別に神様から許される必要なんてなかった気がする。   作:ぞんぞりもす

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旅-4

 女性陣の入浴は長く、脱衣所から出た僕たちがアイスを食べ終えても、なかなか出てこなかった。

 

「もう一個買ってくるけどどう?」

「いえ、僕は」

「遠慮しなくてもいいよ」

「朝陽がたぶん……食べたいって言うんですよ。あれ」

 

 僕はセブンティーンの自販機を指さした。

 悠人さんは「よく分かっているね」と立ち上がった。そして自販機の前で話す子連れの夫婦に気さくに話しかけた。彼は子どもの振ったどのアイスが一番おいしいだろうかという議論に真剣に向き合っていた。

 

 女性陣は悠人さんが二つ目を食べ終えてもとうとう現れず、間を持たせるために僕は「三個目はどうするんですか?」と尋ねた。

 

「さすがに三つ目はね……」

「多いですか」

「むしろ適量だよ。でも星奈と食べたいから。四つ食べたことがあるけどあれは厳しかったね」

「アイス魔人じゃないですか」

「家だと満足に食べられないからさ。買い置きしてると白い目で見られるんだ」

「食べすぎるなって視線ですか」

「我慢は体によくないのにね」

「我慢しなくなったら栗林先生を一人残して早死ですね」

「うわ、ひどいこと言うなぁ」

 

「分かってるよ」なんて平然と言いのける悠人さんは飄々としている。赤い暖簾を見ている彼は三つ目を買う瞬間を今かいまかと待ち焦がれているように見えた。

 

 僕は自分の口をついて出た言葉に打ちのめされていた。僕と朝陽では、おそらく僕が取り残される。

 今まで、どちらが先に、という話をしたことはなかった。ふっと湧き出た黒い不安は心から染み出し、足を伝って絨毯にしみを作った。どこまでも黒が広がっていってソファごと飲みこまれるような浮遊感に、僕はじっくりと耐え忍んだ。

 

「僕に対して人間的な魅力があるって陸空くんは言ったけど」

「……はい」

「それって君のコンプレックスみたいなもの? 言いたくないならそれでもいいよ。少し気になって聞いただけだから」

 

 なぜ悠人さんは僕の肉体を切り裂いて中身を見ようとするのだろう。血肉が緑色だとでも思われているのだろうか。

 

 風呂上がりの緩慢な時間に身をさらしているロビーで、僕だけが張り詰めている。

 ソファにどっかりと腰を落として天井を見上げるおじさんの腹には幸せが詰まっているのだろうか。だからあんなにも肥えているのだろうか。だからあんなにも、無防備な表情なのだろうか。

 

 僕は悠人さんを見つめ返した。僕の態度にはありありとした警戒があった。悠人さんは人懐っこくほほえんで首を傾げたままだ。

 

「俺と話してるとよくそういう顔するよね」

「どういう顔です?」

「どうしてそんなことを聞いてきたんだろう、みたいな顔。眉間にしわが寄ってるよ」

 

 人さし指が悠人さん自身の眉間に添えられる。僕はおどけて笑った。

 

 隠したところで見透かされるという諦めと、バレたって構わないという度胸とが奇妙に居座っていた。この度胸は、言いふらすことがないであろう悠人さんを信頼してのものだった。

 

「コンプレックス……なんでしょうね。僕には、おそらく誰かの特別になれるだけの強度がない」

 

 赤い暖簾は微動だにしない。開け放しのロビーには生ぬるい空気がとどまっている。

 僕は悠人さんが口を開く前に続けた。彼はおそらく僕の意見を否定するだろうが、そんなの知ったことではない。

 

「木魚が自分の音を好んでいるかどうかなんて分からないものですよ。居間から流れてくるテレビの音を聞いて、一人寂しく夕方に泣いているかもしれないんですからね」

「……隣の芝生は青いと」

「思わず除草剤を撒いてやりたくなるほどに」

 

 悠人さんは声を上げて笑った。

 僕は彼の顔を見ることができなかった。僕の根幹を誰かに打ち明けることは稀だ。朝陽に対してすら、回数が少ない。

 

 浴槽に浸かっている最中よりも頬が熱くなった。脇の下に変な汗をかいていた。こんなふうに生きている熱を感じることもまた稀だった。

 

「互いを知らないからこそ、勇気の一歩を踏み出しやすいことがあります」

 

 人の心に近づくことがコミュニケーションだ。そして知りすぎてしまうと最適なコミュニケーションの加減も分かりすぎてしまう。厚い漆で塗り固められたような心まで到達するような衝撃は起こりづらくなる。

 

「僕が話したのにはこういう理由も含まれています。いつまでも秘密を抱えておく必要もないでしょうし」

「……それもそうだね。君ともうまくやれそうでよかった」

 

 悠人さんは手を差し出した。固まる僕の手を力強く握った。握手は双方の中間地点で結ばれるものだが、このときは僕の側にだいぶ寄っていた。

 

 

 四人で集まってアイスを食べ、翌日の予定を確認して解散した。栗林夫婦と一緒にいるときはそんな素振りを見せなかった朝陽だが、僕と二人きりになった途端詰め寄ってきて「大丈夫だった?」と尋ねてくる。

 僕の胸ぐらを掴んでずいと背伸びしているあたり、かなり心配していたと見える。

「木魚みたいな人って言われた」と伝えると、呆けたあとで心配そうな顔をした。あとから悠人さんに頭を下げるのだろうなと予感した。それに対して悠人さんはおおらかに笑って返答をよこすのだろう。

 

 僕らの付き合いは長くなるだろうし、僕は彼を危険視しているが嫌ってはいない。

 

「あ、ライン知らないや」

「今すぐ聞いてきなさい!」

「いやいいよ。たぶん知らなくても仲よくやれるだろうし」

「なにそれ……」

 

 朝陽は本気で困惑していた。尻切れトンボになって飛んでいった語尾は、ふらふらと空中を漂って夜闇に溶ける。

 そのあと、僕が本気で聞きに行くつもりがないことを悟ると「私が教えてあげるから」とげんなりした。

 

 

 一組みしか敷かれていない布団に盛り上がったあと、僕らはすぐ床についた。移動の疲れもあったし、明日早いのもあった。

 

 欠伸を繰り返す僕を見て、朝陽は「お風呂上がってから一時間で一番眠くなるんだって」とほほえんだ。さり気なく頭を撫でられ、むず痒さを覚える。暗い分だけ意識してしまう甘さとやわらかさが僕を魅了する。

 慈愛のこもった手つきは、やっぱり、まだ怖い。その場から走っていなくなりたくなる。深夜三時の外みたいに、慣れても慣れないみたいなものはいくらでもあるのだ。

 

「珍しいね」

 

 朝陽の言葉に僕はふっと息を吐いた。ぎゅっと頭が抱かれて弾力が離れていく。

 

 天井を向いたらしい朝陽は、やがて「明日は晴れるかなー」と言った。確認すると降水確率はゼロパーセントだ。

 

「ちょっと。これから眠るんだよ」

 

 ブルーライトの刺すような光が室内の闇を押しのけた。部屋の形がぼんやりと浮かび上がっている。僕は謝ってスマホをスリープにした。瞼の裏に光が残っているせいで暗順応のやり直しだ。

 天気の話をどこ吹く風といった調子で聞いた彼女は、話の切れ目になってこんなことを言いだした。

 

「今ごろあっちの部屋ではどんなことをしてるのかなー」

 

 好奇心からくる発言に反して、音階は穏やかだった。

 

「案外あっちでも、今日みたいな天気だったらいいねとか言ってるのかもしれないよ」

「そうかな? 私は避妊が必要なことをしてると思うけどな」

「かもね。いつも家だとマンネリになっちゃうから」

「先生からするのは構わないけど、ちゃんと避妊すること、朝遅れないことって注意されちゃった。人さし指をぴんって立ててさ」

「へぇ」

 

 僕らの間にそういう雰囲気が漂ったことはある。一歩を踏み出すことができなくてどっちつかずで流れたがけれど。今回もその口で、話しているうち流れるだろうと僕は予感した。

 朝陽は僕の手首を掴んで、自らの薄い腹にあてがう。この腹が膨らむことが信じられなかった。身ごもることで心身にかかる圧みたいなものに、朝陽が耐えられるとも思えなかった。今のように直接意識するのは初めてだった。

 奇妙な沈黙が暗闇に引き伸ばされて、胸がざわつく。

 

「え」と僕は言った。

「ん」と朝陽は笑った。

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