別に神様から許される必要なんてなかった気がする。 作:ぞんぞりもす
深夜遅く、朝陽から謝罪のラインが入った。
彼女も僕も今日の出来事を引きずっている。どうしようもない空気を変えたくて、僕は小説で見つけた一節を送りつけてみた。僕は、自分が悪あがきをする人間だなんて思っていなかった。
『甘噛みの関係だったはずなのにね』
返信が滞り、何行も続いていた液晶に初めて短文があらわれる。
『トラが成長したらどうなると思う?』
『じゃれてるつもりでも僕らを傷つけるってこと?』
『皮膚を食いちぎったら攻撃なんだよ』
本人がどれだけ甘えてるつもりでも。
『そうだとしても、愛情を注いだトラを罰したい人間は存在しないよ』
『そうだといいね』
ややあって『おやすみなさい』と送られてきた。
『おやすみ』少し考えてからつけ足した。『いい夢を』
返信は早い。
『今日よりもいい夢なんて存在するのかな』
どちらの意味で取ればいいのか分からなくて、僕は自分の気持ちに寄り添ってくれるほうに縋った。小さく薄い端末を両手で包む自分は惨めだった。布団の中で、端末は青白く発光し続けた。
僕に与えられた試練のような気がした。
第一志望の合格発表まで、僕は病院の自動ドアをくぐらなかった。
ラインの通知も切った。世界を疎んだ。
朝陽は僕を見て開口一番「痩せたね」とほほえんだ。
彼女も僕と同じくらいひどい様相をしているというのに、痛々しさすら感じられたのに、月の下でしか開かない花を見た気分になった。心に感情が灯った。
「君だって、ひどいクマだ」
「
「じゃあクマは何、涙袋?」
「描く手間省けるね」
朝陽は弱々しく笑った。彼女の目の下をそっとなぞると、猫みたいに目を細めて喉をさらす。噛みつきたいとは思わなくなっていた。
「ん」
朝陽は僕の手を両手で挟んで頬ずりした。
「ざらざら。ていうか冷たすぎ」
「雪寄せしてたから」
「へぇ」
静かだが重くはないやり取りは、乾ききった心に慈雨のように染みた。無理に力を込めなくてもいいから気楽だった。
相手に何も求めず、相手から何も求められない関係は、一見すると無関心だ。傍目からそう見えてもよかった。僕らは世間を徹底的に排している。
太陽が見えないとしても、街にも僕らにも夜明けは訪れる。襲い来るなんでもない毎日をいなし続けなければならない。僕らは手を取り合うことを選んだのだ。
朝陽は引き出しに手を伸ばした。そこからハンドクリームを取り出す。
「手出して」
「君の手もざらざらだよ」
「ひっどーい。……さぼってたんだ。私にも分けてー」
朝陽は僕の手を包んだ。ハンドクリームを分けあって、二人とも冷たくて笑いあった。
「雪寄せってたいてい安藤さんがやってくれるんじゃないの? なに、歳で引退?」
「いろいろと気を遣ってもらってるから、そのお返しに手伝ったんだ」
「あぁ……『困ったらいつでも言ってね』って私にも言ってくるよあの人。優しいよねー」
高校生の一人暮らしは珍しいようで、大家さんは何かとよくしてくれる。僕らが厚意に甘えることは珍しかったけれど、安藤さんは何かと気に留めてくれていた。
ハンドクリームを塗り終わったあとも朝陽は僕の手を離さない。ここが君の家だと伝えるように優しくさすり続けた。
「努力した人の手だよ。苦しんで、戦い抜いた人の手」
「君の手もざらざらだよ」
「私は……」
口はしばらく開いたままだった。あちこち迷ったすえに、やっと閉じる。朝陽も僕と同じように、帰るべき場所を見つけられていたらと願う。
「今日来てくれると思ってた」
「連絡してないのに?」
「そうだよ。すごいでしょ」
朝陽はそこで初めて自信ありげに口角を持ち上げる。
「まったく。こんなかわいい女の子を放置して。それでも私は君が乗った飛行機まできっと当てられる。本当は空港まで行くつもりだった」
「止められた?」
「うん。星奈さんに。男の子には一人でいたいときもあるんだよって、あんまり他のことを考えさせちゃいけないよって」
朝陽は掛け布団に隠れた膝頭を見て「本当は寂しかった」とこぼす。
「でも選択肢を投げつけたのは私だから。私には選ぶ権利なんてないんだと思う。君が願ってないなら、私は……私は」
言葉を遮り、僕は朝陽を抱きしめる。衝動的に動いたはずなのに訪れた衝撃は穏やかだった。
抱擁の中でぽつりと「せっかくなら上着脱いでよ」と避難する声がした。
体を離した直後、待ちきれないと言わんばかりに朝陽は両腕を開く。意地でも泣き顔を見られたくないらしく、赤くなった目をふいと横に向けている。負い目や泣く資格、責任なんかを感じているのかもしれなかった。
彼女につきまとう運命ごと僕は抱きしめたかった。
僕は上着を脱いだ。ブーツも脱いだ。ブーツの結び目の雪は溶けてなくなっている。病院のドアをくぐって朝陽の病室まではさほど時間がかからないのに。
そして僕らは、音が出るほどの感情を交換した。
朝陽の髪からはシャンプーのにおいがしなくて、ただただ申しわけなく思った。せっかくなら連絡くらいすればよかったのに、僕には勇気が足りなかった。
体を離したあと、僕らは自然と窓の外を見た。
空は洗濯機から取り出されたばかりだった。乾燥なんてかけなくてもへっちゃらで、それは見慣れた世界なのに、近くに大切な人がいるだけで鮮烈な彩りを纏う。ところどころに水滴がついているのは断じて僕のせいじゃない。
しばらく僕らは互いの顔を見なかった。
「私にはやっぱり、君しかいないみたい」朝陽は笑った。困ったように、恨むように、はにかむように、複雑に。「重い話してもいい?」
「今いいところなのに」
「いいところだからだよ。嫌なものはさっさと片付けちゃわないと」
「調子が戻ってきたね」
「でしょ」
声が弾んで、僕らをどこまでも連れて行った。
「私は何も返していないのに、それどころか――なのに、お父さんもお母さんも私を愛してくれるのは、なんでだと思う? 愛される側の気持ちを考えることって難しいのかな」
僕を除くと朝陽に会いに来る人は限られる。
そして朝陽は僕以外では毒抜きができない。他人の前で、朝陽は求められたように振る舞ってしまうところがある。
「無垢な愛情は時として残酷だね」
「君の優しさもだからね」
「そうかもしれない」
「一方的に注がれちゃうものって苦しいよ。私は……こんな、駄目って言うと私を大切にしてくれる君に申しわけないけど……その。疲れて自暴自棄になることもあるのに。ほんと自分の駄目さが嫌になるね」
朝陽は苦笑した。暴力はそれこそ暴力的だから、無私の愛にまで宿ってしまう。
「もうあんなことがないように気をつけるから」
「あるにはあってもいいよ」
「本当? 君いま全メンヘラを肯定するような発言したよ?」
「要は」僕は考え込んだ。口走っただけで内容をまったく考えていない。僕だってきっと浮かれているのだ。
思い返すと、僕らが後戻りできない地点までぶつかったのは初めてだった。
「相談。相談が大事なんだよ。一人で抱えきれなくて破裂したとしても」
「君さー……」
朝陽は僕の両肩を押して、僕の全体像を捉えるように見つめた。彼女の半眼は珍しい。
精密機械の動作に誤りがないかを念入りに確認する監査官みたいに、ためつすがめつ僕を眺める。それから「信じるからね」と難しい顔で言った。
何事もなかったのだと思う。
何かがあったのに、その何かが薄れていくまでには、そんなに時間がかからなかった。振り返れば確かに存在しているが、僕らの蟠りは透明になって存在しているだけで、輝きを遮るわけではない。
実際のところ僕たちがここで別々の道を歩くことになる可能性は、十二分に高かったように思う。ただ、僕の握りしめたサイコロの面の多くには、朝陽が映っていた。それだけのことだったのかもしれない。
大事なのは再び道が交差したという事実だけだ。