別に神様から許される必要なんてなかった気がする。 作:ぞんぞりもす
僕たちを隔てるものは、互いの服だけ。人の重みをじかで感じるのは初めてだった。
徐々に灯火の揺れが収まっていく。緩やかに、小さく。彼女の生命がどれだけ叫んだところで、僕にはほんの一瞬しか伝わりっこないのだと思うと、無性にやるせない。
こんなことを感じるのは所詮は僕の身勝手だ。勝手に落ちこむなんてみっともない。
顔がとなりにある。頬がくっついている。
草とキスする勢いの朝陽に「痒くないの?」と聞いたら、頬から水音がした。一瞬だけのやわらかな衝撃は、頬を突き破って体内をさんざん跳ね回ったあげく、心臓をぶち抜いて出ていった。
脳には赤色の衝撃がいまだに残っている。彼女は僕の様子に満足できなかったのか、今度は唇を頬に押し当てた。
およそ中学一年生が立てていい音ではない。
愚弄されているわけでも嘲弄されているわけでもないけれど、弄ばれているのは確かだ。仕返しをしてやりたかった。
朝陽の舌先が頬に触れてしばらく経ったとき、僕は天啓を受け取った。
「重いんだけど」
その言葉を耳にした途端、朝陽は天空まで飛んでいけそうな勢いで体を起こした。信じられないと言わんばかりに目を見開き、僕を指さす。
「ありえない! 重い……重いって! おも……身重……!?」
何を間違えて妊娠したのかは分からないが、朝陽は、僕が無言で見続けるとその可能性を諦めた。一度ならず二度、三度と腕を振り上げ、振り下ろす。
「ルール違反! レギュレーション違反です! 禁伝使った! 言っちゃいけないこと言ったんだからね今! そこはさ!? あったかいねとか、甘いねとか、そういうことを言う場面なんですよ! まったく乙女心が分かっていないなぁ君は!」
「キスするほうもキスするほうでしょ」
「いいじゃん愛情表現なんだから! 君がしたのは、冗談っていう刀で私を切りつける行為なんだからね!? おもちゃのあの引っこむナイフでも私には致命傷なんだよ! 敏感肌なの!」
話が脱線しまくっても、彼女が怒っている事実だけは変わらなかった。しかし、まくし立てる彼女に僕も負けていられなくなった。意地を張り合っても最後には和解できるだろうという、若さゆえの見通しの甘さとも、信頼とも言える不思議な気持ちがあった。
大人になったら、きっとこんなふうに裸の心をぶつけ合うことはできない。記憶にある限り僕らの両親はこういったコミュニケーションを取っていないから。
僕たちは今なまくら刀でチャンバラをしているのだ。切れ味が悪くともダメージは入ってしまう。だとしてもそれを愛情表現の一種だと受け取る若さがあった。
僕たちが大人になれば刀を鞘に納めるだろうし、もしかしたら帯刀すらしていないのかもしれない。
「僕が乙女心を分かっていたら僕じゃなくなるよ」
「うっざ! なになに。僕が乙女心を分かっていたら世間が放っておかないんだぜベイビーですって! っか〜、みんなに聞かせてやりたい!」
「妄想がすごいな」
「誰が被害妄想ばっかりのメンヘラ女だって!?」
「誇張がすごいんだ。どこまでふざけているのか分からない」
「ありのまま起こったことを話したでしょうが!」
「見えてる世界が違う。たぶんドラえもんのひみつ道具か何か身に着けてるよ」
「つけてないよ!」
「知ってるよ!」
見つめ合って、こらえきれなくなって同時に吹き出す。
およそ中学一年生とは思えない運動会の過ごし方だが、朝陽が特例なのだから仕方がない。
特別とか特例といった響きには、それだけで心を浮つかせる魔力がこもっている。特別に染まろうとする人には効果てきめんなのだ。みんな心のどこかで特別に憧れているふしがあるように思う。個の集まりが
ところで僕たちが特別を笠に着ることはなかった。僕と朝陽には、二人の間から世間を徹底的に排除しようとする傾向がある。だから普通とか特別なんて眼中にない。
星を読んで位置を知る人がいるように、僕たちの北極星は明確だった。つまり自分たちの領域を侵されないように気を払っているのである。
僕は世間を冷ややかに見つめているくせに、そこから伸びてくる触手をひどく恐れていた。朝日がどうかは知らない。
お昼ご飯のお弁当も僕たちは二人きりで食べた。
様子を見かねてやってきた保健室の先生は、朝陽のポニーテール姿を初めて見たのか、後ろに回り込んで尻尾をふさふさ弄んでから口を開く。
「今日は髪の毛どうしたの? 気分?」
「そんな感じです。せっかくの運動会なのにいつも通りだったら特別味が薄れるし、気分だけでも走ろう! って思って」
「いいねいいね、似合ってる! 陸空くんは何か言ってあげた?」
「……似合ってるって」
「よし陸空くん、朝陽ちゃんを見つめて言えたら満点ということにしてあげよう」
「似合ってますよ、有坂先生」
「いやいや私じゃないから!」
「思ったことは伝えたほうが得だぞー」と言って有坂先生は去っていった。
彼女にも自分の仕事があるのだろう。ましてや若いのだから雑用も頼まれていそうだ。忙しそうに各所を歩き回る先生はそれでも楽しそうだった。
心の底から子どもが好きなのだという純粋さみたいなものを振りまいている。太陽みたいな白さと眩しさに、僕は逆に息苦しくなるたちだった。好きだが、あまり近づきたい手合いではない。
「私にも似合うって言って」
「似合ってる」
「どのくらい」
「一等星が霞むくらい」
んふ、とむせるような声がして「似合いすぎじゃない? アイドルみたいな」と朝陽の声が震える。ちらととなりを見ると、箸を持った手で口もとを覆っていた。
「はー、食べ物とか飲み物口に入ってなくてよかった。あともう重いって言うの禁止ね」
「ごめん」と言ったら「ううん」と首を振った。朝陽は何事もないように振る舞っているが、泉に大きな石を投げこまれたようなものだろう。
一瞬だけ大きな水しぶきが上がって、それから波紋が生まれて凪いで、それでも確実に水底には重い物体が沈殿する。水底の石が増えれば、心を満たす余裕はその分だけ容量が減ってしまう。
「今度言ったら君んちに行って本当に身重になってあげるから」
「とんでもない脅し文句きたな」
「どうする? それでも言っちゃう?」
「金輪際口にしないことを誓おう」
「じゃあ来世で口にしてよ」
「それは――」
沈黙が膨らむ。言葉を失った僕は、小指ほどの小さなウインナーを箸で挟んだまま停止し続ける。やがて頭上と足もとで緑がそよいだ。やわらかな音はゆっくりと僕の脳を撫でて、遅れて、夏風というには心ばかり冷たい風が肌を撫でる感触がやってくる。
ある種の、願いなのだろうか。来世も会えますように、みたいな。出会ったばかりだというのにそこまで好かれるなんてことはあるのだろうか?
僕たちは恋人だが、そこには恋の高ぶりだとか、恋の情熱らしきものは限りなく少なかった。もちろん僕は肉を離れることのできない体であったから、緊張や興奮の作用は見られた。しかし僕らが中学一年であることを考えると、これは異常としか言えないような発達だった。
僕は、朝陽からどの程度好かれているのか実は見当がついていない。好感度に上下があるように、好きという範疇にもきっと上下がある。僕は上位の好きの中で、いったいどの程度の位置なのだろう。
朝陽は僕の脳内を見透かしているのか「大げさなボケだと思う?」と笑って僕の箸からひょいとウインナーを奪い去った。
反応できずにいた僕の視界の端っこに、少ししてから「これあげる」と唐揚げが迫った。