別に神様から許される必要なんてなかった気がする。   作:ぞんぞりもす

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大-2

 朝陽は心配の言葉を口にしてくれたし、自分の仲間を僕に紹介してくれようともしてくれたけれど、僕の強情さについに折れた。輪の広げ方は僕には理解できない構造をしている。それから僕は学ぶ機会も逸し続けた。それでいいと僕は投げていた。

 

「僕の世界は完結しているんだろうね」

 

 あるとき不意に僕は言った。

 朝陽は目をまんまるにして僕を見た。この日もまた朝陽がローテーブルを占領していた。ペンは液タブに突き刺さったように動かない。

 

「蛇足のない人生は……つらいよ」

 

 朝陽は目を伏せた。

 

「そうかな。余白が入る余地があればかんたんに人は肥えてしまう。贅肉が多いのは好きじゃないよ」

「……体つきも人生も?」

 

 僕は外を見た。ちょうど日が沈むところだ。僕らがしんみりした話をするのは、だいたいいつも、世界が闇の支配を受け入れようとする時間帯だ。

 朝陽は僕の手に自分の手を重ねた。

 

「私ももう太れないなぁ。最近ちょっと太ってきたし」

「これは僕の話だよ。他人との交流が増えた分だけ、僕はその他の人に合わせなきゃいけない。僕がそれをするのは……」

「――苦しい?」

 

 ここで僕が肯定を返すことは、あってはならない。

 

「社会に合わせるのは、苦しいね」

「じゃあ他人は? 話そらしたでしょ」

 

 僕は朝陽の表情を見られなかった。見透かされることを恐れた。朝陽が甲を撫でさする手に合わせ、僕の心臓の表面を恐怖が這い回る。ここで変に鼓動を早めてはいけない。僕はじっとしていた。

 

「それ相応の覚悟と、深い愛情が必要かな」

「私にも備わってるし」

「自分から身をすり減らすのって見てられないよね」

「そっくりそのまま返すけど」

「僕は一人でも満足できるすべを心得ている」

 

 朝陽はむっと唇を尖らせた。

 

「君が満足しているところ、私はあんまり見たことがないけどな」

「見て分かるものかな」

「分かるよ。星奈さんと悠人さんはそうだったから」

「人間関係にはいろんな形態があるよ」

「またそうやってごまかす」

「ごまかしてるわけじゃないんだけどな……」

 

 朝陽はペンを握る手に力をこめた。

 

「人にはそれぞれ、お気に入りのお皿とかグラスとか、いつもなんとなく使っちゃうシャーペンとか……そういう、生活に根ざしたものがあるでしょ? 私は君にとってのそうでありたいのに、たぶん一部までしかなれてない。君は上手に隠してるつもりかもしれないけど、分かるんだよ」

 

 口調は衝動的だったが、行動は違っていた。彼女はあえて衝動を抑えるように、ペンを努めて静かにローテーブルに置く。そして僕の手首にゆっくりと触れ、一瞬で力を込める。

 朝陽は僕を睨み上げた。

 

「なんでもいいって言われる側の気持ち、考えたことないでしょ? 今日のご飯は何食べたいとかそういう話じゃなくて」

 

「うぅん」と僕は唸った。

 朝陽は唸り声に眉をひそめただけで何も言わない。やがて痺れを切らしたのか僕にのしかかった。僕が逃げないことを朝陽は分かっているはずだ。魂ごと触れ合うことを求めるように、朝陽は僕に体を押しつける。

 

「なんでもいいことと、なんにでも満足できることは似ているようで違うんだ」

 

 昔はとにかく、いろんな景色を思い出に残そうとやんちゃしていたかもしれない。しかし今となっては、穏やかに話せればそれで満足になった。

 満足する量が低くなった。胃が小さくなるみたいに、胃が塩辛いのを受け付けなくなるように。

 

 子どもがもっともっととねだるのに対して、もういいじゃんと人生を諦めてきた回数分、満足するまでにかかる距離が短くなった。僕の器では巨大で強大な幸福に耐えかねるのだ。

 

 朝陽は説明を黙って聞いた。ときおり体を震わせた。

 重ね合わせた体で二つの火が揺れている。外から聞こえる雑多な音では僕らの沈黙を突き崩せない。

 

 彼女は不意に体を起こして、僕に影を落とした。逆光で表情は見えない。悲しんでいるか、怒っているかだろうか。彼女にはそんな顔をさせてばかりだ。記憶にある朝陽は笑った顔も多いけれど、それと同じくらい怒った顔も合ったし、悲しむ顔もあった。

 

 長髪が垂れて朝陽の頬を伝い、僕の頬をくすぐる。黒い涙は濃い影となって光すべてを飲みこんだ。

 彼女の香りを胸いっぱいに吸いこみたかった。たったそれだけで僕は満足してしまう。

 

「心の胃は……小さくなったりも大きくなったりもしないと思う」

 

 雨の日に軒先で膨らんだ雫が自重に耐えられなくなって落っこちるみたいな、そんな口調。

 

「大人のほうがいろいろなこと、小さなことに幸福感や満足感を得るようになるから、器がいっぱいになりやすいだけ。諦めとかそういうんじゃないよ」

「それが君の考え方?」

「うん。私が考えるならこんな感じだと思うの」

 

 いきなり影が降ってきた。朝陽は唇を軽く触れ合わせて、降ってくる勢いを反転させて体を戻す。何かの儀式みたいに僕の心を捕らえたいのかもしれない。

 

「私たちの考え方って……似ているようで、違う部分もけっこうあるよね」

「そうかもね」

「でも私たちがちゃんと心を話すようになったから違いが浮かび上がっているだけで、普通なら、私たちは似ているの一言で済むんだと思う。他の人たちがどうかとか分かんないけど――ていうか私たちの話だから私たちだけで解決すればいいんだけど、でも、みんなは私たちのことを似ているってたぶん言うよ」

「でも同じ人間はいないよ」

「いたらフィクションの世界になっちゃう」

「フィクションのほうが君は生きやすいのかもしれない」

「幸せなフィクションよりも、君と一緒に過ごす地獄のほうが素敵よ。なんて」

 

 朝陽は楽器の弦を弾くように笑った。「同じじゃなくてもいいの」と彼女は繰り返し言った。言い聞かせるみたいだった。「いいの」が途中から「いーの」に変わった。

 ひとしきりの賑やかさが収まってから、僕はタイミングを見て口を開いた。

 

「考え方が違うのはそうだろうから……だから分かってくれないかな」

 

 ちょうどそのとき夕日が差して、朝陽の横顔をあらわにする。

 彼女はそのとき、未知の武器で体を切り裂かれたみたいに目を丸くした。そしてしばらく固まっていた。

 やがて武器がなんであったかが判明したらしく、彼女の顔には笑みが浮かんだ。心から愛する人の手にかかったとき、人はこんなふうに優しい顔をして……死すらも愛おしむのだと思う。

 

 決別――これは物理的な別れではないが、一種の分断と捉えることもできた――を口にした僕に対し、彼女はなぜだかとても嬉しがった。僕が自分の考えを口にし、彼女に理解を求めたことが嬉しいのだと彼女は言った。前にも、こんなことを話した。

 朝陽はごろんと寝転がり、僕の腕に抱きついた。

 

 ローテーブルに夕日が遮られ、僕らを黒い影の幸せが満たす。何者にも染まりたくない僕と、漂白されていたものが汚され尽くした朝陽には、影の色は幸せの色と言ってもよかった。

 

「君ってば、高校くらいから話さなくなったんだもん」

「話しているつもりだけど」

「んーん。話してない。そしてたぶん君が思ってる話すじゃないと思う」

「難しい話?」

「君には難しい話かも」

 

 朝陽はからかうように笑った。

 朝陽は言動と表情のすべてで僕の心に訴えかけた。心を覆うように分厚く塗られた黒い漆に針か何かで穴を開け、自分のあたたかな吐息を与えてあげたいのだと、はたらきかけた。腕に抱きつく力が強くなって、その分だけ強く感じる朝陽の弾力は、とても心地いいものだった。

 

 それからしばらく経ったある日、朝陽はいきなり話をひっぱり出した。

 

「私は成長だと思ったよ」

 

 彼女は風呂上がりの髪をタオルで叩きながら、ドライヤーを使っていた僕に「次使うからそのままにしといてー」と叫ぶ。

 ユーチューブで流していたゲーム実況が一区切りついて、陽気なエンドロールのあとに暗転する。おすすめの動画が黒い液晶にぽんと浮かぶ。

 

 振り向くと、ラグの上に横座りした朝陽と目が合った。

 朝陽は「そうだ」なんて言って弾かれたように目を輝かせる。よく晴れた晩の三日月みたいに口角が持ち上がる。

 

「久しぶりに乾かしてよ。ね、いいでしょ?」

 

 人懐っこい笑みに、僕はほんの一瞬だけ幻聴かなと思った。「それが終わったらまた話すから」という爽やかな一撃が追い打ちをかけた。

 

 何度も朝陽の髪を乾かしているから、僕は彼女だけのプロと言っても差し支えない。だが、プロでも失敗する日はある。僕の手際は悪かった。朝陽はそれすらも楽しそうにからかったのだった。「人間だね」「今ぶちっていった!」「禿げたら君以外に嫁げない!」「毛根すら虚弱なんだよ!?」など様々だ。

 

「耳掃除してよ」と迫られて耳掃除をし、お礼だと告げられ朝陽の太腿に寝転がるよう指示される。

 朝陽と僕では、僕のほうが耳かきで眠りやすい。その話を持ち出すとき、彼女の口もとには必ず優しい色味の花が咲く。

 

「あれだったら眠ってもいいからね」と前置きしてから、彼女は静かに続けた。

 

「自分で受け止めるのが難しいとしてもね、君は少しずつ変わってるんじゃないかな」

 

 自分から見たら変化のスピードが遅すぎて止まっているようにしか感じられないかもしれないけれど。周りの人の変わるスピードが早いせいで、前に進んでいる実感がないだけなんじゃないか。

 僕らは景色の変わらない荒野を歩いている。ときおり人がそこを追い抜く。そんなふうに自動車と徒歩でかけっこをしているだけ。景色が変わらないから、自動車と速度を比べることでしか自分を認知できない。

 

 朝陽の言葉は慰めとも励ましとも取れた。僕はどちらを選べばいいのか分からないまま、一○○円玉を握りしめてスーパーの駄菓子コーナーでかたまる子どもみたいに目移りしただけだった。その子どもは悩みすぎて疲れてしまって、帰るまでたかだか一○分なのに車内で眠ってしまう。

 その心地はとても懐かしいものだった。

 

 僕が目を覚ますのと唇が押しつけられるのは同時だった。

 

 みずみずしくて、しっとりしていて、程よく膨らんでいて。寝起きの僕は果実と勘違いして噛もうとした。果実からはむりやり舌をねじこまれる反撃にあった。甘い香りと弾力豊かな舌が脳を犯して蠢いた。

 やっと唇が離れたと思ったら、彼女は肩で息をしている。風呂に入ってからそれなりに経っているのに、彼女の瞳は水気をたっぷり含んでいた。

 

 朝陽は「待てなくなったら、体に直接聞いちゃうかも」と唇についた唾液を舐め取る。白い喉が音を立てる。

 このときばかりは、彼女が今しがた僕を襲ったように、僕も喉笛にかぶりついて自分の傷を残してやりたくなった。

 

 

 朝陽の病室に行くのは夕方のはずだった。だが休講になったので、僕は伝えていた時間よりも早く病室に向かった。いつもより疲れていない体を引っ張り、清潔な廊下を歩く。

 

 ベッドに備えつけの机にノートを開いて置いたまま、朝陽は眠っていた。騒がしい個室を慎重に進む。机下の手はシャーペンを握っていた。彼女の手は掛け布団の上にちょこんと存在していた。掛け布団はほとんど凹んでいなかった。そういう軽さが、どこまでもつきまとう。

 僕は扉に目をやってから、おずおずとノートに顔を近づけた。

 

 僕は内容を読んだとき、初め日記だと考えた。だがどうやら違うらしい。それからそっと手に取り、丸椅子に腰かけてゆっくりとページをめくった。

 

 まだ一冊目らしいノートは、しかしかなりの年月を朝陽と一緒に過ごしているらしかった。使われている漢字や文体の雰囲気には中学生の残り香がある。指先が魂に触れた気がした。

 

『プールに入りたい。※水着を新調すること!

 車でしか行けないような公園で、二人の時間を過ごしたい。

 ショッピングデートをしたい。※アマゾンを見て回るんじゃなくて、もっとちゃんとした(?)普通(?)のやつ!』

 

 たとえばこんな願望が、学校で黒板を写すみたいな注釈とともに、または色ペンによる補足説明とともに、綴られていた。切実だった。切実な思いに、胸が潰れそうだった。

 空が落ちてくるんじゃないかと怯える両親が繋いだ鎖は、今でも朝陽をゆっくりと絞め上げている。

 

 ノートが変に歪んでいることに気づき、慌てて力を抜いた。水滴で汚してもいけない。深呼吸で目頭に集まった熱を逃した。

 時間を忘れて読んでいた僕は、差した人影で我に返った。空の色が変わっていた。朝陽の背後に夕焼けがあるせいで彼女の表情は見えない。

 

「書いても書いても足りないよ」

 

 朝陽の語調は穏やかだった。どこか茶化すような調子もまざっていた。ペットとか、保育園児とか、慈愛を向けるべき対象にかけるような口調だった。

 そっと僕の手からノートを抜き取り、朝陽はぱらぱらとページをめくる。彼女の軌跡は一瞬で現在地を抜いて白紙へ向かう。そして願いは閉じられる。

 

「いつだったかな、私がちっちゃいころ。おばあちゃんの部屋を整理してたらあって。もうかなりぼろぼろなノートだったんだけど、将来、自分みたいな体質の人が生まれたときのために取っておいたのかもしれないって思ったの」

 

 朝陽は優しく目を細めた。再びノートを開いて一枚いちまい眺めていく。目つきが、そっくりそのまま我が子に向けるような眼差しで。

 まるで自分の子どもにもそうしたいと願うようだった。僕は、白い病室が淡く霞んで、朝陽のお腹がふっくらした様子を幻視した。

 

「もう駄目かもって思ったとき、私はこういうことをしたいんだっていうのが明確なら、呼吸も続く気がしたんじゃないかな」

 

 やわらかい口調で言い「スマホのメモ機能でもよかったんだけど」と恥ずかしがるみたいに続けた。

 

「字として残したほうが……体温があるっていうかさ」

 

 朝陽はおかしそうに笑った。

 小学生のときに思い出の場所だからと埋めたタイムカプセルを、大人になってから掘り起こすとき、「どうしてこんな場所に埋めたかな」とからかうみたいだった。ポケットに押しこめるくらいの、それでも当時の自分にとっては最大級の世界を慈しむみたいだった。

 

「『温泉街で食べ歩きをしたい』」

 

 朝陽は丁寧に一文を読み上げた。白い親指が黒鉛を撫でる。しっかり刻まれていた黒が、少しだけ伸びた。朝陽はこんなふうに、飾りつけの紙のリングを繋げるみたいにして、ちっぽけでカラフルに生命を伸ばす。

 

 ノートを閉じた朝陽は低い天井を仰ぐ。その向こう側には上階の部屋があって、そのまた向こう側には屋上があって、青空があって、銀河があった。

 

「今ならもうちょっとレイアウトとか構図とか考えられたのになー。散らかってる。列挙してるだけっていうか……なんか、もっとうまくやれたなー」

 

 しっとりした曲がテンポを早めたみたいだった。無理のない範囲で紡がれた軽い口調に合わせ、サビに向かうことを承諾する。

 

「いいじゃん。希望とか願望で散らかってるのは悪いことじゃない」

「なぁにそれ」

 

 朝陽は五○円玉をくぐれるくらいのちっぽけな自分を大切にするみたいに笑う。

 

「でも確かに、振り返ってばかりいたけど、前には思ってるよりもたくさんの……むしろ騒々しいくらいの光があるのかもね」

 

 彼女は笑顔をきらめかせた。百均の飾りつけでもクリスマスっぽくなるみたいに、僕たちは安っぽい笑みで心を彩る。

 特別なものは必要なかった。穏やかなやり取りが心地よかった。

 

 

 朝陽は僕に、ノートをしまっている引き出しを教えた。僕は彼女の目を盗んでノートに向き合った。

 どうぞ読んでくださいと伝えるように、朝陽はノートや文房具を机に広げて仮眠を取っていることがあった。休憩のために風景を見やれば必ず晴れていた。

 

 

『旅行をしたい。場所はどこでも。でも他県がいい。じゃなきゃ旅行って言わないし!

 →合格祝いとかどうかな? こっそり計画でも立ててみようかな。

  →栗林さんが連れてってくれるって!

   →あれ、もしかして車の免許があったら気軽にどこにでも行ける?

 また一緒に話したい。※(涙で滲んで読めない。長文だった)』

 

 

 最後まで読んでいないのに何度も初めから読んだせいで、現在にたどり着くまでにはずいぶんな時間を要した。いくつかの点で僕は必ず先に進めなくなった。

 

 

 そうして最後まで読み切り、呟く。

 

 子ども。

 

 朝陽のまぶたが震えた。

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