽の声は第一声から弾みまくっていた。勢いよく投げたゴムボールがあちこちを跳ね回るみたいに、声は僕の脳にぶつかってくる。一方で彼女は跳ね回るボールを毎度正しく手に収め、僕の質問に投球した。
『ランドとかユニバとかじゃないけど、着物のレンタルとか食べ歩きとか懐石とかだよ!? 私にしてみれば今回を逃したらあともう一○年は来ないってレベルのチャンスなの! 古龍の大陸渡りなの!』
「チャンスっていうか災害じゃないの?」
『チャンス、チャンスなの!』
迷う僕の背中を押すみたいに、朝陽は力強く復唱した。スピーカーの音量をいじっていないのに声は一段と大きくなった。
頭の中でその言葉が突如として意味を持ったみたいに、チャンス、という単語は特別な響きで脳を揺らす。
僕は数回チャンスと繰り返した。朝陽はうずうずしてたまらないみたいだったけれど、かといってしつこく繰り返すことはなかった。
「わか――」
『やったぁ! だと思った!』
もしかすれば、彼女は僕の心に鉤縄が引っかかった時点で結末を予想していたのかもしれない。食い気味に、僕の承諾に快哉を重ねた。
移動に当てた初日は生憎の天気だった。しかし朝陽の心は澄んだ晴れ模様で、すでに目的地の天気をインストールしたみたいだった。
彼女は重く垂れ込める雲を一切視界に入れず、アスファルトの水滴を跳ねさせる。僕らは集合場所の駐車場まで一つだけの傘で歩いた。
一昨日買ったばかりの重そうなボストンバッグを意地でも自分が持つのだとムキになって、朝陽は片方の肩を濡らす。彼女の足取りは心の軽さに引っ張られるようで、それは満面の笑みにもあらわれていた。
荷物の多さが期待の大きさに見えた。ともすれば長期入院よりも多いんじゃなかろうか。
僕の胸は弾んでいた。しかし一方で、彼女の一生を貫く薄暗い影に叫びそうになったことも事実だった。この世の果てまで続いていそうな濡れた路面が、凸凹の濃い灰色が、彼女にまとわりつく重みに見えた。その重みを引きずりながら、朝陽の心臓は鼓動を続ける。
重さと軽さがちぐはぐだった。朝陽は歪んでいる。
朝に咲く花が命を消費しながら輝いて夕方に死ぬように、朝陽のきらめきには時限爆弾がしこまれている。爆弾が起爆するのは、重さと軽さの両極が彼女を引きちぎった瞬間だ。
僕は握った拳を緩め、寄った眉間から意識を離す。
朝陽は見計らったように僕に笑いかける。
「県を跨ぐのなんて引っ越しのとき以来」
「……もう、二年か。早いね」
「ね」
彼女の笑顔には影がないのに、どうして人生には影がちらつくのか。弾むように話すからといって軽はずみな言動をするわけではないのに、どうして残酷な決定を背負わされたのか。
許せなかった。僕には感情を付与することができないけれど、許せないと思ったことは事実だった。
人生で数度のチャンスに浮かれる朝陽のとなり。うっかり弾んで跳ね回って、勢いそのままにこの世のすべてを呪えないだろうか。
こんなんじゃ旅行を楽しめないだろうけれど、僕は自分を偽ることに慣れきっていた。だからこそ朝陽は僕に対して人間離れしていると言い、心を開いてくれたのだろう。
そうこうしているうち、夏休みにもお世話になった乗用車が僕たちを拾った。