別に神様から許される必要なんてなかった気がする。   作:ぞんぞりもす

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大-3

 不意に、白雪姫はバードキスで目覚めたのだろうな、と思った。待ち望んでいるものが訪れたとき、人間は自然と目が覚めるのだと思う。そういう最も穏やかな衝撃とでも言うべきものによって朝陽は体を起こした。

 

「ほしい……?」

 

 寝起きの喉が震える。

 様子を窺うふうの上目遣いを遮るように、僕は手を伸ばした。頭を撫でて手櫛で髪を梳いた。髪の中は蒸れのせいで少しだけしっとりしている。

 朝陽はむずがるように表情を綻ばせた。

 

『子どもがほしい。君の血がまざっている結晶に縋りたい。(歪んでいるかも)』

 

 朝陽はノートを持つほうの僕の手を見下ろした。なんだか俯いているみたいだった。肩の力を抜いて笑った彼女は、頬を薄赤くした。

 

「君の体に押し潰されて、大切なところで繋がって。どんな感じなんだろうね。体の重さとか……なんて言えばいいんだろうね、えへへ。肌がこすれる感じとか、きもちよさとか」

 

 一度顔を上げかけた朝陽はすぐに下を向いた。僕の顔を見られないらしかった。中学のころのほうが勢いがあるようで、成人した彼女は恥じらいを覚えていた。

 僕は両手でそっとノートを閉じる。そしてシャーペンだけが乗っている机に戻す。キャンパスノートに名前は書いてあるのに、上部の二行分だけ寂しく空いている。

 

「中学校のときにそんな夜があったよね。もちろん何もなかったけど」

「うん、あった。当時はあまり考えなかったけど、あれ、むせ返るくらいの熱気と暗闇。思い返すと興奮しちゃって」

 

 表情で「しまった」と告げた朝陽は首を横に振った。胸の前でクロスさせた両腕が自分の肩をがっしりと掴んでいて、なだらかな膨らみを突き破って飛び出そうとする鼓動を押さえつけるようだった。

 朝陽はしばらくそうしていたので、動きを止めたとき汗をかいていた。上気した頬に貼りついた髪を耳にかけると、彼女は耳まで色づいていた。

 

「まだ寝起きだね。理性が寝てる」

「……そうかも。はー、もうこの際だからいいや。まだわたし寝起きってことにしてね」

「無敵の人じゃん」

 

「いーの」と断言した朝陽は自分を手で扇ぐ。勢いづいた彼女は「えっちな話しようよ」と僕に笑いかけた。性にあけすけな彼女は過去に置き去りにされていたが、僕らは当時よりもう一歩踏み込んで、生をあけすけに伝えられるようになっていた。

 

 すくすく成長した植物が実を大きくさせるための転換点を設けるように、人の成長にも人間関係にも、いくつかの転換点があるように思う。

 水分とか養分の偏りに、害虫や疫病の被害、そういうものを乗り越えられた野菜だけが大きく正しい実をつける。

 

 僕らは歪だった。産み落とされた瞬間に寄生してきた塊と共存しながら、できるだけ多くの日陰を望みながら、太陽にさらされ続けた。その最終形態として、僕らは自分たちを黒い膜か何かで覆って日光を遮断するすべを身につけた。

 

 遺伝子を組み替えればまともな形になれるのだろうか。そんなことをしたら、倫理観や道徳や愛情を掲げた団体に轢かれてしまうだろうか。

 考えても仕方がなかった。

 

 与えられた塊を捨てられないことだけが決まっている。

 一人分の幅の道を二人で進むことだけが決まっている。

 

 学部やゼミで飲み会があるんじゃないかとか、風俗ってどうなんだとか、星奈さんにセックスのことを相談したこともあるんだとか、朝陽は凪を波立たせた。

 やわらかい色味の病衣の胸もとをぱたぱたさせて、朝陽は一息つく。

 

 質問を流すばかりだった僕もまた、話を終わらせるための一区切りをつけた。

 

「そんなことを考えながら一人ぶらついた夜があったんだね」

 

 僕の呟きに対して、朝陽は目尻を下げるだけだった。二人の間にはそれきり沈黙が訪れた。

 

 こんなふうに下卑た話で盛り上がった昔もあるけれど、先ほどまでの朝陽の話は、もっと切実な響きで胸を打った。こういう話ができるのは、もしかしたら、公平で健全な関係だからなのかもしれなかった。

 

「君は……どうして好きな人と体を重ねる喜びを知らずに過ごし続けられるの?」

 

 こらえきれないといった調子の言葉だった。朝陽の問いかけには低俗なところが一切なかった。

 

「虚しいとか、寂しいとか、ないの? いつも一人でしてて。言ってもらえたらいくらでも手伝う準備があるのに」

「僕が寂しいって言ってるところが想像つく?」

「……つかない」

「だろう?」

「うん」

「そういうことなんだ」

「……うん」

 

 大切だと思っている人に襲われるのは、きっと幸福だ。だが、体にはそれだけの負荷がかかる。

 

 朝陽の心を蹴っ飛ばして体を大切にすることが、朝陽を思うことなのだろうか。

 それとも心を大切にして体に負荷をかけることが、朝陽を思うことなのだろうか。

 

 どちらがより大切にすることなのだろうか。

 

 高校までの僕は違った。成人した僕は、だんだん朝陽の両親と似てきている。

 釘が胸にめり込んでくる。それはだん、だんと金槌に打たれ、僕の心に罅を入れる。程なくして胸が刺し貫かれた。自分の気づきが実体を持ったのだと思った。この痛みと苦しみは朝陽が体験したものだと思った。

 

 胸を押さえ、俯く。揃えた膝を開いても丸椅子の座面と床が見えるばかりだ。赤の一滴もありはしない。

 

「性欲がない人っているんだね」

 

「でもね」と朝陽はそこで言葉を区切った。大切なことを伝えられるのだと、瞬間的に理解した。だから顔を上げた。

 彼女は掛け布団の下に隠れたつま先を見ている。

 

「君はそういう人なんだって思ったら、少しずつ距離が離れていくような気がして怖いの。だって、あの人はああだからって定義することは、理解を放棄し、興味を失うことだから」

 

 清潔が散りばめられた白い部屋には、血を連想させるものなんてなかった。なのにどうして、こんなにも胸が痛むのだろう。

 僕らは心を必死に絡ませようとしているくせに、視線を絶対に交差させない。それがもどかしかった。

 

「上手に諦められるのって得なのかな。諦められないほうが苦しい場合が多いけど、そっちのほうがかっこいいよ。私どうせならかっこよくなりたかった。夢を叶えられた人は、夢を諦めなかった人なんだよ」

「君は……」

 

 どこか幼い調子の声を聞き終えてから、僕はやっとの思いで口を開く。以前までの朝陽は夢に向かって猛進していた。

 彼女のわがままな部分は鳴りを潜めるようになった。彼女もまた、僕や両親に似てきている。彼女は過去を懐かしみ、今の自分を自嘲しているのかもしれない。

 

「君は……」繰り返しても語尾は見つからない。主語がふらふらと、持ち主の手を離れた風船みたいに飛んでいく。低い天井を透過して、高く遠く広すぎる青空に浮かんでいって、銀河で星々の輝きを受ける。僕は朝陽のノートに目をやった。

 朝陽は「分からない」と首を緩く振った。

 

「どうすればいいのかな」

「僕は……三大欲求にも折り合いをつけているのかもしれない」

「かもなの、それ。明らかだよ」

 

 僕がついに見つけ出した真実を朝陽はとっくに掘り出していたらしい。

 僕は炭鉱夫で、両手に収まる宝石の名前を必死に考えていた。神妙な顔だったろう。だって脳内の辞書には載っていないのだから。朝陽はそんな僕の背後からひょこっと顔をのぞかせて、名前を口にした。肩に乗った手の重さが心地よかった。

 

 愛は見えにくいものだ。見えやすい愛は恋か性欲のあらわれだ。

 だとしても、見えやすい表現だって必要だ。

 だが僕は残念なことに表現方法を知らない。どうしていつもこう(・・)なんだろう。

 

「僕は」と言った。からからに乾いた声だった。朝陽はからかうことなく、「うん」ほほえみをもって受け入れた。

 

「……君を春に閉じこめた犯人だと思う」

 

「ははは」と朝陽はいきなり笑い出した。自室で展示品となっていたギターが久々に演奏されたらこんな音を出す気がした。天井にぶつかった声はしばらく止まらなかった。

 

「思う……思うって、思うじゃないよ。なんでそんな曖昧に自信がないの!」

 

 朝陽は盛大に咳き込んだ。やっと落ち着いてから嬉しそうに「いつまでも一緒の季節にいてね」と僕の頭に触れた。頭頂部から後頭部へ、髪を乾かすときみたいに優しく手が流れていく。

 

 死別までの道を貫く諦めの影は、秋の夕方四時みたいに薄暗く、そのくせ道の全貌が見える程度の明るさがある。

 いつも心地よい暗さでぬくぬくしているわけにはいかなかった。ときには木の虚から出ることも必要だと思い知った。

 

 逃げても逃げても追いつかれて、踏み潰されて、立ち上がるころにはまた次の脅威がやってきて。脅威が去ったらまた次の脅威が、日常という形になって、都会の電車みたいに短い間隔でやってくる。僕は何度もぺしゃんこになる。

 アスファルトに血を垂らして歩くことが生きることだ。足裏の感触はいつだって硬く冷たい。

 それを逃れたい一心で隠れた僕らには、また別の試練が待ち受けている。

 

 優しさは使いどころを誤れば人を殺す。僕は身をもって知っている。暴力は何にだって宿ることを、僕は知っている。

 

 僕はどうしたいのだろう。

 

「あさひ」と名前を呼んだ。

「うん」と彼女は僕を見た。

 

 向き合って肩から背中に片手を回し、もう片方の手を後頭部に添える、彼女は最初びくっと身を震わせた。

 こわばっていた表情は、唇が触れ合うと同時にやわらかくなった。そして「今度きみんちに行ったときね」と綻んだ。

 

 

 

 体を重ねたとしても、朝陽の日常には変調をきたさなかった。

 だから僕らは適度に体を貪った。行為に時間を割くせいで生活は適当になったが、満足度は上がったような気がする。

 

 家をちょうどいい大きさの虚に改造した僕たちには、新たな一歩が、新たな試練が、再び突きつけられた。

 就職――すなわち病院とのマッチングである。

 

「でも君もう決まってるでしょ?」

 

 朝陽は液タブから顔をあげることなく言い切った。

 

 朝陽が今通っている病院は、言ってしまえば終末を予期した患者が過ごすような物静かなところだった。波と風の音がときおり聞こえるような場所だ。

 僕は本来ならこういった病院に勤めたかった。だが専門が違っていた。

 

 それに加えて、親から早く離れたかった僕は奨学金を借りたのだが、それは卒業したら県内のどこどこの病院に勤めてくださいという条件付きのものだった。

 僕の話は朝陽の一振りで断ち切られた。

 

「僕のほうがもしかして鎖に繋がってる? いま」

 

 朝陽は肩の力を抜いて笑った。視線は液タブに注がれている。

 

「いま繊細なとこ描いてるんだから笑わせないでよー」

 

 僕は彼女が左手で小型のキーボードを操作するのをぼんやり眺める。

 彼女は影に腐心しているらしく、すぐさま難しい顔に戻った。今度はペンでレイヤーを変えて色塗りを考えているのだろうか。レイヤーについて説明されたことがあるが、やりやすいようになんか切り替えているんだな、と僕はぼんやり受け取っている。

 

 僕には絵の才能がない。というよりも人間を描く才能だけがなかった。臓器などは問題なく描けることをしょっちゅう気味悪がられる。

 

「あーでも」

 

 一区切りがついてから、朝陽は机にそっとペンを置いた。僕を見て、いざ口を開こうかというタイミングで、彼女は奇妙に顔をひきつらせた。ずっと同じ姿勢だったのだ。

 

「ちょ、ちょっとまってね?」

 

 真剣な顔で手と腕をマッサージし、凝り固まった肩と背中と首をほぐし、それでもまだつらそうな顔をしている。

 

「机寄せていい?」

「うん。揉んでくれるの?」

「うん」

「やった」

 

 朝陽はラグの上に早々にうつ伏せになり、「君のマッサージ気持ちいいから好きー」とごきげんな様子を見せた。そして足をぱたぱたさせた。僕は危うく蹴られるところだった。

 

「ちょっとどこ触ってるの!」

「まだ触ってないよ!」

「ふふふ」

 

 気楽な会話をしては、朝陽はすぐに何かを考え込むような表情になった。やがてマッサージが進むにつれ穏やかな表情へと変わった。

 

「医療費を払えるようになるかもしれないなーって」

 

 出し抜けに朝陽は言った。腕や背中を終え、足裏を揉んでいた僕は、こっそりと顔に視線を向ける。

 彼女は安らかに目を閉じている。声が聞こえなければ眠っていると思ってしまいそうだった。

 

「自分で賄うっていうか、親に返済していくこともできそうっていうか。なんか、うまくいきそうだから」

 

 イラストの話だ。彼女はうまくいきそうなんて言っているが、僕からすればすでに軌道に乗っているように見える。

 これは当事者でなければ分からない事情だろう。僕のいない場所で絵師仲間から界隈の事情を聞いているのかもしれないし。

 小さく動いた唇が「それはちょっと嬉しいかも」としみじみ続ける。

 

「一人前の大人になった感じがする。親の所有物じゃなくなるって感じがする」

 

 嬉しそうには聞こえなかった。遠すぎる目標を達成した瞬間は、圧倒的な嬉しさが訪れるんじゃなくて、こういう漠然とした不安感に襲われる。ゴールを通り越して広がる景色に頭がついていかない感じだ。

 

「これからもっと実感わくかもね」

「そうかも。でも養育費とかインフレとかあるから、貯めていくのは厳しいかもなー。資産運用ちゃんとしなきゃ」

「あさひ、いま君の足裏を揉んでいる人がこれからなる職業を言ってみなよ」

「ATM?」

「君には絶対に通帳とかカードとか渡さないからね?」

「いいもん私も稼ぐし!」

 

 国家試験や就職という難題に立ち向かう僕らは、受験期のように魔に憑かれるようなことはなかった。二人は比較的安定していた。彼女が不安定な日には僕が、僕がきびしい日には彼女が、互いを思いやった。

 

 いつだったか僕はふと「『最も幸福に生れた人間の一対である(・・・)』」とこぼしたことがある。朝陽はほほえんで何もつけ足さなかった。季節も時間も場所さえも忘れてしまった出来事は、しかし僕には明瞭な事実として残っていた。

 

 旅慣れるにつれ、諦めるにつれ、身軽になる。

 一方で、心は悔恨や思い出で重くなっていく。

 

 心に羽が生えていた僕は正しく堕天できただろうか。荷物が軽いことを誇るなと怒られてから、多少は何かを背負えているだろうか。

 

 僕は立ち止まって考える。

 

 思い出に包まれて眠る夜はないが、思い出を落っことさないように抱きかかえて歩くことくらいはできている気がする。だが驕ってはいけない。考えるのをやめたとき、僕は再び、風に飛ばされるような軽い魂になってしまうだろう。

 思い出とは世間との繋がりだ。僕らはやはり、世間を絶対には排せない。

 

「どうしたの?」

「ううん」

 

 振り返った彼女に追いつくために、歩幅を広げて軽やかにジャンプしてみる。

 夜を迎える街の景色に朝陽がいる。

 

 こういう風景を増やしていけたらいいと思えた。こういうのだってきっと世間だ。人間との関わりを増やさずとも、世間とこうして関わっていくことは可能であるはずだ。

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