別に神様から許される必要なんてなかった気がする。   作:ぞんぞりもす

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高3-2

 日本が段階的に寒くなるにつれ、朝陽が考えこむ時間は増えた。私室と言っても差し支えないほど長く過ごした病室には物の一つも増えていない。

 周囲の重力を一手に引き受けたような浮かない顔で、あるとき朝陽は出し抜けに言った。

 

「君ってさ、不幸だよね」

 

 外では初雪が降っている。赤色の葉は見る前に散ってしまった。今年の秋よりも去年の秋のほうが、もはや思い出しやすかった。

 窓から目を戻すと、朝陽は無表情で僕を見つめている。表情を変えることすら億劫になった人が浮かべる乾燥した無表情だった。

 

「どうして?」

 

 僕は首を傾げる。僕らは互いから視線をそらさなかった。

 僕たちは相思相愛の男女であり、世間から見ても僕たちから見てもその姿は幸福に映るだろう。彼女がどの側面を切り取って不幸と評したのか、僕にはまったく理解できなかった。

 

 たとえ熟れた果実の中が腐っていようと、外側から見る分には何も分からないというのに、彼女は僕を知ったふうに語る。勝手に皮を剥いた気でいるのだ。それとも、となりのミカンが腐っているから、同じダンボールに入っているミカンも腐っていると言いたいのだろうか。

 

 僕の説明を聞いた朝陽はほほえんで窓を見やる。「君には何を言っても賛同が得られないから」と彼女は換気を終えた。窓の閉まる音は重く冷たい。鍵の回る音が遅れて心臓に響く。

 言葉を尽くすことを諦めるようになった人間関係は、破局へと向かっていく。僕はこの場で朝陽の考えを聞き出したかった。

 

 けれど焦ってはいけないとも思った。焦って踏みこんだ分だけ、心の扉は固く閉ざされるものだ。言葉を探す僕よりも先に、ベッドに戻った朝陽が口を開いた。

 

「今年の雪は例年より早いんだって。積雪量が多いだろうとかっても天気予報でやってたし、マンション前の雪寄せには時間がかかるかもね」

「大体は大家さんがやってくれてるんだけどね……でも覚えておくよ」

「うん。そうして」

 

 朝陽はやっと僕に笑いかける。彼女は続けざま髪を耳にかけた。珍しい動作だった。

 

「僕は幸福だと思うけど」

「……うーん」

 

 朝陽は僕をじっと見る。本心を見透かすために見つめたのだと思った。

 掛け布団から取り出された手が僕の指に絡まる。昔よりも骨ばっていた。日光を鮮やかに照り返す氷河みたいな、それでいて日光をまったく知らない手だった。

 

「今の君は……見てられないよ」

 

 子どもがむごい目にあっているから目をついそらしてしまう、みたいな言い方だ。

 

 東向きの窓からは夕日が見られない。今の彼女は残酷な光を見つめたがっている。

 光があるからこそ影が色濃く浮き出てしまうのを見て、自分を痛めつけたいのかもしれない。太陽のせいで世界の暗さがより際立つことと、僕にとっての太陽は誰かということを重ね合わせて、お門違いの中傷をされたがっている。

 

「君にとっての選択肢ってあってないようなものじゃん。私が全部狭めちゃってる。私の影がちらつくだけで、一○個あるものが一個か二個くらいまで減っちゃうんだよ?」

 

 朝陽は俯いて笑った。朝陽は日常と地獄に追いつかれて、走るのをやめてしまった。荒野には僕らしかいない。だから僕がなんとかしなければならないのに、僕の言葉には血が通っていなくて、ひたすらに冷たい。

 

「今の朝陽は、取れる選択肢が少ない状態を不幸と言っているだけだよ。不幸とは結末なんじゃないかな。落ちていく過程に転落という名前がついていて、その鎖が伸びていく先にいくつかの不幸があるんだ。つまり不幸は落差がなければ発生し得ない。だって転落の結末が不幸だから。僕は転がり落ちていないよ」

「また君はそうやって……屁理屈ばっかり」

「僕が君と出会ったことで空の高さを知ったのは間違いない。どこまでも飛んでゆけると思っていたものが、今は現状維持で航空しているだけなんだよ」

 

 上昇して進んでいたものが、地面と水平に進むようになったことを転落とは言わない。したがってこれは不幸ではない。

 

「どこが不幸なの」と僕は尋ねた。

「だって」と朝陽は言い淀んだ。絡みつく指に力が入った。

 

「幸福になれる選択肢とか可能性とかが減るから。私のせいで、最低限の幸福しか得られない選択肢が売れ残っているようなものだから。大きな幸福を打ち捨てて小さな幸福に甘んじるのは不幸じゃないの?」

「それが不幸ってことはなくない? 愛の反対が無関心なように、幸福の反対は無感動だと思う。満ち足りていると感じることができず、逆に満ち足りていないと感じることもできない。不幸の反対も無感動なのかもしれない。満ち足りていないことや不幸だと感じられることはある種の幸福だよ。それすらままならないほど疲れ切っている人だっている」

 

 だから君の理屈は通らない。

 

 僕は朝陽にきっぱりと告げた。

 朝陽は奥歯を噛んだ。引き結ばれた唇は鮮やかな赤色をしていた。彼女に睨みつけられたことは少なかったように思う。

 

 また一つ、知らない星の輝きを見つけた。空に浮かんだ宝石に一つずつ名前をつける関係だった僕たちから、弾力の豊かな余裕はなくなってしまった。

 朝陽はしばらくののち肩の力を抜いた。

 

「痛いって思うことは幸福なんかじゃないよ」

「少なくとも生きていることの証左だよ」

「君ってそんなに生に傾いた人だったっけ」

「人の人生観にはメトロノームのような振れ幅がある、と昔の君が教えてくれたよ」

 

 スリッパが廊下を進む。気の抜けた音だった。小さかった音は次第に大きくなり、そして再び小さくなった。

 

「私は君がいることで……君がいるせいで」朝陽はぽつりと言った。「自分の犠牲者を毎日見なきゃいけないの。この気持ちって分かる? 好きな人を犠牲として捧げるのがどんなにつらいかって分かるでしょ?」

 

 俯いた朝陽は掛け布団の一点を見つめて固まった。

 それなら振り払えばいいだなんて僕は言えない。振り払おうにも、そんなことをすれば自分が崖下に落ちていくから。

 

 大きな夕日は僕らの見えないところで沈んだ。世界は一瞬にして色を失った。

 

 

 その日を境に、僕と朝陽の間からは少しずつ言葉が取り払われた。

 言葉の隙間を満たすのは重たい空気だった。無弾力で冷たい空気には不快感が多かったけれど、一方でそれが僕たちの密接な繋がりを裂くことはできなかった。徐々に内側が腐食していく感覚は鮮やかに把握できた。

 

 僕にも朝陽にも居場所がないことは、このときばかりはプラスに作用した。世間を排しすぎたせいで、僕らには僕らしか居場所がなかったのだ。

 

 

 クリスマスを控えたある日、とうとう朝陽が限界を迎えた。

 彼女は僕が病室に入るなり叫んだ。

 

 意味を持つ言葉だったのかは分からない。彼女の声を聞いた僕はそれほどまでに疲弊していたし、朝陽の呂律も不明瞭だった。

 彼女は僕が椅子に座るのを瞬きもせずに注視していた。

 

「……ごめん」

「うん」

 

 安らかに傷つけ合うような白い病室の外では、しんしんと雪が降っていた。残照の明かりが取り払われ、ひっそりした静けさが病室に落ちる。

 

「こっち」

 

 深夜の音楽室から聞こえてくる音みたいな声だった。おっかなびっくりで、いやに冷たく心に響いて、思わず逃げたしたくなるような。

 僕は歯を食いしばって丸椅子を前に出した。

 

 掛け布団から手を出す衣擦れでさえ際立つ沈黙だった。そっと伸ばした両腕で、朝陽は僕を抱きしめた。

 中綿の入ったジャンパーからはぬくもりが伝わってこない。少量の雪がついていたせいで、薄い病衣の朝陽はさぞ凍えたろう。僕の首筋に当たる息は桜色の熱を帯びていた。

 

「私はやっぱり、君の選択肢を狭めたくないんだよ」

 

 朝陽は僕に言った。繰り返し伝えられてきた内容だった。しかしはたして今から進路を変更することはできるのだろうか。

 一点への勉強に打ちこんでいた僕にはそのあたりさえ分からない。僕の視野は狭まっていた。

 

「どこに行ってもいいんだよ。私は陸空の進学先を縛りたくないから。選択肢を狭めたくないの」

「僕は哀れ? 惨め?」

 

 それはあまりにも、あまりにも――身勝手だ。今さらになって、何を。

 先がどうなっていようと、僕ら二人だけを乗せた人生は加速し続ける。

 

「君はそう言うけど――」

 

 僕は致命的な言葉を踏みとどまった。だが朝陽は聡明だ。

 僕はこのとき、もう十分に縛られているような気がした。自分で選んだのにもかかわらず、朝陽を恨まずにはいられなかった。

 

 日常に始まり、進学先や交友関係のほとんどすべてを供物として差し出してきた。これは緊縛や汚染ではなかろうか。立ち止まって考えてみるとそんな気がした。少なくとも、当事者である僕たち以外はそう捉える気がした。

 

 普段の僕なら被害者面をする自分を浅ましく思うが、僕だって疲れていたのだ。僕は二人の関係に決定的で致命的な打撃を与えてしまった。たとえ音に出さずとも、身勝手なのはどちらだろう、と双方が考えてしまった。

 

 朝陽は失望をありありと滲ませ、がっくりと肩を落とした。脱力したと思ったら今度は胸ぐらに掴みかかった。

 

「言ってよ! 言い切ってよ! そう言いなさいよ!」

 

 血走った目は潤んでいて、電灯を受けてきらめく。よく研がれた刃物が光を反射したのだと思った。

 今の朝陽には触れたものすべてを傷つける鋭利さがあった。今までで一番、朝陽の頬は血色がよくなっていた。目頭から感情がこぼれても、朝陽は一切意に介さなかった。その涙に糸を通したら、それだけで真珠のネックレスになってしまいそうなほど、尊い薄透明な輝きだというのに。

 彼女は命の限り僕の胸ぐらを掴んで睨み続けた。

 

「私を傷つけてよ! 今すぐに!」

 

 吠える心が耳を食い破って脳にまで噛みつく。血を流しているのは僕ではなく、人懐っこい犬みたいに小さな女の子だ。

 

「僕は――」

「うるさい! 今は傷つけてって言ってるの! 傷つけてって頼んでいる人を傷つけないのはもういっそ暴力でしょ!?」

「めちゃくちゃだ」

「めちゃくちゃでもいい!」

 

 朝陽の怒りはとどまるところを知らなかった。下に目を向けると、彼女の手は震えていた。僕が目をそらしたことにすら腹を立てて、さらに朝陽がまくし立てる。

 僕が何かを言おうとしても、朝陽は話の筋をかき乱した。やわらかくささくれだった髪の毛が遠い過去を飛び起こした。

 

 デジタル時計が時間の流れを知らせる。だが音が聞こえないせいで実感がない。沈黙は永遠に続いた。窓から遠くの街の鼓動が聞こえてくる中、僕は唇を噛んで耐え忍んだ。

 

 自傷することでしか得られない安心が、あるのだと思う。ストレスでおかしくなった獣がそうしてしまうように、自分を痛めつけることで、その痛みによって現実を忘れようとするような本能が人間には備わっているのだと思う。

 

 彼女はそのうち咳き込んでしまった。僕が駆け寄ってもいやいやをするのでどうすることもできず、僕は弾かれたまま俯く。

 近くの机に置いていたマグが落ちた。割れた音が、今の僕たちだった。かしゃん、ごちゃん、ごん、どんな音かすでに分からなくなっている。床に散らばった破片が心に突き刺さった。

 

「どうかされました?」

 

 近くを通りかかったのだろう。若いナースさんが様子を見に来たが、ただならぬ雰囲気を感じ取って入り口で立ち止まる。

 幸いマグに中身は入っていなかったから、僕は「あとで自分がやります」とだけ言った。

 

 ナースさんは僕たちを交互に見つめ、廊下を振り返り、もう一度僕たちを見てから立ち去った。

 

 春がすぐとなりにあるというのに、冬は寒い。並んでいるのにかけ離れている。

 

 僕はブーツの結び目をほどいて上着を脱ぎ、ベッドに片膝を乗せた。朝陽に馬乗りになって頬を撫でた。

 

「ふざけないで」

 

 鋭い声が聞こえただけで、不思議と抵抗はなかった。

 朝陽はやがて落ち着きを取り戻した。

 

 窓は病室を鏡写しにするばかりで、夜景はほとんど見えなかった。点在する外灯とビル明かりは、人生によく似ていた。幸福や思い出は途切れながら、こんなふうに地続きの世界を彩る。

 

「君からこうしてくれたの、数えるくらいしかないんじゃない。いつも私が乗ってた」

 

 朝陽はつんとしていた。声には塩辛さが残っていた。

 僕のストレス源は受験だった。でも朝陽のはもっと漠然としていて、それは生きる行為によってもたらされている。

 

「困ったなぁ」

 

 心の底から言葉が浮かび上がった。水底から昇った気泡は水面に波紋を生んで、朝陽は泉の様子を眺めるみたいに無感動に空中を見ている。僕は逆光を、影を背負い続ける。朝陽は電池が切れたように動かない。

 僕は彼女を抱きしめた。よれよれの病衣と幸せごと、ひしと強く。髪からはシャンプーの香りがしなかった。

 耳もとから弱々しい声がする。

 

「優しさってときどき、それだけで人を傷つけることがあるんだよ」

「そうかな」

「そうだよ」

「こまった」

「最近そればっかり」

「口にしたのは……記憶にある限り、今日が初めてだけど」

「顔に大きく書いてたよ」

 

 困らせてごめんね。

 

 いろんな時間が積み重なって、そのうちに、困らせてもらえることを楽しむ僕はいなくなっていて。決して途絶えないと思っていた。僕の傲慢だった。

 朝陽の胸にふらふら飛びこんだ紙飛行機はくしゃくしゃになってしまった。もともと飛ぶ力などなかったのに、今となってはもっとひどい有り様になってしまった。

 

 僕たちの進む角度は、おそらく少し異なっていたのだろう。歩くのにかかった時間の分だけ差異は大きくなって、そして今、如実にあらわれた。一度引力を振りほどいた僕たちは速度を増して離れている。

 

「わたしは」

 

「わ」の音から弱々しくて、息が詰まった。

 

「本当に君の選択肢を狭めたくなかったの。遠距離になってもよかったし、私が君の要望だけを聞いて合わせて引っ越すことだってできたのに。私が希望を伝えたから」

「ゆき。雪が降ってるよ」

「どうして分かるの?」

「そんな気がする」

 

 窓には、体を重ねて室内を見る僕たちが映っていた。そこにぽつぽつと白が散った。

 僕らは関係が壊されることを心のどこかで望んでいた。しんしんと街に降る雪は、空っぽの僕たちをゆっくりとうずめていく。

 

「楽になりたかったよ。今でも楽になりたいよ」

 

 小さな一言には人生が乗っていた。切実な願いと耐えきれない苦しみからは、神聖さすら感じられる死への祈りがこもっていた。

 こんな状態になったとしても、僕らの命は鼓動を止めない。何度でも吐いた命の証は熱く、熱く、どこまでも風に乗る。僕らはつま先に迷いを乗せて、踵を鳴らさなければならない。

 

「もう帰るよ」

「気をつけてね」

「うん」

 

 僕の初恋は天使に食い殺されてしまったんだ。なんだかそんな気がして、途端におかしくなった。

 絶望が落ちてきたような重い夜だった。日中の底すら見えない暗い夜が訪れた。

 天使が通った。僕らはここでわかれた。

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