別に神様から許される必要なんてなかった気がする。   作:ぞんぞりもす

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社会人(了)

 彼女は長年病院に住んでいたので、看護師から嫌われない医師の振る舞いを熟知していた。そしてそれを熱心に僕へ説いた。看護師から好かれたら好かれたで面倒くさいけど、嫌われるほうがもっと大変だから、という理屈らしかった。

 

 僕はまだ他の医師、看護師からぼこぼこに言われることが多いけれど、社会人生活はおおむね順調だった。

 

 灯火に挟まれた道には様々な夕食のにおいが立ちこめていた。その中の一つに僕たちの家は紛れている。

 

 ドアが開く音を耳にすると、朝陽は小走りでスリッパを鳴らす。上がり框ぎりぎりで「おかえり」と言ったあと「今日はあんまり疲れてなさそう」と僕をからかった。

「ん」と唇を突き出され、靴も脱がないうちに応じた。いつもの儀式だった。

 

「伊野先生だったから」

「あぁ……」と彼女は得心したように何回か頷いたあと「いい人ってよく言ってる人だ」とほほえむ。

 

 僕は悠人さんのようには振る舞えない。それでもそんな僕のことを気にかけてくれる人はいた。僕との関係が最も良好なのは、老いによってなのか瞼が目の上に乗ってほとんど見えていないような老医師、伊野だった。

 僕よりも慎重の低いその人は、僕が何かをやっていると、探るようにぬっと後ろから覗き込んでくる。

 

 そして見守ってくれるし、指導してくれる。僕が初めて遭遇するタイプの人種だった。

 僕と老医師は互いに口数が少なかったが、なぜだか相性がよかった。ときたまコーヒーをぬっと渡された。

 

 僕が妻帯者なのを知っているのはごく数名だ。もちろん伊野先生も知っている。

 僕がそれを伝えてからというもの、彼は「大事にしなさい」だとか「かけるべき言葉は飲みこまない方がいい」などとことあるごとに口にした。そういうとき、彼は僕を見ていない。ぼんやりと開いた目は、いつも斜め上を見ていた。

 夫婦関係に悔いがあるように見えた老医師は、僕というよりも僕らを気にかけていた。

 

「今日はポトフなの」

 

 朝陽の足取りは軽く、声は弾むようだった。うまくできたことが食べなくても分かる。朝陽の様子と漂ってくるにおいで、だ。

 僕の予覚は当たっていた。コンソメの風味に疲労を溶かしながら、人参や玉ねぎを味わった。

 

「僕らがいたところよりも、やっぱり老人少ないよ」「高校生くらいの子がおばあちゃんに車椅子押してもらってた」「君と似たような子がいたよ」

 

 僕がぽつぽつと話をするのを、朝陽は我慢強く聞いた。テーブルに肘を乗せて体を前に出して、満足げな表情をしていることが多かった。

 朝陽が検査のために入院したときなどは、料理役も聞き役も逆になった。

 

 僕は世間を家と思っているような、交友関係の広い人物にはなれない。しかしちっぽけな虚を守ると決めた人間は、思いのほか奔走できていた。もちろん息を切らせてしまうこともあった。

 

 

 背負った重さの分だけ、背負わされた荷物の分だけ、年を取るに連れて腰が曲がる。

 それは、腕の中に抱えたものを取り落とさないようにと抱きしめる人も同じだった。

 

 重さを抱え続けることもまた人生だと思う。伊野先生が脳裏をよぎった。

 でも僕のように、重さを手放し、心のどこかで自分の放棄を望んでいる人だっていると思う。狩りが下手なライオンがいるように、生きるのが下手な人間だって、生命活動を持続させるのが下手な人間だっている。愛情の周波数が普通とは異なっている場合もある。

 

 普通でない僕たちは、どうにか腰を落ち着けた。

 

 

 営みを終えて汗を流し、熱気のこもる室内で横になる。

 沈んでいくマットレスから意識を離すと、情事の香りがまだ残っているのが気になった。「窓開けてもなかなか取れないね」と呟いた。

 

「ね。初夏の香りも全然しないし。虫が鳴き始めるのはもうちょっとかなー。そうすれば生々しいにおいもちょっとは爽やかになるんじゃない?」

 

 朝陽がごろんと横になる気配がした。ちらと一瞥を向ける。暗順応がまだなのでうまく見えない。

 

「前髪伸びた気がする」と僕は言った。

「いいよ。今度の休みね」

「ありがとう」

 

「ねぇねぇ」と朝陽は僕にくっついてきた。それからむりむりと頬ずりした。

 

「やっぱり私は裸のほうが好きだなー。寝るとき。君を感じられるんだもん」

「体冷えるし……決めたでしょ。裸では寝ないって」

「抱くくせに」

「割り切りなんだよ。僕は君の体のことを心配していないわけじゃない」

「抱くくせに」

「今度から帰ったらすぐに寝ようかな」

「わ、ごめんって~。冷え切っちゃうじゃん!」

 

 朝陽は一拍置いて「そんなわけないか」と思い直したように言った。

 

「私たち体だけってわけじゃないし。だからといって求めてもらえないのは違うと思うけどね?」

「分かってるつもりだよ」

「うん」

 

 朝陽はベッドに横たえさせた体をさらに近づけ、なかば僕に乗りかかるように足を絡めた。「でも」と不満そうな声がする。

 

「こうやって抱きしめても足もお腹も服なんだもん。ちょっと寂しいよ? 君は私の肌よりも服のほうがいいの?」

「『私と仕事、どっちが大事なの?』」

「う……その揶揄の仕方は反則」

「比べるようなことはしたくないよ。どっちにも良さがあるから。時と場合による」

「きみ、前よりも口がうまくなった」

「僕よりも口がうまい誰かさんと一緒にいるからかな」

「むぅ」

「少しだけ眠い」

「うん……程よく動いて汗流したからね」

 

 朝陽は譲歩を見せ、僕は我を押し通す。以前からは考えられないな、と心の中で苦笑した。時間の経過に伴って、僕らはそれぞれがやりやすいように少しずつ形を変えた。

 相手の尖っている部分を切り取って自分好みの形にするのではなく、双方が自らの意志で微妙に角を取って、昔の木造建築みたいにぴったりと嵌まるようになった。

 

 朝陽は不満たらたらだと尖らせた唇で何度かキスをしたあと、力を抜いて笑う。気持ちの天秤がゆらゆら動いて、最終的にちょっぴり嬉しいに傾いたように見える。

 そうして彼女は僕から離れることなく、まどろみに引かれていく。いつもならすとんと眠りに浸かるところを、今日だけは違っていた。もう寝たかと思ったころになって囁きが聞こえた。

 

「小さなころ、夢を発表したの」

 

 小さな声だったが、発音は明瞭だった。

 眠れないのと聞くことも憚られたので、小さく相槌を打つ。「うん」の「う」を限界まで小さくしたような親愛のこもった相槌を心がけた。

 

「最近ね、そのときのことを思い出して泣きそうになるんだ」

 

 泣きそうになると語る調子は、寂しい影を纏っている。僕と出会うよりも前の保育園時代とか小学校時代とかだろうか。

 僕は今さらになって、自分と出会う前の彼女をほとんど知らないと気づいた。

 

「だって話してないし、なんならできるだけ思い出さないようにしていたからね」

 

 からかうような口調だった。

 しばらく経っていたので、僕はもう夜目が利くようになっていた。 彼女の纏う雰囲気によって周囲の影が濃くなっている。もしくは前髪の伸びた僕が景色を勘違いしたのかもしれなかった。

 

 朝陽の手がゆっくりと伸びてくる。僕の前髪をそっとかき上げて額に触れた。手持ち無沙汰なのか親指が額を撫で続ける。

 

「あのときの私は、今の私を見てどう思うかなーって」

「悲しみそう?」

「本気で言ってる?」

「どうだろう。半分くらい」

 

 朝陽は僕の眉間を親指で押した。マッサージよりも強い力だった。

 

「きみいま私の人生を否定してるからね」

「それはごめん」

「次言ったら……どうしようかな。どうにかしてあげる」

「明言されないほうが怖いんだけど……たぶん言うよ。何回か、もしかしたら何回も」

「その度に教えてあげる。私の気持ちの深さを体と心に」

「夜の主導権握ったことないのによく言うよ」

「それは君がうますぎるのが悪いの! へんたい! えっち!」

「ひどい中傷だな……」

「君のこと縛ればいいんじゃない? そうすれば何もできないもんね?」

「何をするつもりなんだ」

「ひみつー」

 

 僕は一区切りついた会話の隙間を狙い、「夢って言えば」と切り出した。「君のノートに書かれてるんじゃないの?」

 

「書いてないよ。書くかどうかさんざん迷ったんだけどね」

「へぇ。全部書き記してるわけじゃないんだ」

「せっかくだし当ててみてよ」

「えぇ……」

 

 朝陽が体を起こして僕を見る。暗いが、彼女の瞳の奥には期待の火がちらついている気がした。手を引かれるのを待ち望んでいるような雰囲気があった。

 僕はせっかく揉んでもらった眉間にしわを作り、だんまりを決める。

 

「君は分からないと前に出られない腰抜け腑抜けの負け犬ざむらいなの?」

「なんでも言っていいわけじゃないからね?」

 

 僕は「うーん」と唸って時間を作る。腕を伸ばして細い体をゆっくりと抱き寄せる。僕の小細工など朝陽には筒抜けだろうけれど、それでも彼女は黙っていてくれた。

 

 重ねた胸から伝わってくる微細な揺らめきが、耳もとに当たるわずかな息遣いが、過去から未来を貫く「一生」なんて単語よりも強く今現在を感じさせる。

 

 これまでの僕は、期待や充足よりも後悔のほうが多いことを人生と呼んでいた。しかし、今の僕の胸には、後悔の対義語のような感情が広がっている。僕は今、生きているのだろうか。生きているといいな、と思う。

 

「お嫁さんとか」

 

 朝陽は笑い声をあげて僕に思い切り抱きついた。恥ずかしくなって顔をそらした僕を、彼女は決して逃してくれなかった。

 朝陽の足がもがく僕に絡まり、ぬらつく舌が侵入してくる。その日初めて、僕らは眠らない夜を過ごした。

 

 そのあと一生にわたって、彼女は正解かどうかを口にしなかった。話を蒸し返すたび僕をからかった。彼女の笑顔は、きつく絞り上げられるような人生を過ごしてきたものにしか出せない輝きに満ちていた。

 

 不自由な白い箱庭を脱した彼女の心に寄り添うことができたのかは、定かではない。僕は彼女の側にいたことだけが確かだった。

 でも僕は思う。僕がこの世界から恩赦を賜らずとも、彼女はきっといい人を見つけるなりなんなりして、うまくやっていけただろうって。僕は彼女を心のどこかで恨みながら、それでも、見つけてもらえたことに感謝し、強烈な愛情を向けるのだ。これだけ複雑な感情は、彼女と出会わなければ見つけられなかっただろうな、と僕は思う。




 最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。またどこかで。
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