別に神様から許される必要なんてなかった気がする。 作:ぞんぞりもす
午後からの僕の予定は、応援パフォーマンスと全員リレー程度だった。応援は昼のあとすぐ次のプログラムで、全員リレーは最後だ。一学年二組だから、合計で六つの色が競うことになる。競争で三年生になんて勝てっこないんだから気楽なもんだった。
朝陽は相変わらず漂白されたままの予定である。今日の空みたいだった。それでも彼女の気分は晴れやかではないのだろう。飽きに襲われているのか、それとも自分だけ参加できない疎外感に耐えることが難しくなってきたのか、朝陽の表情はだんだんと曇っていった。
応援パフォーマンスが終わってすぐ、朝陽は僕を定位置の離れに引っ張った。クラスメートの活躍をぼんやり眺める彼女の口数は少ない。
昼ご飯を食べて穏やかな運動をしたものだから、僕はそのうち眠っていた。樹下の風と陽光には人を眠らせる力がこもっていると思う。
目が覚めたときには、全員リレーの時間が迫っていて。遠くにある太陽がけっこう動いていたのに、となりに座る朝陽が一切動いていないことに胸が締めつけられた。
「普通に動けたら楽しいかな」
「楽しいよ」寝起きだから僕の声はからからに乾いている。そんな声で砂漠のオアシスになろうとしているのだから呆れてしまう。
「君は楽しそうに見えないけどなぁ」
そんなふうに返す朝陽のほうが僕より何倍も楽しそうで、何倍も無理をしていそうだった。
新緑や若葉は、これから死に向かって全力で走るのだ。芽吹きとかいう綺麗な言葉に奥にはどす黒い死が待っている。朝陽はそんなことを考えていそうな雰囲気だった。
「あんなふうに命を燃やしている顔、私はしたことないなぁ」
違うな。僕の世界は朝陽には当てはまらない。彼女は純粋に羨んでいるのだ。……僕の思考はつくづく駄目だ。側にいる期間が長くなればなるほど、若いうちは、同化が進む。その果てに「こんな人だとは思わなかった」なんて自分が傷つかないよう、相手を傷つけないよう、僕は細心の注意を払う必要がある。
三角座りをして頬杖をつく朝陽に僕の思考がバレないよう、僕は横顔を盗み見ようとして見つかってしまう道化を演じた。朝陽は吐息程度の笑い声をあげてから疲れた顔をした。
沈黙が募った。朝陽はぱちんと手を叩いた。
「さ、そろそろ時間じゃない? 寝起きのままじゃいられないよー?」
声音を一転させても重さはつきまとう。朝陽は冬の寒さをこらえるみたいに寂しげに笑ったあと「頑張ってね」と背中を叩いた。侘しさのこもった頑張ってねが、手のひらとともに背中に食い込んだ。
……
しれっと抜け出すことを提案されたのは全員リレーの直後である。「いてもいなくても変わんないよ」なんて自分を斬りつけるみたいな笑い方をされたら、そりゃもう突き放すわけにはいくまい。
僕らはグラウンドを離れ、校舎の外周をぐるりと回って反対側に向かい、坂を下った。僕たちの中学校は小高くなった土地にあり、中腹には市営の室内プールやテニスコートなどがあった。屋内プールと兼用の駐車場には、家庭の形みたいにばらばらな車がずらっと並んでいる。
弾んでいた僕の息は、次第に僕たちを取り巻く空気のように静かなものになった。ときたまアナウンスの遠鳴りが聞こえてくるだけだ。初夏の自然は案外静かだ。セミがいないという理由が大きい。
徐々に沈鬱に変わっていく空気を断ち切るように、それまで黙っていた朝陽は声を上げた。
「やっぱり楽しそうってより必死そうだった。走ってるとき」
「全員リレー?」
「そう。みんな。君も」
朝陽は横目に僕を見ることすらしなかった。彼女はおもむろにしゃがんで、そこらへんの雑草を抜く。目を引いたカフェにふらっと立ち寄るみたいな、なんにも考えていない無造作な感じもあった。
用務員さんが手入れしてくれているそこは清潔だった。朝陽にとても似合うと思った。
「僕はまぁ、仕方がないだろう。彼女が最前列で応援していたんだから。必死にもなるよ」
「必死なのに周りを見る余裕はあったの?」
「……僕はそういう生き物なんだ」
「哀れな実験動物ね」
「言いすぎじゃない?」
「通院の頻度で言えば私のほうが実験動物かも」
あはは、という自虐は晴天にどこまでも寂しくこだました。重たい毎日にしゃがみ込んでなんていられない――そう感じさせる勢いで朝陽は背筋を伸ばす。靴裏がアスファルトから離れる。ポニーテールがふわりと舞う。
「君は本気のそういう顔をしたことがない?」
「うん……」
生返事だった。生返事をしなければ、自分の痛みに気づいてしまうからだった。
突如として吹いた風は蕾をもぎ取る勢いの嵐だった。ポニーテールをうなじで押さえる朝陽は太陽を見ている。そちらから風が吹いてきたのだろうか、と思って僕も見上げた。
学校の近くにある山がざわざわ鳴いている。注ぐ慈光は、このときばかりは朝陽を傷つけるためだけの凶悪で鋭利な装置になっている気がした。
「――せっかくだしプール入ろうよ!」
朝陽は浮かれた。僕の手首を掴む力は強い。跡がついているだろう。駐車場は満杯だったけれど、プールの受付には人がおらず、田舎のバス停みたいな寂れた佇まいだった。
「水着持ってきてないでしょ」
「服が濡れても運動したら汗かきましたって言えば大丈夫!」
「ずいぶん激しい運動をしてきたんですね、ってなるよ」
「じゃあ裸で入る?」
「保育園かな?」
「あちゃー、私たちは中学生だ。こりゃまいった」
「よかったよ、ここで保育園児のものまねとかされなくて」
「してほしい? あちょっと無言で階段降りるのはずるくない!?」
「とにかく入ってみようよー」と朝陽は僕を引き戻す。
そもそも運動会を抜け出したあげくプールで遊び呆けていたなんてことがバレたら大変なことになるのだけれど、彼女は衝動で動くとき、それ以外のすべてが吹っ飛んでいくことがままあった。あるいは僕が止めてくれるとでも思っているのかもしれない。
「少しくらいなら中見てもへーきだよ」
朝陽の手を振りほどくことができず、二人して無人の女子更衣室を突っ切る。
わくわくやどきどきが、僕にはあった。これもまた、恋の衝動ではない気がした。僕にはそれがひどく惨めなように感じられた。その気持ちは天秤の片方の皿に乗せられ、叱られる恐怖と、重さを比べられている。天秤はかたかたと揺らぎ続けた。僕は朝陽との冒険をそこまで魅力的なものと捉えているらしい。
掃除されていないプールは、ぬめっとしたものや抽象的な油みたいなものが浮かんでいた。視界に入れた瞬間に身震いした。
「やっぱり駄目そうだね」とどこか残念そうな朝陽よりも先にプールをあとにする。朝陽は手についた土をシャワーで落としてから出てきた。
先ほど僕は市営のテニスコートがあることを述べたが、彼女が次に目をつけたのはそれだった。だが肝心の道具は一切なく、僕らはコートをうろうろ歩く変人となっただけに終わった。
そのころには日の入りになっていた。
「ね、誰も探しに来なかったでしょ?」
保健室に向かうかたわら、朝陽はぽつりと呟く。それは結果の分かりきったテストを返却されたみたいにあっさりした言葉だった。満点を逃したのが分かりきっていたみたいに残念そうで、どこかに願望が潜んでいるように感じられた。
「私はいてもいなくても変わらないんだよ」
「それなら僕だって同じだよ」
「ううん。君はいなきゃ駄目だよ」
「僕がもしも今日休んだとして、代理で誰かが二回走ったり借り物競争に出てくれたりしたよ」
「じゃあ私とこんなふうに悪いことをしてくれたのは誰だろうね?」
「それは――」
となりには、暮れ方に似合うしんみりとした笑顔があった。
「いや、でも。だったら、僕がこんなふうに運動会を楽しくすごせたのは君のおかげなんだから、君がいないと駄目だったよ」
「お、私と同じ理論使ってる」
「どういうこと?」
「私もね、君がいないと駄目だから、君がいてもいなくても変わらないなんてことはないんだって言おうとしたんだ」
朝陽は言い終えるといきなり走り出した。僕は歩く気だったのだが、見透かされて「私を捕まえてみて!」と振り返りざまに声をぶつけられる。
走った僕にとうとう朝陽は捕まった。彼女は息が切れていた。僕はまったくだった。
これは何かしらの、重くなった心を置き去りにする儀式だったのかもしれない。
「つかま……ちゃった……」と肩で息をしながらも朝陽は止まることなく歩き続ける。病的に白い頬が染まっていたのは、僕の見間違いでも夕日のせいでもないだろう。
しばらく歩いたところで有坂先生に見つかり、保健室に連行された。
「どこ行ってたの!?」とお冠だった有坂先生は朝陽を見るやいなや血相を変えて、矛先を僕に向けた。「何をやらせたの!?」と怒鳴った先生は、口調とは裏腹な丁寧な手つきで朝陽に付き添った。
保健室はいつだって静かだ。
朝陽が息を切らした原因を聞いた有坂先生は呆れて声を失っていた。ベッドに寝かされていた朝陽は、のそのそと僕のとなりに座る。
「まだ寝てないと――」
「ううん。大丈夫です。心配しすぎですよ」
「それでもしも何かあったら――」
「ありさちゃんが怒られちゃいますか?」
「それ以上はやめたほうがいいよ、朝陽。有坂先生が怒られるのも事実だろうけれど、有坂先生はおそらく本気で朝陽の身を案じてくれている」
朝陽はこの先生によく懐いていたし、先生のほうでもまた、年の離れた手のかかる妹を見るように振る舞っていたと思う。だが、あいにくと二人の関係には圧倒的な隔たりがあった。心配するものとされるものでは、どうしたって上下の立場の差が生まれてしまう。朝陽はそれを極端に嫌っていた。だから溝は埋まらなかった。
「あなたたちは特別とはいえ、まだ中学生なんだからね? あんまり私たち先生を困らせないようにしてね?」
有坂先生は頭痛をこらえるような顔で言い、話を終わらせた。大人を困らせるのが
それにしても。
特別だなんて言われたけれど、僕も朝陽も本当は特別なんかじゃないと思う。周囲から浮いている存在を形容するとき、対象への好意と対象の能力値によって名称が変わるだけで、本当なら特別も悪者も正義も変わらないんじゃないか。
特別だから浮いているんじゃない。
浮いている存在を形容しようとして、なんとか悪い意味を脱臭した結果、特別という名前が与えられるのだ。
あるいは浮いている規則破りをする人を形容しようとしたすえに、悪者という名前が与えられるのだ。
それだけなのに。特別なんて。
僕がそんなことを考えている間に有坂先生はご両親への連絡を済ませた。迎えはすぐに来た。彼女は自分の親に楽しそうに謝った。
彼女のご両親は娘のやんちゃを容認しているふしがあった。「今までこういうことがなかったものだから」と車内で寝てしまった朝陽のとなりに声をかけた。無理しない程度に楽しんでほしいというスタンスなのかもしれない。
僕はなんという答えを求められているのか分からず、苦笑を返しただけだった。