別に神様から許される必要なんてなかった気がする。 作:ぞんぞりもす
中学に入学してそうそう、朝陽は有名人になった。クラスが二つしか分かれていないような中学だからたちまち噂が広がったのだ。
朝陽はクラスの中心人物だった。地球が誰のために回っているのかは分からないけれど、少なくとも一年一組は彼女のために回っていた。
「朝陽、ちょっとこの問題問いてみろ」
「朝陽ちゃん、宿題見せてくれない?」
「いいよいいよ、それ俺やっとくから」
こんなふうにされて鼻持ちならない振る舞いをしないのだから驚きだ。鼻が天狗みたいになることもない。むしろ周囲の鼻の下が伸びていた。
彼女がクラス委員などの役割を引き受けなかったのは、ひとえにいない時間が多いからだった。彼女は欠席や早退が多かったのだった。
人と廊下ですれ違うたび僕ら二人に意味ありげな視線が向けられるのを、僕は朝陽のとなりで眺め続けた。眺め続けて、一ヶ月が経っていた。
桜が散って新芽が出て、輝くような新緑が田舎にはあふれていた。スクールバスに揺られて登校するとき、いつも朝露が目に眩しい。
音楽室に移動するのが面倒くさくて休んでいたら、一○休憩の後半戦のぎりぎりまでなっていた。慌てて移動しようにも、朝陽がいるものだから走れない。
僕は言った。
「遅れたら朝陽のせいにしよう」
朝陽は黒い大きな目をさらに大きくして「え~」と言った。歩調と同じでことさらゆっくりとした口調だった。それから流れるように「なんで?」と続く。
「だって走れないから。僕は走れるからすぐに音楽室に着くでしょ? でも朝陽がいると走れないから遅れてしまう。これって僕のせい?」
「ぜったい自業自得でしょ!」
「なんでよ」
「だってそうじゃん! 誰に聞いてもそう言うよ。最高裁だってそう言うもん」
「なにしれっと刑罰にかける気でいるの? まず学校内の誰かに聞こうね?」
「人体模型とか」
「せめて人にしようよ」
「音楽室の肖像画にでも聞いてみようかな!」
「偉人だけど! 亡くなってる! 生きてる人に聞きなよ」
「君はどう思う?」
「僕に聞いちゃぁおしまいだよ」
「この国は?」
「おしまいだよ」
「非国民だ!」
「国民だよ!」
別の教室に向かおうとしていたのか、すれ違った数学の先生ほほえましそうに僕らを見た。よく見れば職員室のほうからぞろぞろと魔物が現れてくる。もうそんな時間か、と思って窓を見たが日中だった。黄昏時でなくとも魔物は現れるらしく、この国は本格的にもう駄目だなと思った。
さて僕は黙り込んだ。話が脱線しすぎてジャングルに迷い込んだ気がした。文明の光は遠ざかり、路面とは言えないような獣道が続く天然の迷宮だ。
僕はそんなことを考えながら、ワックスがけされたリノリウムの床を一直線に進んでいる。もうすぐ階段だ。節電のためか片方がない蛍光灯によって床はぎらついていた。ところどころに靴墨があった。
階段を歩いているときに不意に外を見れば、斜めに景色が下がっていく。新鮮だった。扇形に広がった葉の緑から直立する梢の茶色に景色は転じた。
音楽室は突き当たりを右に曲がってすぐだ。校舎の端にひっそりと佇む部屋で、廊下の空気は湿っぽくてひんやりしている。
「私のこと置いて走っていけば遅れないんじゃないの?」
朝陽の口調には、妙に真剣なところがあった。ぼけているときは雰囲気で分かるので、これはぼけじゃないんだなととなりを確認する。数学の問題をすらすら解ける朝陽は僕のことを、黒板に描かれた見たことのない式のように見ていた。
壇上に上がった彼女が静止することは稀だ。今回は静止を飛び越えて停止しそうな勢いだった。どうやら難問らしい。
手に持ったチョークの先を無意識のうちに顎に当てそうな真剣味と、チョークの粉で顎が白くなったことを何も分かっていないであろう強烈な愛嬌とがあった。
「残されるのって嫌じゃない?」
「そう、そうなの? そうなのかな?」
「え、違う? 僕じゃなくてもたぶんそうしたよ?」
「嘘だ! 君が多数派に入ることなんてないもん! 君が言うことと現実は真逆なんだよ!」
「いい度胸だね嬢ちゃん。ちょっと表に出てくれや」
「まさかこんな時間から――駆け落ち?」
「そんな訳あるか」
「せめて夜にして!」と言いながら防音がしっかりした合皮の扉を開けたものだから、音楽室にいた全員が、何事だ、という顔で僕たちを見た。
特に音楽教師の顔がすごいことになっていた。まだ来ていないと思っていたが、彼は音楽室に住み着いているのかもしれない。
段々と僕への視線が鋭くなっていく中、朝陽は知らん顔で「残されるのって嫌だもんね」と花開いた。彼女は僕を置いて椅子へ向かう。
心のなかに眠っていたものがいきなり意味を持ったみたいに、鮮烈な輝きに気づいたであろう彼女は、授業中ずっとにこにこしていた。
「一つ言っておくけど」
「一つと言わずになんでも言っていいよ。聞きたいんじゃない? 三つくらい。ほら、大きさとか」
三本の指を立てて胸に手をやった朝陽をぶったたく人物はいなかった。放課後になっていた。教室には僕たちしか残っていなかった。
あのあと僕はいたたまれない空気の中での音楽をやり遂げ、そのあとはさらに険悪な空気となった教室授業も乗り越え、給食に昼休みにと命からがら逃げ回り、掃除されかけようとしたところを食い止めて今に至る。
朝陽は始終楽しそうにからから笑っていた。僕のことをサーカスの見世物か何かと思っているに違いない。僕は火の輪くぐりをするライオンでもなければ、団員を乗せる像でもない。学習性無気力なと噛みちぎってやるくらいの覚悟があった。でも現実は、覚悟だけではどうにもならない。
いまだ三つの指で弾力を楽しむ朝陽に、ええいままよと天に祈りを捧げた僕は、ぴしりと人さし指を向けてやった。気分はさながら名探偵だ。どんな難事件も解決してやる。
僕の指と膨らみだした胸とを交互に見た朝陽は、合点がいったように頷いた。手が伸びてきたので急いで引っこめる。
「待て! そういう意味じゃない!」
「じゃあどういう意味なの? 今のはもうそういう意味だったじゃん!」
「違う! 今のは……今のは……!」
名探偵気分に浸っていたなんて言えるわけがない。接ぎ穂を失った僕に朝陽が迫る。
「今のはなんですかいお兄さん。そうは問屋が卸しませんぜ?」
悪者ぶった声を出しているけれど、幼さが隠しきれていない。変声期を迎えている僕のほうがよっぽどいい声が出せるだろう。ともかくとして。僕は気を取り直して、もう一度彼女に指を向けた。今度は顔に向かって小さく手を動かした。
「だいたい君はね、ヤンキー子猫理論に惑わされてるんだ。僕が君にとっていいことをしたかどうかは知らないけど、僕のことは信用しちゃいけない。見るからに悪党なやつなんかと一緒にいる正義のヒーローはいないでしょ? それじゃあ日曜朝七時三○分は務まらない。僕は君のご両親から、君と仲よくしてやってくれと頼まれたから――」
朝陽は早口でまくし立てる僕を不思議そうな顔で見つめてくる。著しい温度差に、思わず閉口した。これではまた僕が一方的に悪いみたいだ。自分のことを悪者だなんだと言っておきながら、僕はそうやって他人から認識されることを心のどこかで恐れていた。
「好きだよ」
軽い声で、責任も何もなさそうで、今から人を騙すのだという罪悪感もなくて、人に本心を伝えるときに特有の僕が最も恐れている心の震えみたいなものがなくて。
朝陽の声は異国の言語みたいに、異様な調子で僕の耳を打った。
僕は怖くなって、その場に崩れ落ちた。
どうして……どうして。似てるって思っていたのに、そんなに勇気のある振る舞いができるのだろう。人としての差みたいなものが妬ましくて、嫌で、悲しくて、惨めで、そんなふうに思ってしまう自分にさえ傷ついて、僕はどうしていいのか分からなくなった。