別に神様から許される必要なんてなかった気がする。 作:ぞんぞりもす
しばらくしてから朝陽は「今はまだかな」と言った。
「気力がないとか勇気がないとかじゃなくて、私がちゃんと子どもの世話をできるようにならなきゃ。そもそも私がまだ子どもだし、自分の面倒も自分で見られていないし」
「君はけっこう……自立したがりな面があるよね。首輪がない人生のほうが楽なのは、そりゃそうなんだろうけど」
育ててくれた両親には顔向けできないな、とは思うけれど。僕たちはこんなふうに考えてきた。そしてその考えが覆される日は未来永劫来ないだろう。
「私たちお父さんお母さんからちゃんと愛してもらったのに、裏切るみたいに成長しちゃったね」
朝陽はいたずらっぽく笑った。悪いお姫様が騎士を誑かすみたいに、妖艶に、少しだけ幼く、でも笑みの影に罪悪感をちらつかせて。
彼女は僕の手を両手で包みこんで胸に持っていく。懸命に火が揺れている。
「愛にはおそらくいろんな形があるよ。両親には感謝でいっぱいだけど、その愛の形が僕たちには合致しなかったんだ。鍵穴が違えばドアが開くことはないんだ」
「自分自身でピッキングができたらむりやりはめるのに」
「ピッキングするのは結婚詐欺とかの人でしょ」
「あはは」と朝陽はボリュームを落として笑う。その声はきっと夜空へ届く前に風にさらわれてしまった。朝陽は思い出したように「私、まだ君から似合ってるって言ってもらってない」と言った。
「何を?」
「浴衣。君のために選んだんだよ?」
「自然に似合いすぎてて気にならなかった。素敵だよ」
「ほんとぉ?」
拗ねるような声が耳をくすぐる。
「君もきれいだし、その柄を選んだ君の感性も素敵だ」
「あーあー調子いいことばっかり言って。そうやっていろんな女の子を騙すんだ! きらーい!」
楽しげな朝陽は僕にくっつき、ぴしゃりと胸を叩いた。
昨夜のことなんて何も知らない顔で昇ってきた太陽が、完璧な朝を連れてくる。雪解け水が頭に行き渡るみたいに涼しくて爽やかな寝起きだった。
着替えと朝の準備を済ませ、僕らは洗濯機から取り出されたばかりのような空へ繰り出す。
秋色の絨毯が道を示していた。赤い命が散った証は、日光を受けてきらめいていた。僕らは今からそういう一瞬の……夏と冬の間になんとなく存在する糊代みたいな秋を味わうのだ。
レンタルの着物でぶらぶら歩いたり、お土産を見たり、少し遅めの昼食でお腹を満たしたりしていたら、日が暮れるまであっという間だった。
最後に僕らは、道沿いの川をゆっくりと下る船に乗った。大人数が乗れる船は、しかし日中のピークをすぎたのか、船の大きさに反してこぢんまりとしている。
夕焼けと紅葉の入り乱れた街は、灯火がなくても明るいように感じられた。
実際は長い影が落ちて暗いというのに、夏祭りの会場が暗さに反して不思議と明るく感じられるみたいに、僕は不思議な魔法にかかっていた。
「都会の木って作為があるよね」
今日一日ずっと思っていたことを口にした。
栗林夫婦は船頭さんの話に耳を傾けている。後方にいる僕らの話は聞こえまい。
「そこ植えたら世間は綺麗って評価するよね? みたいなってこと?」
「うん」
朝陽は呆れたようにため息をついたあと、渋々といった調子で「分かるけどさー」と同調する。
川の流れに沿って両端に植えられた赤い広葉樹は、作為の影を長く伸ばす。物憂げに周囲を見る彼女は、残照を照り返す水面と相まって大人っぽく見えた。
桜が川を彩るように、ところどころに葉が浮かんでいる。あいにく世界が暗い色を落としていて色は分からないけれど、これも赤色をしているのだろうな、と思った。
朝陽は相変わらず中空を見ている。彼女はそのままの宙ぶらりんな口調で話した。
「人の意思を感じると、それがどんなに自然的なものでも、きれいって言う気が起こんなかったりするよね」
「するね。人の優しさも似た感じがする。何かを感じたら警戒して心を開く気がなくなる」
「君は全員にその何かを感じてるの?」
言い終えて、朝陽はまた黙る。不意に「私が海を好きなのはそういう理由からなのかもしれないなぁ」と呟いた。声は進む船が立てる小さな波に飲みこまれて消えた。
朝陽は無言で僕の腕を抱く。肩に頭を預けて船が辿った道を見る。夜がすぐそこまで来ているというのに、太陽の光は僕らの世界に留まっていた。水面のきらきらはやがて途絶えた。
先頭を見ると、遠かった船着き場がすぐそこまで来ていた。
宿に戻った僕たちは、あらかじめ予約できていた家族風呂をいただき、寝室に戻った。夕ご飯は昨日と同じように豪勢だった。そして栗林夫婦は酒を楽しんだ。
あんなふうに酒を嗜める大人になれるかどうか僕と朝陽は真剣に議論をしたが、とうとう結論は出なかった。そもそも二人の酒の強さがどうなのか、僕と朝陽の意見が最初から食い違ったのだ。これは珍しいことだった。
「飲めるようになったら対決だね!」
朝陽は口を尖らせてそう言った。
夕食を食べ終えて寝室に戻っても、朝陽はへそを曲げたままだった。
せっかく昨日とは違う浴衣を着ていたのに、僕はそれを褒める機会を得なかった。浮き島のように和室に敷かれた布団は、そっくりそのまま僕の心情で。最低限の会話で布団の隙間に入り込むと、冷たい。
二人して天井を見上げたまま、どれくらいかは分からない時間がすぎた。
「このままじゃ眠れなくない?」
唐突に朝陽が言った。刺々しさや苦々しさ、楽しさをできるだけ排除したような平坦な口調だった。おそらく意識して出した声なのだろう。僕はその誘いに乗った。
話を進めると、広縁に出て夜風に当たることになった。
障子戸を開くと、夜風が僕らを優しく迎える。和室には自然が面していて、人工の明かりは遠くにぼんやりと見えるばかりだった。
対面に腰掛けても、朝陽は僕と目を合わせずに空を見てだんまりを決め込んでいる。
「また来たいって、思ってるんだけどね」そうは感じさせない雰囲気だった。「なんで私たちあんなにぶつかったんだっけ」
「さぁ……なんでだろう」
「ね。何年かあとになって飲み比べすれば決着する話なのにさー」
朝陽がぷくぷく笑ったので、それまでの空気がやっと解けた。「変な言い合いだったよね」と言い合って、僕らはそろって体の力を抜く。
そこからの沈黙は、夕食を食べてからと同じ沈黙なのに、どこか違っていた。
旬を迎えた梨のように優しく甘い月明かりが僕たちをじっと見守っていた。
「願いが叶ったから、今度は二人きりで来れるようにお願いしとかなきゃ」
「お願いするって……誰に? 両親とかじゃないでしょ?」
「そりゃ違うよ。誰に……うーん……? 強いて言うなら、かみさま? 独り言だったんだよ」
「君は……」
神様を信じるのか、なんて。
聞けなかった。願いを叶えてくれるのが神様なのだとしたら、君の特性も神様のせいだから。
悪夢ですらパーティーにまざれるような飾りつけを施して、特別な夜にしたいと思った。
「どうしたの? なに、な~に?」
朝陽は僕が言いかけたことを必死に聞こうとした。
僕がしどろもどろになるとさらに畳みかけて、「君って絶対に隠し通すか全部正直に話すかだから、そうやって言いかけるのは珍しいんだよね。しかも私察せてないし」と言った。
しばらく話を続けて、となりの部屋の明かりが消えたタイミングで僕らは立ち上がった。
「体冷えちゃったかも。もう寝よっか」
「うん」
「あのまま寝るよりもあったかくして眠れそう」
「……布団が一枚増えたとか思ってないよね?」
「んー? どうだろうねー?」
布団はやっぱり冷たかったが、抱き合ったらあたたかくなった。
体の中で火の粉が舞い、秋風にさらわれて天に昇る。寒い和室で彼女だけが熱を帯びていた。生きている熱だと思った。つい数時間まえ僕が感じた争いの熱が紛い物だと思うほど、血肉が焦げるにおいがした。
甘い体臭の奥に隠しきれない疲弊があった。長い間淀み、腐敗しているような気がした。
「神様を恨まない君は素敵だと思う」
「もう、なにそれ。またよく分かんないこと考えてる」
彼女は笑った。僕がその言葉を言ったことを心の底から喜ぶみたいにして、笑った。
世界は暗く、闇に包まれている。闇は僕たちに付き添ってくれているみたいに生あたたかい。
陽光にさらされる笑顔もいいけれど、朝陽にはやっぱり、こういう暗い場所での笑顔こそ最も似合うと思う。今の僕ならば、彼女の水着に紺を選ぶ。そう変化してしまっていた。
僕は朝陽の頭を撫で、その流れのまま、背中に回した手で髪を梳いた。
長くて艷やかで、この世の果てにたどり着けるような、誘惑に満ちた漆黒の長髪。常に失意に沈んでいるような、光を白く反射する黒髪。僕らの命のように引っかかることなくすーっと流れ落ちて、知らぬ間に終点についた。
そうしているうちにまどろみに引かれていた。
翌朝は冷え込んでいた。
冬の気配を孕んだ風は冷涼だった。空は氷が張った湖みたいだった。泣き別れたように一直線に区切られた向こう側の空から灰色の風が吹いてくる。何重にも雲が重なって空を閉ざしていた。