別に神様から許される必要なんてなかった気がする。   作:ぞんぞりもす

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旅-3

 体を洗っているときは僕も悠人さんも無言だった。しかし湯に入る段になって、悠人さんは人好きのする笑みを僕に向けた。

 

「いや~、一緒に来てくれてありがとうね」

 

 僕は一瞬きょとんとした。彼は僕の表情を見た途端に吹き出した。笑い声は天井を食い破ることなく湯気に霧散し、浴場に響き渡る。

 暖色の明かりは病室よりもやわらかい。湯けむりに遮られて、雲隠れした月みたいに朧気だった。

 

 彼はひとしきり笑ってから「こっちの話だよ」と言った。大人の事情に深く踏み入るつもりはない。

 子どもの秘密をあばくと藪の中からヘビが出てくる。大人の秘密をあばくと藪の中からトラが出てくる。そしてそれは、もう手遅れの、人だったトラである場合が多い。

 僕は理解力に乏しい人のふりをして無言を貫く。無知は罪であることが多いけれど、世間は多くの罪を見逃してくれる。

 

 悠人さんは浴槽にどっかりと浸かり、縁に両腕を乗せた。所作は堂に入っていた。

 運転の疲労が溶け出したため息は深海を漂うみたいに重々しい。しかし僕や朝陽のため息とは違って、どこか満足そうなところがあった。

 

「君は……あー、朝陽ちゃんと……いや」言い淀んだ悠人さんは「あっちではどんな話をしているのかな」と覆い隠した。表情は相変わらず初夏の日差しみたいに嫌なところがない。

 

「さぁ……かなり仲よくしているみたいですし、明日回るところの相談とかしてるのかもしれません」

「ありそう。『予定をもっと詰める』とか言ってな。でも俺らには知らされてないだけで、もうすでにがっちりと組まれてるよ」

「でしょうねぇ……朝陽、かなり楽しみにしてましたし」

 

 朝陽の名前を呼んだのは久しぶりだった。近くにある透明に気がついたような感じがした。不思議とあたたかい気がしたけれど、これは僕がお湯に体を沈めているからかもしれない。

 僕らは二人きりでいるとき、あまり名前を呼ばない。そして僕らはほとんどの時間を単独か二人きりで過ごす。

 

「旅行の相談、俺じゃなくて朝陽ちゃんにばっかりしてたみたいでさ。『いつも二人で決めてるんだから今回は別の人と決めてもいいでしょ』って言われたよ」

 

 顔を見合わせ、揃って僕らは肩をすくめる。女性に振り回されているという点で僕らは同類だ。それを喜んでいる部分もおそらく同じだ。

 

 悠人さんは草原にぽつんとそびえる木に変身することも、林立する木々に紛れることもできるのだろう。僕にはできない。朝陽は僕と悠人さんを半々にした感じだ。

 小さな違いは決定的だ。人間の細胞の九九パーセントが同じなのに一人ひとりが違っているのと同じように、それくらい違うのだ。

 

 悠人さんは天井に垂れこめる湯気にそっと手を伸ばす。

 

「あいつわりと一人でいること多くてさ。なんて言えばいいかな……見てくれがいいから人は寄ってくるんだけど、でも常に一人な感じがするっていうか。伝わる?」

「大丈夫ですよ。心を開いてないような感じですよね」

「そ。高校のときからずーっとそんな感じだった。やっとまともに口を利いてくれるようになったのなんて、出会ってから二年経ったときだぞ? あれやばいって」

 

 まるで僕のように。あるいは朝陽のように。栗林先生にも独特なところがある。

 

 悠人さんの言葉は僕のやわらかいところをちくちくと刺した。悠人さんの笑顔は、人の棘を包みこんで丸く変形させてしまうような穏やかな力に満ちている。愛しているのだな、と思う。僕の対極にあるような人だ。

 僕は、一度でも、言葉よりも多くを伝えてくれる表情を浮かべたことがあるだろうか。胸に手を当てずとも結果は見えていた。

 

「だから一緒に来てくれてよかった。同期よりも朝陽ちゃんと仲がいいのは……けっこう心配だったりもするんだけどさ。まぁ今どき職場の人と仲よくしろってよりは、考え方が似ている人同士のほうが気楽に過ごせるのかなーなんて思ったりもして。とにかくこれからもよろしく頼むよ」

「僕に言われても困るんですけどね……でも悠人さんから朝陽に言うのも変な話っていうか、いきなりしんみりした空気になっちゃいそうですよね」

「そうなんだよ。だからそれとなく君に俺の考え方を伝えたわけ。朝陽ちゃんとそんな感じの話になったらフォロー頼むよ」

 

 それきり悠人さんは静かになった。湯に浸した体に神経を集中させて、疲れが取れていく様子を点検しているみたいだった。

 

「そうやって絶えず気にかけてもらえていることが、栗林先生にとってはありがたいのかもしれません。だから余計に一人でいられる」

「ん?」

「いえ。思っただけです」

「ふうん、そっか。巣があるからか」

「聞こえてるじゃないですか」

 

「ははは」と悠人さんは掴みどころなく笑う。

 僕と悠人さんを繋ぐものはほとんどない。朝陽と栗林先生を除けばてんでばらばらになってしまう点は、しかし思いもよらぬ引力によって調和していた。

 

 サウナ室から出た人が冷水に浸かり、露天風呂に続く扉が何度か開け閉めされ、脱衣所の扉に出入りが見られる。循環する人とお湯の流れの中、僕らはぴたりと静止していた。

 体温が上がったせいで鼓動だけがうるさい。

 

「君はもしも……あの子に騙されていると分かったらどうする?」

 

 不意に発せられた悠人さんの言葉は、内容も相まって僕を戸惑わせた。

 

「騙されている?」

「そう。実は朝陽ちゃんが君のことなんて全然好きじゃなくて、将来のために君と一緒にいる、みたいな。ほら、あの体じゃ何をするにしても不便だろう?」

 

 僕は考えるふりをして一○秒数え、答えた。

 

「僕が朝陽に騙された、と思うことはありませんよ。朝陽が僕を騙している現実に苦しむことはあるかもしれませんけど、僕が朝陽から予期せぬ事実を伝えられたとして、それを不信に繋げることはありません。騙された、なんて勝手に期待した人がぬかす攻撃の文句だと思っているので」

「それは……」

 

 僕の言葉は悠人さんの意表をついたらしい。彼は目を丸くした。彼の停止した様子は、自分が刺されたことに理解の追いついていない被害者みたいだった。彼の体液はゆっくりと着実にお湯に溶け出していく。傷跡に触れるばかりで何も言わない彼に、僕はなおも食らいつく。

 

「僕は朝陽を信頼しています。朝陽が僕のことが好きであるとか、朝陽が病気なのは間違いないとか、そういった信頼の仕方ではありません」

 

 何をされてもある程度は許容、受容できる。何を言われても失望することはない。僕が朝陽に向ける視線は、何にも遮られない。

 

 僕の説明に悠人さんは唖然とした。イケメンは大口を開けても様になる。驚いています、なんて絵文字みたいな顔は感情豊かで、内心を開け放しにできる人特有の親しみやすさにあふれている。

 信頼という熟語はたくさんの意味を背負いすぎている。僕はその意味の中の一つに特化していた。世間が信頼を誤解していようと、僕の信念は決して揺らがない。

 

 ややあって悠人さんは肩の力を抜いた。

 

「君はすごいな。本当に高校生?」

「来年に大学受験を控える高校生ですよ」

「僕らが高校生のときはもうちょっと考え方が幼かったんだけどな」

 

 悠人さんはそう呟いたきり遠くを見た。過去を漂っているようだったので、僕は黙っていた。

 会話が途絶えたまま、ついに僕らは湯船を出た。

 

「俺は不安に思うことがあったよ」

 

 体の水気を拭いて着替えてから、悠人さんは会話に立ち戻る。髪をわしゃわしゃ乱暴に拭いている彼を見上げると、一瞬だけ目が合う。

 

「大学のときだったんだけど、当時からつき合っててさ。自分の彼女が若くてきれいな女医になるんだーなんて思ったら、怖くなって。もしもマッチングアプリで俺と星奈が出会ってたら、きっと俺は騙されて、手もとには何も残らないな、みたいな」

「……でも高校のときからの付き合いなんですよね? 知らぬ間に同級生がマッチングアプリのサクラになってたとか、怖すぎません?」

「ありえないってのは分かるよ。貢がされてるとかそういうわけでもなかったし。でも考えたら沼に嵌まるだろう?」

「そんなもんですかね」

「そんなもんだよ」

 

「はぁ」と眉間にしわを寄せた僕を見て、悠人さんは「君には分からないかもなぁ」とほほえんだ。

 ドライヤーが空いていないことを確認した悠人さんは僕に向き直る。

 

「君たちは不思議だよ」

 

 彼は一度引き出しに隠した話題を取り出す決心をしたようだった。少し踏み込んでも大丈夫だと判断したのかもしれない。

 

「実験動物みたいですか」

「ん? いやまさか。僕は君をちゃんと人間だと思っているよ」

 

「ああでも」と彼は少し言い渋った。もう一度ドライヤーが空いていないことを確認して、観念したようにうなだれる。

 

「昆虫が世界に溶け込もうとするような不気味さは感じることがあったかな。君たちと一緒にいると……観察されているような気がするときがあって、背中に寒気が走るんだ。表面上はすごく穏やかな二人組でお似合いなんだけどね……」

 

 悠人さんはそこで一拍置いた。それまで僕に向かっていたのに、体ごと別を向く。

 

「中学のときから二人の世界に閉じこもれるのは珍しくて、危険な気がするんだ。二人きりで完結した関係って停滞とよく似ているから。人は停滞したままじゃ壊れるよ。そういうふうにできている」

 

 声のトーンは重苦しかった。心配よりもひとつ上の感情がこもっていた。僕らはうまくやれているのに、子どもがうまくやれているという状況だけで大人たちは心配する。それが僕には不思議だった。

 大人には人に構うだけの余裕があるのかもしれなかった。

 

「僕らは昆虫だから、平気です」

「ははは、それは言葉の綾ってものだよ」

 

 振り返った悠人さんは茶化すように笑った。彼の眼光は冷たく、それ以上の言葉を僕に続けさせなかった。

 

「さ、空いたから」そう言って彼は先に歩き出した。「二人を待っている間にアイスでも食べようか。風呂上がりのアイス、密かな楽しみなんだよね」

 

 本気で危惧して、心配してくれているのだろう。僕らが壊れないように気遣ってくれているからこそ、足として車を出している側面もあるのだろうか。大人は不思議だ。返礼が労力に見合わないのに、どうしてそこまで人のために行動できるのだろう。

 僕らの性質を不気味と評した悠人さんは、言葉に反して、悪く思っているわけではないらしかった。

 

 確かにこの人は栗林先生に似合う人だと思った。

 

「人として魅力がありますね」

「え、何その褒め言葉」

 

 背中にぶつけられた言葉に悠人さんは足を止める。僕はわきを通り抜けた。彼の慌てたような声が追ってくる。軽やかな足音がとなりに追いついた。

 

「言われたことないけどめっちゃ嬉しい」少ししてから考え直して「煽ってるわけじゃないんだよね」と言った。

 

「煽ってるように聞こえました? 僕にとっては最上級の褒め言葉のつもりだったんですけど」

「いやごめん。疑ってるわけじゃないんだけど、陸空くんとサシで話すのって初めてでしょ? だからうまくテンポを掴めなくてさ」

「僕は独特ですか」

「うん。なんか木魚みたい」

「もくぎょ」

「独特だけど僕は好きだよ。そしておそらく周囲の人も好く場合が多い気がする。君がそれをよしとするかは知らないけどね」

 

 この人は僕が思っているよりも危険だ。ナイフなんて隠していませんよ、というラフな格好をしておきながら、平気でどこかから刃物を調達してくるような狂気がある。危険だけれど、嫌いにもなれない。

 

 僕が目指すべきはこの人のような気がした。世界に同化し、普段は独自の世界観を隠しているような食えない人。同類を見つけたときに嬉々として交友を築けるようなアクティブな人。

 そう思ったら、悠人さんが僕らを気にかけてくれるのは同類だからのような気がした。

 

 ぶおーん、というドライヤーの音で会話は途切れた。鏡を正面に据えてとなりあう僕らが視線を交わすことはなかった。

 僕は鏡越しに背後を観察した。一人ひとりをじっとりと見つめるこの視線が昆虫的だと評されたのだと思いいたり、一人苦笑する。

 鏡の中で悠人さんも笑っていた。鏡が斜めに電灯を反射して、瞼の裏側が白く切り裂かれた気がした。

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