別に神様から許される必要なんてなかった気がする。 作:ぞんぞりもす
沈黙が耳で膨らみ、野球部のかけ声で弾けて割れる。頭ががんがんした。少しずつ世界に色が蘇り、楽器の音、ボールが跳ねる音、靴が床で鳴く音が届く。教室の床にかけられたワックスは、掃除や机移動などで机の脚、椅子の脚とこすれるからか、ところどころが剥がれていた。僕の心もそんなふうにぼろぼろだった。
教室には僕たちしかいない。周囲は一向にうるさいのに、僕たちの間には静寂が灯っていた。外は青く鮮やかだった。木々を押し潰す勢いで空の青が迫っていた。僕はやっとの思いで立ち上がり、それでも言葉を紡ぐことができず、黙り込む。
「好きだよ……って、言ったんだけど」
居心地が悪いのか、朝陽はしたこともないのに髪を耳にかけた。桜色の耳を見せつけるような仕草に僕は思わず身構え、朝陽の気持ちを愚弄していることに遅れて気がついた。幸いなことに朝陽は僕の一連の動作を見ていないようだった。
「返事、ある……?」
凛とした声が曇る。言葉尻は不安に襲われていた。僕はとっさに言葉が出ず、周囲を見回した。教室はもぬけの殻だ。
僕は彼女の心境の一切が分からなかった。
「僕も好きだよ――」
「いつか好きにしてみせるよ」
朝陽は被せるようにして言った。速度を上げなければ感情を振りほどけないとでも言いたげだった。どれだけ車を早く走らせても、光から逃げることはできない。それでも窓ガラスに尾を引いた光を突き放そうと、もがいている。
悲しそうな顔をしてほしくなかったからそう答えただけなのに、告白が実った朝陽は、自重で落っこちた果物みたいにべしゃっとした笑みを浮かべた。
僕たちは出会ってから一ヶ月と少しで付き合うことになったわけだけれど、特別何かが変わった――ということはない。
家からスクールバスの停留所まで歩いて、スクールバスに揺られて、帰りは行きの道を反転させるだけだ。朝陽は週の大半を両親による送迎で通学していた。
僕らがどこかに行くことはなかった。朝陽の両親の許可が下りなかったのだ。朝陽は「デートしたい」「デートしたい」と始終嘆いた。
彼女は両親がいる前でも平気でそんなことを言ったが、誰も何も言わなかった。僕は一度訴えが取り下げられてから、何も言えなくなった。
「デートなんて言ったって、こんな田舎じゃどこにも行くところがないよ」
「電車に乗ればいいじゃん! どこにでも行けるよ! あの二両編成のおもちゃみたいなやつ!」
「おもちゃって……こうして登下校でときどき一緒に歩いているのもデートみたいなものだろう?」
「つまんなーい!」
僕は朝陽を宥める側に回ることが多かった。それは朝陽の望みというよりも、周囲からの何かを僕が敏感に吸い取ってそうしてしまうだけのことだった。
普通の中学生みたいに、朝陽は青空に向かってよく叫んだ。そして、当てのない青空と奥行きのある森にこだまして、跳ね返ってきた自分自身の声に打ちのめされるみたいに無言になった。
あるとき不意に「引っ越しみたいなものだよ」と朝陽は言った。それは放課後の教室でのことだった。
僕たちは放課後一番のスクールバスを見送り、部活帰りの人たちが使う夕方の便に乗ることを決めた。近い地区の人は自転車通学なのだが、最近になって合併したこの中学は、どうしても遠い地区の人だってここに通学しなければならなかった。一番近い中学がバスで数十分のところなのだ。
「引っ越し?」
僕は繰り返す。「そう」と朝陽は僕に横目を向ける。彼女は窓縁に尻を乗っけて外を見ていた。上品ではない所作だが、不思議と様になっていた。朝陽ほどの美人になると、周囲にあるものが自分を最も引き立たせてくれるように勝手に変形するようだった。
「最初だけ特別ってこと。お香は最初の呼吸が一番いい、ビールは最初の一口が一番いい。そういうこと」
彼女は時間を持て余しているからか、ゲームと本に耽る習慣があった。本を好むのは僕と同じだった。だからすぐに、なんだか聞いたことのある話をしていると思った。
本の話を持ち出すのも、ビールを飲んだことないでしょと突っこむのも面白くない気がして、言葉を探す。見つからなかった。
朝陽は僕の様子を楽しそうに眺めてから、「君といるのはずっと楽しいよ」と午後の日差しに髪を踊らせる。
「麻薬みたいな中毒性がね、癖になるの。一度はまったら抜け出せない」
「……僕は褒められているの? 貶されているの?」
「素直に受け取りなよ。彼女がこんなふうに言ってるんだよ?」
「受け取りきれない。僕の両手は塞がってるんだ。その荷物は別の家にお願いするよ」
「愛情を作りすぎちゃって、おすそ分けです、にこ! みたいなことを君以外の誰かにすればいいの? 嫌だけど。ていうか何その押しかけとなりの晩ご飯みたいな」
「はた迷惑すぎる」
「今どきこんなことする人なんているのかな」
鍋に入った料理から紫色の煙が立ち上っているよ、と追撃しようかとも思ったが、彼女の愛情を否定したくはなかったし、何より紫煙からタバコの話に脱線する可能性もあるので黙っていた。
朝陽は何も気に留めていないような調子で「手作りのおにぎりが食べれない人、増えてるみたいじゃん」と一人でラリーを続けている。
それもやがて静かになった。僕たちの言葉の隙間を埋めるのは、僕たち以外が発する世界の音だった。二人は世界から弾き飛ばされたみたいに無言だった。
「引っ越しってね」朝陽は物憂げに外を見ていた。「最初だけ特別なんだよ。知ってた?」
「さぁ、知らないな」
「だと思った。何回も繰り返すと慣れちゃうんだよ。ボタンを押したら水が出てくるサルの実験みたいに、最初の一回だけが特別。世界の大発見。でももうあとは学んで慣れちゃう。引っ越しは実験と違って、回数をこなしても不安がついて回るんだけどね。ドーパミンは消えるくせにさ」
太陽が連れてきた完璧な朝を恨むちょっとだけセンチメンタルな朝顔は、こんな表情をすると思った。
「それで、だんだん鬱陶しくなってくるの」
「環境が変わることが?」
「ううん。みんなの反応。みんなにとって私は、引っ越していく初めての友だちかもしれないけど。私にとってはさ? 何度目かも分からない一部なんだ。通過点なんだ。それで泣かれても……温度差がちょっと、ね」
朝陽は一階を見下ろしていた。目的物があったのではないと思う。顔が自然に下がっていって、アスファルトか草むらを用もなく見たのだ。
窓をくぐった光は、顔を上げた朝陽を照らした。
「私って残酷かな」
「君が残酷なら、そんな表情をしているところを照らす太陽はもっと残酷だよ」
「うえぇ~」あからさまに盛り下がりましたと首を突き出して「なにそれ、きもちわる」と僕を見る。
「まぁいいや。それでもう人間関係とか適当でいいなーって思ってたんだけど、君からは私と似たようなすり切れた慣れみたいなものを感じたんだ。仲よくできるかもなんて柄にもなく跳ねちゃって。でも仲よくしたらお別れがつらくなるでしょ? 迷ったんだ。初めて会った日の夜。好きな人を想う女の子みたいにベッドでごろごろして、どうしようかなー、ライン聞こうかなーとか思ってみたり。まぁ君はそもそもスマホを持ってなかったんだけど、そんなことは置いといて……」
「そしたらびっくり」と朝陽は足を振って弾みをつけ、窓縁から勢いよく飛んだ。着地の勢いをいなせず数歩よろけながら僕の前に来た。
「ちょうどその日に、なんと、もう引っ越しはしないーみたいなこと言われて。だからもう運命じゃん! って思ったんだ。その日は晴れていたの。覚えてる? 君と会ったときも雲ひとつなかったんだよ。夜も、月がね?」
思わせぶりに朝陽は笑った。
僕はそのときのことを思い返して、霊峰の白が脳裏を鋭く侵した。外を見ても峰は見えない位置にあった。
僕たちはそれから「勉強しよ! 課題たくさんだよー。もうたくさんだよー」と朝陽が言うまで無音の箱庭に閉じこもっていた。楽園なのかもしれない。永久に成長することのないであろう、二人だけの箱庭は。しかしそれは、停滞や地獄とも表現できるような気がして、迷った。
場合によっては楽園で、場合によっては地獄となるのが、なんだか現実みたいだった。
夕暮れの時刻、部活の片付けをしているのか周囲の音が聞こえなくなった中で、朝陽はスクールバッグに教科書を詰めていた。視線は四角四面のバッグに注がれていた。手をその中に突っこんだまま、彼女は分厚く小さな国語の教科書を持ち続ける。
「初めてを、特別を。何度も同じ人と体験したいって思うことがきっと好きなんだよ。私は好きだから君といろんな初体験をしたい。鮮やかな一瞬を別の角度から切り取り続けたいの」
「でも繰り返したら慣れちゃうんじゃないの? 君が言ってたみたいにいつか鬱陶しくなる日が来そう」
「世界は広いんだよ、少年」
「だといいね」
「今はこの空間が私たちのすべてだけど、いつか――」
大空を飛ぶような口調が途切れる。朝陽はがっくりと肩を落とした。
朝陽は「どうだろうね」と首を傾げ、胸を刺し貫かれてもなお笑う心優しい少女の絵画みたいに笑った。笑みは不器用に歪んでいた。
彼女は未来に期待していない。でも、期待しないとやっていけなかったのだと思った。
橙色の風景に向かって、校舎からぞろぞろ人が吐き出される。僕と朝陽はその軍団の一部だった。
元気な声が田舎の景色に天高く響いて、追いかけっこをする何人かが僕らを追い越す。みんな笑っていた。僕と朝陽は違う笑い方をしていた。
それを口にすると、彼女は「ほんっと君って」と呆れたように言った。「ん」のあとの小さい「っ」に力がこもっていた。
朝陽は結局、どこの部活にも入らないと決めたようだった。
「どうせ幽霊になるだろうし、ときどき化けて出るのも嫌じゃん」
朝陽は僕にこのように説明し、「驚かれる側の幽霊ってどんな気持ちなんだろうね?」とセンチメンタルに笑った。
自分の体がとてつもなく弱いことを相手に伝えるとき、彼女は茶化す感じで話す癖がある。
性格や癖は、そうしなければ生きてこれなかった必然性の結果だ。そう思ったら胸が塞がった。彼女は僕に、センチメンタルに笑いかけたのだ。ということは、たぶん――。そういう宝物を握りしめて生きていきたかった。それが手を貫くほど鋭利でも、僕は赤い液体を滴らせながら握っていたいのだ。
スクールバスがある駐車場までは少し距離があった。意識の外から殴りつけられたように、僕は木の向こう側にある音楽室の窓に目をとめた。
僕らを写すはずの窓は夕焼けを照り返して、ちょうど僕らを光で隠す。光は目の裏側にまで突き刺さった。
「どうしたの?」
「目を灼かれた」
「私に?」
「うん。君は輝いている。僕の太陽だ」
「太陽に近づきすぎた鳥は焼けて死んでしまうんだよ。ついでに地獄で嘘つきの舌を引っこ抜いてもらったら?」
「僕の負けです」
目を開いた僕が見たのは、音楽室の窓を振り返ってしきりに頷く朝陽の姿だった。
朝陽にセーラー服はよく似合う。水槽の中に真珠を入れて照らしたらこんなふうに柔らかく魅力的な雰囲気になるのだと思う。
僕に顔を戻した朝陽は淡く笑う。
「最後に音楽室行ったのっていつだろう」
音楽の授業は普通、水曜の三時間目と金曜の五時間目にある。
水槽が割れて、冷たい水と一緒にガラスの破片が僕を襲った。鎖骨の間にある紺色のリボンが鈍く輝いた。空を閉ざす黒い雲に光を当てたみたいに不吉な輝き方をしていた。
「またよそ見してる。よくないよ、そういうの。彼女が目の前にいるのにさー」
「ごめん、考え事してて」
「わかった、違う子にデレデレしてたんだ。だれ、誰が犯人? 私悲しいな~」
彼女はときどき、こういう類の笑みを浮かべることがある。疼く心の傷跡をライトから逃がすような、彼女という魅力的な女子の笑顔にライトを向けさせて、確かに存在する暗い部分を認識させないような作り笑いを浮かべることがある。
彼女は僕を練習台にしているのかもしれない。世間を欺く完璧な仮面は、僕の前でだけ綻びを見せる。
普段なら表に出てこない朝陽の薄暗い影は僕を惹いて仕方がない。
世界のすべてが影の濃淡で表現される、夕暮れを少しすぎたくらいの時間帯。地平から空の向こうまで広がる輝きが黒ずむ時間帯も、僕を惹き込んでやまない。
「ね、帰ろう。ぼさっとしてないでさ」
朝陽は僕の手を引いた。
「早くしないとバスでちゃうよ?」
なんて茶化して。どうしてこんなに胸が痛いのだろう、と思った。