別に神様から許される必要なんてなかった気がする。   作:ぞんぞりもす

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高3-1

 目をそらしたくても叶わないことがある。小テストとか、受験とか、就活とか、納税とか。僕は社会に生きている都合上、どうしても無縁というわけにはいかず、世間を半透明な何かのように認識していた。

 二○年弱のあいだ朝陽を生かしてくれている医療技術も医療スタッフもみんな世間だ。考え直してみると、僕たちから世間を排することはできないのかもしれない。

 

「病院の希望はないの?」

 

 僕は重い腰を上げ、三年の春にやっと朝陽に問いかけをした。まだ雪の残る肌寒い春だった。僕の制服はくたびれ、サイズはぴったりになっていた。

 朝陽の制服は言わずもがな。しかしここ一ヶ月は病衣しか見ていない。だから制服姿が朧気になっていた。朝陽は春休みに実家に戻ることを選ばず、病室にとどまることを選んだ。私服も長いこと見ていない。

 

 

 共通テスト対策を受けてから病室に向かうと、すでに夕暮れで。拭えない疲労感が世界全体に薄く滲んでいる。

 東向きの窓から見える世界は、時間よりもずっと影が濃い。ビルの上には夜が広がっていた。日中の爽やかさを残した風は妙に軽く、浮ついて頬を耳へ抜ける。病院の空気には外よりも多少春らしいところがあった。

 その感覚が不快だった。僕は日常に少し疲れていた。

 

 外の濃密な影は、朝陽の表情に侵食していた。

 

「希望って言われてもなぁ……」

 

 腕組みをして眉間にしわを寄せる朝陽の姿はなかなか見ない。下半身を掛け布団に隠して足を伸ばすのが、彼女のベッドでの居住まいだった。掛け布団にもシーツにもしわが寄っていた。気持ち悪い生き物みたいだった。

 

 僕たち人間は、生きているだけでこんなふうにしわが寄る。

 

「そもそも、こういうのは君の希望が第一でしょ? 受験するのは君なんだから。大学での学びって一生ついて歩くんじゃないの?」

「似たようなことを先生からも言われた。でも僕の場合、どこの学部っていうのを選んでもらえればあとは勝手に授業を受けて修めるだろうから、そのどこの学部っていうのを選んでほしいんだよね」

「いや……だから、それは君の希望なんじゃないの? ないの? 希望」

「これといって特に」

「何かに興味があるとか」

 

 僕は唇を固く引き結んで朝陽を見つめ返す。自分の眉間に力がこもったことを、僕はなかば他人事のように客観的に認識した。

 まっくろな瞳はありありとした困惑を浮かべた。

 こんなふうに面と向かって進路の話をしたのは初めてだった。

 

 しばらく見つめ合ったあと、僕はとうとう口を開いた。逃げられないだろうと観念したのだ。

 

「病院……じゃあ、医学部?」

「そんなにさらっと行ける場所だっけ……?」

 

 僕も朝陽も感づいていた。興味の対象として病院を挙げた裏には朝陽の影響があると。けれど僕たちは表の問題だけを取り上げて議論した。奥深くに刃を食い込ませれば出血量が増える恐れがあった。

 

 自白すれば僕はおそらく究極の指示待ち人間だ。だから人としての魅力に欠けていて、人間味にも欠けているところがある。機械と同じなのだ。今のところ自ら思考する機械は生み出されていないけれど。

 人類の一歩先を行くであろう機械と同じことをしている僕は、しかしこの時代では致命的に退化していた。

 

 指針を与えられなければ何もできない。僕はここにきて自分の欠陥を突きつけられた。

 

 勉強が大変だとか、浪人したらどうするとか、私立と公立で学費がぜんぜん違うからちゃんと見定めなきゃいけないとか。

 話し合いは議論というよりも、僕が安直に導き出した結論を朝陽が窘めるような形で進んだ。こんな状況は珍しい。僕のどの記憶にも当てはまらない。病室の天井等がにわかに明るくなった気がしたが、朝陽に睨まれてすぐに元の明るさに戻った。

 

 今まで手を引いてくれていた彼女の感触がなくなり、僕は手を差し出したままきょろきょろするしかないのだ。右往左往しても荒野には何もない。娯楽もなければ水もない。

 これからはその荒野で、手を引かれるのではなく並んで歩かねばならないのだと思った。

 

 僕にとって社会は荒野だ。面白みがなく、すさんでいる。

 

 今までの朝陽は、わざわざ後ろを振り返って「少し休もうか」と提案してくれた。けれどこれからの朝陽は、僕の肩にもたれて休み、そこから二人で相談して決定していくつもりなのだろうか。

 

 気づきを得たのだから、僕は可能な限り寄り添うべきなのだろう。しかしいきなり人生の航路を決めるのは無理だから、彼女に敷いてもらったレールの上で少しずつ自分の手を広げていくと決めた。

 

「海が見える病院」

 

 会話のさなか、朝陽は不意に言った。

 朝陽の表情には、道でいきなり人からぶつかられた人みたいに困惑するところがあった。そしてぶつかってきた人が急に際立って見えるように、その文章は朝陽を釘付けした。

 

「ここからじゃ……」

 

 彼女は暮色の街並みを見やった。視線につられて僕も外を見る。

 実家にいたころ通っていた病室は西向きの窓だったから、海と夕日とが毎日見れた。どうやらその光景は彼女にとってささやかな幸福だったらしい。

 あるいは、自分が希望を口にしなければ話が終わらないと踏んだのかもしれない。いずれにせよレールは敷かれた。

 

 他人の気持ちは分からない。僕は何度も推測を重ねて、それでもなお間違え続けてきた。

 

 それ分かる、なんて軽率に口にするのは、人生経験の少なさを共感という蓑に隠すみたいで浅ましいと思う。

 

 朝陽は街から視線を外さない。僕は窓に近づいた。「ねぇ」という言葉に振り返ると、朝陽が僕に手を伸ばしている。

 僕たちの間にはほとんど音がなかった。並んで立った。黒く輝く瞳には死にゆく街が映っていた。街よりも、朝陽の横顔のほうが僕の記憶に残っている。

 

 

 電車がホームに滑り込んで、汽笛を鳴らして去っていく。

 ロータリーにずらっと並んでいたバスは、いつの間にかいなくなっている。

 真下の通りはスーツ姿の人が多い。都会のように何かであふれかえる光景は、田舎ではまったく見られない。田舎の風景をスイカゲームで言えば、決められた枠内にはナシとかモモとかレモンとかがぱんぱんに収まっていて、サクランボとかイチゴはほとんど入っていないみたいだ。そういう余白と中途半端と余裕が共存しているような感じを僕は好んでいた。

 

「いつもの時間に通話かけるよ」と朝陽は言った。

「うん」と僕は朝陽を見たけれど、やはり朝陽は僕を見ていなかった。

 

 扉に向かう僕の背中に朝陽は声をぶつける。

 

「私にとってのダイヤが、君にとってのダイヤとは限らないんだよ」

「石に価値を見出す人だっているよ」

「希望の底には何があると思う?」

「また別の希望じゃないかな」

「……前向きな発言は、本来なら私がすべきなんだろうけどね」

 

 朝陽は疲れたようにふっと笑った。長い黒髪に隠れた表情なんて見なくても分かった。きっと目を伏せてほほえんでいるのだろう。

 気分が落ち込んでいるとき、朝陽はそういう笑い方をするから。

 

 

 

 大学や会社は、高校生からすれば不透明だ。僕たちが触れることのできる現実は、ネットによる偏った報道と思想にまみれていたり、綺麗な片面だけだったりする。

 月の裏側も月だなんてこと、社会にはありえない。

 

 医療界隈のことなんて、早い話が進学してみないと分からないのだ。コロナによって崩壊寸前まで追い込まれたとか、常に人材不足だとかって聞くけれど、医療関係者の愚痴垢はいつだって業務でなく人間に対して嘆いている。

 

 高校生の時点で、将来――生きてきた年数の倍以上先のことを考えることなんてできっこないのだから、大人しくレールに従えばいいと僕は思う。自分の寿命に見当がつけられないように、自分の未来にも見当はつけられない。

 

 

 その日を境に、ついに僕の勉強には身が入るようになった。

 製品を作る機械に原材料が与えられ、最短経路を猛進したようなものである。僕が本気になったのだと世間は評した。朝陽だけがどこか納得していないような顔をした。

 数多い朝陽との記憶の中で、僕はその不服そうな表情をとりわけ鮮明に覚えている。

 

 桜の花は春風に運ばれ、遠くへ行ってしまった。流れていく先に目をやると霊峰がある。徐々に雪は減っていき、峰の先はとうとう雲に覆われた緑の山となった。

 静かにそびえる山から、雪解けと初夏が混ざりあったような冷涼な風が吹いて、季節は夏になった。

 

 そのころ僕は受験に祟られた生者のように、心身を追い立てられる生活をしていた。

 

 ぽたぽたと流れ落ちる体液がアスファルトを濡らす。僕は濃いしみを振り返る余裕を失いつつあった。だからアスファルトが汗によって濃い灰色に変わったのか、それとも赤い色が点々と続いているのかを判断できなくなっていた。

 僕にできるのは前を見ることか、となりを見つめることだけだ。

 

「三箇所くらい候補があるんだよね」

 

 朝陽の病室を訪れた僕は、丸椅子に腰かけるなり口を開いた。あれから海の見える病院探しの日々は続いている。絞りに絞って、候補は三つとなった。

 受験する大学は学力的にどこも問題はないと思うけれど、そろそろ一つに絞って対策するのが安全だろう。

 

「君の好きなところでいいよ」

 

 朝陽の長い髪はところどころから枝毛が出ていた。初めて会ったときのように、やわらかくささくれ立っていた。口調にも表情にも疲労が滲んでいる。

 よく眠れているのかと僕が尋ねると、朝陽は同じ問いを僕に突き返して笑う。

 

「クマひどいよ、きみ。私のこと心配する前にまず自分の健康管理ちゃんとしなって」

 

 僕が答えを渋ると、朝陽は「あーあー。君がちゃんと眠ったら私の心配の種もなくなってよく眠れるようになるかもしれないなー」とわざとらしく天井を仰ぐ。その拍子に壁に後頭部をぶつける盛大な音がした。

 両手で頭を押さえる朝陽を見て、僕は笑った。笑い声はほとんど出なかった。

 

 ここ最近の僕たちの空気には、こういう冬みたいな感じがあった。静かで冷たくて、どことなく緩やかな死に、体を横たわらせているような。

 空調の効いた室内は涼しく、その稼働音が響き続ける。僕を取り囲む空気が心臓を削っていって、俯いたら心の削りかすが床に落ちているんじゃいかと思った。

 

「オープンキャンパスあったんでしょ? どうだったの?」

「……どれだけ見ても結局分からなかったよ。実際に見てもリモートで見ても、綺麗なところしか見せていないんだろうなって感想が先に出てくる。小綺麗だった」

「君はさー……就活でも苦労するんじゃないの。それ」

「そのときは僕だってもう少し大人になっているから、上手に溶け込めるんじゃないかな」

「三年前の君も今と似たようなこと言ってた気がする」

「じゃあ苦労するかもね」

 

 僕らは笑みをかわす。闇がどれだけ深く、重く、大きいかは、体験してみないと分からない。孤独や夜と同じだ。

 

 僕の生活は無味乾燥なもので、ときどき朝陽と話すことで水に浸された。僕は朝陽のところに足繁く通った。

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