別に神様から許される必要なんてなかった気がする。 作:ぞんぞりもす
二人との交わりは僕たちにとって新しい音色となった。
楽器の種類が増えた演奏が不協和音を奏でることはなかった。音の豊かさという点で、むしろ新たに一段上の境地へ進んだような心地さえした。後部座席に並んで座る朝陽の横顔を見て、僕はそう判断した。
パーキングエリアでゆっくりしていたこともあり、暮れ方に旅館に到着する。
「すごーい」と朝陽は和室に大興奮だった。部屋に入った途端、い草の青い香りを肺いっぱいに吸いこんで笑った。彼女は「あえて旅館のホームページをチェックしなかったんだ」とふっくらした胸をそらせた。
僕の家は古いので和室や仏間があるが、新築の朝陽宅には畳がない。初めて朝陽を家に招いたときのことを思い出して懐かしくなった。
あれから遠い場所まで来た。散見される追憶の輝きは、彼女と出会った地点が最も遠い。僕が生まれたのは母親の体から出たときだけれど、僕の人生が始まったのはまた別の瞬間だった。
思考をぶつ切りにしたのは、僕を育ててくれた家族への申しわけなさだった。
昔話に花を咲かせながら荷物を整理し、栗林先生たちの部屋に向かう。懐石料理が運ばれてくるからこっちに来てほしいと指示されていたのだった。
部屋には前菜や小鉢がすでにつけられていて、仲居さんが愛想よく迎えてくれた。
「きれいな着物……」
「着ている人がきれいだと映えるね」
仲居さんは「お連れ様がいらっしゃるのに口説くだなんて大胆ですね」と笑った。
僕としては着物も本人も素敵だというフォローのつもりだった。朝陽は僕の意図に気づいていたのか、口説くだなんだの話には加わらずにずんずん進んだ。
分かりやすく頬が緩んでいたので、単に食欲に突き動かされていただけかもしれない。
浴衣の貸し出しをしているから、入浴の際に着てみてはどうかという提案に、朝陽はやっと人間的な反応を返した。しかし座卓の下で手が下腹を撫でさすって、にこにこ笑顔の裏で限界を訴えている。
食事はそういった説明の合間に次々と運ばれた。ひと通り並べられるまでお預けをくらったせいか、朝陽の笑顔が引きつるようになったころにようやく音頭が取られた。
秋の夜長は冷える。カーテン越しの暗闇に思いを馳せながら僕は箸を進めた。空調の効いた室内は仲居さんの気遣いもあって快適な室温だ。
五徳に入った火が消え、食事も終盤に差しかかる。
栗林先生夫婦は酒を飲んでいた。気持ちよく酔って話が弾み、彼女らは二人の空気を作り上げている。彼女らの言葉の隙間は一寸の隙もない閉ざされた沈黙で、二人は互いに愛し合っているのだと直感する。
朝陽の頬は薄く色がついていた。
「私たちもあんな大人になれるのかな」
言葉はぽつりと滴った。心の容器に限界まで溜めこまれた本心が、表面張力を突き破ってあふれたような言葉だった。
高純度というより原液そのものといった朝陽の言葉は、僕を惹きつけてやまない。
「ん? どうしたの?」
朝陽は僕の視線に首を傾げる。僕たちは無言のまましばらく見つめ合った。
「あっついねぇ」といつもよりふわふわした栗林先生の茶化すような声。旦那さんのほうもにこにこと笑っていた。
僕には愛や大切といった言葉の形が分からない。透明人間をどうにか知覚しようとして小麦粉を振りかけるみたいに、どうにか輪郭を捉えようとしているだけだ。そのものは分からない。
確信の持てない僕は周回遅れで返答した。
「ああいう大人がいいの?」
朝陽は「ん~」とほほえんだ。そして「どうだろう。言ってみたけど実際は分かんないかも」とはにかんだ。彼女は気を遣ってくれたのだと思う。不甲斐なかったけれど、反省するのは彼女が寝たあとのほうがいいと思った。
食休みを挟んでから、僕らはそれぞれ大浴場に向かった。家族風呂の予約が取れなかったとかで謝られたが、もともと風呂は別だろうと思っていたので、さして気にすることではなかった。
むしろ僕が気に病んだのは、栗林先生の旦那さんから「一緒にどうだ」と誘われたことである。僕は一人で勝手に済ませるつもりでいた。しかし誘われた手前、そして宿泊費や移動面で援助してもらったこともあり、我を通すわけにはいかなかった。不義理は法によって裁かれないが、人によって裁かれると僕は考える。
「すっごい微妙そうな顔してたよ」
浴場の待ち合い室で栗林夫婦が精算を済ませているとき、朝陽は僕に耳打ちした。小さい「つ」の音は鋭く、続く破裂音は力強い。僕をからかう朝陽はにやにやしていた。
「微妙そうっていうか、警戒しているっていうか。悠人さん気づいてなかったけど。きみ眉毛ぴくってしてたよ」
「そりゃだって……かなりお世話になってるけど、僕には接点がほとんどないからね」
「それもそっか」
朝陽は足を伸ばしたかと思うと戻ってきた二人に愛想を振りまき、弾みをつけて駆け出した。「陸空って人見知りだからすみません」と謝る声は明るかった。
僕も朝陽も、僕が人見知りだとは思っていない。彼女が先ほどのおこないに出たのは、ひとえに世間という大きな圧力に出力するとき、首からさげるネームプレートがあったほうが気が楽になるからだろう。化け物が世界に馴染むためのひと工夫みたいで、自分のことながら滑稽だった。
「ぜんぜん、ぜんぜん」と程々に酔った彼氏さんは上機嫌だった。手を大きく左右に振って、栗林先生の肩を抱き「星奈もすごいからさ!」と爽やかに笑う。
何事も上手にできる人に特有の残酷なまでの穏やかさと、相手を考慮しない余裕とが合わさっていた。
僕は朝陽の表情を想像する。長髪に阻まれて見えないが、笑顔の裏で心は笑っていない気がした。ワントーン上がった笑い声がカモフラージュであることを僕は知っている。
幸福な男女の一対を近くで見ることは珍しい。
学校生活を送っていれば誰と誰が付き合ったといった話を耳にする機会はある。しかし、高校生の恋愛と社会人の恋愛は二卵性の双子みたいに違う。社会人の恋愛のほうが成熟している。これはたとえば、地に足がついているとか未来を見越していると言い換えてもいい。
僕たちの恋愛はそのどちらにも当てはまらないような気がして不気味だった。
僕と朝陽は嘘偽りなく付き合っているが、二人の間で結ばれた契りの名前は不明瞭だ。
周囲を見回すと、落ち着いた明かりの下に集う旅行客はそんなものばかりだ。僕が恋人関係を明瞭にしたがっているだけで、人は曖昧な帯によって結ばれているのかもしれなかった。