別に神様から許される必要なんてなかった気がする。   作:ぞんぞりもす

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大-1

 僕は進学とともに引っ越しをした。朝陽も僕についてきた。僕らは思い出で散らかった部屋をあとにして、再び空っぽに根を下ろしたのだ。

 

「見て! 見て!」

 

 朝陽は空っぽから空っぽに身を移しただけだったが、病室の窓が西向きであることを知ると破顔した。朝日が指さした先には、沈みゆく太陽と海があった。彼女はその光景を心から好いているらしかった。

 

「久しぶりだよこんなの! 私これがずっと見たかった!」

 

 夕焼けを海が照り返す。波に乗って光の粒子が散らばった。

 潮風を防ぐために植えられた松の影が長く、長く僕らに手を伸ばす。だが室内には届かない。室内は確かな光に満ちていた。光は朝陽の瞳の中が一番濃かった。

 窓枠に両手を乗せて背伸びする彼女の横で、僕は黙っていた。朝陽が背伸びをしても、横顔を盗み見るためには目を下に向けなければならなかった。

 

 春はすぐそこだった。僕らは一足先に、春が気化したような空気に体を浸し続けた。

 

 

 僕が大学で過ごす間、朝陽の容態はほとんど安定していた。だから彼女は病室と僕の部屋とを行ったり来たりする生活をした。僕も似たようなものだった。僕らが過ごす場所は他にないのだ。

 

 長期休みを利用して実家に戻ることはあったけれど、どこかに旅行へ行くという星は徐々に輝きを失った。現実という雲は厚く、重く、常に垂れこめている。

 その向こう側の晴天を夢に描けるほど僕らは子どもではなくなっていた。また、手からこぼれ落ちた砂をかき集める行為がどれくらい無駄であるかも、承知していた。僕らの手はかたく結ばれたままに道を歩む。その先に光が広がっていようと、さらなる闇が待ち受けていようと、縁故を切る衝撃としては弱い。

 

 不安定な物質が肩を寄せあって安定するように、未熟な僕たちは寄り添うことで完成したのだろう。

 

 

 僕が大学に入ってすぐ、朝陽の性分は変わった。

 体を動かすことや外に出ることを好んでいたのが反転したのだ。変化に気づくやいなや朝陽は病室のベッドに巣を作った。僕のマンションではリビングが占拠された。

 

 僕はスニーカーを脱いだあと、リュックを片側の肩にぶら下げたまま室内を進む。足音は忍ばせた。リビングは明るい。

 目を悪くしたらいけないというのは、このごろ僕が口酸っぱく言うようになったことである。そのくせ僕は暗闇を好むので、寝室でスマホをいじっていると叱られるときがある。

 

 ドレスの裾が広がるように、黒髪がラグに広がっていた。僕は少しだけ遠回りをして彼女のとなりに腰を下ろす。

 

「あさひ」

 

 大学やバイトを片付けて朝陽の場所に戻るとき、たいてい彼女はしかめっ面をしている。重さのないしかめっ面だ。鼻の先に子犬みたいにしわが寄る感じとでも言えばいいだろうか。そして僕に気がつくと、親愛の情がぽっと心に灯ったように変化する。

 

「おかえり。ご飯まだだや、ごめんね。外で済ませてきた?」

「ううん。ライン一応入れたんだけど……」

「ほんと? あ、ほんとだ。気がつかなかった」

 

 手慣れた操作でスマホのロックを解除して「えぇ二時間前」とか「音鳴るようにしてるんだけどなー」とぼやく。

 様々な教科書が入っているリュックは重く、丁寧に置いても音がした。

 朝陽はローテーブルの上を整理しようとして、諦めた。

 

 以前、絵の指南書と僕の教科書とがごちゃごちゃになったことがある。僕のノートに朝陽の下書きが挟まっていることもあった。僕らはその経験から慎重になっていた。

 高校なら互いの教科書がまざっていてもなんとかなったけれど、大学になるとそうもいかない。特に朝陽は大学へ通っていないのだから、となりの教室に行けば――なんてことは不可能だ。

 

「えへへ……片付けといてくれない……?」

「いいよ。ぼく寝室で勉強するから」

「それじゃ私が邪魔できなーい。それにご飯もどこで食べるの? 床?」

「なんで二人そろって犬みたいに食べるんだ……」

「わん! ご飯まだー?」

「犬は喋らないよ」

「じゃあ君のほっぺを舐め回してもいいってことだよね?」

「なんのじゃあだ……」

「炊飯ジャー!」

 

 僕は立ち上がり、冷蔵庫の中を確認した。僕と朝陽は食の傾向が近しい。朝陽は長年の病院食で薄味質素を好み、僕がその地点に近づいたのである。旗を立てた地点にとどまってくれる彼女は僕からすればとてもありがたい。

 

 朝陽は足音を弾ませ、僕の肩に後ろから手を置いた。背中に弾力が訪れて、一歩遅れて甘い香りが首筋を前に通り抜ける。

 冷気とぶつかった香りはちょうど僕の顔あたりで停滞した。

 

「聞いてよ。バズったの」

「おお。この間のよりもすごいの?」

「うん。万いった」

「……それってすごいことなの? 体感として」

「一日でフォロワーが三桁後半増えたんだ。それと同じくらいすごい」

「僕にも分かる日本語だと嬉しいな」

「君ってば、勉強のしすぎで人体にまつわる言葉じゃないと受けつけなくなっちゃった?」

「あぁ、うん。五臓六腑ごぞうろっぷ」

「染みちゃったか~」

 

 朝陽はそれから楽器を演奏するようにころころ笑った。何がどのように染みたのかは、まったくもって不明だ。これは甘噛みをするためだけの会話だった。

 

 僕は冷蔵庫をひと通り見回し、冷凍庫も見てから思案する。肉も野菜もあるにはあるが、買った順から消費したい。

 朝陽はそのあいだに腕を前へとやって、僕の胸のところで「V」の字を作った。そして揺れた。

 

「……何作ろうか」

「なにつくろ~? 右手はチョキで、左手もチョキで! おに!」

「四本の角なんて強そうだ」

「モンハンのクエスト?」

「みんな苦労するやつ」

 

 僕は頭に手の感触を覚えつつ、冷蔵庫に置かれていた豚こまを取り出し、下の段からキャベツも取り出す。あとはエノキや豆腐で適当に煮込めばいいだろう。

 朝陽は意図を察したのか土鍋を取りに行った。キッチンで落ち合い、せっせと調理は始まった。

 

「そういえば新作出るんだってね。買う?」

「買う! 一緒にやろうよ!」

「おっけー。かなりのスペック必要らしいんだけど大丈夫かな」

「あー……そっか。型落ちなんだっけ? いざとなったら出すよ! 十一(といち)ね」

「それは出してるんじゃなくて貸してるんだよなぁ」

 

 高校まで外側に向いていた朝陽のエネルギーは、次第に内側に向けて発されるようになった。風によって炎の勢いが増すように、僕への貢献という燃料を得た情熱にブレーキはなかった。

 

 絵の基本を修めるまでにかかったのは、三年。彼女は高校と同じだけの時間を、高校のときよりも冴え渡るようになった頭脳で、イラストに費やした。

 これから応用を利かせていく彼女にはすでに翼が生えている。あとは契機だけだ。風を得ればすぐにでも大空を羽ばたけるだろう。

 

 

 液タブと格闘する彼女はほほえましい。見とれていたとうっかり言いたくなる。ゲームの装備が後半へいくにつれゴツくなっていくのと同様に、その道に深く入りこんだ朝陽の机周りは変化していった。その変化も、僕は好んで受け入れた。

 僕のマンションには昔から彼女の私物が多かった。けれど反面で病室に朝陽は何も置かなかった。それが今となっては、たかだか数日病室に入るだけでも大量の機材が必要になっている。

 

 

 彼女は徐々に何かしらの依頼を受けるようになっていった。ソシャゲのイラストだったり、個人から絵を描いてほしいと頼まれたり。

 

「私は将来きっとお金を稼げない」という彼女の予感は見事に外れた。

 それをからかうと、朝陽は「そんなこともあったね」と朗らかに笑った。受験で一度破滅しかけた僕らは、知らぬ間に結びつきを強くしていた。

 

 鍋を煮込んでいる間にローテーブルを二人で片付け、タブレットでユーチューブを垂れ流しながらとなり合って食事を取り、洗い物をする。風呂に入るかどうか、一緒に入るかどうかをなんとなく話しているうちに、僕らの足はラグにくっついて取れなくなった。

 塩味の強い鶏ガラスープの香りはしばらくしても残っていた。ゲーム実況者の笑い声が端末から躍り出て、たちどころに加速し、僕らのリビングを明るく照らし出す。

 

 どちらともなく、スリープにした。手が触れ合った僕たちはそろって肩を竦めた。

 

 

 朝陽の視線に気づき、ノートを滑る手が止まる。僕はレジュメを自分なりに整理しているところだった。僕に寄りかかるようにしてスマホを見ていたはずの彼女は、いつの間にか頬杖をついて僕を見つめていた。

 

「どうしたの?」

「ん? 見とれてた」

 

 何事もなく言ってのけた彼女は続けざま「横顔がかっこいい人っていいよね」と言った。言葉が遅れて意味を持ったらしく、彼女は少ししてからはにかんだ。

 

「そっか」

「うん。じっと見られてたら落ち着かない?」

「そりゃまぁ」

「ふふ」

 

 朝陽はスマホに目を落とす。それから僕の胡座に倒れかかった。寝づらいと喚かれ、僕は仕方なく片足を伸ばす。

 

 ハムスターが小さな手でヒマワリの種を持つみたいに、朝陽はスマホを包んでいる。ブルーライトが端正な顔をまんべんなく照らしている。

 スマホが横向きのせいで僕からはよく見えないかれど、誰かとやり取りをしているらしい。朝陽は僕に一瞥を向けた。

 

「じっと見られたら落ち着かないよ」

 

 薄い端末越しの世界のほうが、朝陽の体質にとっては優しかった。

 

 どうしてあの子は頻繁に医者にかかっているのとか、保健室に行っているのとか、休んでいるのとか。

 

 年齢が上がるにつれ掛けられることのなくなった言葉が心ない言葉だったとは思わない。むしろ純粋な疑問だったろう。そして純粋さというものは、たいてい人の気持ちを考えられない幼さに由来すると僕は思う。

 

「ん……」

 

 僕はノートのページを押さえる手を離し、朝陽の頭を撫でた。彼女は喉の奥で甘えたきり目をつむった。

 ノートがぱたんと音を立てた。僕のシャーペンも止まっていて、マンションの一室は薄いベールで覆われたように喧騒から遠ざかる。

 

 半分フィクションの世界では、幼稚なと無理に関わる必要がなかった。関わりたい人と、関わりたい分だけ交流できた。それが彼女にとっては気楽なようだった。

 朝陽は薄目を開けて僕に尋ねる。

 

「どうしたの、いきなり」

「どうしたと思う?」

「んー……」

 

 朝陽は薄い腹にスマホを乗せた。そして両腕を僕に伸ばした。僕の両頬をサンドイッチして上体を起こす。

 唇に弾力が押しつけられた。軽い水音がした。朝陽はどこもやわらかい。彼女は近づいたままで「わかんない」と子どもっぽく言った。そしてスマホに戻った。

 

「どこまでやったっけ」

「もー、何してるの?」

 

『持病が』

『持病っていうか、体質の問題もあって』

 

 そういうことを言えばたいていの人は同情を示してくれる。そして深くは聞いてこない。薄い端末は実像からの隔たりを隠してくれる。それを僕は優しさだと考えていた。

 深く聞いてこられなくても人と仲よくすることはできるし、入院したと言えば心配してもらうことだってできる。

 

 彼女の交友は順調に輪を広げた。趣味に没頭するようになった朝陽は、仲間と呼べるものを初めて得たらしい。

 彼女らは自らの絵を探求し続けた。ときには意見を交換した。相互で助け合う関係は健全で、健康で、公平だ。

 

 対して僕らの関係は、恋人という枠に収まってから顧みられなかった。

 彼女の世界が広がる様子を喜びながら、僕は心のどこかで、彼女を恨んでいるのかもしれなかった。僕の世界が広がる可能性は、中学一年生で閉ざされたから。なんて人のせいにするのは、違うのかもしれないけれど。

 液タブを見る朝陽の横顔は淡く、美しい。仲間の話をする朝陽は、楽しそうだ。

 

 実った野菜すべてが売り物に出されることはない。僕は綺麗なものだけを選別して出荷し続けた。今までと何も変わらない。僕は心を飼うことにすっかり慣れていた。

 

 僕のほうは、相変わらず孤立が服を着て歩いているようなものだった。

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