別に神様から許される必要なんてなかった気がする。 作:ぞんぞりもす
引っ越してから初めて雪を見た日、朝陽は大はしゃぎだった。登校中のことだった。
スクールバスから下りたらちょうど瞼の上に雪が乗って、その冷たさをもって冬が来たのだと彼女は認めたらしい。バス酔いがひどい朝陽は、車内で寝ようと涙ぐましい努力をしている。そのかいあって今まで気づかなかったのだ。
彼女は乗車口でしばらく突っ立っていた。後ろが詰まることなどお構いなしに空を見ていた。
田舎者がスカイツリーを見たときと逆のことが起こっていた。
黒いゴム材の上で、乾ききった僕のスニーカーはじっとそのときを待っている。
冷たい風が頬を後ろへ抜けていく。風は僕にまとわりついていたバス内の空気を振りほどいてくれた。淀みや停滞を手放し、ようやく前進のときが訪れる。
「雪だ!」
とうとう朝陽はアクセルを踏み、勢いよく駆け出した。スーパーカーみたいに加速していった。田舎によくある広い駐車場を突っ切ってぐんぐん遠くまでいってしまう。エンジンを吹かせる代わりに声が弾んで、軽い魂が風に乗って運ばれていく。
僕は燃費の悪さを懸念した。意思の明るさに反して、彼女の体は脆いのだ。
そして長蛇の列はやっと動いた。ぞろぞろと一つの口から出ていき、てんでばらばらに校舎へ向かう。誰かが何かを言ってくることはなかった。
つんとした雪の臭気を懐かしく思いながら、僕は朝陽へと向かう。彼女は駐車場の端でまたしても空を見ていた。地面に投げ出されたスクールバッグが凹んでいる。注視していたつもりだけれど、近くの木にぶつかったのだろうか。見た限り彼女に怪我はないようだ。
「雪だよ!」
朝陽は声の勢いそのままに僕を見た。僕と朝陽は、少し身長差ができていた。
「雪だね」
「積もるのかな!」
「どうだろう。予報じゃすぐやみそうだけど」
「なんでそういうこと言うのさ!」
「天気予報に言いなよ」
「一七七だっけ?」
「さぁ。ていうかあれ機械音声だからクレーム入らないでしょ」
すごい、早い、とはしゃぐ朝陽を尻目にあたりを見回す。
ワインレッドの渋いコートに、頭髪の黒に枯れ木の茶色と空を覆う鈍色。上から下へ舞い落ちる小さな白。古ぼけた写真みたいに物足りない世界で、彼女だけが異様な輝きを放っていた。
彼女はつま先に魂が宿ったような調子で再び駆け出した。駐車場から車道を越えて、赤は鮮やかに視界を踊る。遅れて黒が宙を駆ける。
まったく浮かれている。これだから都会人は。雪がもたらす苦労を知らない。そんなことを思いながら、見守る僕の頬は緩んでいた。
空は曇っていたが、彼女の振る舞いは晴天そのもので。どこまでも澄んだ声で「雪だ! すごい! 冷たい!」と言い、その声は重く垂れこめる雲を突き抜けて銀河まで響いたと思った。
親しみ腐った光景でも、朝陽の一言で魔法にかかる。いずれ解けるものだとしても、一瞬の鮮やかさが脳に焼きついて、それは僕たちがどこまで進んでも足跡として光っていると思う。一瞬の鮮烈な輝きは体温が損なわれても残り続けると思う。
校舎に着くまで、朝陽はひっきりなしに叫んだ。
朝陽は人が吸いこまれていく校門を駆け抜け、堅牢な箱庭に激突していった。
玄関でも見ている側にまで体温が伝わってきそうなほど跳ね回り、そして、咳が止まらなくなって保健室に連行された。
師走前だったが師走みたいに大わらわな朝だった。幸いなことに朝陽はすぐに規則的な呼吸を取り戻した。そして朝陽が落ち着いたころ、有坂先生は呆れた声で僕に言った。
「どうして止めなかったの?」
「人の感動を邪魔する人は魔物だからです」
頭が痛い。目をつむって言葉を控えた先生は閉め切られたカーテンへ顔を動かす。それからため息をついた。
「最近こういうことちょっと増えてきてるよね? 前までは陸空くんがちゃんと止めてくれてたのに……どうしちゃったの? 今回は何事もなかったからよかったけど、朝陽ちゃんが特異な体質だってことは聞いてるよね?」
「聞いています。でも僕といるときくらい、はしゃいでもいいじゃないですか」
「それで倒れちゃったら、陸空くんは責任を取れる?」
「それは……取れない、です」
「うん」
責める気はないのだと有坂先生のすべてが伝えていた。彼女は椅子に座り直し、悶々とした後、ポニーテールを静かに揺らす。「でもね」と先生は厳しくも優しい口調で僕を諭した。
僕は目をそらしていたが、恐る恐る向き直った。
「手遅れになることだってあるの。先生、陸空くんには分かってほしいな」
「……はい」
僕は背を丸めてスツールに座り、行き場がなくてなんとなく腿の上に重ねている手を見た。読書やゲームをしているときの僕も、きっとこんなふうに姿勢が悪い。
保健室は玄関の近くにあった。だから靴を出し入れする音や話し声などがずっと聞こえた。男子二人の笑い声が遠ざかっていく。
しかし、そういう喧騒が一瞬にして遠のいた気がした。劇場の幕が下りたみたいに何かを隔てた感じで音が耳に届く。保健室の主はどこまでも空気を掌握していた。
「責任って……まだ難しいかな?」
「いえ、分かります。倒れたら、その、大変です」
大人はいつも責任という言葉を使う。子どもにとってのSNSみたいに、大人には責任がセットでついてくる。セット料金で安くなることはない。高くつくことしかない呪いみたいなオプション品だと思う。
もしかしたら、朝陽はこういう温度差に疲れているのかもしれない。はしゃぐことを許されずに育ったのに明るい性格をしていることが不思議だった。その実ずっと息苦しい思いをしていたのだろうか。
「学校だから、もしも何かあっても大人がいると思って」
言葉を絞り出す。喉が震える。大きな人には立ち向かうのは、いつだって怖い。
有坂先生は「そう。そうだね。私たちがいれば、私たちがなんとかできる場面が多いと思う」と真剣に言った。
「でも」と先生は椅子から身を乗り出して僕の手を包んだ。朝陽とは違う甘い香りがした。保健室の独特の臭気が嫌じゃないのは、きっとこの甘やかさがまざっているからだと思う。
視界の下で、開かれた白衣の裾がふらふら揺れていた。
「先生が心配しているのはそこじゃないんだ。そうやって少しずつネジが緩んでいって、頼れる大人がいない状況でも動き回って大丈夫、みたいになるのが怖いんだ。一回大丈夫だったら、今度は私たちの知らないところではしゃいじゃうようになるでしょ? ほら、大人ってうるさいじゃん?」
先生は最後だけ冗談めかして言った。それ以外の部分は言葉尻まで穏やかに、しかしはっきりと話した。
慈しみのこもった声を聞くと、僕は無性に泣きたくなる。これは大人が子どもに向ける声音の場合が多い。責められてるとか申しわけないとかじゃなくて、ひたすらに体の内側が張り詰めて爆発してしまいそうになる。
「そこまで思い詰めなくてもいいんだよ。ただ……私も大人だから、先生だから。本当は養護教諭なんだけど――どうでもいいか。とにかく陸空くんよりもいろんなことを知ってるの。続くと思っていたレールってね、意外とあっさり、それもいきなり外れちゃうんだよ。知ってた? 見えなくても傷は確かに広がっていて、それである日とつぜん病気にかかっちゃうのと似ているかな。だからちゃんと朝陽ちゃんのことを見ていてほしいの。陸空くんのほうが……そういうこと、得意そうだから」
理性と道徳とによって縛られた大人の言葉が、僕の頭には、イチゴシロップとブルーハワイシロップと日向夏のシロップとブルーベリーシロップと……とにかくたくさんのシロップを同時に垂らしたかき氷のような感じで響く。味は甘くて食べられるけれど、不気味で、怖い。見た目が……怖い。異様で。視覚に訴えかけてくるその光景の感じで、僕の聴覚には、僕の不安を煽る感じに大人の声が聞こえてくる。
有坂先生は始終優しい。だから、僕たちはあなたたち大人からどんなふうに思われているんですか、なんてこと聞けなかった。
僕が先生をじっと見つめると、先生は不思議そうに首を傾けた。僕の内側で火の粉が舞っていることなど想像できていないような優しい顔だった。
大人が憎い。大人が怖い。でも、僕は感情のまま憎しみをぶつけることができない。僕はそんな僕を許せない。朝陽が僕のそんなところを見たら、はたしてどう思うのだろうか。僕だって、雁字搦めだった。