山奥の村で家族と幸せに暮らしていた少女は、どんな傷も治る不思議な体質だった。
そんな少女はある日、貴族にメイドとして雇われることになる。
だが彼女を待っていたのは、おぞましい暴力と絶望の日々だった。
彼女は復讐を胸に誓った。
それだけが死ぬ前の最後の希望だった。

※過度な暴力表現があります
※性的な暴力表現があります

1 / 1
※暴力表現が多数あります
※性的な暴力表現があります


少女、暴力、愛

人生において幸福だった瞬間を考えてみる。

“瞬間”なんて物言いをすると何か特定の出来事が起きてそれによってもたらされた一瞬の幸せを想像するけれど、セルテント地方の山村で何も代わり映えのしない長閑な暮らしを送っていた私には取り立てて語るべき瞬間などと言うものは無くて、強いて言うなら10歳になるまでの毎日が幸せだった。

私には家族がいた。

病気で伏せがちだったけれどひょうきんで面白い父に、厳しいけれど優しい母に、幼くて手が掛かるけれど可愛い弟と妹。黒くて硬いパンを皆でひもじく囓って、弟と妹と羊を追って、領主に作物を収める為に母と二人で一緒に大変な農作業に身を投じて、夜はぼろ家の軒下の丸太に座って星空を眺めながらお父さんのくだらない作り話を聞いて笑った。

いつも隣には家族がいた。

どうやら寂しくないと言うことが私にとって幸福の重要な条件らしかった。

だから家族と暮らしていた私は幸せだった。

この幸福がずっと続くと思っていた。

――あの男が来るまでは。

 

 

その日は朝から曇天だった。

あちこち解れた長袖の布の服を着た私は母と並んで畑に立ち、次に育てる大麦のために鍬を振るって、土を耕していた。前にライ麦を育てていたこともあって土壌はすっかり乾き、硬い土の層を表面に作っていた。

 

「鍬が全然入らないね」

「そうね。腰が痛くて嫌になるわ」

「お母さんは腰なんだ。私は手が痛い」

 

そう言って鍬を左手に持ち替えて、右手を握っては開いてを繰り返すと、母は鍬を振るった姿勢のまま私に顔を向け、気遣わしげに目を細めた。

 

「そりゃそうよね。そんなに小さな手で鍬を握ってたら痛くもなるわ」

「早くお母さんみたいにカチカチの手になりたい」

 

私がそう言うと母は穏やかに笑って、私の頭に左手を置いて優しく撫でてくれた。

 

「お母さんの手は不幸な労働者の手よ。貴方は出来るだけ幸福で柔らかな手でいなさい」

「私、お母さんの手好きだよ?」

「そう?」

「そう!」

「ありがとう」

 

母は目尻に皺を寄せて嬉しそうに笑う。

嘘は言ってなかった。私は本当に、この頭に置かれているごつごつとした頼りがいのある母の手が好きだった。撫でられたり抱きしめられたりすると、何か大きな力に包まれる感覚があって不思議と心が落ち着いた。母にとっては労働者の手でも、私にとっては魔法の手だった。

それから私と母は言葉数は少なめに黙々と鍬を振るい続けた。

そのうち疲れて、鍬を杖代わりに体重を預けて身体を起こし、大きく息を吐いた。顔に流れる汗を腕で拭いながら茅葺き屋根の簡素な家々が並ぶ村の風景を何と無しに眺めていると、貧しい村には全く似つかわしくない、黒光りする箱形に赤色の蔦の装飾が施された如何にも高級そうな荷を引いた馬車が、家の間の砂利道を通って村に入ってきたのが見えた。気になって目で追えば、馬車は教会の前の大広間で止まった。

 

「お母さん、あれ何だろう?」

 

私は母の服の袖を引っ張って指をさす。

鍬を振るう腕を止めた母は顔を上げて、私の指の指し示す方向を見た。

 

「何だろうねぇ。街からのお偉いさんかしら」

「村に用があって来たのかな?」

「さてね。こんな貧しい村に用事があるとは思え無いけれど」

「あ、人が降りてきた」

 

ふくよかな体型の御者によって開けられた馬車の扉から降りてきたのは、美しい漆黒の下地に金色の刺繍が施された高級そうなロングコートを羽織った、優雅な雰囲気を放つブロンド髪の男だった。実際に会ったことは無く父の話でしか聞いたことは無かったけれど、痩せた土地にまるで馴染まない気高い空気を纏うその男は何故だか一目見て貴族だと思った。

村の中で一番大きな家から直ぐさま禿げ頭の村長も出てきて、その男の元へ駆け寄り、嘘くさい笑みを浮かべて何やら話しかけ始めた。立場の違いは明白だった。

私と並んで眺めていた母がぼやくように言う。

 

「いずれにしたって貧しい庶民には関係の無い話だろうさ」

 

私もそう思った。

生まれつき貧しい環境で育ってきた私は貧困とは家族のような付き合いで、貧者と富者の世界は交わらないのが世の理なのだと、神の存在と同じくらい無意識に信じるようになっていた。

 

「さあ、仕事仕事」

「うん」

 

私は促されるままに視線を土に戻し、また鍬を振るい始めた。

 

――だから、名前を呼ばれたときは驚いた。

 

「ローザ! アリス!」

 

鍬を振るっていると遠くから母と私の名を呼ぶ声が聞こえて私は顔を上げた。気のせいかもしれないと一瞬思ったが、村長が空に掲げた片手を前後に振って“来い来い”のジェスチャーをしながら再び母と私の名前を呼んだので気のせいでは無いと確信出来た。

私は、私と同じように身体を起こして村長の方に視線を向けていた母と顔を見合わせる。

 

「呼んでるね」

「何の用だろうねぇ」

 

当然、身に覚えは無い。

 

「遂に可愛い娘を嫁にやるときが来たのね……」

 

母が遠くに立つ貴族を見据えながら、わざとらしい真剣な口調でぼやいたので、

 

「もしかしたらお母さんかもよ?」

 

と私も負けじと冗談を言い返し、お互いにクスクスと笑い合った。それから鍬をその場に置いて、私は母の腕にもたれるようにくっついて、一緒に村長と貴族の男の元へと向かった。

 

 

 

「初めまして。私はヴィルヘルム・ヘイズだ」

 

白髪交じりのブロンド色の髪を後ろに撫で付けて耳元まで薄らと髭を生やした壮年の男が、抑揚の無い声で言った。その声には感情がまるで籠もっておらず、無機質で低い響きのある声は他者を寄せ付けない重圧があった。それに、背が高くてロングコートからズボンまで全身黒ずくめで、まるで巨大な影と対峙しているかのような威圧感があった。

男の放つその冷たくて重たい空気に肝っ玉の母も流石に気圧されながら言った。

 

「は、初めまして。私はローザ・リバムです。こっちは娘のアリス・リバムです」

 

男は母の言葉などまるで耳に入らないかのようにじっと私を見下ろし、やがてゆっくりしゃがんだ。

見つめてくる二つの目。

私は恐怖した。

男の両目は穴だった。何の意思も宿っていない真っ黒な虚。その空虚な黒穴に私の意識が吸い込まれる。ぼやけていく自分の輪郭に慄く。それでも呪いにかけられたかのように目を離すことが出来なくて、自分という掛け替えのない存在が奪われていく恐ろしさを味わされ続けた。それは薄く引き延ばされた永遠とも思える時間だった。

 

「美しい」

 

皮肉にも悠久の苦しみから私を救ったのは男の発した短い言葉だった。気付けば男は伸ばした片手で私の肩に流した白い髪を掬っていて、私は咄嗟に後ずさり、母の背に隠れた。

 

「こら、失礼でしょ」

 

母が私を窘めたが男はまるで気にした様子は無く、ゆっくりと立ち上がった。そして母に尋ねた。

 

「この娘が蛇神の子か?」

 

蛇神の子。

その単語には聞き覚えがあった。

私がいつだったか、自分の容姿が両親のどちらともまるで似ていないことに疑問を覚えて母に尋ねたことがあったのだ――私は母の子なのかと。

すると母は正直に私の出自について教えてくれた。

――村の裏にそびえる山で拾ったのだ、と。

どうやらその山には蛇神と呼ばれる神が大昔から棲んでいて、私はその神様の鱗が形を変えた子供らしい。だから私は絹のように美しい白髪で日焼けを知らぬ白い肌で宝石のような赤い瞳をしているらしい。この長閑な村で生きる上ではその事実が大した意味を持つ事は無かったので次第に気にしなくなったが、今更になって見知らぬ貴族の男の口から思いもよらずその単語が飛び出した事に驚いた。

尋ねられた母は真実を述べるのを躊躇うように口を閉ざし、代わりに隣に立って私達のやりとりを見ていた村長が流暢に語った。

 

「その通りでございますヴィルヘルム様。アリスは蛇神の生まれ変わりで御座いまして、ご覧の通り容姿に恵まれ、更にはどんな怪我も一瞬で治ってしまう神聖な加護にも護られております」

「そうか……」

 

母の服の端を握り、背中から顔だけ出して見上げていた私を男は、再び興味深そうに見下ろした。私はその恐ろしい二つの黒穴に捕まらないように素早く顔を引っ込めて母の背後に身を隠した。

男の声が聞こえた。

 

「その娘をウチの屋敷で雇いたいのだが」

 

私は目を見開いた。

背中越しに母が身体を硬くしたのも分かった。

男の言葉はあまりにも予想外なものだった。

 

「す、すみません。今なんと?」

「その娘をウチでメイドとして雇いたい」

 

問い直した母の言葉にも男は冷然と答えた。

その申し出は恐らく国中の貧しい村娘にとって夢のような提案だった。選べる仕事が限りなく少ない中でメイドという仕事は一番マシな部類で、そのため親たちはあらゆるツテを頼って何とか娘をメイドとして雇ってもらうのだと、母がかつて言っていた。

とは言ってもそれは年齢的にまだ先の話だし、私は一生村から出ることが無いと半ば本気で思っていただけに、こんな機会が訪れるとは予想だにしていなかった。

全く嬉しくなかった。

私にとっての幸福は家族と一緒に居ることで、離ればなれになるのは望まないことだった。たとえメイドという村娘達が憧れる職業であったとしてもその考えは変わらない。私は家族の傍にいたかった。

私はその硬い意思を伝えるように母の背中をぎゅっと抱きしめた。

 

「なぜ、そのようなことを?」

「貴方の娘が大変に美しい少女だからだ」

「……と言いますと?」

 

母に問われ男が滔々と語り出す。

 

「私は完全性がもたらす美を崇拝している。私が美しいと感じるモノは完璧に調和の取れたモノだ。その乱れの無い整然とした美に、私は癒やしを覚える。今まで沢山の彫刻や絵画を集めてきた。しかしそれら一流の芸術品と比べても貴方の娘の美しさは群を抜いている。神々しい白髪に夕陽のように紅い瞳、透き通るような白い肌。身体の各部位の形や位置も寸分の狂いが無く調和し合っていて、まさに神の生まれ変わりに相応しい美しさだ。噂を聞きつけてここまで来て良かった。一目見て分かった。貴方の娘さんは美の体現者だ。私は叶うのならばそんな美しい少女を傍で見ていたい。正直に言えば“メイドとして雇いたい”というのは、そのための口実に過ぎない。もちろん、少女には指一本触れない。折角の美を汚すような無粋な真似はしない。それにメイドとしての務めも果たして貰う。それが将来貴方の娘を助ける花嫁修業になることはこちらも承知している」

「……お賃金は」

「失礼。それを言い忘れていた。もしも娘を雇わせて貰えるのならばこの場で300ガルンお渡ししよう。更に娘には月に400ガルンの給料も渡す」

 

それは紛れもない大金だった。

男は村人が三ヶ月で稼ぐ額を一括で手渡すことを提案し、更に村人が汗水垂らしてようやく手にする月の額の4倍の賃金を毎月私に渡そうと言う。それだけあれば私からの仕送りも含めて貧しい我が家の家計は一気に安泰になるだろう。

それでも、私は家を離れたく無かった。

だけど男の申し出が魅力的なのは間違いなくて、私は不安になって母の顔を伺うように見上げた。

母は何かを考えるようにじっと足下を見ていたが、やがて視線をずらして私と目が合うと、力強い意思の籠もった瞳で私を見据えてから、一度深く頷いてくれた。

私の心はたちまち喜びに満たされた。

メイドに行きたくないという私の気持ちに対する肯定の頷きだと思ったのだ。

――だがそれは、希望的観測に則った都合の良い解釈に過ぎなかった。

 

「分かりました。娘をお願いします」

 

男を真っ直ぐと見つめて母ははっきりと言った。

その瞬間、私は頭が真っ白になって何も考えられなくなった。

 

「理解のある母親で助かる。ありがとう」

「こちらこそ。大変に有り難い申し出をしていただきありがとうございます」

 

なんで。

どうして。

頭に疑問の言葉が渦巻く間にも、私の都合など当然のように無視されて容赦なく会話は進んでいく。

 

「領主様への報告をしなければなりませんね」

「それは問題ない。既に話は通っている。貴方こそ旦那に知らせなくて良いのか?」

「夫は寝たきりなので家の事は私が」

「そうか」

「いつ頃お出になるのですか?」

「今すぐだ。支度はしなくて良い。服も部屋も屋敷に用意してある」

「そうですか」

 

粛々と交わされる会話。

残酷な現実が進行する音。

私はようやく発声の仕方を思い出し、母の服を引っ張りながら叫ぶ。

 

「どうしてっ!? どうしてそんなことを言うのっ!?」

 

母は眉を下げて困ったような微笑みを湛えて私を見下ろすと、しゃがんで、目から涙を零しながら訴える私と視線を合わせた。

 

「いい? これは貴方の幸せのためなの」

 

母が私の肩に手を置いて、諭すような穏やかな声で言う。

 

「有力貴族のメイドになれるというのは、これ以上無い程に幸運なことなのよ」

「そんなの知らない! 私はお母さんと一緒にいたい! お母さんとお父さんとチビ達と一緒にいたい! 離れたくない!」

「そんな子供っぽいこと言ってお母さんを困らせないで」

「子供だもん! お母さんと一緒にいたいんだもん!」

 

言葉に切なる想いを乗せた分だけ悲しみが大きくなって私を襲う。耐えきれなくなった私は膨大な涙を流して大きな声で泣く。

 

「いい? アリス。良く聞いて」

 

母は私のほっぺたに両手を添えて言った。

 

「今は辛くても、これが貴方にとっての幸福だって気付くときが絶対来るわ。幸福は一生に何度も訪れるものでは無いの。だからこの幸福から手を離しては駄目なの」

「そんなの勝手な決めつけだもんっ!! 私にとっての幸せは皆と一緒にいることだもんっ!!」

「いずれ分かるわ……」

「わかんないよおおぉぉっっ!!」

 

私は吠えるように悲しみの感情をぶつけ、目に涙を浮かべた母は私を優しく抱きしめた。

 

「頑張ってね……アリス……」

 

耳元で囁かれた言葉は私の鼓膜を心地よく揺らした。背中に回された母の逞しい両腕は私の心に極上の安心感をもたらした。それで本来なら必死に悲しみを吐き出して抗議の泣き声を上げなければならないのに、母のもたらす温かな安らぎに心が包まれて、すっかり言葉に詰まってしまった。ただ鼻を啜りながら母の温もりに浸った。

だけどいつまでも母に縋ることを冷酷な現実が許さなかった。

私は突然の浮遊感に襲われた。

振り返れば貴族の従者らしき男が私の腹に腕を回して抱き上げるところで、私の小さな身体はあっという間に母から引き剥がされ、男の肩に担ぎ上げられてしまった。従者の男は馬車へと向かって歩き出す。私は唐突に母の温もりを失ったことに恐怖して、離れ行く母に手を伸ばして何度も母の名を呼んだ。

 

「お母さんっ! お母さんっ!!」

 

それでも母は立ち上がったまま手を伸ばしてはくれず、ただ目に涙を浮かべて微笑んでいた。やがて私は馬車の中へと連れ込まれ紅い皮の椅子に座らされた。当然飛び出そうとしたけれど、隣に座っている従者の男に身体を押さえつけれて身動きを封じられてしまうので、私は仕方なく座ったまま身を翻して馬車の小窓から母を覗き見た。

母は貴族の男から恐らくは金貨でパンパンに膨らんだ巾着袋を両手で受け取っているところだった。

母は男に何度も礼を言っていて、馬車の方を一度も振り向いてはくれなかった。

私にはそれがとても悲しかった。

 

 

 

 

屋敷は大きかった。

一階には何十人もの人が一堂に会する広いダンススペースがあって、廊下には紅いカーペットが敷き詰められていて、白い壁には所々に豪奢な金の額縁に収まった画が飾られていて、時々私の背丈より高い迫力ある彫刻も置かれていた。

そんな屋敷の主はもちろんあの男――伯爵だった。

ブロンド色の髪を後ろに撫で付けて髭を生やした重厚な気品を纏う壮年の男――あるいは底無しの闇を眼球に閉じ込めた不気味な男。

夫人は美しい貴婦人だった。後ろ髪を薔薇のように纏めていて、目鼻立ちの整った美しい女性。

そして公子である息子。両親から恵まれた容姿を見事に受け継いだ眉目秀麗な私よりも少し年上の青年。

私が仕える人間は主にこの三人だった。

屋敷には私の他に11人ものメイドがいた。作業中に怪我をしたのか眼帯を付けていたり片腕に包帯を巻いていたりする人もいたが、揃いも揃って美人だった。

私は屋根裏部屋に棲む他のメイドと違って何故か一室を割り当てられ、そこで寝泊まりをした。黒いロングスカートのワンピースに白いフリルの付いたエプロンを着て、他のメイドに倣う形で一緒に仕事をした。

巨人を迎えそうな縦長な玄関も、白い革張りのソファが置かれた居間も、天蓋付きのベッドが設置された寝室も、隅々まで掃除し、美術品を雑巾でピカピカに磨き、小屋の石炭をバケツで運んで暖炉に補充して、御食事の給仕も手伝った。

懸命に働いた。

もちろん引き離された家族の事は片時も忘れられない。だけどこの屋敷に来るまでに恐ろしく長い間、馬車の中で揺られ続け、やがて見たことも無いほどの数の建物と人で賑わう街を見せられたとき、もう後戻りは出来ないのだと嫌でも実感させられた。そしてちっぽけな私は知らない街では生きていけず、この屋敷にしか居場所がない。だから私は追い出されないように必死に働くことを選んだ。

メイド達の私を見る目は、様々だった。

煩わしそうに睨み付けてくる人がいれば、憐憫の籠もった哀れみの目を向けてくる人もいて、生温かい目で見守ってくれる人もいる。中には“来てくれてありがとう”と直接礼を言われたことすらあった。

彼女たちの視線や言葉は明らかに私の仕事ぶりに向けられたものでは無かった。何か別の理由がありそうだった。だけどその疑念を尋ねたところで彼女たちは決まって答えてはくれず“そのうち分かるわ”とまるで口を揃えたかのように同じ言葉ではぐらかされた。

私は不思議に思いながらも一生懸命に働いた。

そうして徐々に仕事に慣れてきたある日、私は伯爵に呼ばれた。

 

 

夜。

私は書斎の扉の前に立っていた。

緊張していた理由は今まで呼び出されたことなど一度も無かったからで、もっと言えば執務中の書斎には絶対に入るなとメイド長よりキツく言い渡されていたからだった。

――一体何の用だろう。

私は疑問に思いながらも扉を軽くノックした。

 

「入れ」

 

扉の向こうから低い声が短く返ってくる。

私はドアノブに手を掛けて扉を押し開けた。そして部屋に一歩足を踏み入れ、そのままの姿勢で思わず立ち止まった。

書斎が真っ暗だったのだ。

壁に掛けられたランプは一つも灯っておらず、静謐な暗闇が部屋に充満していた。右の壁の窓から月光も差し込んでいたが、部屋の暗闇を払うには至っていなかった。正面奥に視線を向ければ、背後の本棚がもたらす漆黒の影に塗り潰されながら、執務机の椅子に腕を組んで座っている伯爵の姿がぼんやりと見えた。顔の輪郭は闇に紛れて曖昧だが、白目が、両の黒目を色濃く際立たせていて不気味だった。

 

「さっさと入れ」

 

暗闇に響く無機質な声に促されて、私は慌てて部屋に両足を踏み入れ、後ろ手に慎重に扉を閉めた。

暗い静寂が部屋を満たす。

先に声を発したのは伯爵だった。

 

「そこに立て」

 

私と執務机の中間辺りの床を右手の指で指し示したのが、暗闇の中でも薄らと分かった。そこは丁度窓から差し込む月光が照らす位置で、丘のように上辺が弧を描いた縦長の長方形の窓の形に床が輝いてた。私は言われた通りその場に立って身体に光を浴びた。

 

「今日は一段と月が美しいな」

 

確かに窓から見える月はまん丸で、濃紺の空の上で一際美しく輝いている。

だけどその言葉が部屋を暗くしている理由の説明にはならない。

まさか月見をしていた訳でもないだろうし。

私は書斎の暗闇に疑問を持ちながら適当に話を合わせる。

 

「旦那様の仰るとおり。美しいですね」

「月が美しく輝くにはどんな条件が必要だろうか」

「……夜であること、でしょうか」

「他には?」

「雲が無いこと、とか……」

「そうだ」

 

伯爵が言う。

 

「どれだけ美しい代物でも、覆われていては輝けない」

 

まるで、この上無く重要な事みたいに。

だけど。この場で、メイドを呼び出してまで、そんな事をわざわざ口にする意図が理解できずに私は困惑した。

やがて言葉に詰まる私の心中を見透かしたかのように、伯爵が、言った。

 

「服を脱げ」

 

その言葉は随分と明瞭に鼓膜へと届いた。

“服を脱げ”と。

伯爵が、そう言った。

それでも私は、聞き間違いだと思った。いや、そうであることを期待した。

だけど伯爵はそんな細やかな希望を打ち砕くかのように、再び言った。

 

「早く服を脱げ」

 

それは旦那様による紛れもない脱衣の命令だった。

もちろん私の手は動かなかった。

そんな事を突然言われて素直に従えるわけが無い。私は子供ではあるけれど羞恥心という感情はとっくに芽生えていた。

 

「……なぜですか」

「お前の裸を見るためだ」

 

伯爵は一切の感情無くそう言った。

まるで常識を口にしたかのようだった。

それから訪れた沈黙は、私の女としての抵抗心が目の前の伯爵が持つ権力の圧に反発し、じわじわと押し潰されるための時間だった。

私は自分を落ち着かせるように大きく息を吐き出すと、ゆっくりと後ろに手を回してエプロンの結びを外し、床に落とした。それからスカートの留め具の紐を外して、俯き、前を留めていたボタンを首元から順番に震える手で外していった。

やがて下限のお腹の辺りまで外し終わった。後は腕を引き抜きさえすれば、ワンピースはストンと床に落ちる。私は所詮使用人だから下着を着けていない。伯爵に裸を晒すことになる。

そんな自分の姿を想像すると酷く惨めな気持ちになって、強烈な嫌悪感に襲われた。

私は顔を上げるとなけなしの勇気を振り絞って言った。

 

「脱ぎたくありません」

「脱がないのならばこの屋敷から追い出す」

 

伯爵の冷酷な声が脳に響く。

それは恐ろしい脅迫だった。私がお母さんと一緒に肉体労働に励んでいた時はただでさえ家計がギリギリだったのに、私という働き手を失って更に仕送りも来なくなるとすれば、我が家は確実に食べていけなくなる。

背筋に冷たいナイフを突き付けられている感覚。

私は家族を人質に取られていることに今更気付いた。選択肢など端から無いのだ。

私は脅しに屈して、服を脱ぎ捨てた。

 

「ほう……」

 

暗闇からじっとこちらを見つめる伯爵が感心したように声を漏らした。

私は外気の冷たさを肌に感じながらも直立し、真っ直ぐに伯爵を見つめ返す。恥ずかしそうな態度を見せれば私の惨めさが際立ってしまうから。でもそんな私の細やかな努力を馬鹿にするかのように、伯爵は遠慮無い視線を私の裸に向けてくる。

その穴のような瞳にはきっと、月光に照らされる凹凸の無い少女の未熟な裸が映っていることだろう。その事を想像すると私は身体が燃えるような羞恥に襲われ、今までの我慢を忘れて咄嗟に胸と股を腕で覆い隠した。

 

「隠すな」

 

伯爵が無慈悲に言った。

無力な少女の僅かな抵抗もこの伯爵は許してはくれないらしい。私は力なく腕を降ろし、下唇を噛んだ。身体は成長していなくても心は成長している。男に性器を見られることは酷く恥ずかしいことだった。だけど隠すことは出来ない。私はただ、羞恥に耐えた。

伯爵は立ち上がって私の元へと歩いてくる。そして直ぐ傍まで来ると、前屈みになったりしゃがんだりして私の身体を隅々まで観察し始めた。

 

「やはり美しい。髪も、目も、鼻も、耳も、口も、手足も。全ての均整が整っている。お前は正に美の化身だ」

 

どれだけ賞賛されようと間近で裸を見られている事実に変わりは無く、私は叫び出したい位の恥ずかしさを感じていた。だが同時に私は、村での母と伯爵のやりとりを思い返していた。伯爵は、私には“指一本触れない”と言っていた。確かに今も伯爵は私の身体を上から下まで入念に眺めているばかりで、触れることはしていない。

もしかしたらこのまま本当に手を出されないで済むかも知れない。

私がそんな淡い希望を抱いていると、

 

「怪我をしないというのは本当か?」

 

いつの間にか鼻先の触れ合う距離にまで顔を近づけた伯爵が突然訊いてきた。理由など分からない。ただ、ある。至近距離の二つの眼球。穴。嘘を吐いたら吸い込まれそうな恐怖があった。

私は口元を震わせながら答えた。

 

「ほ、本当です」

「今までに大きな怪我をしたことは無いのか?」

「ありません。川縁の石から足を滑らせて落下し、脚を折ったことがありましたが、直ぐに治りました」

「どれほどの早さで」

「瞬きほどで」

「なるほど」

 

伯爵は身を引きながら興味が無さそうにそう呟いて次の瞬間――私の顔面を正面から勢いよく殴った。

私は殴られた衝撃で身体が浮いて背中から床に打ち付けられた。

仰向けで高い天井を見上げながら鼻が千切れそうな痛みと殴られた驚きで、私の気はすっかり動転していた。心臓が異常な早さで鼓動を刻み、身体中を激流のように血が巡る。

今何があった? 殴られた? 何で? 何で殴られた?

少しでも情報が欲しくて鼻を触るとズキリと鈍い痛みに襲われて、これが現実だと知らせた。

私は鼻血を垂らしながら床に手を付いてなんとか上半身を起こした。

目の前に伯爵の脚。

私は恐怖を堪えながら伺うようにその顔を見上げた。

 

「どうして……私は殴られたのですか……?」

 

伯爵はあの不気味な瞳で私を見下ろして言った。

 

「お前を壊したいと思ったからだ」

 

感情の無い無機質な言葉は却って真実味を帯びていた。

“壊す”とは物に使う言葉だ。

人に使って良い言葉じゃ無い。

私は言葉を震わせながら尋ねる。

 

「何か、お気に召さないことを、してしまったのでしょうか?」

「いいや」

 

簡潔に否定した伯爵が言葉を続ける。

 

「私は調和の取れているモノが好きだ。寸分の狂いの無い秩序の整然さが私の心を落ち着かせる。だが同時に、耐えがたい破壊衝動にも襲われる。美しく整った様を見ると無性に腹立たしくなって、完膚なきまでに破壊したくなってしまう」

 

伯爵が獲物を見据えるように私を見つめる。

 

「今までに幾つもの絵画を彫刻を宝石を動物を人間を壊してきた。だが後に残るのは虚しさだけだった。汚らわしい欲求に身を任せた結果、美しいモノを破壊したという後悔だけがいつも残った。だが美しいモノは求めずにはいられず、壊さずにはいられない。そんな苦しみを抱えた私の前に現れた天使が、お前だ」

 

伯爵がそう言って前屈みになると私の髪を掴んで乱暴に引っ張り上げた。頭皮の鋭い痛みで顔を歪ませる私の鼻を、伯爵は至近距離で観察した。

 

「砕いた筈の鼻の骨がもう治っている……全く、素晴らしい。美しいお前は何度でも壊せるのだな」

 

伯爵はそう言って目を細め口角を吊り上げて笑った。初めて見た伯爵の不気味な笑みに私はぞっとした。

その恍惚とした表情は私に好きなだけ暴力をふるえる喜びに満ち溢れていた。それは痛みと血に塗れた凄惨な未来が訪れることを、私にこれ以上無く予感させた。

――そして予感は直ぐさま現実になる。

伯爵は私の髪から手を離すと顔を思い切り蹴り上げた。そして倒れ込んだ私に馬乗りになり顔面に何度も拳を振り下ろした。鈍くて重い痛みが脳を激しく震わせた。剥き出しの腹にも幾度も拳をめり込ませた。私はその度に強烈な痛みと吐き気に襲われ胃液を吐き出した。手を踏みつけられた。足をぐりぐりと捻られ、万力で締められるような鋭い痛みに襲われた。横っ腹を蹴り上げられた。肋骨が割れる音が体内に響いた。また顔を蹴り飛ばされる。キーンと耳鳴りがして脳がぐるぐる――。

伯爵は私を壊すために一切の躊躇の無い暴力を無防備な私の身体に振るった。しかし幾ら出血しようと痣になろうと関節が外れようと骨が折れようと、私の身体は直ぐに元通りになり、伯爵をますます喜ばせた。

 

「父上っ! 父上っ! 見てください! 貴方の愛した完璧とは! 斯くも脆く崩れる醜い自己愛の成れ果てです! それに死ぬまで気付かなかった貴方は心底愚かだった! 死後の世界で詫びてください! 私を愛さなかったことを! 詫びてください!!」

 

興奮で叫び散らす伯爵の声を聞いた気がした。

酷く人間味があったから気のせいだったかも知れない。

とにかく私は痛みによる意識の消失と覚醒を繰り返す地獄の苦しみの中で、自分が屋敷で求められる本当の役割を認識した。

私はメイドとして連れてこられたのでは無い。

私は――サンドバッグとしてここにいるのだ。

 

 

 

夫人はこの屋敷に来たときから私を嫌っていた。

廊下ですれ違う時にメイドの私はいつも廊下の壁際に寄ってお辞儀をし、夫人が通り過ぎるのを待ったが、私の前を通りかかった夫人は必ず足を止め、

 

「ケモノ臭くてうんざりする」

「貧乏が遷りそうで嫌になる」

「今から水浴びをした方が良い」

 

と田舎から来た私を眉間に皺を寄せて罵った。

また、給仕を手伝って夫人の座るテーブルに料理を運んでいる際も、椅子に座る奥様はわざと脚を伸ばして私を転ばせ、

 

「料理もまともに運べない無能」

「やる気が無いなら山に帰れ」

「汚れた床を舐め取れ」

 

と嘲笑った。

しかし旦那が夜な夜な私を書斎に呼びつけるようになってからは、夫人も私を昼に寝室に呼びつけるようになった。

夫人は決まってベッドの端に腰掛け、私はいつもその足下の床上に膝を折りたたんで座った。

行われるのは夫人の一方的な憂さ晴らし。

 

「間抜けなお前はバレていないと思っているかも知れないけれど私はちゃんとお前が夜毎、夫の書斎を訪れていることを知っているのだからね」

「はい……。しかしそれは旦那様からのお呼び出しで……」

「黙りなさい! どうせお前は毎晩のように夫に抱かれているのでしょう? メイドの分際で憎たらしい! この薄汚い淫売雌狐め!」

「それは誤解です!」

「黙りなさいっ!」

 

パンッ!

 

口答えをすると夫人は眦を吊り上げ私の頬を力一杯引っぱたいた。

 

「どうせお前は心中私を嘲笑っているのでしょ!? メイド如きに夫を取られた憐れな女だと、私を見下しているのでしょ!?」

「……」

「黙っていると言うことは真実なのね!? そうなのね!? そんな失礼な娘はメイドに相応しくないわ! この屋敷から追い出してやる!」

「そ、そんな事は思っておりません! なのでどうかご勘弁ください!」

「うるさいっ!」

 

パンッ!

 

「大体夫も夫だわ! こんな田舎の汚らしい小娘に欲情して! きっと“皺があって美しくない”とか“ほうれい線がおばさん臭い”とか“胸が垂れている”とか腹の立つことを言ってお前と二人で私を馬鹿にしているのでしょう!」

「そ、そんなことは全く……」

「お黙りっ!」

 

パンッ!

 

「嗚呼ああぁぁもう何だって言うのよ! 小さい頃から完璧な淑女になるために何事も一生懸命に努力してきたというのに! その顛末が、これぇ!? 皺だらけになって醜くなって! 夫には見向きもされなくなって! 小娘に取られて! ふざけんじゃないわよ! いつになったら幸福になれるのよ! ねえ訊いてんの!? 何か言いなさいよ!?」

 

パンッ! パンッ! パンッ! 

 

ビンタビンタビンタ――。

こうした言いがかりに思える詰問は長いと数時間にも及ぶ。その間私は膝を合わせて座り続け、否定しようが黙ろうが関係無しに引っぱたかれ続ける。

結局夫人は私に暴力を振るいたいだけなのだ。

老いと共に理想から遠ざかっていく自分の姿を恐れ、他者の言葉を装って自らを非難することでメイドの私に否定して貰うことを期待しているけれど、そんな自分の惨めさもまた受け入れられなくて、最終的には心の鬱屈を暴力の快楽で昇華しようとする頭の悪い女。私はその女の快楽装置として利用されている憐れな女。私に出来るせめてもの抵抗は心の中で呪詛を吐くくらいだった。

馬鹿女。

 

 

血は争えない。

暴力的な父と母を持つ公子もまた、暴力的だった。

 

王立の学校に通っていた公子は屋敷に戻ると部屋に籠もって夜遅くまで勉学に励んでいた。そして私が父親に呼び出されていないことを知ると必ず夜食を持ってこさせた。無論これは私を部屋に呼び出すための口実で、部屋を訪れた私は問答無用で脱衣を強要され、部屋の中央に殺風景に置かれている、他の驕奢な装飾の施された家具とは明らかに一線を画す異様な雰囲気を纏った木製の椅子に座らされた。

これは拷問用の椅子だった。

肘掛けと椅子の脚に括り付けるように、私の細い手足にそれぞれ手枷足枷を嵌めて身体の自由を奪うと、公子は舌なめずりをして私に様々な暴力を加えた。

性質が悪かったのはこの青年が、母の陰湿さと父の凶暴性を受け継いだ真性のサディストであることだった。つまり私に暴力を振るうことで独りよがりに満足する伯爵や夫人と違って、公子は私の痛がる姿を鑑賞することを目的に暴力を振るったのだ。私は最初、目の前の悪魔を喜ばせたくない一心で必死に痛みを我慢したが、そのせいで暴力はどんどんと過激になった。

金槌を私の指に振り下ろして骨を砕いたり、蝋燭の火で腹の皮膚を焼いたり、ナイフで耳たぶを切ったり、眼球に針を突き刺したり……。

人としての矜持など呆気なく粉砕され、私は拘束された身体をバタバタと暴れさせながら泣き叫んで小便を漏らすようになった。公子はそんな無様な私の姿を見ると端整な顔立ちをいつも邪悪に歪め、ニヤニヤと嬉しそうに笑った。

特に最近のお気に入りは爪をペンチで剥ぐことのようだった。

 

「いくぞいくぞいくぞ~~~ほらっ!」

 

ベキッ

 

「嗚呼あああぁあぁぁぁっっ……!! 痛いいいいぃぃぃ……! 痛いよぉ……っっ」

 

針の塊が指先から脳までの血管を一瞬で通り抜けてズタズタに引き裂いていったかのような鋭い痛みに襲われて、私は咽び泣いた。

見れば、左手の中指の先は爪を失って真っ赤な繊維状の凹んだ肉を剥き出しにしていた。だけど、ものの数秒で根元から爪が生えてきてあっという間に肉を覆った。

 

「うっひょおおおおぉぉ! おもしれぇぇ! これなら爪剥ぎ取り放題じゃぁーん!!」

「やめて……やめてください……」

「え? 何だって?」

 

公子がわざとらしく耳に手を当て口角を吊り上げながら尋ねてくる。私は腹にありったけの力を込めて叫ぶ。

 

「もうやめてくださいっっ!!」

「やーだねっ」

 

ベキッ

 

「うがああああぁぁぁぁぁぁっっ!!!!」

「あひゃひゃひゃひゃひゃひゃっっ」 

「やだああぁぁぁっもう痛いのやだぁぁぁぁぁっっ!! 離してえぇっ! 離してよぉぉぉぉっっ!!」

 

私は大声で泣き散らす。

公子の悪魔のような笑い声を掻き消すくらいに大きな声で身体をバタつかせながら全身で懇願する。

私の悲鳴は間違いなく部屋の向こうの廊下まで響き、通りかかったメイドの耳にも届いているはずだけど、誰も助けには来てくれない。

折角の生け贄を救おうとは誰も思わない。

叫ぶ私を見る公子は笑顔から一変して呆れたようにため息を吐いて、冷えた視線を向ける。

 

「あーあ……お前は良いよなぁ~。痛いときに痛いって言えて。低俗とか周りからどう見られるとか気にしなくて良いもんなぁ……俺なんかどうだよぉ? 完璧であれ完璧であれってそればっかりでさぁ……拒否権なんて無くてさぁ……」

 

そこで言葉を句切った公子は、また表情が急変して目をかっぴらいて歯茎を剥き出しにして、憤怒の表情を浮かべた。

 

「全くさぁっ!! 完璧なんて無理に決まってんだろ! 馬鹿がよぉっっ!! そんなに見栄が大事かよ! クソババア! クソじじい! 死ねやぁ!!」

 

そして爪が思い切り剥がされる。

 

ベキッ

 

「んぐううううううぅぅぅっっ!! 痛い痛い痛い痛いいいいぃぃぃやだあああああああぁぁ!!」

 

死ねっ! 死ねっ! 死ねっ!

 

ベキッ ベキッ ベキッ 

 

「ぐぎいいいいいいぃぃぃっっうぐうううううぅぅぅっっぐがあああああああぁぁぁぁぁぁっっ……!!!!」

 

肉を引き裂くような激しい痛みが何度も指先から走り抜ける。それはまるで指から脳に掛けての血管に沸騰した湯を直接流し込んだかのような強烈な痛みで、私は身体をガタガタ暴れさせながら獣のような叫び声を上げた。

そんな私の苦しむ姿さえ彼を喜ばせる材料になる。

彼はケラケラ笑いながら目を細めて。愉快そうに私を眺めていた。

――それから痛みを何とかやり過ごし、痛覚の処理で疲労した頭の重さに身を任せて俯いていると、公子は私の髪を掴み上げて強制的に上を向かせた。

 

「なあお前さぁ……その目さぁ……俺が悪いと思ってるだろ? 俺が最悪な奴で酷い事をしてくるから自分が理不尽に痛い思いをさせられているんだって、そう思ってるだろ?」

 

公子は人を精神的に追い詰める快楽が堪らないという邪悪な精神性が滲み出る、醜悪な笑みを浮かべて言った。

 

「違うからな。お前が悪いんだからな。高貴な俺と違って家畜同然の身分のお前が。その癖に無駄に綺麗な見た目をしたお前が。俺を煽るように何度も身体を再生させるお前が。抵抗出来ない非力なお前が。運の無いお前が。従順なお前が。お前がお前がお前がお前がお前がっっっぜええええんぶ悪いんだからな?」

「……っっ」

 

そんなわけ無い。

高貴な身分だろうと人を傷つけて良いはずが無い。

綺麗だろうと汚して良いはずが無い。

好きでこんな身体に生まれたんじゃ無い。

暴力が肯定されるなんて間違ってる。

この痛みは不当に決まっている。

この悪魔が正しいなんて、どうかしてる。

私はそんな思いを心の中で暴れさせながら鼻水を啜って歯を食い縛って、ただ公子を睨み付けた。

公子は私の反抗心を嘲笑うかのように目を細めた。

 

「メイドのくせに態度が悪いなぁ。やっぱりお前が悪いわ」

 

ペンチの先が人差し指の爪を掴んだ。

 

ベキッ

 

「うぎいいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃっっ!!!!!」

 

長い釘が指先から脳までの神経を千切りながら一直線に貫いたかのような猛烈な痛み。

私は歯を割れんばかりに噛み締めて唸り声を上げた。

 

 

 

 

 

私は暴力の常態化する日常に耐え続けた。

メイドとしての忙しい務めに加え、あの三人から暴力を加えられる日々は、着実に私の精神を磨り減らしていった。

仕事を続けられたのは家族の笑顔のおかげだった。辛いときには家族の笑顔を頭に思い浮かべて自分を励まし、皆が笑って過ごせるだけの仕送りをするために私は懸命に悪魔達に仕えた。

だけれども、所詮は痩せ我慢だ。

加護という呪いを受けた私の肉体は幾らでも治ったが、心はどんどんと蝕まれていった。

そして、限界が訪れた。

 

それはある日の昼のことで、私は廊下隅に置かれている腰ほどの高さの長方形の台座柱の前に立ち、大きなガラス窓からの日差しを浴びて金色の装飾が美しく輝く青い壺を、雑巾で丁寧に拭いていた。

眠かった。

昨晩は伯爵に散々殴られ蹴られ眠る暇が無かった。

だから気持ちはどこか虚ろで、気付けば壺を倒してしまった。壺はそのまま転がって台座柱から落下し、硬い石畳に打ち付けられ、割れた。

私は美しい曲線の造形を失って木っ端微塵になった壺の残骸をじっと見下ろしていた。飛び散った破片がスカートから覗く生足をいつの間にか切り裂いていて、割れた壺のことなど知らんぷりして独りよがりに勝手に塞がっていく生傷に遅れて気付いたとき、“ああ、もう駄目なんだな”と何となく思った。そのままその足で何かに導かれるように歩き出して、何となく自室に踏み入って、有り金の入った巾着袋を手に取って、また呆けた表情で廊下を歩き、自然な動作で屋敷の玄関から外へと出た。

太陽の光を直接身体に浴びたとき、私の意識は急速に覚醒した。

 

(外だ……)

 

自分で出てきたのに馬鹿みたいにそう思った。

そして直ぐさま湧き上がったのは“まずい”という感情だった。

私は外出することを伯爵から禁止されていた。

よく屋敷から追い出すことを脅し文句に使っている事を考えればおかしな話だけれど、それは家族を人質に取られている私が高収入なメイドを辞めるという選択をしないと踏んでいるからで、要は手放す気など微塵も無いのだ。

でもいま私は外にいる。

さっきまでぼうっとしていたから屋敷から出るところを誰かに目撃されていたかは分からない。

今にも誰かが連れ戻しに来るかも知れない。

 

(逃げなくちゃ)

 

私は駆け出した。

駆けて、広い敷地の庭を突っ切って、坂道を下って、街に下りた。

露店の並ぶ大通りは沢山の人で賑わっていた。

この街はもしかしたら交易の中心地なのかも知れない。

私は救われる気持ちで人混みの中に混じった。

この中にいれば追っ手が来ても直ぐには見つからないだろう。私は通行人の群れの中を歩きながらそう安堵して、心を落ち着かせながら、これからするべき事を考えた。

ここまで来たら引き返す選択肢は無い。

私は故郷の村に帰るのだ。

そのためにはこの街がどこなのかをまず知らなければならない。

幸い片手に握った巾着袋の中にお金はそこそこある。三ヶ月に一度やってくるヴィルヘルム家お抱えの商人に飛脚として頼んで賃金の殆どを家族への仕送りとして渡しているから決して多くは無いけれど、最低限の物は買えるはずだ。

私は果物を売っている露店に訪れると、赤い果実を買って、ついでにここがどこかを尋ねた。テントの下に立つ男は、街にいながら奇妙な事を尋ねる私を怪訝な目で見つめながらも質問に答えてくれた。

 

「そりゃアンタ、ここはロップルの街だろ」

「ロップル……。ちなみにケネト村はご存じですか?」

「んー、聞いたこと無いな」

「そうですか……」

「悪いね」

「いえ、ありがとうございます」

 

私はまた人波に呑まれる。

それから同じような質問を何人もの物売りにしたが、返答は一様に同じだった。

ロップル――聞き覚えの無い町の名前。

ケネト村――皆が首を傾げる。

私は途方に暮れた。

故郷の村についてどれだけ言葉を尽くして説明しても、誰一人として知ってる人はいなかった。

考えられる理由はきっと単純で、遠すぎるから。

そうなると私はどうやって帰れば良いのか分からない。予定では、ケネト村について知っている旅商人を見つけ出して何とかお願いして、馬車に乗せて貰うつもりだった。だけど誰も知らないなんて想定外だった。

見通しが全然甘かった。

私の心に黒い影が差し込む。

私はもう何人目になるのかも分からない物売りに質問をし、予想通りの返答を得て、先行きの暗さに落ち込んだ。

私はもう故郷には帰れないのだろうか。

家族の皆には会えないのだろうか。

私はもう歩く気力も沸かなくて、店前に突っ立って絶望していた。

この街で野垂れ死ぬしかないのだろうか。

最悪の想像ばかりが頭を巡っていた。

――そのとき

 

「あのー」

 

隣から声を掛けられた。

顔を上げると私の隣に立つ気のよさそうなお兄さんが私を見下ろしていた。

 

「ケネト村に行きたいんですか?」

「はい……」

「知ってますよ、行き方」

「えっ! 本当ですか!?」

「はい。俺、親父と行商やってて。結構前にですけど、あの村に物を売りに行ったんすよ」

 

それは絶望の闇に差した一筋の光だった。

私にはお兄さんが救世主に思えた。

この幸運を逃すわけにはいかなかった。

 

「すみません! 無茶なお願いだとは思うのですが私をそこへ連れて行って貰えませんか! お金ならちょっとだけ払えます!」

「あー、多分大丈夫っすよ。親父に訊いてみないと分かんないっすけど。丁度そろそろ行く予定の筈なんで」

「っっ! ありがとうございますっ!!」

 

私は喜びと感謝のあまり何度もお礼を言った。

お兄さんは後ろ髪に手を当てて照れくさそうに笑った。

 

「とりあえず馬車で待ってる親父に会ってもらいますね」

 

お兄さんがそう言って歩き出したので私もその背中を追いかけた。お兄さんは後ろを振り返って大人達の人波に流され駆けている小柄な私を見ると、腕を伸ばして、私の腕を掴んでくれた。そのまま私はお兄さんに連れられて歩いた。

お兄さんは歩行ルートを決めきっているようで行き先に迷いが無く、私に話しかけてくることも無く黙々と歩き続けた。

私はもうすぐケネト村に帰れると思うとついワクワクして、お兄さんの背中を見ながら故郷に思いを馳せていた。

屋敷に連れてこられてもうすぐ半年になる。今頃畑は見事に実った大麦が稲穂を垂れて黄金色の絨毯を作っているだろう。今年の春の初めも豊穣祭は行われたのだろうか。麦の神である狼の被り物をした人が豊穣を願って舞を踊り、その人を中心に村人が囲って皆で夜通し踊る楽しい祭り。弟が狼役をやりたがっていたけれど、やらせてもらえたのだろうか。そういえば妹はおねしょをしなくなっただろうか。寂しがり屋だから私がいなくなって悲しんでいるかもしれない。お父さんの身体はちょっとは良くなっただろうか。ここに連れてこられる直前には少し調子が良さそうにしていた。そしてお母さん。相変わらず元気だろうか。怪我とかしていないと良いけれど。

皆の顔が頭に浮かんで自然と笑みが零れた。

そうしてすっかり浮かれている内に、いつの間にか私は人混みから抜け出して、お兄さんに手を引かれて、建物に挟まれた人通りの無い路地を歩いていた。

淀んだ空気が流れていた。

道端には酒瓶を握った男達が死体のように大量に転がっていて、鼻が捩れそうな程に酷い臭気が立ちこめていて、まるで廃人で塗装された地獄の道みたいだった。たとえ叫んだところで誰も気にも留めないだろう。

私の心は先ほどまでの昂揚をすっかり失い、代わりに首を真綿で絞められるようなじわじわとした不安感に襲われた。お兄さんは私を馬車で待つ父親に会わせると言った。でもこんな路地の奥に馬車があるとは到底思えない。そもそも馬車が通れる道幅じゃ無い。男達が転がってる原因は馬車に轢かれたからじゃ無くて、単なる酒の飲み過ぎだ。

私は私の細い左腕を掴む、お兄さんの生傷の多い太い左腕を見て思う。

このお兄さんは本当に行商人だろうか。

私が疑念を持ち始めたとき、お兄さんがぴたりと足を止めた。

傍に寝転がっていた白髪の老人のしわしわの両手が、お兄さんの右足首をがっしりと掴んでいた。

 

「じいさん何すかっ~離してくださいよぉ~」

 

お兄さんは間延びした声でそう言いながら、右足を振って老人の手を振り払おうとした。だが老人はお兄さんの足首にしがみ付いてなかなか手を離そうとはしない。

 

「酒ぇ! 酒くれや兄ちゃん! 酒くれたら離してやるからよぉ!」

 

老人はお兄さんを黄色い目で見上げながら、嗄れた声で怒鳴るように言った。

 

「酒なんか今持って無いですってぇ」

「じゃあ金! 金でいいわ! 金くれよ金!」

「それも無いっすよ~。こちとら貧乏商人っすよ? 爺さんに渡せる金なんて一銭も無いっす」

「嘘吐けよ! 持ってんだろ、たんまり! おらあ知ってんだよ! 本当はお前が……」

 

老人が何か言いかけたとき、私から手を離したお兄さんは懐から素早くナイフを取り出して、老人の右腕に勢いよく振り下ろした。

 

「ぎいいいやあああああぁぁぁぁっっ!!」

「べらべらうっせえぞクソじじい! そんなに死にたきゃ今から地獄に送ってやろうか!? ええっ?」

 

老人の白髪を掴み上げて怒鳴り散らすその姿は、先ほどまでの気の良いお兄さんの姿とは遠くかけ離れていた。

 

「やりやがったなああああこの“人攫い”があああぁっっ!!」

 

怨嗟の籠もった老人の叫びを聞いた瞬間、私は目を見開いた。

人攫い。

それは私の恐れていた単語だった。

考えてみれば、その可能性は充分に有り得た。メイド服を着ている小娘は雇い主の貴族から金を引き出すための人質として利用できる可能性があるし、無理なら人身売買でどのみち金に換えられるしで、格好の獲物に見えたに違いない。あまりに自分に都合良く話が運ぶ時点で気付くべきだった。

私は後ろを振り返り慌てて駆け出した。

 

「こらガキっ!! 待てええぇっ!!」

 

直ぐに後ろからお兄さんの荒々しい声が追いかけてくる。私は恐怖に顔を引き攣らせながら懸命に走った。とにかく目に入った狭い路地に飛び込んで走ってひたすらに曲がって走った。

 

「待てやあぁぁごらああああぁ!!!」

 

背後からの怒号と足音はどこまでも追いかけてきた。捕まったら死ぬと思った。

私は目をかっぴらいてスカートが汚れるのも構わずただただ全力で足を動かした。僅かな酸素を喘ぐように必死に吸って苦しみを恐怖で押しのけて、心臓を爆発させながら遮二無二走った。

やがて大通りに抜け出て、行き交う人の群れに飛び込んで人波を掻き分けるように駆け抜けた。

走って。

走って。

やがて落ち着いたのは――どこかの路地裏の木箱の裏だった。

そこは無数にあるように見えた路地裏の内の一つで、小柄な私が膝を抱えて座れば木箱が遮蔽物になって大通りからは完全に姿を隠すことが出来た。

私はそこで暫くじっとして息を整えた。

肺に入り込む冷気が火照った身体を冷ましてくれて気持ちよかった。村で畑を耕した後の懐かしい身体の感覚を久しぶりに思い出した。

やがて呼吸が落ち着くと私は木箱から顔を出して大通りの人混みを覗いた。

――それは恐らく私の臆病な心が生み出した錯覚だったのだろう。

行き交う人の中にさっきのお兄さんの後ろ姿らしき背中を見つけた。

それで、もう駄目だった。

私の心はすっかり恐怖に支配され、身体は鉛のように重くなり、全くその場から動けなくなった。

私は両手で膝を抱えて顔を埋めた。

 

 

 

 

にゃああーん

 

猫の甲高い鳴き声を聞いて俯いたまま目を開けた。

太ももと腹の間に抱えた僅かな暗闇に黄色く光るつぶらな瞳があって、目が合った。

 

にゃあああん

 

可愛らしく開いた口。

どうやら身を守るように丸まっていた私は光栄にもいつの間にか黒猫の隠れ家として利用されていたらしい。

顔を上げると空は真っ黒だった。

あの後、眠ってしまったのだろう。

メイド服から剥き出しの手足はすっかり冷え切っていてお尻も痛かった。お腹だけは毛玉が乗っていて暖かい。

私は夜空の星を眺めながらこの先のことを考える。

夜は冷えるし浮浪者に襲われる可能性もあるので、いつまでもここに居るわけにはいかなかった。ただ逃げている途中でお金の入った巾着袋を落としてしまったようで、宿屋に泊まるお金が手元に無かった。

 

(どうしよう……)

 

悩んでいると、路地裏に踏み入ってくる誰かの足音が聞こえた。

 

「クロ~、いるかクロ~。ご飯だぞ~」

 

優しそうな野太い男性の声だった。

心臓がトクトクと鼓動を早める。

別に悪いことをしているわけでは無いけれど、隠れるという行為そのものがどこか後ろめたさを含んでいて、どうかバレませんようにと心中で願った。しかしお腹に乗っていた黒猫が居場所を知らせるように“にゃー”と鳴いたので、私の望みは叶わなかった。

足音が直ぐ傍まで来てぴたりと止まった。

 

「……お嬢ちゃん、大丈夫かい?」

 

私を見下ろしていたのは口髭を生やしたおじさんだった。おじさんはパンの切れ端を片手に握りながら、穏やかな目つきで物珍しそうに私を見つめていた。

私は直ぐには言葉を返せなかった。

大丈夫か大丈夫じゃ無いかで言えば、絶対に大丈夫じゃ無い。だけどもそれはおじさんとは何ら関係の無い話で、だから大丈夫ですときっぱり言い切りたいところだけど、こんな場所でボロボロのメイド服で蹲ってるこの姿が明らかに大丈夫では無いので、矛盾してしまっていて……。

 

にゃああーん

 

思考の迷路に陥った私を救うように猫が鳴いて、お腹から飛び降り、ぐるぐる鳴きながらおじさんの足に頭を擦り付けた。

それでおじさんの意識は一旦足下の猫に向いた。

 

「おーよしよし。元気そうだな」

 

おじさんはしゃがんで猫の頭をひとしきり撫でると、片手に握ったライ麦パンの切れ端を、その丸みを帯びた愛らしい口元に差し出した。直ぐに平らげた猫はパンに前足を添えて器用に立ち上がり。断面の木片みたいな茶色い生地の端っこに齧り付いて、

ぼりぼり

 しゃくしゃく

と可愛い咀嚼音を鳴らす。

 

「この子はこの路地裏に棲み着いててなぁ。いつも晩飯を分けてやっているのさ」

 

おじさんは温かい視線で猫を見つめながら呟くように言う。私の緊張を感じ取って解そうとしてくれたのかも知れない。でも依然として発するべき言葉を見つけられない私は、パンを囓る猫に意識を集中するフリをすることで、おじさんに深く追求されないように全力を注いだ。

……あんまり熱心に見過ぎたらしい。

おじさんが口の端を緩めながら訊いた。

 

「腹減ってるか?」

 

思いがけない言葉に、私は目を見開いて顔を赤くした。猫の餌を羨んでいるような卑しい姿を見られた事も理由の一つだったけど、それよりも本心がバレた事の方がよっぽど恥ずかしかった。

私は確かにお腹が減っていたのだ。

朝から何も食べていなくてお腹が背中とくっつきそうだった。だけど食べ物を恵んで貰うのはみっともなくて、それでもご飯は欲しくて、やっぱり私は言葉に窮した。

そうして口を噤んだ私の代わりに答えたのは――お腹だった。

 

くぅ~~~

 

私のお腹は正直者で、実に情けない音で主の空腹を知らせた。息を呑む私を他所に、おじさんは髭に覆われた口角を吊り上げて愉快そうに笑った。

 

「そうかそうか。腹が減ってるか。よぅし。家に上がれや。美味しいシチューを食わせてやろう」

「あ、で、でもっ」

 

私の情けない第一声がこれ。

おじさんはそれを大きな口を開けて笑い飛ばす。

 

「はっはっはっ。良い良い。気にするな。大人の親切は有り難く受け取っておくもんだ」

 

おじさんはそう言って小さくなったパンの切れ端を完全に猫に明け渡すと立ち上がり、私に背を向けて通りの方へと歩き始めた。私は反応に困ってしまって、腰を浮かせた中腰のままどっちつかずの中途半端な姿勢になっていたけれど、肩越しに振り返ったおじさんが言った。

 

「おーい。そんな所にいないで早くこーい」

 

もうおじさんの中では私が着いていくことが決まり切っているかのような温かい言葉。

私はその温情に甘えるようにおじさんの大きな背中を追いかけた。

 

――シチューは絶品だった。

都市部には色々な野菜が集まるのか、眼下のテーブル上に置かれた木のボウル皿の中には、私が今までに食べたことの無いトロトロの黄色い野菜やほんのり甘い橙色の野菜やちょっぴり辛い緑色の野菜などがごろごろ入っていて、それらが旨味豊かな薄い黄色の野菜スープに浸かっていて、食べるとそれらの味わいが口の中に一気に広がってとても美味しかった。しかも酷くお腹が減っていたからその美味しさが身体全体に直ぐさま染み渡って、震えるほどに美味しかった。それで私はシチューが熱々なのも気にせずにスプーンをひたすら口に運んで急くようにシチューを食べた。

美味しい美味しいと思いながら。

パクパク、パクパクと。

食べた。

あっという間にお皿の中は空っぽになった。

私がスプーンを皿に置いてふうっと一息吐くと、まだ対面で食べているおじさんが微笑んだ。

 

「良い食べっぷりだな」

 

私はその言葉を聞いて今更ながらにこのシチューはおじさんの晩ご飯を分けて貰った物だった事を思い出した。その事に多少の罪悪感を感じたけれど、謝罪の言葉を口にしてもおじさんは喜ばないと思って止めた。

代わりに、

 

「ご馳走様です。ご飯を分けてくださりありがとうございます」

 

と感謝の想いを口にした。

おじさんはその言葉を聞くと満足そうに小さく何度か頷き、

 

「おう、気にするな」

 

小さく笑った。

それからおじさんがシチューを食べ終わるのを待つ間、私はじっとテーブルの木目を眺めた。

おじさんは一切の詮索をしてこなかった。

何も喋らずにただ美味しそうにシチューを食べていた。だから私は静かに思考に意識を向けることが出来た。

空腹という直近の苦難を解消した私の頭は、休むこと無く次の苦難を想像していた。

故郷の村に帰れないという絶望。

私はこの先、家族に会えないのだろう。それは酷く辛いことだった。でももっと最悪な想像をしなければならなかった。

それは、私が家族を殺すということ。

他のメイドに“なぜメイドを辞めないのか”と尋ねたときに言っていた。“これ以外に良い仕事が無いから”と。女はコネが無ければ織物屋や刺繍屋などのまともな仕事に就けないし、運良く職を手にしたところで一人で生きていくことがやっとの賃金らしい。でも仕送りを送れなければ、ギリギリで生きていた家族は間違いなく暮らしていけなくなる。

私が屋敷から逃げ出したせいで、皆死ぬ。

身体の芯が冷えて唇が震える。

そんなの絶対に駄目だ。

でも。じゃあ。屋敷に戻ったらどうなる?

待ち受けているのは暴力の日々だ。また耐えがたい痛みに晒される。鬼畜共に痛めつけられる。

――生き地獄を味わうことになる。

私は先行きの暗さに絶望した。

何か大きくて重たい物に押し潰されるような絶望感だった。

呼吸が知らず浅くなって息苦しさに襲われる。

救いを求めて家族の顔を思い浮かべた。でも、もはや会うことが叶わない家族の笑顔は虚しさを強めるだけだった。

身体が震える。

寂しくて怖くて悲しくて辛くて。暗い感情に心がぐちゃぐちゃになる。真っ暗な沼に溺れる。救いが。とにかく救いが欲しかった。

だから気付けば――言葉を吐いていた。

 

「私は……あの高台のお屋敷から……逃げ出してきたんです……」

 

いきなり私が語り初めても、おじさんは驚いた顔一つせずにシチューを口に運びながら、黙って私の話に耳を傾けてくれた。

やっぱり優しい人だと思った。猫にパンをあげていたときも私にシチューを食べさせてくれたときも思ったけど、このおじさんは優しい。だから私は小さな体では抱えきれなくなったこの苦しみを只聞いてほしくて、口を開く。

 

「いつも暴力を振るわれていました……伯爵には殴られて蹴られて、夫人には罵倒されて、公子には痛めつけられて……それが嫌になって逃げてきたんです……家族に会いたくて……でも会いに行く方法が無くて……人攫いに攫われかけて……」

 

一方的に喋る私の言葉をおじさんは真剣な表情で静かに聞き、優しい響きのある声で言う。

 

「それは辛かったなぁ……」

 

その短い言葉は私の心を優しく包んだ。

それは甘美な心地だった。今まで一人で耐えてきた自分の苦しみが初めて人に理解されて、それだけで報われた気がした。

もっと慰めて欲しくて、自分が如何に辛いかをみっともなく訴えてしまう。

 

「私、とにかく家族に会いたいんです……! 家族が好きなんです……それだけなんです……! でも引き離されてっ……! もう会えなくてぇっ……! それが凄く……辛いんですぅっ……!!」

 

声を震わせながら嘆く。

悲しい現実を口にしたら悲しい感情が湧き上がって涙になってぽろぽろ零れた。

 

「……俺にも昔、娘と妻がいてなあ」

 

おじさんが懐かしむように言う。

 

「二人とも流行病でパッタリ死んじまった。運悪く俺だけが生き残った。今でも時々会いたくて堪らなくなる。だからお嬢ちゃんの気持ちもよく分かるよ」

 

おじさんは遠くを見つめて呟くように言った。

 

「会いたいよなぁ……」

 

その言葉は私の心を優しく撫でた。

それが契機だった。

私は気付けば大粒の涙を流していた。

 

「会いたいっっ……!! 会いたいよおぉぉっ……!! お母さあああぁぁんっっ……!! お父さあああぁぁぁぁんっっ……!!」

 

私は会えない両親を呼びながら涙を流して泣き叫んだ。奥から奥から悲しい感情が濁流のように押し寄せてきて、涙になって言葉になってひたすら外へと溢れ出た。家族に会いたくて仕方が無かった。

気付けばおじさんは隣に座っていて泣きじゃくる私を抱きしめてくれた。私を抱きしめてくれる頼もしい身体にお母さんを思い出した。その感触がまた恋しくて私はますます泣いた。

 

「おーよしよし。泣け泣け。いっぱい泣け」

 

おじさんが背中をさすってくれた。

私はいっぱい泣いた。

 

 

 

落ち着くまでには暫く掛かった。

それでもやがては涙も涸れて、私は自然と泣き止んだ。その間おじさんはずっと私を抱きしめてくれていて、私の涙が止まるとそっと身体を離した。

膝に両手を置いたおじさんが温かな目で私を見つめる。

 

「落ち着いたか」

「……はい」

 

赤い目で見つめ返す私は、今更になって見知らぬ男の人に抱きしめて貰って慰めて貰っていたのが恥ずかしくなって、少し気まずかった。

 

「それで。この先どうするか考えているか?」

 

おじさんは穏やかな口調で私に尋ねた。

私は直ぐに答えることが出来なかった。

故郷の村に帰るのを諦めること意外は何も考えていなかったからだ。

だけどそんな私の心を見抜くようにおじさんが言った。

 

「諦めるのか?」

 

私はその視線から逃れるために俯いた。

組んだ両手をぼうっと見つめて自分の無力感に苛まれていると、おじさんが言葉を降らした。

 

「若さってのは可能性だ」

 

私はのろのろと顔を上げる。

おじさんが私の瞳のその奥の何か深淵を覗くような、目が合っているのに合っていないような、そんな神妙な視線を私に向けて滔々と語る。

 

「若いときは何でも出来る。強く望めば実現できる。不可能など無い。そういう不思議な“力”が宿る恵まれた時期だ。だがその“力”ってのが唯一苦手なものがある。それが、諦める心だ」

 

おじさんが言葉を続ける。

 

「本当に出来ることは全てやったのか? 陸路が駄目なら水路に頼ってみたか? この街に故郷の村を知るものがいなくても隣町ならどうだ? 商人よりも娼婦の方が物知りなんじゃないか? 可能性なんていくらでも転がってる。諦めるなんていつでも出来る。俺はもう家族に会えないが、お嬢ちゃんの家族はまだ生きている。それでもお嬢ちゃんはもう家族に会えないと思うか?」

 

おじさんが言う。

 

「本当に、諦めちまうのか?」

 

穏やかな声色で発されたその言葉にはしかし、確かな熱が籠もっていた。その熱は私の心に火を点し、冷たく弱り切っていた内なる私を暖めた。

そうだ。諦めちゃ駄目だ。

私は奮起した。

へたり込んでいた小さな私は再び立ち上がることを決めた。

おじさんに感謝した。

危なかった。

危うく諦めるところだった。

弱気な心が私に目隠しをしていたのだ。

おじさんの言う通り出来ることがまだあるはずだ。

諦めるのは全てやった後で良い。

私は背筋を伸ばして力強く言葉を発した。

 

「諦めません。まだ方法を探します」

「そうか。良い返事だ」

 

おじさんは髭に覆われた口角を上げて満足そうに笑った。

おじさんの笑顔を見て私も嬉しくなった。

おじさんはもう他人では無かった。

おじさんは命の恩人で大切な事も教えてくれた大事な人だった。

おじさんはそしてこう続けた。

 

「俺も力になってやろう」

「……え?」

「俺の知り合いに旅商人がいる。商人と言っても旅のついでにやってるだけのなんちゃって商人だがな。そいつはここいらの決まり切ったルートを回る商人と違ってあっちこっちと移動してるから、もしかしたらお嬢ちゃんの言っていた“ケネト村”っていうのも知ってるかもしれん。そいつ、丁度街に来てるから明日辺り聞いてみるよ」

「本当ですか!?」

「ああ」

「ありがとうございますっっ!!」

 

私はありったけの感謝の気持ちを込めて言った。

全くの暗闇だった先の展望に一筋の光が差し込んだ気分だった。それが救いをもたらしてくれるかは分からないけれど、少なくとも希望の光ではあった。

 

「後なあ。泊まるところ無いんだろう? いいぞ、うちに泊まって」

「い、いいんですか!?」

「おう。部屋は余ってるしな」

「ありがとうございますっ!」

 

もはや嬉しすぎて目が潤んだ。

感謝してもしきれなかった。

おじさんは髭面だけど天使にさえ思えた。

おじさんは興奮して何度も感謝の言葉を口にする私を見て可笑しそうに笑う。

 

「いいか。これはお嬢ちゃんが諦めずに前を向くことに決めたから訪れた幸運だ」

「幸運」

「そうだ。俺はお嬢ちゃんが諦めていたらきっとそこまで手を貸そうとは思わなかった。だけどお嬢ちゃんが諦めなかったら手助けする気になったんだ。これも不思議な力ってやつさ」

「ありがとうございます!」

「おう。若いんだから諦めんなよ」

「はいっ。頑張ります!」

 

私はおじさんに施して貰った救いの手を無駄にしないためにも、絶対に諦めないことを心に誓った。

――それから私は奥さんがかつて着ていた布服をメイド服の代わりに着させて貰って、そのまま案内されて、元々は娘さんが使っていたという廊下の奥の部屋を寝室に使わせて貰うことになった。

 

「良い夢を」

 

おじさんがそう言って扉を閉め、私はベッドの上に仰向けで寝転がった

私は木板の天井を見つめながら自分が屋敷ではなく民家にいることを実感した。伯爵にも夫人にも公子にも怯える必要の無い穏やかな夜を迎えられていることが、夢のようだった。

一日を振り返る。

上手くいかないことも多いけれど、事態は確実に好転していると思った。

何よりおじさんと出会えた。それだけで私はこの上ない幸運だった。おじさんは腹を空かせた私を救ってくれたのみならず、この先の指針さえも示してくれた。

大丈夫。

諦めなければきっと家族の元に辿り着ける。

幸せになれる。

私は幸福を夢見て目を閉じた。

 

 

 

 

 

そして翌朝目を覚ましたとき――私は絶望した。

ベッドの脇に立った三人の男が私を見下ろしていて、その内の一人は私を母と引き剥がして馬車に放り込んだ人物だった。

つまり屋敷からの“迎え”が来ていた。

私は慌てて身体を起こして男達を見つめながら、思考を回転させた。

なんでこの人たちが? ここって屋敷だっけ? 違うおじさんの家だ じゃあ何でバレた? おかしい 通報された? 誰が? まさか……おじさんが?

私が信じたくない推測に行き着くのと同時に男達は動き出し、私の右腕と左腕と両足を三人でそれぞれ抱え込んで拘束し、私を仰向けのまま持ち上げた。

 

「離せっ! 離せえええっっ!!」

 

私は必死に暴れようとするけれど、大人三人がかりで押さえ込まれてしまっては全く身動きが取れない。

 

「やめてっ!! 離して! 痛いっ!! 離してよおおっ!!」

 

騒ぐ私を無視して男達は私を玄関へと運んでいく。

途中で通りかかった居間でテーブルの椅子に座って俯いているおじさんの姿があった。テーブルにはパンパンに膨らんだ巾着袋が置かれていた。

 

「おじさんっ! なんでっ! なんでこんな酷いことをするの!?」

 

私は顔だけおじさんに向けて必死に叫んだ。

私の声が届いたのかおじさんはゆっくりと顔を上げた。

私は目を疑った。

別人かと思った。

顔から覇気が失われていて昨日より老けて見えた。そして何よりも目が、酷く冷たく淀んでいた。

おじさんは無気力な視線を私に向けた。

 

「おじ、さんっ……?」

 

活力の漲っていた昨日のおじさんとのあまりの変容っぷりに悍ましさを感じて、私は困惑した声を漏らした。

おじさんは恐らくは喋るために億劫そうに口を開けた。

男達はせめてもの慈悲なのか足を止めた。

おじさんはヘドロを吐き出すようにドロドロと語った。

 

「大人になるとなぁ、世の中にとって自分という存在が、如何にちっぽけで、無価値で、必要の無い存在かを思い知らされるんだ。子供の頃に思い描いていた理想の自分とはかけ離れた、惨めなつまらない大人になるんだ。だから俺はなぁ、お嬢ちゃんに夢を見せたかったんだよ。子供に夢を見せることが出来る、価値ある大人を、演じたかったんだよ。そうやって自分を慰めたかったんだよ」

「だったら! ずっと演じてくれれば良かったのに! それならおじさんも私も! 幸せでいられたのに!」

「お嬢ちゃんは若いから夢を見ていて良い。でもおじさんは大人だから現実を見なきゃいけないんだ。現実ってのはつまりこれだ。金だ」

 

おじさんがそう言ってテーブルの上の巾着袋を気怠げに二度叩いた。

 

「貧乏な俺は金が無けりゃ生けていけねえ。お嬢ちゃんも知ってるだろ。お金がどれだけ大切かってのは。おじさんは金に目が眩んで少女を売り飛ばしたクズ人間なのさ」

「嘘だ! おじさんは優しい人だもん! 猫にご飯あげるし、私も救ってくれたもん!」

 

私は昨日の優しいおじさんを信じたくて今のおじさんを必死に否定する。

だけどもおじさんはそれを否定する。 

 

「俺が猫に餌をやる理由はアイツを見下しているからだ。俺より身体が弱くて寿命も短い貧弱な生き物を、この手で生かしてやることで、神様気分を楽しんでいるのさ。お嬢ちゃんだってそうだ。見るからに憐れで可哀想なガキがいたから、手を差し伸べてやった。救ってやった。俺のオナニーの養分にしてやった」

「そんな……」

「この世にはなぁ。純粋な親切心なんてありゃしねえんだよ。全ての行動は穢れた利己心から生まれんだ。ただそれを隠すのが、上手い奴と下手な奴がいるだけだ」

 

そう言っておじさんは髭に覆われた口元を歪めてニヤリと笑った。

 

「夢みたいな大金を運んでくれてありがとうな」

 

それがおじさんが私にくれた最後の言葉だった。

おじさんが俯いたのをきっかけに、男達は再び私を運び始めた。

 

「おじさんっ! 助けてっ! 助けてよっ! 止めてよっ!! おじさんっっ!」

 

私がどれだけ叫んでも、おじさんは二度とこっちを見てはくれなかった。

俯き続けるその姿は、まるで罪人のようだった。

 

 

 

屋敷に連れ戻された私を待っていたのは当然のように暴力の日々だった。

私が屋敷から逃げ出したことについての反応は三者三様だった。

伯爵にとっては私が逃げ出す事も、直ぐに連れ戻された事も、全ては想定の範囲内だったようで大した反応は見せず、公子もお気に入りのおもちゃが戻ってきて運が良い、という程度だった。

明確に態度を変えたのは夫人だった。

夫人はメイドの職務を放棄して屋敷を抜け出した不届き者を雇い主として咎めるという大義名分を振りかざして、私により一層激しい暴力を振るうようになった。もはや今までのように回りくどく言いがかりを付けることも無くなって、罰を与えるという名目で横になった私にネグリジェ姿の夫人が馬乗りになって、ひたすら往復で力一杯引っぱたくのが日課になった。

 

「貴方のような愚か者には痛みで教えるのが一番だものね」

 

それが夫人の口癖になった。

痛みで言えば他二人と比べてそれ程では無かったけれど、反対に嫌悪感は凄まじかった。

この壮年の女は浅ましくも断罪という名目ならば人に暴力を振るう権利がもたらされると勘違いをしていたし、醜くも暴力を振るう自分を正当化するために故意にその勘違いをしていた。自分の内面にある汚らしい本性を理屈で姑息に取り繕って美しく飾ろうとするその滑稽さが、私には酷く気持ち悪かった。

しかも、幾ら言葉に頼ったところでその内面は隠しきれないものらしい。

夫人が馬乗りになって私を引っぱたくとき、その口角のつり上がった笑みにはいつも心の醜悪さが滲み出ていた。

だけど私を引っぱたいて気持ち良くなることに夢中な夫人は、その事実に一切気付いていなかった。

それも悍ましくて私は嫌だった。

 

「ほらっ! 痛いでしょ!? 痛いでしょ!? これが罪の痛みなのよ!? しっかりと胸に刻み込みなさいっ! 貴方は頭の足りない愚かな女なのだから! 身体でちゃんと覚えなさいっ!」 

 

私を見下ろす夫人が昂揚で顔を赤くして笑いながら言っていた。

“頭の足りない愚かな女”

その言葉が気に入って、私は頭の中で何度も呟きながら、無抵抗にぶたれていた。

 

 

 

三人からの暴力は毎日続いた。

だけどある日、唐突に終わった。

 

 

その日の晩は伯爵の“相手”をする予定だった。

いつも通り書斎を訪れて服を脱がされて容赦の無い暴力を振るわれて、涙を流す紅色の瞳や鮮血を垂れ流す鼻や口や皮膚の赤黒く腫れ上がった関節や折れ曲がった手足を晒す事になっていた。

だから夜が深まって、奉仕へと赴く直前になって、他のメイドから“公子が呼んでいる”と言われたときは驚いた。

普段ならば伯爵と公子とどちらか一方が私を痛めつける日の場合、もう一方は示し合わせたかのように沈黙していたからである。部屋に呼び出すなんて事もまずしない。

 

(何の用だろう……)

 

私は疑問に思いながらもメイドとして無視するわけにはいかないので、言われたとおり公子の部屋を訪れた。

扉を開けると身体を扉側に向けて勉強机の豪奢な椅子に座っている公子が目に入った。公子は両手を後頭部に添えて長い足を組んで天井を見るように背もたれにもたれかかっていて、その目だけはこちらを見下ろしていて、まるで来客を待ちわびていたかのようだった。

 

「あの……どのようなご用でしょうか……わたしこの後、旦那様に呼ばれていて……」

 

公子は返事をせずに立ち上がり、スタスタと近づいてきて正面まで来ると

 

「すぐ終わる。ついて来い」

 

とだけ言って私の横を通り廊下を歩き始めた。

私は困惑したが拒否権などある筈も無く、大人しくその背中についていくことにした。

公子は廊下を真っ直ぐ歩いて行き、社交界が時々開かれる大広間を突っ切って、巨大な入口扉から外へと出た。

私は開いた扉の前で思わず立ち止まった。

言わずもがな伯爵に外出を禁じられていたからである。しかも一度抜け出した過去があるから再び外に出たことが知られたら、今度ばかりは伯爵も私を厳しく咎めないとも限らない。もしもあの暴力が更に過激になるのだとしたらそれは、この上なく恐ろしいことだ。

直立の姿勢で石のように動かなくなった私に気付いて公子が振り返る。

 

「俺が許可する。それで良いだろう」

「ですが」

「不満か?」

 

公子は一見爽やかな笑顔を浮かべているけれど、これ以上の反論は許さないという言外の圧を放っていた。

 

「……いえ」

 

私はこうして再び屋敷の外へと足を踏み出すことになった。

公子は黙々と足を進めた。

庭園を尻目に屋敷の外観に沿って歩いていき、やがて屋敷を取り囲む森の一角で足を止めた。正面には一カ所だけ茂みが取り除かれ、片手を伸ばした程度の幅の土の道が、木々の間をすり抜けて森の奥へと続いていた。

 

「……道」

 

意識せずに呟いた言葉を質問として受け取ったらしい公子が、口を開く。

 

「物置へと続く道だ」

 

簡潔にそう言って公子が再び歩き出す。

私は後を追いかけ森の中に呑み込まれていく。

夜の森は酷く不気味だった。

鬱蒼とした森には静かな暗闇が立ちこめていて、何かの小動物が茂みを揺らす度に私は身体をビクンと震わせなければならなかった。

そんな中でも公子は迷いの無い足取りで進んで行った。上機嫌に口笛さえ吹いていた。

私は闇の中に感じる色々な気配に独りでに怯えて身体を縮こませながら、ひょこひょこと公子の後に付いていった。

やがて森の中に木造の小屋が現れた。

屋根も壁も四角い奥行きのある小屋だった。

だが、外観は質素なのに、どこか目が引かれる気がした。それは自然の中に人工物があることの異質さとはまた別の何かで、もっと引き込まれるような呑み込まれるような……ともかく不気味だった。

しかし戸惑う私を他所に公子は、躊躇せずにその入口扉の鍵を開けて、中へと入ってしまった。気が進まなかったけれど私も仕方なく後へと続いた。

まず感じたのは、空気の重たさだった。

立ち籠める暗闇で視界が利かないから余計に敏感に感じ取れたのかも知れない。身体に纏わり付くような嫌な空気で、幾ら呼吸をしても不安になるような薄く引き延ばされた微かな息苦しさがあった。

公子が壁に掛けられたランプに火を点したらしい、小屋の中が橙色の明かりで照らされる。

棚が並んでいた。

床から天井までの高さがあり入口から小屋の奥まで届く横長の棚が、奥行きのある空間を仕切るように幾つも置かれていた。

その棚には壺やら絵画やら人形やら――雑多な物がぎっしりと並んでいた。

 

「ここは曰く付きの物品が置かれている倉庫だ。ジジイは気に入った物なら何でもかんでも手元に置きたがるけれど、あのババアは臆病だから、呪われた美術品とかを見つけるとびびって、屋敷から離れたこの小屋までせっせと運び入れるのさ」

 

棚の間を歩く公子が背を向けながら有り難いことに説明してくれた。親切心などでは無く、単に嫌いな母親を罵倒できる機会を逃さなかっただけだろう。弾んだ声色から上機嫌なのが窺える。

私は横を向いて、目線の高さの棚の仕切りの上に座っている美しい女性の人形をまじまじと見た。その人形は、私が夫人の部屋で唯一見たことがある、白く滑らかな肌をした陶器の人形とはかなり違っていた。髪の毛は赤毛だし、黒い瞳は今にも瞬きをしそうな程に精巧な造りをしていて、唇はほんのり赤く、青みがかったドレスを着ている。

 

「それは元々人間だったらしいぜ」

 

肩越しにこっちを振り向いていた公子がそう言って、私はぎょっとした。

 

「どっかのイかれた魔術師が禁忌の魔術を使って死にかけてた妻を人形に変えたんだとさ」

 

青ざめた私の顔を見て公子は愉快そうにケラケラと笑う。

 

「ここにはそんな物ばっかりだ。それは画家が自分の血をたっぷり染料に使って描いた絵画らしいし、あそこの美人は作り物じゃ無くて魔法で時間が止まった本物の女の生首らしいし、そっちに立て掛けられている綺麗な剣なんか、悪名轟くウィッケルの魔女の心臓にぶっ刺さったやつらしいぜ」

 

口角を吊り上げて得意げに語る公子を横目に、私は身体を震わせた。

語られた噂が冗談だとは到底思えなかったからだ。

先ほどから感じる悪寒や部屋に充満する淀んだ空気の正体が、この部屋に並んだ呪物とも呼ぶべき物品達に宿った負の情念である気がしたのだ。

“そんなの気のせいだ”と強がる自分もいるけれど、“ここはまずい”と怯える自分の方がよっぽど声が大きい。

私は振り返って、閉まっている入口扉を見た。

この空間から一刻も早く立ち去りたいと思った。

そうして静かに一歩を踏み出した。

けれども、

 

「こっちへ来いっ!」

 

と背後から乱暴に呼びつけられて呆気なく望みは潰えた。

後ろを向けば、公子は小屋の奥の方に立って、目線より少し下辺りの棚の一カ所をじっと見下ろしていた。

私は慌てて駆け寄った。

 

「今度逃げようとしたら殺すからな」

 

片眉を吊り上げた公子は私を睨み下ろして言った。

 

「申し訳ありません」

 

従順に謝罪の言葉を口にした私を見ると公子は目を細めて笑顔になって、視線をまた棚に戻した。公子の見つめる先、私にとっては目線の高さの棚の仕切りの上に、一冊の本が立て掛けられていた。

本は私の顔よりも大きかった。

表紙は膨大な年月の経過を感じさせる程に色褪せた赤茶色い革張りで、その中央には金色に輝く大きな星型が描かれ、その星型を円を描くように尻尾を喰らう金色の蛇が囲っていた。

 

「コイツは高名な魔術師が残したと言われる古い魔導書だ」

 

公子が言った。

 

「今からお前にコイツの頁を捲って貰う」

 

私は公子を見上げた。

 

「字は、そんなに読めません……」

「ああ、お前のような低俗な農奴は学が無いから言葉を理解できないし、字も読めないよね。俺は頁を捲って貰う、と言ったんだ。別に読めとは一言も言ってない。その頭はもしかして飾りかな?」

「すみません」

「いいよいいよ、謝らなくて。お前はただ一頁目を捲りさえすれば良い」

「……頁を捲ると、どうなるんですか」

「さあ~。死ぬんじゃ無い?」

「……えっ」

 

公子の緩んだ口元から軽々しく放たれた衝撃的な言葉に、私は思わず間の抜けた声を漏らした。

公子はそんな私を見て愉快そうに笑った。

 

「魔導書ってのは読めば誰でも書かれた魔術を習得出来てしまう優れものだからね。“高尚な”精神をもった魔術師はそこらのちゃらんぽらんが“誤って”魔術を習得しないように読み手を試す仕掛けを頁の初めによく施すんだ」

「その仕掛けってどんなものですか……?」

「それは色々さ。読み手の身体を炎で包んで焼き尽くそうとしたり、一般人には処理仕切れないような超膨大な知識を頭にぶっ込んで一生廃人にしたり、本に牙が生えて読み手を噛み殺そうとしたってのもあったなぁ」

「……っっ」

 

私は恐怖で息を呑む。

 

「どうして、私に……」

「決まってるだろう。本の中身が知りたいからさ。前々から気になってはいたんだよ、何が書かれているんだろうってな。でも俺は危ない思いはしたくないから手を出せなかった……そしたら、無駄に頑丈なお前が現れた! 震えたねぇ、神からの贈り物だと思ったよぉ! だからそんなお前に、どうなってもいいし最悪死んだって構わない頑丈で使い捨てのメイドのお前に、仕掛けの方をどうにかして欲しいってわけっ!」

 

何やら楽しい催しを説明するみたいに声を弾ませて言う公子が心底恨めしくて、私は奥歯を噛み締め、身体の横に垂らした手をぎゅっと握り締める。そんな私の密かな反骨心を見て取った公子は卑しく目を細める。

 

「出来るよなぁくそメイド?」

 

それは問いかけの皮を被った“やれ”という命令で断ることを許さない脅迫的な圧が込められていた。

その圧が私の頭に負荷を掛けて、今までに公子に与えられてきた痛みの記憶を強制的に呼び起こさせる。ここで逃げれば後でもっと酷い目に遭う。

私は恐怖に屈して視線を魔導書へと向ける。

話を聞いた後では本の見え方もさっきとは変わって、色褪せた赤茶色の革表紙は禍々しい存在感を放っている気がしたし、本の方からまるで見えない腕が伸びてきて背中に纏わり付き、手に取ることを誘われている気がした。

私は両手を伸ばして魔導書を持ち上げた。

分厚く大きな魔導書はずっしりと重たかった。

私はその裏表紙に左腕を回し背表紙に手を添えて何とか抱えるように持つと、空いた右手で革表紙の端を掴んだ。

その瞬間、指先から脳まで悍ましさが走り抜けていった。

全身に鳥肌が立った。

指先は体温を吸われるように冷たくなり、小刻みに震えた。

捲っては駄目だ、と本能が訴えていた。

 

「早く捲れ」

 

公子が無慈悲に急かす。

私は深く息を吐き出し覚悟を決めると一思いに表紙を捲った。

現れたのは――不気味な瞳だった。

文字の一切書かれていない羊皮紙の中央に巨大な瞳が埋め込まれていた。その眼球は琥珀色で中心を垂直に割るように縦長の黒い瞳孔が刻まれていて、まるで蜥蜴の瞳のようだった。

身体に目立った異変は訪れなかった。

だが眼球がぐりんと動いて目が合ったとき、私は思わず魔導書を落とした。

 

「嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛っ゛っ゛っ゛!!!!」

 

私は床に倒れ込んで身体を震わせながら叫んだ。

全身の神経をぐちゃぐちゃに切り刻まれるような強烈な痛みが身体中に電撃のように走っていた。脳もぐちゃぐちゃに掻き回されて強烈な吐き気に襲われた。

 

「ぐがあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛っ゛っ゛っ゛!!」

 

とにかく痛みから逃れたくて獣のように叫び散らしながら床の上を転げ回る。しかし全身の血管が内側から破裂するような鋭い痛みは決して引くことが無い。

 

「あひゃひゃひゃひゃひゃ」

「あ゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛っ゛っ゛!」

 

公子の笑い声と私の濁った叫び声が混ざり合って頭の中で反響する。

うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。

やがて新たな痛みが加わる。

 

「がはあぁっっ!?」

 

胸の表面に火鉢を押しつけられたみたいに焼かれる感覚があった。その猛烈な痛みを発する熱をどうにかしたくて胸を掻き毟って服を破く。だけど全くそんなことに意味は無くて、少しでも風を送りたくて、背中を反らせては床に叩きつけてびったんびったんと暴れ回る。

 

「あがああぁっっ!! ぐぁぁっっ!!! いぎああぁぁぁぁっっ!!!」

 

胸の痛みはどんどんと増してもはや穴ぼこが空いて心臓を火鉢で貫かれているような激しい痛みがあった。

私は胸を手で押さえて胎児みたいに身体を丸めて震えた。まるで全身を炎が包み血管にマグマを流されて内外から焼かれているかのようだった。私は冷たさが欲しくて必死に息を吸った。

 

「熱いぃぃっ熱いいいぃぃっっっっ!!!」

 

全身を業火で包まれる感覚。

生きたまま肉を焼かれる感覚。

早く殺して! 早く殺して!! 

私は痛みに悶え苦しみながら目を閉じて必死に願った。

その願いが、もしかしたら通じたのかも知れない。

 

「――っっ!」

 

一瞬で。

ほんの一瞬で。

痛みが消え去った。

視界が真っ白になった。

ああ、やっと死ねた。

と思った。

――だけどやがて。

荒々しい呼吸の音とか頬が触れている床板の固さとかの感覚が戻ってきて、試しに目を開けたら棚の最下段に飾られた熊の人形と目が合って、まだ生きているらしいことに気付いた。

私は命を確かめるように深く息を吐いた。

 

「ご苦労だったなぁ」

 

目の前に公子の上質な黒光りする靴が現れて、高いところから声がした。

放っておいて欲しい。

私はいま痛みから解放されたことに安堵することで忙しい。一切苦しまずに、悶え苦しむ私を笑って見ていた悪魔の相手なんてしたくない。

 

「生きてるかー」

 

腹を蹴られ、私は仕方なく顔を上に向けた。

魔導書を小脇に抱えた公子がご機嫌な笑みを浮かべて私を見下ろしていた。

 

「おかげで魔導書が読み放題だ。助かったぜ」

 

堂々と功績の横取りを宣言する公子にも怒りの感情は微塵も沸かなかった。全ての感情は苦しみから解放された安らぎに押し流されていった。

 

「にしても、きっしょいなあ~それぇ」

 

公子が私の胸辺りに視線を落としながら言った。

私は何のことだろうと思って下を向こうとしたが、その前に公子が私の肩を蹴飛ばして仰向けに転がした。

公子がしゃがんで私の胸を凝視する。

 

「うわー。見れば見るほどきしょいじゃん。蛇の目玉そっくりだし。お前絶対嫁に行けねーな」

 

私はようやく自分の身体を見下ろした。

私が自らの手で引き千切り露わにしたメイド服の胸元の素肌には、魔導書の1頁目で見たあの不気味な瞳が埋め込まれていた。丁度焼けるような痛みがあった場所で、瞳の周りの皮膚だけ皺が寄って幾筋もの黒い線を刻んでいて、周囲の滑らかな肌と異なる異質さが気持ち悪かった。

 

「あー面倒くせぇ。どうすんだよこれ~。絶対ジジイキレるだろぉ……」

 

公子は厄介そうに呟きながら私の髪を掴み上げた。

 

「おい。絶対これ、俺が絡んでたって言うなよ。バラしたらどうなるか分かるよなぁ?」

 

苦しみの名残の疲労感で気怠かった私はぼうっと公子の顔を見つめていた。その呆けた表情を見て話を聞いていないと思ったらしい公子が苛立ったように言う。

 

「聞いてんのかクソメイド! おいっ! もしバラしたらなぁ! 今度は両方の目に何本針が刺さるか確かめてやるからなぁ! そのつもりでいろよ!」

 

そう言って公子は私の頭を床に突き飛ばした。

低い小屋の天井を見つめながら昨日の晩を思い出す。人間の眼球には何本の針が刺さるかという邪悪な好奇心を働かせた公子の手によって、左目の眼球に17本の針を打ち込まれたのだ。針先が近づいてくるのが凄く怖かったし、柔らかな眼球をプツンと貫かれるのが凄く痛かった。あれはもう味わいたくない。

 

「俺は先に戻るから後から出てけよ」

 

公子はそう言って魔導書を脇に抱え、小屋から出て行った。

 

 

 

言われた通り私は少し遅れて小屋から出た。

やっぱり夜の森は得体が知れなくて不気味だった。だけど重たい空気の満ちた小屋の中に戻る方が嫌で、恐ろしい森の中で立ち止まることの方が嫌だったから、私は歩いた。やがて森を抜け出ることが出来て、屋敷の外周を回って、庭園の横を通って、入口へと戻ってきた。

扉の前に立っている伯爵の姿を見て私は目を見開いた。

そうだ。伯爵に呼ばれていたのだ。

小屋の中での出来事が衝撃的すぎてすっかり忘れていた。

まずい。外に出ていたことが知られてしまった。

私は少しでも誠意を見せるために早足で駆け寄った。

「書斎になかなか姿を現さないからもしやと思って外に出てみたが……」

 

伯爵があの穴のような瞳で私を見下ろし無感情に言った。

 

「言いつけを破って外に出てしまい大変申し訳ございません」

「その胸はどうした」

 

私の謝罪を遮るように伯爵が言った。

当然胸に埋め込まれた奇妙な瞳について尋ねていることは分かっていたが、公子に口止めされていたことを思い出して多少ぎこちない喋り方になった。

 

「その……たまたま森の奥の小屋を見つけて……気になって入ってしまい……そこで偶然見つけた本を読んで……気付いたらこのように……」

「本……?」

「はい……」

「読んだのか、魔導書を」

 

表情に変わりは無いけれど、語尾を少し強めて発音された言葉には初めて咎める色合いが含まれた気がした。

 

「勝手な行いをしてすみませんでした」

 

私は誠意を込めて謝罪をしたが、

 

「げふっ!?」

 

顔面を思い切り殴りつけられ芝生の上に仰向けに転がった。何が起こったのか分からず混乱して夜空を見上げたその一瞬で、伯爵は私の腹の上に馬乗りになった。伯爵の身体が投げかける黒い影が私を呑み込んだ。伯爵は右手を私の胸元に伸ばして、肌に埋め込まれた瞳を取り除こうとした。しかし完全に埋まっているために指先を滑って掴むことが出来ず伯爵は憎々しげに口元を歪めた。それから腰のベルトに下げているナイフを右手で抜いて、瞳に向かって勢いよく振り下ろした。だが瞳は石のような硬度を持つようで、ナイフの刃先を甲高い音を立てて軽々弾いてしまった。伯爵は苛立ったように舌打ちをした。それから今度は瞳の縁辺りに狙いを定めて再び勢いよくナイフを振り下ろした。

肉に刺さった。

 

「ああうううぅぅっっ!?」

 

私の悲鳴など聞いてくれない。

容赦無しにナイフを瞳に沿って動かして肉ごと抉り取ろうとする。

 

「いいいいいいいいいぃぃぃっっっ!!」

 

肉を切断される燃えるような激しい痛みに襲われて私は悲鳴を上げながら奥歯を噛み締める。

痛いのにナイフは全然進まない。

行く手を骨に阻まれて自由に刃先が通らないのだ。更に切った傍から肉が塞がってしまうので、そもそも抉り出すのは難しそうだった。

伯爵は執念深くナイフを握って動かそうとしていたが、やがてその事を理解したらしく

 

「くそがぁっ!!」

 

と私に怒声を浴びせ、ナイフを抜き取った。

雲から逃れた月の光が伯爵の顔を映し出す。

伯爵は眉間に皺を寄せ、真っ黒な瞳を細めて、口の端を下向きに歪めていた。私の見る限りこの男の初めての憤怒の表情だった。

 

「お前が自分がどれほど罪深いことをしたか分かっているのか!?」

「すみません」

「完璧な美を汚したんだぞ!? 取り返しが付かないんだぞ!?」

「申し訳ありません」

「お前如きがぁ! 壊して良い物じゃぁ! ないんだぞ!?」

「ごめんなさい」

 

私はただ謝った。

伯爵の言葉に理解を示したわけでは無かった。私の身体をどうしようが私の勝手だと言いたかった。だけど、伯爵の言葉の圧に気圧されてしおしおと謝った。

しかし伯爵はそんな私を無視して立ち上がり、私に背を向けると、冷酷に言った。

 

「屋敷から出て行け。お前はクビだ」

 

その言葉を聞いたとき、背筋が凍った。

今更、メイドを辞めるなんて無理だった。

私は目の前の男に騙され、人攫いに騙され、おじさんに騙され……もう人を信じることそのものが怖くなっていた。人間不信になった私は、街に放り出されたとしてちゃんと生けていける自信が無かった。

恐怖に駆られた私はみっともなく四つん這いで這って、伯爵の片足にしがみ付いた。

 

「お願いです! それだけは勘弁してください!」

「くっそ。触るなっ」

「何でもしますから! 頑張って奉仕しますから! 私の身体にどんな仕打ちをしたって構いませんから!」

「このっ。離せっ」

「お願いします! お願いします! どうか屋敷に置いてください!」

「しつっこいっっ!!」

 

伯爵は自由なもう片方の足で私の首が後ろに仰け反るくらいに思い切り顔を踏みつけたので、私は首の骨が折れるのを恐れて手を離した。

伯爵はぺたんと座り込む私を睨み下ろして言った。

 

「いいか! 良く聞け! 私がお前をこの屋敷に置いたのはその容姿の美しさに価値を感じたからだ! だが今のお前は酷く醜い! その気持ちの悪い胸の瞳によってお前の美は失われた! 容姿の醜いお前に存在価値など断じて無い! 容姿の悪いお前がこの屋敷で生きる資格など無い! 視界に入れるだけで気分が悪くなる! とっとと屋敷から失せろ化け物が!」

 

私は、身体から急速に体温が抜け落ちていくのを感じた。

もちろん分かっていた。

容姿が優れている事を理由に自分を伯爵が手元に置き、再生する体質を利用して暴力の受け皿として都合良く使っていただけな事はよく知っていた。だけど改めて言葉にされると、自分の人間としての尊厳が踏み躙られていた事を強く自覚させられて、悲しくなった。しかもそんな非道な仕打ちを今まで受けてきながら、もはや用済みとばかりに屋敷から追い出されようとしている事実に呆然とした。私はこの男と女と子供にどこまでも蔑ろにされ続けた。悲しみと憎しみで身体が震えた。

私はロングスカートを握り締める手を見つめながら家族のことを思った。

もうこれからは十分な仕送りを送ることが出来なくなるけれど、せめてまだ受け取っていない今月分の給料だけでも送りたいと、そう思った。それが、故郷の村で未だに私が頑張っていると思って応援してくれているであろう家族への、せめてもの罪滅ぼしになると思った。

 

「あの、最後に今月分のお賃金の仕送りを送りたいのですが……」

「仕送り? なんの話だ」

 

私は、直ぐに言葉を継げなかった。

この男は何をとぼけているのだろう。

私が三ヶ月に一度屋敷に訪れる商人に故郷の村への仕送りの為に、賃金の8割もの大金を渡して運んで貰っている事実を知らないはずが無い。何故ならば、屋敷に来たばかりの私にそれを提案したのが他でも無く伯爵だったのだから。

 

「屋敷に来る行商人に託していたお金です。飛脚として私の家族の元へ代わりに仕送りを届けてくれていた筈です」

「飛脚? アイツがお前みたいなメイド一人のためにそんな手間の掛かることをするわけないだろ」

「……え」

 

全身から血の気が引いた。

心臓の鼓動が不安を煽るように急速に早まる。

 

「そ、そんな筈はありません! だ、だ、だって旦那様から仕送りの話をなさったではありませんか!」

「ふざけた事を言うな。よく思い出せ。先に何やら提案したのはあの商人だ。それをお前が私に確認した。そして私は頷いた」

「頷いた! そう頷いていました! お金を届けると、約束してくださいました!」

「約束? 書面にサインでも書いたか?」

「い、いえ……」

「ならば知らん。そもそも私は話など碌に聞いていない。私が興味があったのはお前のその身体だけだ。それ以外のことは一切どうでも良かった。お前の家族がどうだとか、仕送りがどうだとか、そんな事には全く関心が無かった。だからその時も適当に頷いただけだ。お前らが話していたことなど何一つ知らん」

「そんな……」

「お前の話が本当ならばアイツは今までに相当な臨時収入を得ていたのだろうな。全く愚かだな、お前も」

 

私は深い穴に落ちていくような絶望を感じた。

今までどんなに辛い目に遭おうと家族を支えるためだと思って耐えてきたのに――。

その痛みが、苦しみが、全て無駄だった。

意味の無いものだった。

私はただ痛めつけられていただけだった。

そこには何の価値も無かった。

屋敷で堪え続けた私は、ただの愚かな――肉人形だった。

私は虚しさに打ちひしがれて、へたり込んだまま動けなかった。伯爵は用件が済んだとばかりに踵を返す。

本当は訊かなければならないことが沢山あった。

今、その商人はどこにいるのか?

この街から故郷の村へはどうやったら行けるのか?

この胸の瞳は一体何なのか?

だけど気力がすっかり抜け落ちて言葉が一言も出てこなかった。私は虚ろな瞳で遠くなる背中をぼんやりと見つめ続ける。

待って。

待って。

薄弱な意識で紡がれた言葉は当然届くことは無い。

待て。

待て。

辛うじて伸ばした右手は宙を切って落ちる。

逃げるな。

逃げるな。

伯爵が玄関扉に続く石段に足を掛ける。

先に諦め。次に沁み出すのが黒い感情。

……殺してやる。

どうせ届くことが無いならば。

私はその背中に切なる殺意を込めて呪詛を吐き捨てた。

――その瞬間。

巨大な何かが屋敷に降り立った。

同時に身体の奥まで揺らす凄まじい地響きが起こり私は思わず蹲った。やがて揺れが収まると私はゆっくりと顔を上げて目を見開いた。

――屋敷に竜が君臨していた。

大きな翼を闇夜に広げ、黒い鱗を月光で輝かせる悍ましい竜が、屋敷を踏み潰すように立っていて、鋭利なかぎ爪の生えた巨大な足の下敷きになった屋敷の一角は、見事にぺしゃんこになっていた。

 

「な……なんだあれは……」

 

伯爵も足を止めて上を見上げていた。

竜は月の光を浴びるように夜空に首をぐぐっと伸ばして、ぴたりと頭を静止した。何故だか分からないが直感的に“獲物を見定めているみたいだな”と思った次の瞬間、獰猛な牙の生え揃った大きな口が、ガバリと開いたまま私達の方に向かって急速に迫ってきた。恐ろしい早さでまるで隕石のようだった。怖じ気ついた私は思わず後ろに手を置いて尻餅を着いた。そのちょっとした動きが私の命を救ったらしい。辛うじて分かったのは、私の目と鼻の先で大きな口が閉じられたと言うことだった。そして更に遅れて気付く。十数歩先に立っていたはずの伯爵の上半身が噛み千切られたということに。

 

「う……うわぁ……」

 

私は思わず呻き声を漏らした。

閉じられた竜の口先の石畳の上に無造作に転がる伯爵の下半身の断面から、酷くグロテスクに赤黒い臓器が零れ出ていたからだった。

あまりに現実離れした光景にどこか一線を引いて冷静に見てしまっていたけれど、琥珀色の眼球に黒い縦線の瞳孔が刻まれた竜の片目にギロリと睨まれて、これが現実であることを強制的に自覚させられた。

もう片方の目は抉られたように凹んでいて眼球が存在しなかった。穴だった。“ああ私の胸の瞳は本当だったらあそこに収まる筈のものなんだな”と私は自ずと理解して、“この竜は酷く怒っている”と感じた。

分かった所でどうすることも出来やしないけれど。

竜が眼前で閉じていた口を大きく開けた。

 

ぎゃおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉっ!!

 

至近距離でド迫力の咆哮を浴びて身体中がビリビリ震えて、細胞の一つ一つまで自分が被食者で有ると想起させられた。

逃げなくちゃ。

本能が訴えた。

弱っちい少女のこの身体は、すっかり腰が抜けて怯えきって震えていた。でも私は自分に必死に鞭を打って生まれたての子鹿みたいにぷるぷると立ち上がり、振り返って駆け出した。

ひたすらに走った。

何度も転び掛けながらも転んだら死ぬと思って一生懸命に走った。

庭の間を全力で駆け抜ける。

自然と思い出したのは初めて屋敷を逃げ出したあの日のことだった。状況は似ている。だけど竜に追いかけられている事は大きく違う。追い付かれたら間違いなく食われてしまうのだ。絶対に追い付かれるわけには行かない。

庭から抜け出て、森の間の坂道を駆け下りる。

途中で雨が降ってきた。最初は汗かと思ったけれど、雨足はみるみる強まって気付けばざあざあ降りになった。突風が吹き荒れ、雷鳴さえもゴロゴロと鳴り響き始めた。

私は顔を横殴りの雨に打たれながら泣きたくなった。まるで自然の全てが私に牙を剥いているような気がした。

直ぐに街へと下りた。

昼と比べれば人は疎らで皆が露店のテント下や軒下に非難している中、私だけが血相を変えて懸命に走っていた。

やがて凄まじい地響きがした。

足を止めずに振り返れば、翼を広げた竜が街に降り立った所だった。大きな足が石畳にめり込んでいた。

 

ぎゃおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉっっ!!!!

 

竜が街に轟かせるように二度目の咆哮を上げる。

そしてさっきは屋敷に隠れて見えなかった長くて沢山の棘の生えた尻尾を、地面に這わせるように大きく振った。

すると街の端に整然と並んで建っていた木造の建築物が、轟音を立てて軒並み破壊されていった。種族としての格の違いを見せつけるように、呆気なく、破壊されていった。

更に飽き足らず竜は口から獄炎の炎を吐き出し、街を舐め回すように首を振って、そこら中にあった建物を片っ端から燃やし、一面を火の海に変えた。

地獄。

烈火の渦の中心にいる竜はまるで地獄から遣わされた使者のようだった。

流石に騒ぎを聞きつけて家々から人が飛び出してきた。

そして皆一様に街の惨状を目の当たりし、竜を見上げ、愕然とした。

格上の生物が放つ圧倒的威容に言葉を失っていた。

竜が咆哮を上げる。街が燃える。人々が悲鳴を上げて逃げ惑う。雷鳴が轟く。悍ましい地響きがする。

街はあっという間に混沌に陥る。

街に災厄を招いたのは、私。

息の切れた私は転がり込むように目に入った路地裏へと逃げ込んだ。

狭い暗い路地裏を形作る建物の石壁にもたれ掛かって必死に呼吸をしながら、ずるずると腰を下ろした。

荒く息を吐きながら、呆けた瞳で地面を見つめる。もう全部滅茶苦茶だ。

全て夢だったら良いのにと思うけれど、通りから路地裏に響いてくる途切れることの無い悲痛な叫びが、現実からの逃避を許してはくれない。

胸も痛い。

最初は空気が足りなくて肺が悲鳴を上げているのかと思ったが、どうやら痛いのはもっと外側。あの瞳の埋まった胸の辺りで、熱を持ったようにじくじくと疼いている。

全部この目ん玉のせいだ。

私は憎しみを持って爪を立てた右手を這わせるけれど全然掴めなくて、ひたすら肌を抉ることした出来ない。

取れないっ……取れないよぉっ……もうっ……何なのこれぇっ……。

きっと今のこの街では泣き言を言うことさえ贅沢だった。

目の前に建っていた筈の建物が竜の足で踏み潰された。

凄まじい風圧に髪を煽られ、飛んできた木の欠片に顔を切り刻まれながら自覚する。

竜の前では隠れていても意味が無い。

私を殺そうとどこまでも追いかけてくる。

私は慌てて立ち上がり再び逃走した。

ただ街を走った。

意味は無いかも知れないけれど路地をいっぱい曲がって身を隠すように走った。

竜の足が追いかけてきて沢山の建物が下敷きになっていくけれど、気にしている余裕は無かった。

教会を中心に円状に広がっている街を弧を描くようにずっと走った。

死に物狂いで走り続けた。

でもそのうち頭の中の隅っこの冷静な自分が思い始めた。

なんで逃げなきゃいけないのか、と。

だってもう家族には会えそうに無い。

故郷の村への帰り方も分からず、それどころか皆貧困で飢え死んでいるかもしれなくて、おまけに私は竜に追われていて、正直逃げ切れそうにない。

未来が閉ざされている事が分かっているのに、今この瞬間を必死に生き延びようとする意味が果たしてあるのだろうか。

もう諦めたって構わないじゃ無いか。

血を送りすぎて爆発しかけている心臓の痛みも、焼けそうな胸の痛みも、刺すような靴擦れの痛みも、それを肯定していた。

最初は植物の芽みたいにちっぽけだった筈の破滅的願望はどんどんと大きくなって、蝋みたいに心から溶け出して下半身に纏わり付いて、重たくなって、気付けば私は、道の往来で、完全に足を止めていた。家屋の燃える炎の光を背に浴びて自分の足下からべったり伸びる黒くて濃い影を見て、何かへの強烈な敗北感を感じた。それが嫌で振り返った。炎が爆ぜる音と悲鳴が響き渡る烈火の街を、竜は我が物顔で、建物を踏み潰しながら、のっそのっそと歩いていた。

向かう先はやっぱり私。

もうすぐ死が辿り着く。

地獄と化した獄炎の街を緩やかに歩く竜を見つめながら“早く来て欲しい”と思った。

死への覚悟が揺らぐ前に早く来て欲しかった。

――だけど。そんな細やかな願いさえも私は叶わないらしい。

後ろから突然、腕を掴まれた。

驚いて振り返ると、眉の細い一見して気の良さそうな若い男が私の腕を掴んでいた。

忘れるはずも無い。いつかの日に私を攫おうとしたお兄さんだ。

 

「おっ。久しぶりっすね~」

 

もはや素性を隠そうともしない邪悪な笑みを浮かべて言った。

視線をずらせばお兄さんの背後には私に背を向けた馬車が止まっていて、黒い箱形のワゴンの開いた搬入口から、沢山の子供達が膝を抱えて座っているのが目に入った。皆首輪を嵌められていて、更にその首輪は荷台の内壁に鎖で繋がれているようで、自力では逃げられないようになっていた。

 

「なあガス。こいつも連れて行こうぜ!」

 

子供が脱走しないように見張っているのか、荷台の傍に立っていた髭面の太めの男にお兄さんが振り返って喋り掛けた。

 

「おいおい。そいつの胸見てみろ。何だか気色悪いぞ」

「大丈夫だって。見ての通りこいつは顔が良い。身体を隠して売ればきっと貴族の馬鹿が買う。それでだめなら最悪娼館にぶち込めば良いのさ」

「まぁ、そうか。よしそいつで最後だ。あのヤベーのが来る前にとっととずらかるぞ」

「よしっ」

 

どうやら人攫いは火事場の騒ぎに乗じて、親と逸れた子供を軒並み攫ってきたようだった。そして最後の獲物が私。

私も、この人達も、運が悪い。

私はお兄さんに首輪を嵌められるのをどこか他人事のようにぼんやりと眺めていた。

 

「おいおい。前より随分大人しいじゃん。どしたぁ」

「お前の性奴隷にして欲しいんじゃねえのか?」

「はははっ。それ最っ高」

 

どうでもいい。

全部どうでもいいだけだ。

私はそうして“商品”として、馬車の箱にぶち込まれた。

 

 

 

カラカラ カラカラ

 ゴトゴト ゴトゴト

 

足場の悪い地面の上を通る車輪の音と振動で馬車が揺れる音が、ワゴンの中に響いていた。

集められていた子供達は妹ぐらいの幼い子から、私より少し年上くらいの子まで、年齢が幅広かった。

だけど皆同じように壁にもたれ掛かって力無く座っていて、その瞳に輝きは無く、誰もが呆然とした表情をしていた。

きっと皆これから辿る自分の未来がどこまでも暗い事を肌で感じているのだと思う。箱を満たす重苦しい空気もきっと皆から絶望が漏れ出ているせいだ。中にはどんな辛い目に遭うのか実際に想像できている子もいたかもしれない。私も奴隷として屋敷に買われたという先輩メイドから話を聞いていた。

私達はこれからどこかの街の貴族の館か路上か宿屋の一室か分からないけれど、ともかく奴隷市場に連れて行かれて、そこで“商品”として売りに出されて、買い手が着けばその人の所有物となり、売れ残れば男女問わず娼館や炭鉱に売られて性奴隷や労働奴隷を強制させられることになる。いずれにしたって家畜同然の扱いをされて碌な待遇は間違いなく望めない。

更に私の胸に埋め込まれた不気味な瞳は未だに疼きを発していて、今も尚、竜が私を追いかけてきている事を感覚的に知らせていた。

それを思うと私には、私達子供を沢山詰んで運んでいくこの箱が“動く棺桶”のように思えた。

私達に救いなんて訪れない。

私はワゴンの壁にくったりと頭を預けて、箱を満たす淀んだ空気に溶け込むように身を任せて、死んだみたいに目を閉じた。

 

ガラガラ ガラガラ

 ゴロゴロ ゴロゴロ

ゴトゴト ゴトゴト

 グラグラ グラグラ

 

――当然だけれど、全然眠れない。

沢山走った後の疲労感が頭を重たくしていたから少しだけ期待していたけれど、壁から頭が少しだけ浮いては叩きつけられてを繰り返すし、絶え間なく音が入ってきて鼓膜が揺らされるしで、駄目だった。それでも辛抱強く目を閉じて、いずれ眠りの世界に落ちることをを期待していたけれど、願えば願うほどに生々しく意識が覚醒してうんざりした。

特に気になったのは、隣に座る男の子の泣き声だった。

 

「おとうさん……おかあさん……こわいよぉ……たすけてよぉ……」

 

金髪で癖毛の幼気な顔つきの男の子が、声変わり前のか細い声でずっと泣いていた。

きっと普段だったらば私は、彼に弟の輪郭を重ねて優しく出来ていたと思う。

だけど今は、酷く苛立ちを感じた。

その無神経さに腹が立った。

彼は無垢な心で希望を捨てずに必死に両親に助けを求めていた。だけどその身勝手な言葉は、残酷な現実の救いの無さを際立たせるばかりで、折角絶望を受け入れ始めている私の心を悪戯に刺激していた。

辛いからって、感情に身を任せて意味の無いことを言わないで欲しい。

聞いてるこっちが悲しくなる。

 

「君は言いたいことが言えて良いね」

 

気付けば口に出していた。

急に喋った私に驚いた男の子が、涙目でこっちを見た。私も冷えた目で見つめ返す。

 

「お父さんもお母さんも助けに来ないよ」

「なんでぇ……なんでそんなこというのぉ……」

「それが現実だから」

 

私の冷たい言葉は男の子の柔らかな心を傷つけたらしい。

男の子は大きな目からぼろぼろと涙を零し始めた。

 

「そんなのいやだぁぁぁっ……!! ぜったいやだぁぁぁぁっっ……!!」

「幾ら泣いたってしょうがないよ」

「やだやだやだぁぁぁ!! くるのぉっ!! おとうさんもおかあさんもっ! ぜったいたすけにくるのぉぉっっ!!」

「絶対来ないよ。私も君もこのまま奴隷になるんだよ」 

「やあああああだあああああぁぁぁぁっっ!!!」

 

男の子は感情を爆発させて大泣きし始めた。その泣き声はワゴン中に響き渡った。とにかくわんわん泣いて、響く声は鼓膜をつんざく程に大きくて、御者をしていた人攫いの耳にも直ぐに届いたらしい。

ワゴンの前側面に付いた小窓がぱかりと開いて、

 

「うるせえ! 今すぐ黙らないとぶっ殺すぞ!!」

 

と荒々しい怒鳴り声が飛んできた。

その声が怖かったのか、男の子は更に泣いた。

私は流石に居たたまれない気持ちになって辺りを見渡した。すると私と同じくらいの年頃の膝を抱えた女の子と目が合って、“よくやった”と言わんばかりに卑屈な笑みを送られて、強烈な気持ちの悪さを覚えた。

男の子は少し経って泣き止んだ。

ぐっと口を閉じて、外に出せない悲しみをこっそり漏らすように、ぐすぐすと鼻を鳴らしてしゃくり上げていた。

私も床を見つめて、ずっと黙っていた。

自己嫌悪を感じていた。

確かに胸がすく思いはしたけれど、それ以上に年端も行かない男の子を泣かして良い気になっている自分を凄く嫌な奴だと思った。正論だろうと誰かを傷つけて良い理由にはならないし、私がしたことはただの八つ当たりだ。

男の子に謝りたいと思った。

だけど気まずくて口を開くことが出来なかった。

私はやっぱり床を見つめ続ける。

でも――こんな情けない私に歩み寄ってくれたのは、意外にも男の子の方からだった。

 

「ねえ。さっき言ってたことってほんと?」

 

涙で赤く腫らした目で私を上目遣いに見つめて男の子が聞いてきた。

私は今だと思って、謝る。

 

「さっきは言い過ぎた。ごめんね」

「いいよ。それよりも、さっき言ってたことってほんと?」

 

男の子は私の振る舞いを全然気にしていない様子であっさりと許し、それよりもっと重要なことだとばかりに繰り返し訊いてきた。

私は胸が締め付けられる思いがした。

男の子は私の悲観的な言葉のせいで自らの言葉に疑念を抱いていた。希望を疑ってしまっていた。男の子の純真無垢な心を汚してしまった気がして私は酷い罪悪感を感じた。

それに耐えきれなくなってつい言葉を漏らした。

 

「ごめん。さっきのは嘘だよ」

 

言ってから“何を馬鹿なことを”と思った。

けれど私の言葉を聞いた男の子の、真ん丸に開いた期待の籠もった眼差しを受けて、口を閉じることは出来なかった。

 

「きっとお母さんもお父さんも今頃必死に君のことを探していると思う」

「ほんとに!?」

「うん。そのうち馬車に追い付いてくると思う」

「そうなんだ!?」

 

そんなわけない。

ロップルの街を抜け出してもう随分と長い時間、どこかの森の中を駆け抜けているらしいこの馬車を、後から追いかけてくるなんて無理だ。

 

「まあそうじゃなくても、目的地のビコの街で先回りして待ってると思う」

「ほんとぉ!?」

「うん。多分」

 

知らない。

この馬車の目的地なんて知らない。

ビコの街なんてロップルの露店の商人が適当に口にしていた言葉だ。

 

「だから君も諦めちゃ駄目だよ」

「分かった! 諦めない!」

「絶対に、救われるからね」

「うん!」

 

男の子の輝く瞳を見つめながら白々しく言っていた。

救いなんて微塵も信じちゃいないのに、軽々と口にしていた。全ては目の前の男の子に希望を信じ込ませたいからで、私はそれで勝手に許された気になった。希望は尊いという馬鹿みたいな考え方を今だけは都合良く信じて、この男の子に希望を持たせたのだから、傷つけた私は許してもらえるよねって、神様に下品に媚びた。

最低だ。

 

「お姉さん!」

「うん?」

「ありがとう!」

 

最低だから――ちゃんと罰が当たる。

 

ひひーーーーんっっ!!!

 

突然けたたましい馬の嘶きが聞こえて馬車が止まった。私達は前方に身体を引っ張られるけれど、鎖の張った首輪に無理矢理押しとどめられて、皆痛そうに顔をしかめた。

 

「くそぉ! 火だぁ!! 気をつけろ!!」

 

人攫いの男達が騒ぐ声が聞こえて、私はとうとうこの時が来たと思った。

竜が、追い付いてきたのだ。

私は怖かったけれど、それ以上にこの箱に詰められている他の子供達に申し訳ないと思った。竜が私を食べようとすれば、その大きすぎる口のせいで、罪の無い皆も一緒に食べられてしまうことになる。

私は一人で死ぬことすら許されない。

私は隣で頭を抱えて震える男の子を見て心の中で謝った。

 

「やめろっ! やめろぉっ! うわあああああああぁぁぁぁぁっっっ!!」

 

男達の壮絶な悲鳴が聞こえて、途中でぷつんと糸が切れたみたいに途切れた。ひとまず先に竜に食べられてしまったのかも知れない。とすれば次は私だ。

状況が分からずに必死に耳をすませてそわそわしている皆を横目に私は膝を抱えてじっとその時を待った。

そして直ぐにその決定的瞬間は――意外な形で――訪れた。

 

バゴォンッ!

 

錠で固く閉ざされていた筈の搬入扉が突然外側に勢いよく開いた。

私は目を瞬かせた。

外には燃えさかる炎を背にして全身に黒いローブを纏った背の高い一人の人間が立っていた。

性別は分からなかった。

青みがかった黒髪は男性のように短いけれど、艶のある褐色の肌や、切れ長の蒼い瞳や、真っ直ぐに通った鼻筋や、儚げな薄い唇や、髭の無い美しい曲線を帯びた顎を持つその顔は、美人と呼ぶに相応しく、身体を覆うゆったりとしたローブが全身の線を隠していて、性の判別が付かなかった。

 

「いま助けてやる」

 

しゃがれた声でそう呼びかけた。

不思議と聞く者の心を落ち着かせてくれる低くて耳心地の良い響きがあった。

私はこの人は男性だと何となく思った。

男は蒼い瞳で真っ直ぐ私達を見据えると、ローブに隠れていた右腕を持ち上げて手の平を見せるようにこちらに掲げた。そして何かを掴むようにゆっくりと閉じていき、やがてぎゅっと力強く握り締めた。

瞬間、

 

パリッ

 

と小気味良い音が首元から鳴った。驚いて下を見れば、半弧状の鉄片が床へと落ちて転がるところだった。首に違和感があって、もしかしてと思って触れてみれば、首輪が真っ二つに折れて外れていた。

私は驚きで目を見開いた。

辺りを見渡せば、皆も自分に身に起こったことに驚いている様子だった。

男は右腕をそのまま横にずらして一方向を指で指し示した。

 

「あそこから逃げられる。みんなで青い蝶を追いかけて街に行きなさい」

 

男の言っている言葉の意味を直ぐには呑み込めなかった。だけど少し遅れて、助かる道を示してくれている事に気付いた。皆もそれは同じだったみたいで我先にと立ち上がってワゴンから外へと飛び出して、男の指が指し示す方向へと駆け出していった。

最後は私だった。

だけど私は外に降り立ったまま走り出すことはせず、その場で周りを見渡した。

予想通り今立っているこの場所は両脇を森に挟まれたどこかの道の往来だった。いつの間にか夜が明けていたらしく、太陽の光を遮るように辺りには白い霧が立ちこめていて、なにより馬車を中心にして炎が大きな円を描くようにメラメラと燃え盛ってぐるりと周囲を取り囲んでいた。

竜の姿は見えなかった。

食べられたと思っていた人攫いの二人は、落ち着かない馬の隣で黒焦げになって土の上に倒れていた。

 

「竜は……?」

 

私は思わず呟いていた。

独り言と問いかけの間の中途半端な声量だったけれど、傍に立っていた男は走り去っていく子供達を見つめながら親切にも答えてくれた。

 

「ここは見ての通り霧が濃いからね。竜も獣もみんな迷子になってしまうのさ」

 

男の言葉が本当か冗談かは分からない。だけど胸はしつこく疼いていて未だに竜が私を追い求めていることだけは確かだった。

男はもう腕を下げていて、視線を遠くへと向けていた。私も何となくその視線を追った。

輪を描く炎の一部が途切れていて、その空隙に向かって走り去って行く子供達の後ろ姿が見えた。

その中の一人が急に立ち止まって、振り返った。

金髪の背の低い少年。

さっきまで隣で喋っていた男の子だった。

 

「お姉さんも早くおいでよぉ~~!!」

 

男の子は自分の現在地を示すように天に掲げた片手をふりふりしながら、大声で私に呼びかけた。

 

「分かったぁ~。すぐ行くぅ~!」

 

私は筒状にした両手を口に添えて大きな声で返した。私の返答を聞くと男の子は満足そうに笑ってまた後ろを振り返り、ウキウキとした足取りで皆の後を追いかけて行った。

 

(あぁ……良いなぁ……)

 

私は遠くなる背中を見つめながら心の中で呟いた。

心底羨ましいと思った。

あの子は、希望を持ったまま救われたのだ。

これからも希望を信じることが出来るのだ。

私とは――違うのだ。

 

「行かなくて良いのかい?」

 

隣で立つ男が柔らかな声色で尋ねてきた。

 

「はい」

「どうして?」

「帰れる場所なんてどこにも無いので」

 

竜を引き連れて行ける場所なんて有るわけが無い。

男は、私の返答に興味を持ったらしい。

初めて私に視線を向けた。

私も黙って見つめ返す。

美しい青い瞳が私の顔を静かに観察する。

 

「君、随分と悲しい目をしているね」

「……」

「僕の小さい頃によく似ている」

 

そう言って男は嬉しそうに口元を緩めた。

 

「どうだろう。もし行く当てが無いのなら、ウチに来るというのは」

 

意外な提案に私は目を丸くした。

 

「ウチ……ですか」

「そう。ここから近いんだけど無駄に大きくてね。僕一人だとすっかり持て余してしまうんだ。部屋も沢山余っているし――どうかな?」

 

蒼い瞳でじっと私を見据える男は紳士的な穏やかな口調で言った。

私は“またこれか”と思った。

また、救いの手が差し伸べられた。

だけど私は知っている。それが見せかけだけの偽物で、甘言にうっかり釣られて手を取ってしまえば最後、必ず絶望が待ち受けているということに。

私はもう馬鹿じゃ無い。

馬鹿のままでいるには些か騙されすぎた。

だから私はその手を振り払う。

 

「すみません。お断りさせていただきます」

「えっ。ど、どうしてだい?」

 

まさか断られるとは思っていなかったらしい、今まで余裕を見せていた男が、蒼い目を見開いて初めて動揺を見せた。

 

「……特に理由は無いですけど」

「……そうか。……でも、それならこの後はどうするの? 街に戻るのかい?」

「森を適当に歩きます」

「そんなの危険過ぎる!」

「霧だから大丈夫です」

「全然大丈夫じゃ無いよ! 良いかい? 霧は視界が利かないだけで臭いは消えないんだ。だからきっと獣たちに臭いを嗅ぎつけられて一晩と立たず襲われてしまう」

 

男は形の良い細い眉を下げて心配そうな表情で私を諭した。一見して、親身に私の身を案じてくれている親切で優しい人に見える。だけど絶対嘘だ。内心、私が罠に掛かるのを今か今かと待ち構えている事だろう。残念ながらその手には乗らない。

私はこの男に早々に見切りを付けて、早くこの場を立ち去ってしまおうと考えた。

こんな展開になるなら私も皆と一緒に炎の輪から抜け出しておけば良かったと、後悔さえした。

そうして男に背を向けた。

でもその時――ひらめきが起こった。

恐ろしいひらめきだった。

でも魅力的だった。

 

“この男を道連れにしよう”

 

そう思ったのだ。

つまり、どうせこのまま竜に食べられて死んでしまうのであれば、最後にこの悪人を巻き込んでちょっとでも気分を晴らしてやろう――そういう魂胆だった。

その思いつきは私の短い人生の中で最も邪悪な思いつきだったけど、最も冴えた思いつきでもあった。

せめて死ぬときくらいは私を傷つけようとした悪人に一矢報いてやる――。

思えば思うほどかっこよくてイかしてると思った。

私は何かとても重要な使命を帯びた気になって、後ろを振り返り、男を上目遣いに見上げた。

 

「やっぱりお世話になっても良いですか」

 

急な気の変わり様を怪しまれたらどうしようと思ったけれど、男は小さな鼻腔を膨らませて嬉しそうに口角を吊り上げた。

 

「もちろん良いとも!」

「ありがとうございます」

「よぉし、そうと決まれば早速行こう!」

 

上機嫌に声を弾ませた男が早速歩き出したので私も後に続いた。

途中、炎に向かって躊躇無く突き進んでいくのでどうするのかと不安になったが、心配は不要だった。

男は右手を天に向かって掲げ、長くてしなやかな中指と親指を重ね合わせて“パチンッ”と一度小気味良く鳴らした。するとさっきまで轟々と燃えていた炎が嘘みたいに一瞬で消えてしまった。

私は思わず息を呑んだ。

いつの間にか紐を外されて自由を手にしていた馬が喜んで森へと駆け抜けていく。

私はこの男の不思議な力に気圧されながらも、気持ちは揺らがなかった。

――絶対一緒に死んでやる。

ローブに包まれた背中を見ながら、そう決意を固めた。

 

 

 

 

それは巨大な円筒状の建物だった。

外壁は赤茶色の煉瓦で隙間無く頑丈に覆われていて、時々窓らしき透明な四角い枠が埋め込まれていた。更に根元は鳥が誤って車輪を呑み込んだみたいに膨らんでいて、大人二人分くらいの縦幅の出っ張りが円筒をぐるりと囲むように円状に形成されていた。

それは家と呼ぶにはあまりに奇妙な外観で、森の中にあるにはあまりに異質で、只の人工物とするにはあまりに立派な存在感を放っていた。

でも家じゃ無いとして、じゃあ何かと考えてみれば、見事に何も思いつかなかった。

かなり無理をして“地面から生えた煙突”くらいだった。辺りの霧は実は霧では無く煙で、この煙突が吐き出した煙が森を満たして視界を白く染め上げている――そんなわけが無い。

見たことも聞いたことも無い建物。

だから多分“家”だった。

男は木製の大きな玄関扉のドアノブを掴むと、顔だけ傾けて肩越しに私を振り返った。

 

「我が家へようこそ」

 

そう笑いかけてから扉を押し開いて、私を中へと招き入れた。

建物の中へと足を踏み入れる。

そして立ち止まり。

私はぱちぱちと目を瞬かせた。

予想通り奥の空間は円状に広がっていた。

ただ、アーチを描く内壁に沿って、巨大な本棚が隙間無く配置されていた。私の立ち位置からは廊下の天井が邪魔をして途中で見えなくなるけれど、とにかく見上げるほどに大きな本棚が曲線を描いて空間を囲んでいて、圧倒的な威容を放っていた。

更に本棚に囲まれた空間の中央の床上には、私の身長と同じくらいの高さにまで本が乱雑に山積みになっていて、それが恐らくは吹き抜けになっている円筒の天井の窓から差し込むカーテンのような光を受けて、淡く輝き、幻想的な雰囲気を醸し出していた。

私はその不思議で美しい光景に見とれていた。

でも暫く見つめているとふと違和感に気付いた。

山積みになった本の上の空間が歪んでいた。

小石を投げ込んだときの揺れる水面みたいに、本の山の上の丸く切り取られた一部の空間が波打っていた。手の平サイズくらいの小さな歪みで、その空間の一点を通じて向かいにある本棚を見ようとすると明らかにぐにゃんと形が崩れて見えた。

そんな現象には今まで出会ったことが無かった。

私は正体を見極めるために目を凝らしてじっと歪みを見つめていたけれど、途中で“へっ!?”と間抜けな声を漏らしてしまった。

歪んだ空間から本が生まれ落ちたのだ。

無造作に落下した本は山の一部になった。

私は驚いて隣で一部始終を見ていた筈の男の顔を見上げた。

 

「今のは何ですか?」

 

私を見下ろした男は優雅な微笑を浮かべて言った。

 

「偉大なる賢人の仕業さ」

「賢人……?」

 

男は私の疑問には答えずに円状の空間へとゆっくり歩いて行き、本の山の手前で立ち止まって振り返り、全身に光を浴びながら私を手招いた。私は呼ばれるままに男の元へと歩み寄った。

 

「見てごらん」

 

男が上を見上げながら指さしたので、私も上を見上げた。

思わず目を見開いた。

曲線を描いた本棚は遙か上まで続いていて、その本棚に沿って渦を巻く螺旋階段が延々にどこまでも伸びていた。

終わりの見えないその光景はとても壮大で、自分が如何にちっぽけな存在であるかを思い知らされる気がした。

 

「良い眺めだろ」

「はい……」

 

私の視線は螺旋に吸い込まれて暫くは目を離すことが出来なかった。

でもやがて首が疲れてきたので止むなく“こくっ”と首を下げた。

 

「ここは見ての通り沢山の本が保管してある」

 

男はそう言って背後の本の群れに視線を遣った。

 

「まあ、棚から逃げ出してる奴も大勢いるけどね」

「ここにある本もこの棚のどこかに収まるんですか?」

「うん、そうだよ」

 

そして男は私を見た。

 

「君が片すことになる」

 

私は自分が驚いた表情をしていなかったか、心配した。

男の不興を買って追い出されでもしたら目的が果たせなくなる。

幸い、無表情を貫けたらしい。

 

「まあ、詳しい話は明日だ」

 

 

 

 

 

それから「我が家を紹介しよう」と言った男に連れられて円状の廊下を歩き、様々な部屋を案内して貰った。大きな竈と質素な木製のテーブルが置かれた『食事室』、赤色や緑色の果実が漬けられた沢山の瓶や酒瓶や塩漬けの肉が保管されている『食料庫』、物書きの仕事をしている男が主に籠もっているという大きなテーブルと本棚が置かれた『書斎』、信じられないくらいに散らかった書物で床を覆い尽くされている『男の部屋』、そしてベッドや棚が置かれた私のための『空き部屋』。

そうして長い廊下を一周して元の円筒の本棚の空間へと戻ってきた。

 

「紹介するものはこれで全部かな……」

 

男は言いながら顎に手を当てて暫し考える仕草をした後、私をその蒼い瞳で見つめた。

 

「何か気になる事はあったかい?」

 

私はずっと疑問に思っていた事を口にした。

 

「あの、名前は何ですか?」

「ぷふっ」

 

男は噴き出して、

 

「ふはぁっふははっふははははははははっっっ」

 

白い歯を覗かせながら腹を抱えるように笑った。

 

「そうだったそうだった。自己紹介がまだだったね。ごめんごめんっ」

 

男はあまりに基本的なことを忘れていた事実が相当可笑しかったようで、しばらく一人で笑っていた。

それから“ふーっふーっ”と息を吐き出しながらもようやく落ち着いたみたいで、あらためて口を開いた。

 

「えぇと。僕の名前はイリアス・オートル。こう見えてもハーフエルフだ」

「ハーフエルフ……?」

 

聞き慣れない単語が出てきて私は思わず聞き返した。訊いてしまった後で、“もしも高貴な役職とかだったら失礼だったかもしれない”と不安が頭によぎったが、男は気を悪くした様子も無く気軽に答えてくれた。

 

「ハーフエルフというのはエルフという種族と人間の血が半分ずつ流れている者という意味さ」

「エルフというのは、どういう人ですか?」

「エルフは人では無く妖精なんだ。森に棲んでいて、耳が長くて、歌が大好き」

 

それを聞いたとき、過去の記憶が一瞬にして蘇った。幼い頃にお父さんが話してくれたお伽噺に、そんな特徴を持った種族がよく登場したのだ。当時はこの世界に人間以外にも言葉を話す種族が居ることに胸を高鳴らせていたけれど……。

そっか、あれがエルフだったんだ。

記憶と現実の思いもよらぬ結びつきに私はちょっと興奮した。それで、別に大して意味の無いことも勢いで訊いていた。

 

「イリアス様も歌がお好きなんですか?」

「呼び捨てで良いよ。ここでは僕と君は対等だ」

「――イリアスは」

 

微笑みを浮かべた男は冗談めかして肩をすくめた。

 

「歌は好きじゃ無い。お聞きの通り声が砂みたいにざらついていてね。この低さに荒さだとエルフの唄はほとんど歌えないんだ」

 

男は続けて言う。

 

「エルフっぽい特徴があるとすれば、寿命が長い事と魔術が使える事くらいかな」

 

その言葉でピンときた。

ここに来るまでに披露された、首に繋がれた鎖を破壊したり、火を一瞬で消したりした不思議な力の正体は魔術だったのだ。

 

「さて。僕の話はここまでにして――君の名前は何て言うのかな?」

「アリス・リバムです」

「“理知的な花”か……カッコいいね……」

「人間です」

「くふっっ」

 

男は折り曲げた人差し指を口元に添えて、再び噴き出すように笑った。

 

「そうだねっ。教えてくれてありがとうっ」

 

何か可笑しいことを言ったつもりは無かったけれど、男は何だか愉快そうに目を細めていた。

それで、お互いの自己紹介は終わった。

 

「うん。これで話すべき事はいよいよ本当に無くなったね」

 

男は確かめる様にそう言ったけど、何かを伝え忘れた気配を感じるのか、遠くの壁を見つめて物を考えていた。私は手持ち無沙汰になって、足下に視線を落とし、床に埋め込まれた石畳を意味も無く見つめた。

ずっと、石畳の溝を目で追っていた。

じいーっと……。

じいーーーっと……。

すると突然――乱入者が現れた。

視界の右から白くてデカくて細い何かがずるずると床を這って現れたのである。

私は“わぁっ!?”と声を漏らして後ずさりし、そのまま尻餅を着いた。

男は弾かれたように私に顔を向け、次いで床を這う白い何かに気付き、“ああ~お前かぁ”と納得したように声を漏らすと、私に右手を差し伸べた。

 

「大丈夫かい?」

 

私は右手を伸ばしてその手を掴むと立ち上がった。

 

「ありがとう、ございます……」

 

感謝の言葉の歯切れが悪いのは、その得体の知れない白くて太いにょろにょろが男の身体に巻き付きながら昇っていたからである。

私はまじまじと見つめる。

男のローブに巻き付いていく、私の脚より二回りくらい太いにょろにょろの先っぽの頭部らしき流線型の部位には、黒いつぶらな瞳があったし、胴体は鱗が全く見当たらないすべすべの質感で、尻尾は蛇みたいに細くなっていた。

やがて男の首元からひょこりと顔を出した。

 

「こいつはニョモ。僕の助手だ」

 

ニョモと呼ばれたにょろにょろは私の顔をじっと見た。閉じられた口元の線が笑っているみたいに見えて、ちょっと可愛い。

 

「悪い奴じゃ無い。仲良くしてやってくれ」

 

私は少し緊張していたから返事の代わりにこくりと頷いた。

 

「挨拶はこうだ」

 

そう言って男は左手を持ち上げて、首の右から顔を出しているニョモの口元にゆっくり近づけて、人差し指の背を触れさせた。ニョモは口の隙間から赤い舌がチロっと覗かせて指を舐めた。

男は手を下ろすと、私に促すように笑いかけた。

私はまた小さく頷くと、内側に僅かに曲げた右手の人差し指の背をニョモの口元にそおっと近づけてみた。

やっぱり赤い舌をチロっと出して、私の指も舐めてくれた。

 

 

 

 

 

 

――もちろん、私がここへ来る前にした決意は未だに揺らぐことは無かった。

男に建物内を案内して貰っている間、私は未だやってこない意外とのんびり屋な竜に思いを馳せながら、もしもその時が来たらこの男を絶対に道連れにしてやろうと思い続けていたし、この男の外面の善人性を疑い続けていた。

だから、男が私の着ているボロボロの土まみれの胸元の開いたメイド服をあらためて見下ろして

 

「水浴びをしにいこう」

 

と誘ってきたとき、私は“とうとう尻尾を出したな”と思った。

人前で裸にされることは、私にとっては暴力の前座だ。

 

 

 

水浴びに利用する川は建物の近くに流れているらしい。着替え用の白色と黒色の二着の衣服を脇に抱えた男の背中を追いかけて、霧の立ちこめる森の中を歩いている間、私はこれから自分の身に降り掛かるであろう暴力を想像していた。

殴られたり蹴られたりするのだろうか。伯爵みたいに思い切り拳を振り下ろされたり勢いよく蹴り飛ばされて、骨を砕かれ関節をへし折られ内臓を歪ませられたりするのだろうか。あの一発が近づく度に急速に差し迫る緊張感を伴った恐怖とそれが弾けるような強烈な鋭い痛みは、想像しただけで身体が震えるくらい嫌だ。

救いがあるとすれば、私の傷が治る体質がまだバレていないという事だろう。この男が暴力を楽しむ残虐性を持っていなければ多少はマシな痛みに落ち着くかも知れない。

あるいは、この男が私の身体に欲情する異常な性倒錯者の可能性もある。その気になれば、私の小さな身体は、男の大きな身体に呆気なく押さえ込まれて、為す術無く犯されてしまうのだろう。伯爵が私を内側から壊すと言って、股に反り立つソレを私の中に沈めて腰を振ってきた事があったけれど、内臓を掻き回されている悍ましさと痛みと気持ち悪さは吐き気がする程最悪だった。邪悪な好奇心を働かせた公子に私の膣が何本の蝋燭を咥えられるか、実際に秘部の穴に突っ込まれて確かめられたこともある。その時の公子の卑猥な笑みと剥き出しの下半身を無遠慮に弄られる惨めさや恥ずかしさや屈辱は、今でも鮮明に思い出せる。

いずれにしたって、外側に与えられる暴力より内側に与えられる暴力の方が私の何かが壊れる音が大きくて辛かった。だから望めるならば殴ったり蹴ったりして欲しい。

当然、どっちも嫌だけど。

歩き続けていると途中から水の流れる音が聞こえ初め、やがて渓谷を横切る美しい川が現れた。

 

「ここが僕の秘密のスポットだ」

 

それは幻想的な景色だった。

淡い霧に包まれて先の見通せない森の奥から、苔むした石を避けるように蛇のようにうねって流れてくる、透き通った水の帯。それはまるで現世と幽世を分断する川のようで、その荘厳さに鳥肌が立った。

男が白くて丸い石の敷き詰められた河原を目指して歩を進めながら、ちょくちょく肩越しに振り返って説明する。

 

「凄いだろうっ! 人の居ない山奥から流れてきているから水が澄んでいてとっても綺麗なんだっ!」

 

男はまるでお気に入りの物を自慢する子供みたいに無邪気に声を弾ませて得意げに言う。

 

「ただ熊や猪も訪れる場所でね。君はまだ彼らに認められていないだろうから、一人で来ては駄目だ」

 

わざわざそれらしい忠告をしてくれる。本当は一緒に水浴び場に訪れた不自然さを誤魔化すための言い訳なくせに。

やがて川を眺めるように河原の川縁に男と並んで立った。

男は足下に畳んだ着替えを置くと、気持ちよさそうに両腕を広げて深呼吸をした。

私はここまで従順な奴隷のような気持ちで後に付いてきていたので、男の真似をしなければいけない使命感に無性に駆られて、同じように腕を広げて深呼吸をした。

清らかな川の空気は喉をひんやりと撫でて肺を心地良く満たし、この瞬間だけは私の内側が綺麗になった気がした。

どうせすぐに穢れる。

自分の真似をしている私を見て微笑ましく思ったのか、男が私に笑いかけた。

その美麗な笑顔が、私には、服を脱げという命令のように思えた。

勿論分かっている。

そんなのは虐げられることにすっかり慣れた私の心が見せている臆病な妄想だ。だけどどうせ脱ぐのであれば、命令されるより自分から脱いだ方が惨めじゃ無い。

だから私はメイド服を掴んで、河原の上にあっさりと脱ぎ捨てて、呆気なく全裸になった。

ふと隣を見れば、男もまた全身を包むローブに手を掛けているところだった。

お腹の奥の方がきゅっと冷たくなった。

服を脱ぐということは。

肌を露出させる必要があるということで――。

私は外れて欲しかった方の予想が現実になりそうな気配を感じてぞっとした。

私の視線に気付いた男が少し照れくさそうに笑った。

 

「僕もついでに水浴びしようと思ってね」

 

白々しい。

私を犯す準備をしている、の間違いだろう。

私は、冷めた目で男が服を脱ぐのを待った。

男はローブの背中を掴んで上へ引っ張った

もぞもぞと頭の方から脱いでいった。

そして足下から徐々に褐色の裸体が露わになっていき――私は目を見開いた。

男の股に生えている筈のソレが、無かったのである。

どれだけ瞬きをしても目を凝らしても、ソレが生えてくることは無く、ただ見覚えのある窪みがあるだけだった。

それじゃあまるで――。

困惑している間にも男はローブを脱ぎきってしまった。

すぐさま視線を上にずらした。

そこにあったのは、二つの豊かな胸の膨らみ。

私はいよいよ認めざるを得なかった。

――この人、女だったんだ……。

それは凄まじい衝撃だった。

なにせしゃがれた低い声や凜々しい顔や優雅な所作から完全に男だと信じ切っていたからである。

それがまさか、女だったなんて。

驚きで呆然とした私は無意識に胸を凝視していたらしい。

女は恥ずかしそうに笑った。

そして言った。

 

「醜いだろ? 私の身体」

 

言われて直ぐには何のことだか分からなかった。

この人が女であるという事実で頭がいっぱいだったから。

でもあらためて女の褐色の身体を眺めてみれば、何故気付かなかったのか不思議なほどに、派手な傷跡が沢山残っていた。

それは赤い腫れで、肩から二の腕、横っ腹からおへそ、太ももから膝と広範囲に渡っていて、周囲の皮膚を引っ張って外縁に沢山の筋を生み出し、まるで赤く隆起した丘が褐色の滑らかな肌に幾つもべたりと張り付いているようだった。

私はその傷のあまりの痛々しさに言葉を失い、すぐに口を開くことが出来なかった。

 

「火傷でこんなになってしまったんだよねぇ」

 

女は深刻な空気を和らげるためか“ははっ酷いもんだ……”と自分の身体を見下ろしながら口の端を吊り上げて自嘲した。

私は居たたまれない気持ちになって咄嗟に言った。

 

「多分っ!」

「……え?」

「多分、私の方が、醜い、と思いますっ……」

 

言葉が途切れがちになったのは自分で言ってて哀しい気持ちになったからだった。

そうだ、醜いんだった私……。

私は胸に埋め込まれた竜の瞳を見下ろしながら思う。伯爵も言ってたなぁ、気持ち悪いって。

私が独りでに勝手に落ち込んでいると、女が近付いてきてしゃがみこみ、私の胸の瞳をまじまじと見つめた。

 

「恐らくは黒竜の中でもゴルゲール種の魔眼だね。とても綺麗だ」

 

私は気を遣われたのだと思い、そんなテキトーな言葉でご機嫌を取ろうとしてきた女の軽はずみな思考に腹が立った。

 

「綺麗なわけありません。こんなの気持ち悪いに決まってます」

「いいや。凄く美しいよ。まるで琥珀色の宝石みたいだ」

 

かなり信じ難いけれど、子供みたいな純粋な輝きを持つ蒼い瞳で私の胸を見つめながら言った女の言葉に、邪悪な他意は無さそうだった。

女は今度は私の目に視線を向けて微笑みながら言った。

 

「君の瞳も紅い宝石みたいで綺麗だね」

 

伯爵も似たようなことをよく言っていた。

けど伯爵の世辞とは違って女の言葉には不思議と不快感が無かった。

どうしてかは知らない。

 

 

 

 

 

 

建物には無事に帰り着いた。

あの後特に何かされることは無く、平穏に水浴びを終えて、女から渡された白麻の長袖の足首まで丈があるゆったりとしたワンピースを着て、真っ黒なワンピースを着た女の背中を追って、ここまで戻ってきた。

 

「すっかり太陽が落ちてしまったね」

 

樹木の枝に濡れたローブを干しながら(メイド服は燃やした)女が言った。

 

「お腹減ったかい?」

「少しだけ……」

 

嘘だ。

本当はお腹が気持ち悪くなるくらい空腹だ。思えば昨日の夜から今まで何も口にしていない。吐きそう。

女はそんな私に振り向き、ニヤリと笑って言った。

 

「丁度、昼食が出来ているタイミングだ」

 

――それから私は女に連れられて食事室に訪れた。

目を見張った。

テーブルの上には美味しそうな料理が並んでいた。

底の浅い木製の皿に載っている拳大のこんがり焼けたパン二つに、ボウル皿に入っている湯気立つポトフ、それに平らな広い皿に載った美しい赤身を晒すロース肉。

それらが二人分。

 

「おっ。随分と豪勢だねぇ。君がいるから皆張り切ったのかな?」

「いつの間に……」

 

言葉を零した私を見て、女は蒼い目を細めた。

 

「実は出掛ける前に食器達に魔術を施しておいたのさ」

 

そう得意げに言った女は悪戯が成功したことを喜ぶ無邪気な子供のように口角を吊り上げて笑った。

私は大きな竈のある台所に目を遣った。

すると銀製のナイフや、木製のお玉や、まな板や、赤茶色のヤカンや、鍋が、自分の手柄を主張するかのようにその場で飛び跳ねていた。

 

「彼らと、あとニョモが手伝ってくれた筈だ」

 

テーブルの下からニョモが長い身体を引き摺って這い出てくる。

私は暫し呆気にとられていた。

食器達がまるで生きているかのように振る舞っているのも変だし、この白いにょろにょろとした生き物が料理を手伝っている姿も全くイメージ出来ないしで、状況をとりあえず呑み込むのに時間が掛かった。

 

「それじゃあ、ご飯食べようか」

 

女が立ち尽くす私を尻目に料理の置かれたテーブルの前の椅子に座った。私も遅れて足を動かして、空いている椅子の背もたれに手を置いたけど、そこでぴたりと動きを止めた。

座って良いのだろうか。

そう思った。

――屋敷で過ごした記憶のせいだった。

屋敷に連れ戻されてからの私は、食事にありつける場所が自分の個室から夫人が食事を終えた後の食堂へと変わり、長テーブルの横の冷たい石畳の上に四つん這いになって、眼下に置かれた皿の上に乗る夫人の食べ残した残骸を、足を組んで座る夫人の視線を浴びながら犬のように顔を近づけて食べなければならなくなった。気に入らないメイドが惨めに下品に残骸を貪る姿を眺める事こそが、夫人の食後の新たな愉しみになったからだった。特に私の惨めさを際立たせるためだけに夫人は頻繁に別の適当なメイドを呼んで、残骸の上に跨がらせて、排尿や排便を命令した。先輩のメイドが下腹部に力を込めて息んだり長々と息を吐く微かな音や、皿を覆い隠すロングスカートの内側で尿がびちびち飛び散り便がみちみちひり出され、私の唯一のささやかな“ご馳走”が無情に汚されていく音を聞かされながらじっと待たされ、やがて開帳された汚物まみれの醜悪な残骸を喰らう時の屈辱は、鼻の腐る臭いと共に骨の随まで染み込んだ。その時覚え込まされた隷属心がいま瞬間的に蘇っていた。

この女の内に秘めた悪辣な心は、私が対等にテーブルで食事を摂ることを許さないかも知れない。

被虐に慣れ親しんだ心が僅かな可能性を誇大に増幅させて真実味を持たせ、私はこの女の気分を害さない為にはどうれば良いか迷い、身体を硬直させた。

 

「どうしたの? 座りなよ」

 

女が可笑しそうに笑いながら促したので、私はようやく安心して席に着くことが出来た。

目の前のボウル皿には、鮮やかな橙色の野菜や瑞々しい赤色の野菜や汁を吸ってくったりした緑野菜などの色とりどりな野菜がたっぷり含まれたポトフが、美味しそうに湯気を立てていた。

だけど私は騙されない。

この中に私を苦しめるための異物が混入していない保証はどこにも無い。

だってこの女は私を貶める事を企む悪人なのだから。

 

「ほらほらっ。食べて食べて~」

 

女は片手でポトフを指し示しながら笑顔で勧めてくる。

私が料理を味わって頬を緩める瞬間を見たがっている?

うそうそ。

私が早く毒を摂取して泡噴いて引っ繰り返る様を見たがっている。

自分が料理に口を付けようとしないのも、その為だろう。

 

(いいよ、騙されてあげる)

 

私はそう思って、ボウル皿の前に置かれていた木製のスプーンを手に取り、野菜とスープを口に運んだ。

その瞬間、温かくてまろやかな味が口いっぱいに広がった。毒独特の舌の上がピリピリ痺れるような感覚は無くて、代わりに滑らかな舌触りを感じた。割れた硝子の破片に口内を切り裂かれることも無くて、代わりに包み込むような優しい味わいを感じた。

――美味しかった。

 

「どうっ!? どうっ!?」

 

咀嚼する私を女は期待に満ちた蒼い瞳で見つめながら、少し身を乗り出して訊いてくる。興奮しているのか、その前のめりな姿勢に気品さは無くて無邪気な子供みたいだ。

私は口の中のものを一旦呑み込むと、仕方なく口を開いた。

 

「美味しいです、とても」

「でしょおっ!」

 

女は弾けるような笑みを見せながら嬉しそうに言った。

 

「ここの皆がつくる料理は絶品なんだよね~。特にニョモは僕と違って料理が上手くてさぁ! 僕の好みまで把握してるんだよ!?」

 

女が声を弾ませる。

ニョモは褒められていることが分かるのかテーブルの端から“にょんっ”と顔を出して、女を見つめた。女が平らなテーブルに乗っていた肉に視線を向ける。

 

「この熊もニョモが仕留めてきたんだもんね?」

 

チロチロ。

 

つぶらな瞳のニョモは肯定するように赤い舌を覗かせた。

自分がつくったわけでも無いのに自分事のように喜べる女の無垢さと、見るからに人畜無害なニョモが凶暴な熊を仕留めたという突飛さに、私は少々面食らった。

女は手元のナイフを掴むと美しい赤色を晒す熊肉に突き刺して、上品に自分の口元に運んだ。

 

「うんむうんむ……」

 

女は目を閉じて熊肉を味わい、そして嚥下した。

切れ長の蒼い瞳がぱちっと見開く。

 

「う~ん美味しい。絶妙な火加減と塩加減だ。流石ニョモくん。腕を上げたね」

 

チロチロ。

 

「そもそも腕無いねぇ」

 

チロチロ。

 

「ふふふっ」

 

目を細める女と舌を出し入れするニョモの間で繰り広げられる楽しげなやりとりを尻目に、私も熊肉をナイフで突き刺して口に運んだ。

私は目を見張った。

――本当に美味しかった。

濃厚な旨味が口に広がり、丁度良い塩味が更にそれを高めていた。村で食べた獣臭い熊肉とは全然違った。

私が一生懸命に咀嚼していると女とニョモが揃ってこっちを見た。女はニヤニヤと笑みを浮かべ、ニョモは何かを期待するようにチロチロ舌を覗かせた。

私はようやく呑み込むと、言った。

 

「美味しいです」

 

 

 

 

 

食事を終えた時に皿洗いを申し出ようと思ったけれど、その前に皿が独りでに浮いて、部屋の隅の水の溜められた桶に自ら入って、ジャブジャブ動いてあっという間に綺麗になってしまったので、私に出来ることは無かった。

この後について女に尋ねると“君が特にするべき事は無いかな”と言った。

魔術とかニョモとか色々訊きたいことがあった気がしたけど、眠気がもう限界で、私はよろよろと身体を動かして与えられた部屋へと戻り、ベッドの上に転がった。

凄まじい疲労感。

横になるのは随分と久しぶりな気がした。

身体は鉛のように重たくて四肢がシーツに沈み込んだ。

“ふぅ……”と大きく息を吐くと、重たい瞼を閉じた。

微睡む意識で女について考えた。

奴隷にされかけていた所を助けてくれた女。

醜い身体を綺麗だと言った女。

助手が褒められて嬉しそうにする女。

そうした一連の姿を見ていると女は如何にも善人そうに見えた。

だけど。

それはまだ。

本性を出していないというだけに過ぎない。

女は狡猾に自分の内なる邪悪さを隠している。

救いの手を差し伸べてくる人間に碌な奴が居ないことを私は知っている。

そうだ。

身を以て知っている。

誰もが自分の利己心を隠して小狡く振る舞っている。

それを隠すのが上手な奴と下手な奴がいるだけ。

誰かが言ってた。

あの女もだから絶対に悪い人だ。

油断しちゃ駄目だ。

見落とさないように。

疑い続けるんだ。

それでうっかり尻尾を見せたときにほくそ笑んでやるんだ。

“やっぱりね”って嗤ってやるんだ。

“見てろよ”ってニヤついてやるんだ。

それで一緒に竜に喰われてやるんだ。

竜は、まだ来ない。

のろのろしてないで早く来て欲しい。

――早く、殺して欲しい。

私はそう思いながら意識を手放した。

 

 

 

昼に寝たのに、翌日の朝までぐっすり眠った。

寝ぼけ眼で部屋から出ると丁度廊下を歩いていた女と鉢合わせた。

 

「やぁ、おはよう。よく眠れたみたいだね」

 

女は私に微笑みかけた。

 

「おはようございます」

「疲れは取れたかい?」

「はい」

「それは良かった。今日はビシバシ働いて貰うから覚悟しててね~?」

「分かりました」

「なーんてね。冗談冗談」

 

女は蒼い双眸を細めて楽しげに笑った。

 

「さて、朝ご飯出来てるから一緒に食べよう」

「はい」

 

私は女と朝ご飯を共にした。

 

――女はさっき冗談で済ませたけれど、私には冗談にはとても思えなかった。

今日こそは過酷な重労働が待っているのだと思った。

酷く痛めつけられるか辱められるか。

いずれにしても私を苦しめる仕打ちが与えれるのだと思った。

私を拾った理由が、はっきりすると思った。

だけどもそれは望ましい事でもあった。

何故ならばそれは女がとうとう本性を現すという事を意味したから。

だから私は緊張しながら、例の円状の本棚が並ぶ空間の中央に立って、女の言葉に集中していた。

 

「それじゃあ今日から君にやってもらうお仕事の説明をするね」

「はい、お願いします」

「ふふんっ。そんなに緊張しなくても良いよ。難しくない仕事の筈だからね」

 

微笑を浮かべる女の、油断を誘う言葉には興味が無い。

私が聞きたいのはその悍ましい内面が滲み出た汚らしい言葉だけ。

さっさとゲロ吐け。

見せろ吐瀉物。

 

「昨日もちょっと言ったけれど、君にはあの本の山を片付けて欲しいんだよね」

 

女が右の空間を見つめながら言った。

視線の先には私の目線の高さくらいにまで積み重なった本の山。頂の上の丸く歪んだ不思議な空間から本がまた一冊産み落とされた。

女が私に向き直る。

 

「片付け方は簡単で、本の背表紙に書かれた記号と数字を見て、本棚の元の位置に戻して欲しい」

 

女は足下に落ちていた適当な本を二冊拾い上げて“ほら、ここ”と言いながら私に背表紙を見せた。確かに背表紙の下の方に、今まで全く見たことの無い丸みを帯びた不思議な記号と3桁の数字が青白く刻まれていた。二冊とも違う記号と数字だった。

 

「数字の方はいわゆる10進法って奴だ。知ってる?」

「はい。父が教えてくれました」

「お~お父様は博識だねぇ」

「でも記号の方が分かりません」

「それは大丈夫」

 

女はにこりと笑って足下ににょろにょろ這ってきたニョモに視線を遣った。

 

「この子が42種類の記号を全部把握している。君はニョモに乗ってその記号の本が収められている本棚の位置まで移動し、数字を見ながら然るべき位置に本を戻して欲しい」

「乗るんですか、ニョモに……」

「うん、そうだよ」

 

平然と言う女の言葉を私は俄に信じられなかった。

ニョモは見たところ大きめの蛇と言ったところで、その丸みを帯びた長い背中に人が乗るのは無茶なように思えた。

だけど女はそうは感じていないらしい。

 

「ほら、乗ってみて」

 

といつの間にやら私の足下にやって来ていたニョモの背中と私を交互に見つめながら、愉快そうに促した。

私は困惑した。

その狭い背中に足を置いて、にょろにょろとした愛らしい生き物を踏み潰してしまうことを恐れた。まさかこれこそが、女が私を苦しめるために用意した仕打ちなのでは無いかと半ば本気で思った。

ニョモの滑らかな背中を見つめながら躊躇して固まっている私を見て、女は穏やかな声色で言った。

 

「大丈夫。ニョモは絶対に潰れない。ほらニョモの顔を見て」

 

そう言われて視線をずらすと、頭を浮かせたニョモがつぶらな瞳で私を見上げていた。

 

「“乗って良いよ”って言ってる」

 

とてもそうは思えなかった。

どちらかと言うと“乗らないでね”って言っている気がした。

だけどもこのままじゃ埒が明かない事も分かっていた。

 

「さぁさぁ」

 

女が楽しげに煽る。

ニョモが私を見上げる。

逃げ場は無かった。

これこそが女の残虐性なのだ。自分の手すら汚さずに少しでも愛着を感じさせた生き物を、相手の自らの足で踏み潰させて苦しむ姿を愉しむという、なんて極悪非道で悪辣な――まるで言い訳を並べるみたいに心の中で女の事を散々罵った後で、じっとこちらを見上げているニョモに“ごめんね”と内心謝って、覚悟を決めて、その背中にゆっくりと片足を乗せた。

 

にゅーん

 

「っ!?」

 

潰れた。

ニョモの背中がパン生地みたいに靴の形に合わせて平たく潰れた。私は驚いて足を引っ込めた。すると直ぐに曲線を描く元の棒状の形に戻った。

私は目を瞬かせた。

 

「あはははははっ」

 

女が悪戯の成功を喜ぶみたいに口に手を当てて無邪気に笑った。

 

「びっくりしたねぇ! そうなんだよ! ニョモの背中は伸びるのさ! 面白いよねぇ!」

 

女が嬉嬉として説明して、ニョモが驚いた私を笑うみたいに赤い舌をチロチロ覗かせる。

――なるほど。

深刻に捉えてたお間抜けは、どうやら私だけだったみたいだ。

 

「という事で、今度は両足で乗ってみようか。長板の上でバランスを取るみたいに」

 

まだ恐怖は残っていたけれど、それよりも好奇心が勝って、私は思い切ってニョモの背中に両足を乗せた。やっぱり背中は“にゅーん”と潰れた。

足の形に沈み込んでいるからか意外にも足場の安定感はかなりあった。

女は手に持った一冊の深緑色の本をニョモの眼前に掲げて背表紙を見せ、それから私に渡した。

 

「行ってらっしゃーい」

 

笑顔の女が肩の辺りでヒラヒラと片手を振るのとニョモが動き出したのは、ほぼ同時だった。

 

「うわっ」

 

私は恐怖で身を固くしたけれど直ぐに怯える必要が無い事に気付いた。

ニョモは緩やかに螺旋階段を上っていった。

段差がある筈なのに何故だか全然振動は感じず、乗り心地は抜群。私は螺旋の内側に身体を向けていて、落っこちる気配は微塵も感じない。

何よりも、見える景色が壮大だった。

 

「すごい……」

 

本棚に収まった赤や青や黒と言った色彩豊かな本の背表紙が滑らかに視界を流れていく。上を向くと遙か彼方の天井と外縁を延々と渦巻く螺旋階段が覗き、自分がまるで螺旋の一部となって天国へと昇っていくかのような神聖な気分を味わえた。

私がその超大で雄大な全体と同化する安らぎに浸っていると、やがて景色は静かに止まった。

顔を浮かせてこちらを見上げるニョモはまるで“着いたよ”と言っているみたいだった。

振り返ると当然だけれど眼前に広がるのは本棚で、大量に収まっている本の背表紙の下部に青文字で刻まれた記号と、私の手にしている本の背表紙の記号は見事に一致していた。私は本棚の全体を漠然と流し見して、お目当ての桁数の列を頭上に見つけると、下一桁の数字を辿って手持ちの本が収まるべき隙間を見つけた。

手を伸ばしてもギリギリ届かなかった。

どうしようと思っていると、私の心中を察したかのようにニョモが器用に背中を浮かせて、足場を高くしてくれた。

 

「ありがとう」

 

ニョモを見つめると、

 

チロチロ。

 

と返事を返してくれた。

私は数字に間違いが無いことをもう一度確認してから、本を隙間に差し込んだ。

ニョモはそれからゆっくりと背中を下げて、更にその場で見事に旋回して、緩やかに螺旋階段を下り始めた。

一番下では女が立って本を読みながら私達を待っていた。右手に赤い革表紙の本を広げて、左手の指を顎に添えて本を読んでいる姿はなんだか優雅だった。

私達が戻ってきた事に気付くと、本を閉じて私達に笑いかけた。

 

「おかえり」

「ただいま、です」

 

私がニョモから降りるのを待って、女が言った。

 

「ま、そんな感じで。ここにある全ての本を戻して欲しいという訳さ」

「いつまでにですか」

「特に期限は無いよ」

 

女はそれから続けた。

 

「他に気になったことはあるかい?」

「あの、これ以外の労働って」

「それも特には無いね」

「明日も明後日も、ですか?」

「これからずっとだね」

「なにも」

「うん、なにも」

「これだけ……」

「そう。これだけ」

 

女は口元に緩やかな笑みを湛えて軽やかに言った。

私は困惑した。

だって。

だって、こんなの。

――簡単すぎる。

全然痛くも苦しくも無い。

ニョモの気分次第ではあるけれど、やろうと思えばいつまでだって続けられる。

そのくらい楽な労働。

責め苦でも何でも無い。

辛くない。

そんなの――おかしい。

 

「冗談、とかですか」

 

言ってて自分でも意味が分からないと思ったけれど、この胸の困惑を何とか形にした結果漏れ出た言葉なのだから、どうしようも無い。

女は一瞬きょとんとした後、それでも蒼い瞳で私の目をじっと見据え、誠実に答えを返した。

 

「いいや。事実さ。君はこの本の山をニョモと一緒に片すだけで良い」

 

女はそれから穏やかな声色で尋ねた。

 

「アリスは大変な方が好き?」

「い、いえ。そんなことは」

 

首を振った私を見て女は納得するように小さく頷く。

「そうだよね。僕も疲れるから嫌だ。だから魔術を使って悠々自適に生きている」

 

女は詠うかのようにまろやかに言う。

 

「ここには僕と君の二人しか居ない。上下関係の無い対等な間柄だ。私達に理不尽はいらない」

 

柔らかな声で、語り掛けるように。

 

「一緒に、のんびり生きよう」

 

そう言った。

 

 

 

 

 

 

本当に変わらなかった。

次の日も、次の日も、その次の日も――ずっと私はニョモと一緒に本の山を片し続けた。ニョモに乗って螺旋階段を往復する間にも時折新たな本が生み落とされるし、何しろ元々積み重なっている本の量が多すぎるので、ほとんど無限とも思える作業だった。

でも辛さは全く無かった。

むしろ、少しずつだけど確かに減っていく本の山を見ることに楽しさを感じるくらいだった。

そんな感情は全く望んでいなかった。

しかもそんな日々の中で、女は私を喜ばせようとした。

例えば、料理が苦手なくせに、森で集めてきた色とりどりな果実を材料にして手作りケーキをつくって、私に食べさせて、私が食べている間、明らかに褒められ待ちの期待の籠もった眼差しをじっと向けて来たり。

夜に外に連れ出して、火の魔術を駆使して自在に生成した燃える鹿や馬を真っ暗な夜空に駆け回らせて、目を見開いて見上げている私の横顔を、口の端を吊り上げてニヤニヤと嬉しそうに眺めていたり。

水浴びの途中でやってきた狼を見て、私に不思議なおまじないを掛けて狼の言葉が分かるようにして、恐る恐る狼と会話を試みる私を、愉快そうに目を細めて観察していたり。

そんなことは一切頼んでいないのに、女は事ある毎に私を楽しませようとした。

だけどもそんなの、変だ。

おかしい。

間違っている。

女が私を笑顔にしようとするなんてどうかしている。

だって女はその腹の内に、無力な私を滅茶苦茶に傷つけたい真っ黒な嗜虐心を抱えているに決まっているのだから。

――だから私は、女のひた隠す劣情を自ら暴くことにした。

悪事を働いた。

制裁という理由を与えて、暴力性を炙り出そうと考えた。正義という建前があれば人間はどこまでも残虐になれることを、私はあの屋敷の女から学んでいた。悪事は呼び水だった。

例えば、本を片すのをサボった。

円状の空間の端っこで本棚にもたれ掛かって座って、読めもしない本を膝上で堂々と開いてやった。やがて廊下を通りかかった女が私に気付いて、近付いてきた。“来るぞ”と私は身構えた。だけど女は全く怒らずに、ただ自然と隣に座って、「読める?」と顔を覗き込みながら訊いてきた。素直に読めないことを告げると女はパッと明るい表情をして“だったら僕が読んであげよう”と得意げに言って、低く掠れた声で唄うように文章を朗読していった。

痛い思いはしなかった。

勝手に部屋を掃除したこともあった。

女が書斎に籠もっている間に“放っておいてくれて良い”と言われていた女の部屋に無許可で侵入して、足の踏み場も無いほどに散らかっていた書物や書類を好き勝手に片付けた。やがて何かの資料を取りに来たらしい女が部屋に戻ってきて、様変わりしてしまった部屋とその中心に立っていた私を目の当たりして目を剥いた。だが女は、怒らなかった。「片付けの魔術は得意じゃなくて困ってたんだよねぇ」と照れくさそうに笑って、部屋の隅に整頓されて積まれた書物をちらと見てから「ありがとう」と双眸を細め、ただ感謝の言葉を口にした。

辛い思いはしなかった。

一人で夜の森を出歩いた事もあった。

危ないから絶対にしないよう忠告されていたのに、その言いつけを破って夜霧の立ちこめる森の中を、行き先も無くふらふらと歩いた。すると直ぐに肩を叩かれて、振り返れば微笑を浮かべた女が立っていた。「お嬢さん迷子かい?」女はそう気取った言い回しをして私の細い手を掴み「一緒に散歩でもしようか」と笑いかけて、ゆらゆらと腕を振って、陽気に鼻歌を歌いながら歩き始めた。やがて建物に戻ってきたときに「もうしないでね、こういう事」と背中を向けながら言った。口調はいつもより少し鋭くて、多分ちょっと怒ってた。

怖い思いはしなかった。

――他にも色々な事をした。

けれど何をしても無駄だった。

女はどんな事も大らかに受け止め、時に喜び、時に叱った。

もはや認めない訳にはいかなかった。

女は善人だった。

心根が綺麗な優しい真性のお人好しだった。悪戯が好きな気取り屋の無邪気な大人だった。

悪人とは、真逆の存在だった。

――だけどそれじゃあ駄目なんだ。

困る。

受け入れることは出来ない。

だって道連れに出来なくなる。

私にここまで優しくしてくれる人を巻き添えにするなんて、そんな酷いことは出来ない。

――いや違う。そうじゃない。そんな綺麗な感情じゃ無い。もっとドロドロしたやつだ。血みどろのドス黒くて粘っこくて気持ち悪いやつ。

つまり。

――復讐心はどうするのかって話。

今まで沢山の人に痛めつけられて虐げられて傷つけられてぐつぐつに煮え滾った悪人共へのこの恨みはどうすれば良い?

女を殺せないのなら、最後に恨みを晴らせないのなら、今まで与えられてきた理不尽な痛みをどう納得すれば良い?

私はどうやって幸せになったら良い?

分からない。

分からない。

何も思いつかない。

ただ心の中で暴れ狂う棘の塊みたいな感情があって。それが心を内側からめった刺しにして穴だらけにするから痛くて苦しくて酷く辛い。

嗚呼駄目だ。

認められない。

あの女やっぱり悪い人だ。

まだ本性を隠しているんだ。

きっと今にでも私の部屋に乗り込んできて服を剥いで馬乗りになって散々罵りながら殴りつけて蹴りつけて嘲笑うんだ。

そうだそうに決まってる。

そうじゃないと困る。

そうじゃないと殺せない。

いやそんなわけない

あの女が悪い人な訳がない。

うるさいうるさいうるさい。

黙れ黙れ黙れ。

嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼亜嗚呼亜あああああぁぁぁぁ。

 

――お゛え゛ぇ゛。

 

 

 

 

 

「こら! 危ないから走らないよ!」

 

私は牛舎の寝床に敷かれた藁を踏みしめながら、さっきから赤茶色い牛二頭の周りを8の字を書くようにぐるぐる追いかけっこをしている亜麻色の髪の少年少女に声を掛けた。二人が牛を挟んでピタリと動きを止めた。

 

「だってミラがうんこの付いた手で触ってきたんだもんっ!」

 

牛の向こう側に立つ弟のケイルが牛のお尻の方からひょっこり顔を覗かせて言った。

 

「嘘つかないでっ! 先に触ってきたのはケイルよっ!」

 

牛の手前側に立つ妹のミラが私を振り返って自分の無実を訴えた。

全く。

この二人は双子だからか、いつもふざけ合ったり喧嘩したりしている。それを諫めるのは大抵姉である私の仕事だ。

 

「どっちだって良いから寝床の掃除を手伝いなさい! じゃないとお母さんに言うよ!」

 

私は仁王立ちでそう脅した。

どうやら効き目はあったらしい。

二人とも“は~い”と間延びした返事をして、そこらの藁の上に放っていたフォークを取りに行った。

私は糞尿で固まった足下の寝わらにフォークを突き刺して、側に置いてある台車に積んでいく。

 

「ミラ。そろそろ新しい寝藁持ってきて」

「はいはーい」

 

隣で同じ作業をしていたミラはフォークを台車に立て掛けると、牛の居る区画と餌場を仕切るように壁と壁との間に通されている横長の木材に足を掛けて、向こう側の通路へとジャンプした。

 

「こら! そっちは牛がご飯食べる場所なんだから靴を綺麗にしてから行きなさいって、お姉ちゃんいつも言ってるでしょ!」

「だって面倒くさいんだもん」

「面倒でもやらなきゃ駄目!」

 

私が叱りつけると、ミラはぷくっと頬を膨らませて目を逸らし、可愛らしくふてくされた表情をした。それを見たケイルが隣でニヤニヤ笑う。

 

「ぷー。ミラ怒られてやんのー」

「うるさい!」

 

顔を赤くしたミラが声を荒げる。

 

「アンタも口じゃ無くて手え動かしなさい」

 

私は汚い寝藁をフォークで台車に積みながら言った。だけどケイルはしつこく揶揄い続けた。

 

「顔真っ赤にしてベリーそっくりじゃん」

「うるさいうるさい!」

「やーい、ベリーちゃん!」

「ベリーちゃんじゃない!」

「じゃあうんこ女!」

「うんこでも無い!」

 

そうして妹を苛めていたから罰が当たったのかも知れない。

牛がくしゃみをして、偶然その背後に立っていたケイルはお尻から噴き出したうんこを顔に浴びた。

 

「やーいうんこ男!」

 

形勢逆転したミラがご機嫌に煽る。

私はため息を吐いて、フォークを台車に立て掛けると、泣きそうな顔のケイルの顔を自分の来ている布服の袖で拭って上げる。

 

「うぅ……」

「はいはい。大丈夫大丈夫」

「うぅ……うぅ……」

「男の子だから泣かないよ」

「うっ、うっ、うっ……」

 

ケイルは口をぎゅっと結び頑張って耐えていたけれど、

 

「うわあああああああぁぁぁぁぁん」

 

やがて泣き出してしまった。

あーあ。

私は内心呟いた。

ケイルは一度泣くと泣き止むまでに時間が掛かるのだ。

私はケイルの小さな身体を抱きしめてよしよしと背中を撫でる。

 

「うあああぁぁんわあああああああああん」

「やーい泣き虫うんこー!」

 

腕に抱いたケイルが泣いて、それを見ているミラが囃し立てる。

もうすっかり見慣れた光景だ。

もちろん二人の立ち位置が逆のことだって多い。

結局どっちかが泣いて、どっちかが笑っていて、泣いてる方を私が慰めてあげるのだ。

それはあまりにありふれた日常の一部だった。

今まで何度も見てきて、これから何度も目にする景色。

ずっと変わらない幸せで退屈な日常。

そう思っていた。

その筈だったのに。

私の平穏は――呆気なく壊れた。

 

ぎゃおおおおおおおぉぉぉぉぉ

 

空気を震わす“何か”の野太い咆哮が突然牛舎の中にまで響き渡った。地鳴りに似た低音が身体を内側から震わせ、あまりのおぞましさに私達は身をすくませた。その音が通り過ぎて余韻が失われてから、ようやく私達は互いに目を合わせ、牛舎の外へと飛び出した。

私は目を見開いた。

逆立った漆黒の鱗、滑らかな黄金色の蛇腹、空を覆う蝙蝠のような翼、狼のように突き出した口元……。

見上げるほどに巨大な竜が、村の奥に立っていた。

 

ぎゅおおおおおおおおおおおぉぉぉぉッッ!

 

竜がその存在を知らしめるように牙の生え揃った口を大きく広げて曇天に向かって咆哮を上げた。

その瞬間、

 

ゴロピシャアアアァァァァッッッ!!

 

空気を切り裂く凄まじい雷鳴と共に左奥に見える教会の屋根の十字架に雷が落ちて、建物が轟々と燃え始めた。身体が震えた。まるで竜の恐ろしい鳴き声が雷を降らしたみたいだった。

 

きゃあああああぁぁぁぁっっ!!!!

 

竜の足下に建ち並ぶ木造の家々から飛び出した村の人達が悲鳴を上げながら、竜から逃げるように走っていた。

その人の流れを見てふと我に返った。

そうだ。

お父さん。

病で伏せっているお父さんはきっと今も家に居る。

連れ出さなきゃ。

思い立った私は村の人たちの流れに逆らって走った。自ら竜に近付いていくのは恐ろしかったけれど、父を助けたい気持ちが足を動かした。

やがて見慣れた素朴な茅葺き屋根の家が遠くに見えてきて、丁度開いた玄関扉から、よろよろとした足取りのお父さんが出て来た。

 

「お父さあああん!」

 

ドアにもたれ掛かりながら眉を下げて弱った顔をしていたお父さんに呼びかけた。

 

「アリス……!」

 

私を見たお父さんは目元の皺を深めるように目を細め安堵の表情を見せた。

私も思わず笑みを浮かべる。

良かった。

間に合った。

私はまだ距離があるのも気にせず逸る気持ちで腕を伸ばして、お父さんに駆け寄ろうとした。

――でもそれは叶わなかった。

 

ドスンッッ!!

 

巨大な何かがお父さんを押し潰した。

 

「え……?」

 

私は思わず立ち止まった。

目の前の光景が信じられなかった。

でも事実はそこにあった。

幹のように太くて真っ黒な鱗に覆われていて鋭利な白い爪の生えた4本指。

竜の足。

それがお父さんを踏み潰し地面と一体化させていた。

 

「おとう、さん……」

 

私は震えることで呼びかけたけど当然のように返答は無かった。ただ竜の足がミシミシと地面を踏みしめる音だけだった。お父さんの生命の気配はどこにも無かった。

つまり。

お父さんは、死んだ?

信じたくないのに目の前の景色が冷酷に現実を突き付けてくるから、私は思考を止めて、ただ呆然と立ち尽くした。

 

「パパぁ!!  パパああぁぁ!!」

 

いつの間にやら後ろから追いかけてきたらしいケイルが、私の横をすり抜けて、お父さんを下敷きにしている竜の足へと駆け寄っていく。

すると何かの影がケイルの身体を呑み込んだ。

私は上を見上げた。

頭上にはいつの間にやら首を下げていた竜の顔があった。琥珀色の眼球に刻まれた縦長の黒い瞳孔を細めて、じっと弟の動きを眺め、微かに開いた口元から鋭く生え揃った歯を覗かせている。

それはまるで獲物を狙う狼のように……。

 

「ケイル! 行っちゃだめぇ!」

 

私は弾かれたように遠ざかる弟の背中に呼びかけた。――手遅れだった。

一瞬の間に弟の身体に飛びついてきた竜の悍ましい大口が、勢いよく閉ざされた。竜が顔を上に向けると、小さな茶色い靴を履いた膝下までの生足だけが地面の上に残って、弟の姿が消えていた。

 

「ケイ……ル……」

 

私の口から漏れた言葉は、頭上で咀嚼する竜の口内から響いてくるボリボリと骨を砕く音やぐちゃぐちゃと臓器を噛み潰す音でぞんざいに掻き消された。

ぼんやりと上を見上げると、竜の琥珀色の瞳が私を睨んでいた

逃げろ。

本能が言っていた。

食べられる前に逃げろ。

分かっていた。

だけど、竜と目が合っている私の身体は石のように硬直して動かなかった。

恐怖と緊張。

それが私の身体を支配していた。

 

ドピシャアアアアアアアアアァァァンッッ!!!

 

間近に雷が落ちた。

身体を切り裂いた轟音は細胞の一片まで脅かせ、金縛りの呪縛から解き放った。

私は身を翻して逃げ出した。

とにかく竜から遠ざかろうとする人の波に混じって走った。

私は薄情で、死んでしまった弟と父を意識の片隅に追いやって、まだ生きている筈の妹と母の姿を探した。

しかし辺りを見回してなかなか見つからなかった。

私は泣きそうになった。

もう家族に会えないかもしれないと思った。

――だけど、不意に声がした。

 

「お姉ちゃんっ!!」

 

鈴のように甲高いその声は紛れもなく妹のものだった。

私は声のした方向へと顔を向けた。

すると教会前の広間に妹の姿があった。

人攫いに攫われかけていた。

後ろから若い細身の男に羽交い締めにされていて、手枷足枷は既に嵌められ、今はもう一人の太めの男が首輪を嵌めようとしているところだった。

 

「ミラ!」

「お姉ちゃん!」

 

私は男に体当たりを仕掛けて何とか妹を助け出したいと思い、勢いよく駆け出した。

しかし

 

「はい、ストオッープ!」

 

細身の男がポケットから取り出したナイフを妹の首元に突き付けて言った。

私はあと数歩分の距離で足を止めざるを得なかった。

 

「それ以上一歩でも近付いたら、グサッといっちゃうっすからね~」

 

細身の男がニヤニヤと笑いながらナイフを揺り動かし、妹が恐怖で顔を引き攣らせる。

 

「妹を離してください!」

「嫌でーす」

「お願いします! 大切な妹なんです!」

「そんなこと言ったら俺たちにとっても大切な“商品”だぜ? こいつはロップルの村の変態貴族に売り捌いてやるのさ! なあガス!」

「ああ、違いねえ」

 

妹の首輪を嵌め終えたらしい太めの男が顔を上げて頬肉に圧迫された目を細めた。

 

「違います! 妹は“商品”なんかじゃありません!」

「妹ねえ~。その割には全っ然似てなくない?」

 

細めの男がわざとらしく妹と私を交互に見る。

 

「コイツは茶髪でアンタは白髪。コイツは黒目でアンタは赤い目。コイツはガキらしく肌が焼けていてアンタは蛇の化身みたいに白い。同じ血が流れてるとは思えねぇな~」

「そんなことどうだって良いから返してください!」

「うーん、おっけえ!」

 

急に同意的な言葉を返した男に違和感を持ったその瞬間、

 

「っっ!?」

 

後ろから羽交い締めにされた。

いつの間にか太めの男に背後に回られていたのである。

 

「アンタも一緒に売り飛ばしてやるよ! それなら寂しくないっしょ! なぁ!?」

 

細めの男が妹の顔を上から覗き込みながら、ケラケラと笑う。

 

「離して! 離してください! このぉ!」

「くそ暴れるな!」

「離せぇ!」

 

私は暴れながら右腕に回されていた男の右腕に思いっきり噛みついた。

 

「痛っっっってぇぇぇぇ!!!」

 

太めの男の拘束が緩んだ。私はその瞬間に男の腕から抜け出そうとしたけど、左腕はがっちりと肩に回されたままで動けなかった。

 

「このガキ噛みやがった!!」

「ガス、遊んでる場合じゃねぇぞ」

「絶対ぶっ殺してやる!」

「ガス! 後ろ見ろ!」

 

血相を変えた男の言葉に釣られて私も一緒に後ろを見た。

竜が私達の居る方向へと歩き始めていた。

歩く度に強烈な地響きがした。

 

「もうコイツだけで良い。ソイツは置いとけ」

 

細身の男は妹の首元にナイフを突き付けたままその柔らかな亜麻色の髪を無遠慮に引っ張って、背後で口を開いた馬車のワゴンに身体を向かせ“ほら歩け!”と促した。

 

「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」

 

遠ざかっていく人攫いの背中越しに、必死に助けを求める妹の声が聞こえた。その悲痛な叫びに私の心は掻き乱される。私は今すぐにでも駆け寄りたくて、私の身体の自由を奪っている左肩に回された毛深い左腕にも噛みついてやろうとした。

だけどその野望は果たせなかった。

 

「グガァッ!?」

 

胸がぺしゃんこに押し潰されるような凄まじい息苦しさに襲われた。太めの男の太い右拳が鳩尾に深くめり込んでいた。男が左腕を離し、支えを失った私はその場で崩れ落ちて蹲る。

 

「あーすっきりした。じゃあなクソガキ!」

 

涙目で顔を上げれば贅肉で膨らんだ背中の人攫いが捨て台詞を残して去って行く所だった。遠くでは妹が洞穴みたいに真っ暗なワゴンの縁に足を掛けたのが見えた。

 

(返せ……! 妹を返せぇぇっ……!!)

 

本当は今すぐ叫びたいのに喉を空気が通る情けない音だけしか出せなかった。

 

「お姉ちゃん! 助けてお姉ちゃん! 怖いよぉ!」

 

男の背中の奥の暗いワゴンの中から聞こえる妹の声。

私は奥歯を噛み締めて喘ぐばかりで声すら返して上げられない。

やがて男が降りてきてワゴンの扉を閉めた。

一瞬だけ見えた首輪の繋がれた妹の顔はくしゃくしゃに泣いていた。やがて馬車は私を置いて走り始めた。

 

「ミラ……待って……ミラ……」

 

私はようやく発せられるようになったか細い声を振り絞り、手を伸ばすけれど、私の願いを嘲笑うかのように馬車の後ろ姿はみるみる小さくなっていく。

宙を掴んだ手が虚しさを募らせる。

 

ギュアアオオオオオオオオォォォォ!!!

 

空気を破裂させる竜の咆哮が轟いた。

呆然と後ろを振り返れば竜はさっきよりも迫ってきていて、残りは家数件分の距離しか無かった。

私は頭を抱くようにして地面の上に蹲った。

もう立ち直れなかった。

お父さんが潰されて、弟が食べられて、妹が連れ去られて……愛する家族が三人も失われて、私の心はボロボロに打ちのめされていた。絶望に押し潰されように身体を小さく丸めて必死に恐怖から身を守った。独りぼっちが怖くて、ぶるぶると身体を震わせた。

 

「怖いよぉ……やだよぉ……」

 

身体の中に声を籠もらせる。

私だけの声で耳を満たして少しでも安心しようとする。

地響きが近付いてくる。

 

「お願い……誰か助けて……」

 

必死に祈りの言葉を口にする。

怖くて怖くて。

心が潰されそうで。

言葉が、零れる。

 

「私を一人にしないで……」

 

その瞬間――誰かが私の身体を抱きしめた。

身体を覆う温もりは優しくて柔らかかった。

 

「大丈夫。僕が傍に居るよ」

 

穏やかな声が私の鼓膜を揺さぶった。

顔を上げてゆっくりと後ろを振り返ると、微笑みを浮かべるお母さんの顔があった。

私は目を見開いてお母さんに抱きついた。

 

「お母さん! お母さん! お母さん!」

「アリス。落ち着いて。大丈夫大丈夫」

 

お母さんは私の背中を優しく撫でてくれた。

幸せだった。

ずっとずっと会いたかったお母さんにやっと会えた。嬉しくて涙が出た。

それからお母さんは私を抱きかかえると、町の外れへと走り出した。私はお母さんの肩越しに遠ざかる町並みを眺めていたけれど、私達の進行方向は村の人たちが目指す方向とは違っていた。やがて景色は森に変わった。沢山の樹木が生い茂る白い霧に包まれた森だった。

 

ゴロビシャアアアアアアアアアンッッ!!

 

目の前の木に雷が落ちた。

木はたちまちに発火して辺りの木々に燃え広がり、気付けば森は獄炎に包まれた。燃えるフクロウやイノシシやシカがあちこちから飛び出してきて、火の海を楽しそうに踊り狂った。

私はお母さんの肩に顔を埋めた。

 

「怖いよ……お母さん……」

「大丈夫。僕がいるから何も心配は無いよ」

 

それからお母さんは美しい渓谷に流れる川に腰まで浸かって私を向こう岸に運び、河原に降ろした。

私は心細くなって直ぐにお母さんの足に抱きついたけれど、お母さんがしゃがんで私の両肩に手を置き、落ち着かせるようにじっと目を合わせてくれた。

 

「良いかい。今からおまじないをするからね」

「おまじない?」

「そう。君の心に安らぎを与えるおまじない」

 

お母さんはそうして私の唇にキスをした。

触れ合う唇の感触は柔らかくて気持ち良かった。

それに口の中に送り込まれる唾液が蜜のように甘かった。私はその優しい味をもっと深く感じたくて、自然と目を閉じた。すると私の欲張りな気持ちに答えてくれるかのようにお母さんはもっと唾液を注ぎ込んでくれた。甘くて温かくて気持ちよくて――さっきまで感じていた不安や恐怖が不思議と溶けていくのを感じた。

まるで魔法みたいだった。

 

 

私はやがて目を開けた。

期待していたのはお母さんの優しい黒い瞳だった。

だけど視界に映ったのは――違った。

切れ長の蒼い瞳。

あの女の瞳だった。

間近に女の顔があった。

女は私と目が合うと嬉しそうに双眸を細めた。

遅れて私は唇同士が触れ合っている事に気付いた。

 

「っ!?」

 

心臓が跳ね上がって私は衝動に任せて女の両肩を突き飛ばした。そのまま私は後ずさりしてやがて固くて平たい物に背中が当たった。

壁。

視線を辺りに素早く巡らす。

木なんてどこにも生えていない。

寝具、壁、窓、床。

暗い部屋。

そう気付いた。

 

「何をしてたんですか!?」

 

私は上擦った声で尋ねた。

さっきまで心を満たしていた甘く蕩けるような気持ちは吹き飛んで、女に対する不信感で包まれていた。

部屋の中心に立つ女は突き飛ばされたことに驚いたようで目を丸くしていたけれど、やがて落ち着きを取り戻したように微笑を浮かべて言った。

 

「驚かしてすまない。今のはエルフの一族に伝わるおまじないでね」

「な、なんでそんな事を」

「部屋に入ったら君が酷く取り乱していたから……何とか落ち着かせようと思ったんだ。それで」

「……キスを?」

「そうだ」

 

女が平然と頷く。

私は急速に思考を巡らせる。

この薄暗い部屋の光景と女の発言を信用するならば、さっきまでの景色は恐らく夢だったのだろう。

稲光が一瞬部屋を照らし、

 

ドピシャアアアアアアアアンッッッ!!

 

雨の打ち付ける窓の外で激しい雷鳴が轟く。

きっとこの雷のせいだ。

屋敷に降り立った竜から逃げるときもあちこちで雷が鳴っていた。その轟音が恐怖と共に記憶に刻まれていて、折悪く寝ている私の鼓膜に雷鳴が入り込んで、脳に轟いて悪夢を見せた。

全てはまやかしだった。

でも、唇の感触は本物だった。

 

「襲いに来たんですよね?」

 

私は率直に尋ねた。

女は一瞬目を剥いて、それから慌てて言った。

 

「ま、まさかそんな!」

「……白々しい」

 

私は呟いた。

キスが交尾の前の行為であることを知っていた。

お父さんとお母さんは眠ったふりをする私の横でよく絡み合ってキスをして、それから服を脱いで身体を重ね合わせていた。

きっとこの女も、あのまま私を襲うとしていたに違いない。

やっぱり悪い人だ。

 

「夜這いしに来たんですよね。最低です」

「ま、待ってくれ! 違うんだ! さっきのはおまじないで、ただ君を助けたかっただけなんだ!」

「言い訳までするんですね」

「違う! そうじゃない!」

「ごーかんま」

 

初めて口にした言葉で口の中が気持ち悪かったけど、意味は合っていたらしい。女はショックを受けたように瞳を揺らした。

そして唇をわなわなと震わせて蒼い目をかっぴらき――叫んだ。

 

「そんなおぞましい名で僕を呼ぶなぁッッ!!!」

 

ゴロドシャアアアアアアアアンッッッ!!

 

私は息を呑んだ。

目がつり上がり眉間に眉を寄せ口の端を引き釣らせたその表情は憤怒に歪んでいた。

そんな顔は初めて見た。

怯えた私の身体は無意識に震えていた。

私の恐怖を見て取ったらしい女は眉を下げて疲れたような表情をして深く息を吐き、

 

「すまない」

 

と目を逸らして呟いた。

掠れた声は暗闇に溶けて直ぐに沈黙になった。

女は私に背を向けて部屋の入口扉に向かって歩いて行った。

ドアノブを握ったとき、女は一瞬立ち止まり、僅かに顔を横に向けて肩越しに私を見た。

その顔は今にも泣き出しそうな表情をしていた。

 

 

 

 

それ以来、女は私と会う度に気まずそうにした。

廊下で顔を合わせてもどこかよそよそしく、発する単語は挨拶の言葉だけで早々にその場から立ち去るようになった。以前までは私がニョモと本を運んでいる途中で一日に三回は声を掛けてきて、私に本の読み聞かせをしたがったり、“外でジャムにする果実を一緒に探さないか”と提案してきたり、“川で一緒に釣りをしよう!”と誘ってきたりしたが、今では全く声を掛けてくることは無くなった。食事中も味の感想を皮切りに私との会話をいつもしたがったが、上品な貴族のように一言も喋らず黙々と食べるようになった。

私も気まずかった。

女と対面する度に妙な緊張が生じて、空気の均衡を崩さないために気を張っている自分が情けなくて嫌だった。女を見る度に、あの時見た部屋を出る直前の女の悲しそうな顔が想起されて、私の心をざわつかせて、それも何だか不快だった。

でも、謝りたくは無かった。

だって女は悪い人だから。

私を襲おうとした人だから。

相手が悪いのは事実なのに、気まずさを解消したいが為にありもしない非を認めて謝罪しようだなんて弱気は、今まで悪人共に虐げられてきた私の心が許さない。そんなことをしたら相手の罪が有耶無耶になってしまう。悪にへりくだるなと、心が叫んでいる。だから私も黙っていた。

微妙な空気の私と女を、ニョモは交互に眺めていた。

それは私達がぎこちなくなってから数日後の事だった。

私はその時も円状の空間の中心に立って、本の山から本棚に戻す本を選定していた。

探していたのは円柱の半分より下の高さの本棚に収まる本だった。半分より高い位置の本棚に収まる本は、見つけ次第隅に避けておく。それは私を乗せて螺旋階段を上下するニョモの負担を考えての事で、高い位置まで昇る回数を出来るだけ減らすために、高い位置の本は一旦後回しにして、4~5冊溜まった段階でまとめて運ぶようにしていた。

昨日の夜にかなり運んだので、今の所は一冊程度しか見つかっていなかった。私は手頃な距離の本棚に収まる本を見繕って3冊両手に抱えていたけれど、不意にニョモが一冊の本を咥えて近付いてきて、私の手元をじっと見つめた。何だろうと思っていると、ニョモは“にゅーん”と首を浮かせて私の抱える本の4冊目として、咥えていた本を載せた。

私はその本の背表紙を上から覗き込んだ。

随分と高い位置の本だった。

 

「ニョモ。これは後にしよう」

 

私はそう言って一旦4冊を左腕で支えて、一番上に載った本を右手で掴んで下に置いた。だけどニョモはそれを許してはくれなかった。私がその本を置く度に“パクリ”と背表紙を咥えて律儀に一番上に戻した。私はやがて根負けした。本当は同じかそれ以上に高い位置に収まる本と一緒にまとめて運びたかったけれど、ニョモが運べと言うならわざわざ断る理由も無い。

私はその4冊を抱えてニョモの背中に乗った。

ニョモが螺旋階段を上っていく。

私は本を順調に戻していって、やがて最後の一冊まで戻し終えた。螺旋階段8周分くらいのそこそこの高さだった。

ニョモは下るために螺旋階段の上でまずは頭部を旋回させた。その半回転は長い身体に順番に伝播していき、やがて私の乗る背中の中央部も緩やかな弧を描いて下り方向へと向くはず――だった。

ニョモは胴部を旋回する勢いを急速に早めた。

 

「わっ!?」

 

私の身体は遠心力に引っ張られ、気付けば螺旋の内側へと放り出されていた。

 

「ひあああああぁぁぁぁぁっっ!!」

 

足場を失った私の身体は真っ逆さまに落ちていく。

身体を包む気味の悪い浮遊感と急接近する地面に恐怖を覚えたが、どうすることも出来なかった。

私はただ目を閉じて、直ぐにやってくるであろう身体を打ち付ける強烈な痛みに備えた。

やがて、身体を衝撃が襲った。

でも――その衝撃は思ったよりもずっとずっと軽かった。ベッドから床上に転がり落ちた程度だった。全然痛くなかった。

身体を横たえたままゆっくりと目を開けると、視界いっぱいに黒色が広がっていた。床も壁も無い、ただ奥行きのある暗闇が広がっていた。私ははっとして床に手を着いて起き上がり、下を見た。一面の黒色だった。手で撫でてみても起伏は感じられなくて、石畳でも土でも無い、ただ平らな黒色だった。

そこでようやく自分の白い手が見えている事に気付いた。光の気配を感じて、後ろを振り返った。

私は目を見開いた。

広大な黒色の床の一部が大きな円状にくり抜かれていて、青白い光を放っていた。その表面は青と白と黒の染料が混ざった水面のように複雑な紋様を描き、ぐるぐると渦を巻いていた。

 

「お前はそこから吐き出されたのだ」

 

突然横からしわがれた声がして、私は弾かれたように声の方を向いた。

渦から十歩分の位置にぽつんと執務机が置かれていた。その机の上には羊皮紙の束と頭を垂れた花の形をしたランプが置かれていて、橙色の柔らかな光を受けながらローブを纏った白髪の小柄な老人が、机に向かって身体を丸めて何やら物を書いていた。私の視線に気付いたのか、老人は羽根ペンを動かす手をピタリと止めて、ゆっくりと顔を上げた。

瞳孔の開いた深緑色の二つの瞳が私をじっと見据える。

深淵を覗き込もうとするかのような眼力の籠もった瞳は、飽く無き探究心と深い叡智の宿りを思わせ、顔に刻まれた無数の皺と口元を覆い隠す立派な白い髭は、年齢の積み重ねを感じさせた。

 

「何か用か?」

 

真っ直ぐな瞳が私の言葉を待つ。

私は無駄な気兼ねをせずに尋ねる事が出来た。

 

「ここはどこですか?」

「魔術で生み出した現実とは隔絶された異空間、と呼ぶのが妥当だろう」

「……貴方は誰ですか?」

「肉体と共に名は失われた。今はただの思念体だ」

「ここで何をしているんですか」

「死ぬ前に溜め込んだ膨大な知識を文字に起こしている」

 

老人の言葉は現実離れしていたが、老人の揺らぎの無い視線が言葉の真実性を保証している気がした。

老人が羽根ペンを置いた。すると、机の上に積み重なっていた羊皮紙の束が浮き上がって、渦の上までふよふよと運ばれていき、やがて球状の赤い光に包まれた。

じっと見つめる私の視線の先で赤い光は直ぐに弾けて、赤黒い革表紙に包まれた本が羊皮紙の代わりに浮いていた。

見覚えがあった。全く同じ色合いの本を何度も本棚に戻したことがあった。浮いていた本はやがて浮力を失ったかのように落ちて、渦の中に吸い込まれていった。

――行き先は何となく想像が付いた。本の山の上の歪んだ空間。きっとあそこから生み落とされる。

意外な形で本の山を作っている犯人を知ることになり、私は衝撃を受けずにはいられなかった。

 

「ゴルゲールの瞳とは、懐かしい」

「……え?」

 

ぽつりと老人が零した言葉を聞き逃して、私は思わず聞き返した。

多分、老人はさっきとは違う言葉を口にした。

 

「ここへは迷い込んできたのか?」

 

訊かれて今になってこの暗黒空間に来る前の事に思いが至った。

 

「そうだ……ニョモ……。ニョモに突き落とされて気付いたらここにいたんです……」

「なるほど。親心という訳か」

「親心……?」

 

老人は私の問いかけには答えてはくれず、また羽根ペンを握って書き物の作業に戻った。

私は何もすることが無くて、老人が背中を丸めて何かを書き進める姿をじっと眺めていた。

 

「人間とは醜い生き物だ」

 

手を動かしながら老人が突然に言った。

脈絡の無い言葉に私は返す言葉を見失う。

私を置いて老人は独り言のように続ける。

 

「中途半端に知性があるせいで人間はやたらと嘘をつく。己の利を求めて小狡く人を騙す。嘘に苦しめられ死んでいった人間の数は計り知れない」

 

なんだろう。

胸がざわつく。

 

「賢くて愚かな人間は時に自分自身にさえも嘘をつく。馬鹿なフリをして自分を騙す。都合の良い思い込みをする。狡賢い人間に余念は無い。虚構の事実に肉付けをするために偏った視野で情報を収集し、巧妙に裏付けをして、やがては真実とすげ替える。自分の愚かさを逆手に取った実に狡猾な方法だ」

 

何故だかムっとした。

私は自分でも分からず感情に任せて口走っていた。

 

「物語は人を幸せにします。私の父はよく楽しい作り話を訊かせてくれました」

「嘘という道具の使い方の違いに過ぎない。人間は醜く愚かで狡猾で確かにロマンチストだが、それらの性質は相殺すること無く同時に存在する」

 

私には老人が何故そんなことを言うのか分からなかった。だけど何だか咎められている気がして、気分が落ち着かなかった。

私はただはっきりさせたかった、

 

「何が言いたいんですか」

「つまり――お前は幸せになりたいのかということだ」

 

突然に突き付けられた予期せぬ命題に私は困惑せざるを得なかった。

そんな話に結びつくとは思わなかったし。

答えの決まり切った質問をする意図も分からなかった。

なりたい。

わけない。

今まで散々苦しんできて不幸な終わりまで確定しているのだから、今更幸せになったところで私の人生の惨めさが際立つだけだ。きっとその惨めさはたちまちに幸福を塗り潰して絶望に変える事だろう。

だけども私も馬鹿じゃ無い。

老人がそんな返答を求めていない事くらい察しが付く。それに私がわざわざ不幸への願いを口にしたところで自分で自分を可哀想だと主張しているみたいで自分が気持ち悪い。間違って慰められでもしたら目も当てられない。私はどうでも良いんだ。放っておいて欲しいんだ。

だから口にすべき言葉は、こうだ。

 

「幸せになりたいです」

 

老人は私の目をじっと見据えてから言った。

 

「やはり人間は愚かだ」

「それってどういう……」

 

パチン

 

私の言葉を遮るように老人が指を鳴らした。

すると私の眼下の床上に一冊の本が現れた。蒼い革表紙に満ち欠けていく金色の月の装飾が施された美しい本だった。

私はまじまじと見つめた。

 

「それにはあの娘の過去が記してある」

 

疑問に思う私の心を察したかのように老人が言った。

「文字は読めません」

「お前が覗くのは文字では無く記憶だ」

「記憶……」

「そうだ。森の木々が見守っていたあの娘が孤独になるまでの全てだ」

 

老人が言った。

 

「お前はそれを知らなければならない」

 

 

 

 

どこかの森に流れる清らかな川の、丸石の敷き詰められた河原に、一人の女性が立っていた。陽の光を照り返す絹のように滑らかな金色の長髪や、先の尖った長い耳や、白磁のように白くて透き通った肌。それは伝承で聞いたエルフの特徴そのものだった。足下には純白のワンピースが脱ぎ捨ててあり、今は太陽の下に美しい裸体を惜しげも無く晒している。

 

『あの娘の母親だ』

 

どこからともなく老人の声が聞こえて、私はあらためて女性の顔を観察した。確かに、切れ長の蒼い瞳や、真っ直ぐに通った鼻梁や、艶のある薄い唇など、あの女と顔立ちがよく似ていた。

女性はどうやら水浴びにやってきたらしい。

川に向かって歩き始めた。

しかし、

 

「うっ!?」

 

突然痛そうな呻き声を漏らし、途中で足を止めた。

くびれた横腹には吹き矢が刺さっていた。

数度瞬きする間に女性はよろよろとよろめきだして、遂には河原の上に倒れ込んでしまった。

するとそれを待っていたかのように川縁の茂みががさごそ揺れて、一人の男が現れた。布服を纏った人間。男は下卑た笑みを浮かべると女に駆け寄っておもむろに服を脱ぎ始めた。やがて全裸になると横向きに倒れている女性の上に馬乗りになった。

 

「うっひょお……! この時をずっと待ってたぜぇ……!」

 

男は女性の美しい裸を見下ろしながら、半月状に目を細めたニヤけ顔でそう言った。

女性は目に涙を浮かべて顔を引き攣らせて、怯えた表情をしていた。彼女は唇をわなわな震わせて掠れた声を漏らす。

 

「た……たす……たすけて……」

「いいねぇ! 麻痺毒が効いて碌に助けを求めることも出来ないだろぉ!」

 

男は得意げに声を弾ませ、女性の閉じていた両脚を両手で左右にこじ開ける。それから彼女の顔の両横に手を着いて、股に生えた男性器を躊躇無く彼女の股に沈めた。

 

「あひゃひゃひゃひゃひゃ」

 

男が悪魔のような笑い声を上げながら腰を振る。

 

「い……痛い……やめて……だ……誰か……たす、けて……」

 

彼女は涙を流しながら必死に訴えていた。

だけど口から零れる声は吐息のようにか細く掠れていて、誰も助けには来なかった。

男性はやがて腰を突き出したまま身体をぶるりと震わせた。

それからまた腰を振り始めた。

記憶の旅は『強姦』から始まった。

 

 

 

大人が数人がかりで手を繋いでようやく囲めそうな程に太い幹をした大木が森の中に生えていた。頭にベールを被っただけで他は一糸纏わぬ姿をしているお腹を膨らませた女の母親は、幹に穿たれた二つの窪みに両手を掛けて蛙のようにしゃがみ、必死に息んでいた。

 

「ふううぅぅぅっっ~ふううううぅぅっ~うううううぅぅぅっっっ~~!!」

 

彼女の苦しげな声に合わせて不思議な調べの唄が響く。

 

「「「くーらんっ くーらんっ てーおっ」」」

 

それは彼女と大木を取り囲んでいる、首から足先までをゆったりと覆う純白の白衣を着た女性達の口から発せられる、重なり合った声だった。女たちは大木の落とした拳よりも大きな葉を右手に握って胸に当てながら、頭をゆらゆら上下に振って、

 

「「「くーらんっ くーらんっ てーおっ」」」

 

と一定の調子で唄っていた。

何度も何度も。

腹の中の赤子に呼びかけるように。

腹から頭を下にして出て来るのを促すように。

 

『エルフの一族に伝わる赤子を産むための儀式だ。赤子が生まれるまで休むこと無く続ける』

 

確かに“儀式”と呼ぶに相応しい神聖な空気があった。それは多分、荘厳で立派な大木と、森の妖精であるエルフと、命の誕生である出産と、原始的な唄と……そういった自然が一堂に会しているからなのだろう。

やがて、

 

「ぐううううううううううぅぅぅぅっっっ!!!」

 

と彼女が一際大きな声を漏らし、同時に股ぐらから顔を出していた赤子が草原へと滑り落ちるように産み落とされた。周りで唄っていた女達が直ぐに集まってきて、一番年配の女が血を浴びた赤子を抱いてその身体をタオルで拭き上げた。

元気に泣いている赤ちゃんは可愛いのに、その赤ちゃんを覗き込む女性達は皆一様に怪訝な顔をした。

 

「ほとんど人間と変わらないじゃない……」

「強姦魔の血が濃いわね」

「悪魔の子よ」

「呪われているわ……」

 

女達はどうやら、生まれた赤子が金髪では無く青みがかった黒髪であることや、白い肌では無く褐色の肌であることや、耳が尖っていないことや――つまり人間の特徴を色濃く受け継いだその姿を、良く思わなかったらしい。

 

『エルフと人間が交わることは禁忌だった』

 

言われなくても分かる。

母親が汗と涙で顔をドロドロにして死に物狂いで産んだのに、周りを取り囲む女達の誰一人として、赤子の誕生を祝ってはいなかったのだから。

 

 

 

 

若草色のワンピースを着た私よりも少し年下に見える少女が、木の根元で四つん這いになって頭を抱えて蹲っていた。小さな手の添えられた青黒色の髪の毛と、肩を覆う短い袖や膝を覆うスカートから剥き出しになった褐色の肢体を見て、あの女だと直ぐに分かった。

少女は取り囲んでいる同年代の子供達から、何度も裸足で踏み付けられていた。

 

「しーね! しーね! しーね!」

「きもち悪いんだよ穢れた血め!」

「あくまの子ぉ! 汚い子ぉ!」

「でていけ! 里からでていけ!」

「くたばれっ! くたばれっ! このっ! このっ!」

 

天使のように美しい顔立ちをして、男女問わずスカートのワンピースを身に纏った子供達が、眼下で丸まっている背中に容赦なく罵倒を浴びせかける。

少女は蹲ったまま無抵抗に踏まれ続ける。

その構図はまるで森で悪事を働いた人間の子供を、エルフの子供達が力を合わせて懲らしめているかのようだった。

 

「ねぇコイツの髪、黒くて汚いからさぁ! キレイに洗い流してあげましょうよ!」

 

少女の囲む子供の輪に交じっていた一人の女の子が、無邪気に笑みを浮かべて言った。

 

「それってどうやるの?」

 

隣に立っていた男の子が尋ねると、女の子がニヤリと笑った。

 

「見てなさい!」

 

そう言って女の子は頭を垂れる少女の直ぐ傍に立つと、スカートをたくし上げて――放尿をし始めた。

宙に弧を描く黄金色の小水が、少女の青黒色の髪に当たってビチビチと跳ねた。

その無様な姿を見て女の子は邪悪に笑みを深めた。

 

「私達は“こーけつ”なエルフなんだから、醜く黒ずんだ人間の髪の毛もおしっこでキレイに出来るはずよ!」

 

女の子は悪びれもせずに堂々と宣言する。

目を見開いてにんまりと口角を吊り上げたその表情はとても晴れやかで、人の頭に尿を掛ける行為を悪い事だとは微塵も思っていなさそうだった。あるいは本当に思っていないのかもしれない。人間の血が流れる者を畜生同然と見なして、何をしても許されると思っているのかもしれない。爽快な表情からはそんな純粋で気色の悪い選民意識が感じ取れた。

彼女の言葉を聞いた周りの子供達も、名案だとばかりに目を輝かせた。誰も言葉の正当性を疑ってはいなかった。みんな男女問わず競うようにスカートをたくし上げて、放尿した。

その行為は直ぐに本来の目的さえも忘れ去られた。排出物で相手の身体を汚すという淀んだ快楽が幼心を染め上げて、宙に掛かる幾筋もの黄金色の放物線が少女の身体を頭から足先まで満遍なく濡らした。

やがて子供達が飽きてどこかに走り去っていくと、少女は幽鬼のようにふらりと立ち上がった。

髪から垂れた水滴が肌を濡らすその顔は、全ての感情を忘れたかのような無表情で、瞳には光が無くて、私はぞっとした。

 

『娘は聡い子だった。幼いながらに理不尽な仕打ちから心を護るために虚無という仮面を身につけた』

 

女は里の方向へと歩き始めた。

森の中を歩く途中で何人かの大人達とすれ違った。

木の枝に座ってハーブを弾いていたり、木の根元で仲間と立ち話に興じていたり、木の幹にもたれ掛かって本を読んだりしていた成人のエルフ達は、肩を落としてずぶ濡れで歩く少女の姿を見ると一様に眉を顰めた。まるで存在そのものを嫌悪しているようだった。

中には声をかけてくる者もいた。

 

「友達にやられたのか? 汚れた血の流れる身体にはお似合いだなぁ!」

 

若い男がニヤニヤと笑った。

 

「おい! お前の母親はなぁ! 下等な人間にみすみす犯されてガキまで産んだエルフの恥知らずだ! クソったれだ!」

 

年老いた男が何故か母本人では無く娘を罵った

 

「あーおぞましいおぞましい」

 

すれ違いざまに老婆がわざとらしく呟いていった。

 

『あの娘は里の誰からも避けられていた』

 

それはもう、うんざりするほど伝わった。

 

 

 

家の中でさえ少女は一人だった。

母親は床上に座り込んで泣いていた。

少女が話しかけると「アンタなんか産まなければ良かった……アンタさえいなければ……」と平気で呟いていた。少女が沢山話しかけて、本を読んで欲しいとねだって、抱きしめて欲しいとお願いしても、母親は冷たい目を向けるだけだった。

 

『母親の心は娘が生まれて以降かなり不安定だった。ある時は里の者達から向けられる厳しい視線を娘のせいにして嘆き、ある時は自分自身を罵って泣いていた』

 

機嫌が良さそうな日も中にはあった。

そういう日は少女はここぞとばかりに甘えて、ベッドの上ではくっついて眠った。

ある日、少女はベッドの上で横たえた身体を母親と向かい合わせて、鼻先の触れ合う距離で呟いた。

 

「ねえ、ママ」

「なぁに?」

「私達はいつか……里の皆に受け入れてもらえるのかなぁ……」

 

娘の素朴な問いかけは母親の心の柔らかな部分に迫るものだったらしい。

柔和な笑みを浮かべていた母は表情を一変させて、目を真ん丸に開き、虚ろな視線でポツポツと語り始めた。

 

「そうね……そうよね……。私が人間の男なんかに孕ませらてしまったから……まともなエルフの男との間に子を設けられなかったから……」

 

母親はやがて涙を流し始める。

 

「ごめんね……ごめんね……私のせいで……私が失敗しちゃったせいで……貴方にも辛い思いをさせて……」

 

娘に泣きながら謝罪する母親の姿は、端から見ていてもとても痛々しかった。

母親が泣いて彼女も辛かったのだろう。慌てたように言った。

 

「ち、違うよっ! 怒ってないよっ! 私、パパがいなくても全然平気だよっ! それよりもママを独り占め出来るから、とっても幸せだよっ!」

「うぅ……ごめんね……ごめんねぇ……愚かなママでごめんねぇ……パパがいなくてごめんねぇ……」

 

意に反してますます涙を流す母親を見て、彼女は思いついたように言った。

 

「分かった! 私がパパになる!」

「……え?」

「わた……ぼ……“僕が”代わりにパパになるから、お母さんはもう泣かないで?」

 

彼女はそう言って母親の頭を小さな腕でぎゅっと抱きしめた。

少女が“パパ”になったところで何一つ解決しないと思ったけれど、それはきっと二人の実際の苦しみを味わっていない、傍観者な私の意地悪な感想だ。

だって抱きしめられた母親は目を閉じて笑みを浮かべていて、とても嬉しそうだったから。

 

「うううぅ……ありがとう……ありがとうイリアス……自慢の娘……」

「ママ、もう一つの方を言って?」

「……?」

「“あ”から始まるもう一つの言葉」

 

母親の髪を撫でながらうっとりと目を細めて“お願い”をする彼女の姿を見て、何故かこの瞬間だけは少女の方が年上のように思えた。母親は強く娘を抱きしめた。

 

「愛しているわイリアス……大好きよ……」

「わ、僕も。僕も愛しているよ、ママ。大好き……」

 

二人はきっと今、誰にも邪魔出来ない平和で幸福な安らぎの中にいた。

 

『だが、絶望は止まらない』

 

夜だった。

木の生えていない森の一角の草原の中心に巨大な人型の檻が立っていた。それは木の皮や蔓を編み込んで作られた見上げる程に大きな人型の編み細工で、空洞な四肢にはそれぞれ生きたままの熊、蛇、梟、狐が囚われていて、胸の籠にはエルフの壮年の女性までもが入っていた。

檻を囲むように、全身に白いローブを纏ったエルフ達が両手を繋いで輪を作っていた。

やがて人型の檻が発火して生け贄を閉じ込めたまま激しく燃え始める。

 

「「「ツェーラン ツェーラン ヴィーロイドォ」」」 

 

エルフ達が声を合わせて奇妙な響きの合唱を始める。曲に合わせて組んだ手を波のように緩やかに上下させながら、前後に独特なステップを踏む。

 

「「「ヴェエーラン ヴェエーラン フィーロイドォ」」」

 

煙と共に夜空へと響かせる。

 

『三百年に一度行われる神への感謝の儀式だ。エルフは自然物を神の恵みと捉え、それを食らって生きてきた事の謝意を込めて三百年間処女であり続けたエルフの女性と、神の好物とされる動物たちを生け贄に捧げて燃やす』

 

だけど、この場のどこにも、少女と母親の姿が見られなかった。

 

『あの憐れな親子は神聖な場には相応しくないとして儀式への参加を許されなかった。この出来事が、人間と交わりを持ったエルフやその血が流れる子供は仲間では無いという、里の者達が抱いていた差別意識を急速に助長した』

 

「「「ツェーラン ツェーラン ヴィーロイドォ」」」 

 

重なり合うエルフ達の声。

煙は闇夜に吸い込まれる。

命が轟々と燃える。

 

「「「ヴェエーラン ヴェエーラン フィーロイドォ」」」

 

檻が崩れ去る。

 

弓矢を背負ったエルフ達が茂みに隠れて鹿を待ち伏せしていた。あの母親の姿は無かった。網を持ったエルフ達が並んで川を歩いて魚を追い込んでいた。あの母親の姿は無かった。籠を背負ったエルフ達が森の中を歩き回って果実を拾い集めていた。あの母親の姿は無かった。

 

『生けとし生ける者を傷つける様な魔術を行使できないエルフは、集団で原始的な狩猟や採集を行い、その報酬を分け合っていた。欲に走った罪深き行いとして、個人での狩猟採集は固く禁じられていた。そのため仲間外れにされて労働すら許されなくなった母親は、食糧を得ることが出来なくなった』

 

少女は部屋の隅っこで膝を抱えて座っていた。

少女は淀んだ目でベッドの上を見つめていた。

生足と覆い被さる背中。

母親が里の男に犯されていた。

 

『卑しい男達は、困り果てた母親に目を付けて食糧を対価に言い寄った。自分の子を孕めばまた仲間として受けいれてあげられる、などと見苦しくも善意を装った言葉を口にする男もいたが、揃いも揃って内心では都合の良い性処理用の穴としか見ていなかった』

 

少女は汚らわしい男の臀部が上下に揺れる様をずっと眺めていた。

 

家に居場所の無くなった少女は森の中をさまよい歩いていた。

すると茂みの間の獣道の途中に角の生えた茶色い兎がいた。

少女が近付いても逃げることはせず、よく見れば右後ろ足の付け根が赤く腫れ上がっていた。少女はしゃがみ込んで、患部に手を添えた。すると美しい緑色の球状の光が兎の後ろ足を包み込み、赤い腫れがみるみる引いていった。

 

「これでよし」

 

少女が手を離すと、兎は嬉しそうに少女の周りを3周ほど駆け回ってから、茂みへと消えていった。

次の日も少女が同じ場所を訪れると同じ兎がいた。

兎は待っていたように少女に駆け寄って足の周りをぐるぐる駆け回った。少女が歩くと跡を追うように付いてきた。少女が、森の木漏れ日を浴びて柔らかく輝く大きな倒木を見つけて、もたれ掛かるように膝を立てて座ると、その横に兎もちょこんと座った。

少女が兎のつぶらな瞳を見つめる。

 

「名前は?」

「ミュウ!」

 

兎は甲高い声で鳴いた。

 

「ミュウって言うの?」

「ミュウ!」

「ミュウも一人なの?」

「ミュウ?」

「お互い大変だね」

「ミュウ!」

 

それから少女は何気なく手元に転がっていた緑色の木の実を拾い上げて投げた。木の実は宙に放物線を描いて遠くの茂みへと消えていったが、それを見た兎は軽快に走り出して茂みへと突っ込んでいき、見事に木の実を咥えて戻ってきた。

兎はどこか誇らしそうに少女の手元に木の実を落とした。

 

「すごいね」

「ミュウ!」

 

それから少女と兎は、木の実を投げては取ってくるという遊びを何度も繰り返した。

やがて飽きると少女は兎を腹の上に抱いて、柔らかな毛並みを撫でた。

 

「最近ママが笑ってくれないんだ……」

「ミュウ?」

「ご飯を食べてても料理を作っててもずうっとぼーっとしてて、暇なときはすぐに寝ちゃうんだ……」

「ミュウ!」

「男が来た後はベッドの上で悲しそうに泣いてるんだ……」

「ミュウ……」

「男なんてみんな死んじゃえば良いのにね」

「ミュウ!」

 

ポツポツと零れる少女の言葉を兎は黙って聞いていた。次の日も次の日も次の日も――そうだった。

少女が兎と過ごす時間をとても大切に想っていることは傍目にも分かった。

 

『だが細やかな幸せも長くは続かない』

 

あるとき一人と一匹だけの空間に乱入者が現れた。

 

「あー、強姦魔の娘はっけーん」

 

木々の蔭から現れたのは、かつて彼女の頭に笑顔で放尿した女の子だった。その子が二人の男の子の取り巻きを連れてやってきた。

 

「ぜんぜん姿見ないし。もう死んじゃったのかと思ったわ」

 

少女は兎を地面に放すとその場から逃げだそうとした。だけど直ぐさま男の子二人が追いかけてきて、彼女を羽交い締めにした。

 

「話があったのよ、アンタに」

 

そう言って距離を詰めてくる女の子を彼女は警戒するように睨み付けていた。女の子は彼女の前に立つと、

 

パアンッ

 

その顔を躊躇無く引っぱたいた。

 

「やめてよその顔。むかつく」

 

彼女を見下ろす女の子の瞳は黒く冷えていた。

 

「知ってるわよ。アンタの母親、最近身体を売り始めたって。そのせいでパパとママが喧嘩してウチが最悪よ」

 

彼女の瞳を真っ直ぐ睨んで女の子は恨みを吐き出す。

 

「どう責任取ってくれるの? ねえ」

「そんなの、知らない」

 

パアンッ

 

女の子は再び彼女の頬を引っぱたいた。

その目は怒りで見開かれている。

 

「知らないってなによ! ふざけないでよ! アンタの母親の話でしょ!」

「知らない。ママの話だから。僕じゃないから。知らない」

「“僕”っ!? 気持ち悪い喋り方してんじゃないわよ!」 

 

パアンッ

 

女の子は彼女の言葉の一つ一つが気に入らないようだった。俯いた彼女の髪を掴み上げて、怨嗟をぶつけるように捲し立てる。

 

「ママが言ってたわよ! アンタの母親が私のパパを誑かしたんだって! 色狂いのクソ女だって! 強姦魔だってアンタの母親が自分で誘惑したんだって! 最低で気持ちの悪いクズ女!」

「そんなわけない!」

 

パアンッ

 

「口答えしてんじゃねーよカス! 私の家族壊しておいてふざけんな! アンタ達は有害なのよ! 自覚しなさいよ! 生きててもしょうがないだから! せめて黙って叩かれてなさいよ!」

「違う!」

 

パアンッ

 

「違わないんだよ!」

 

パアンッ

 

「違う!」

 

パアンッ

 

「うるさい!」

 

パアンッ

 

女の子は彼女をひたすらに一方的に叩き続けた。

大人達へ抱くべき憎悪も全て纏めて彼女にぶつけるように。

何度も何度も――。

繰り返し繰り返し――。

その暴力には終わりが無いかのように思えた。

――だけどその手は途中で止まった。

 

「痛ったああっっ!?」

 

女の子が突然に悲鳴を上げて飛び上がった。

女の子のスカートから飛び出る生足の裸足の足首に、角の生えた兎が頭突きをしたからだった。

女の子は血を流す足首を押さえながら、目を剥いて兎を睨み下ろした。

 

「なんなのよコイツ!」

 

女は小さな友達の姿を見て目を見開いた。

 

「ミュウ!?」

「ミュウ!」

 

兎は返事を返すように少女を見上げて鳴いた。

少女は目を潤ませて懇願した。

 

「ミュウ! 僕の事なんて良いから! 早くどこかに逃げて!」

 

だけども兎は彼女の言葉を聞かなかった。

今度は少女を羽交い締めにしていた後ろの男の子の内の一人に狙いを定めたようで、頭を下げてその鋭い角の先端をスカートから覗く男の子の生足に向けた。だが地面を蹴って突撃しようとしたまさにその時、

 

「ミュッ!?」

 

短く途切れた鳴き声と共に兎の身体が宙を舞った。

女の子が蹴飛ばしたからだった。

 

「ミュウ!?」

 

少女が悲鳴を上げるも、地面に強く打ち付けられた兎はぐったりして動かない。

女の子が傍に立って兎を見下ろす。

 

「コイツの名前ミュウって言うんだ。アンタの友達?」

 

そう言いながら女の子が右足の親指の爪先で、兎の柔らかい横腹をぐりぐりと弄る。

血相を変えた少女が羽交い締めにされている身体を前のめりに倒して叫ぶ。

 

「やめて! その子には手を出さないで!」

「へえー大事なの?」

「大事だ! 僕にはその子しかいないんだ! だから傷つけないで!」

「ふーん」

 

納得したように間延びした声を漏らした女の子は、直後に、ニヤリと底意地の悪い笑みを浮かべた。

そして、

 

「ミュッッ!?」

 

再び蹴飛ばした。

兎は地面の上に身体を打ち付けながらゴロゴロと転がった。女の子は足下に落ちていた握れるくらいの手頃な太さの棒状の枝を拾って、地面に先っぽを引き摺りながら、倒れ込む兎の元へと近付いていく。まるで処刑人のように。

 

「やめて! やめてよ! 近付かないでよ! なんでそんな酷いことするんだよ!」

「酷い?」

 

女の子がピタリと足を止めて首だけを傾けて彼女を見た。

 

「先に酷いことをしたのはそっちでしょ。私の大事なパパを奪っておいてさ。アンタだけ大事なモノがあるなんて不公平じゃない」

「やめて」

「だから私が」

「やめてぇ……」

「奪ってあげる!」

「やめろおおお!!!」

 

彼女が叫ぶのと女の子が天に翳した棒を振り下ろすのは、同時だった。鈍い音がして兎の背骨が砕ける音がした。兎の小さな身体が痙攣した。

 

「ミュウ! ミュウ!!! ミュウ!!!!」

「あはははははははははは!!」

 

女の子は邪悪な笑い声を上げながら棒を叩きつけ続けた。兎の身体はもう動かないのに、彼女に見せつけるように執拗に何度も棒を振り下ろした。

 

「もうやめて! やめてよぉ!」

「くははははははは!!!」

 

彼女が懇願すればするほど女の子はその顔に悦を浮かべて、恍惚とした表情で兎の身体を痛めつけた。

 

「お願い……それ以上苛めないで……」

「あはははははは!」

 

少女は壊れていく兎の身体を見て涙を流した。

背中が凹んで、首があらぬ方向に折れ曲がって、口から赤黒い血を吐き出す兎の姿を見て、ボロボロ泣いた。

泣いて。

泣いて。

それでも眼前で行われる鬼畜の諸行がきっと、彼女の心の箍を外した。

彼女が女の子を強く睨み付けると――

 

「うわああああああぁぁぁぁぁぁっっっ!!!」

 

全身が燃え上がった。

 

「熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱いっっ!!!」

 

女の子が悲鳴を上げながら地面の上を転げ回る。彼女を羽交い締めにしていた男の子達もそれどころでは無くなって、困惑した様子で火達磨の女の子に駆け寄る。その二人も彼女が睨み付けて直ぐさま燃え上がる。

 

「「「うああああああぁあああぁぁぁぁぁぁっっ!!!!」」」

 

炎に焼かれる三人の子供の悲鳴が森中に響き渡った。やがて騒ぎを聞きつけた大人のエルフが駆けてきた。炎に纏わり付かれて転げ回る子供達を見て目を剥くと、魔術で生成した大量の水を急いで浴びせかけて、子供達を包んだ炎を消火した。

少女は何もせずただじっと見ていた。

 

『エルフは魔術で動物の命を脅かすことは出来ない。それは何千年と保たれた高潔なる呪いだった。だが娘は違った。人の血という“不純物”が混ざった事で秩序ある自然の摂理から外れた存在となったあの娘は、万物に魔術を行使出来るようになった。同胞達からすれば、自分たちの命を奪うことの出来る彼女の存在は、怪物以外の何物でも無かった』

 

 

ドピシャアアアアアアアアアアアアアンッッッ!!!

 

空気を切り裂く雷鳴が轟く深い森の中。

少女は神木に括り付けられていた。

囲むのに大人が何十人も手を繋ぐ必要がありそうなくらいに太い幹に回された麻紐で、幹と背中がくっつくように身体を縛り付けられていた。

 

「悪魔の子め!」

「里から消え失せろ!」

「死んで詫びろ!」

「くたばれ!」

 

暴言と共に大量の石が投げつけられる。

投げているのは遠くに立っているエルフ達だった。

少女とエルフ達との間には、波のようにうねり絡み合い露出する巨木の根が、自らの強大な生命力を主張するかのように広大に広がっていた。

 

『これは断罪の儀式だった。罪を犯した者を神木に括り、里の者達は木の根の外側から罵倒と共に一日中石を投げつけ、もしも日を跨いでも生きていたらならば、その者を許した。大抵は夜の内に獣に喰われて死んだ』

 

「謝罪しろ!」

「悪いと思っていないのか!」

「気持ち悪いんだよ!」

「生まれてきたことを謝れ!」

 

ゴロゴロピシャアアアアアアアアッッッ!!!

 

雷鳴と共に石と罵詈雑言が次々と飛んでくる。

それはまるで断罪という都合の良い機会を手にした里の者達が、彼女に対して溜め込んできた鬱屈とした気持ちを、ここぞとばかりに発散しているかのようだった。

里の者達は得体の知れない彼女を気味悪がり、責め立て、謝罪と死を要求した。

だけど彼女は俯いたまま一言も喋ろうとはしなかった。

 

『娘は子供を三人燃やして重傷を負わせたが謝意は微塵も抱いていなかった。子供を包んだ炎は、彼女が今までに里の者から向けられてきた理不尽な仕打ちに対する怒りの表明であり、悪意への反乱を悪い事だとは全く思っていなかった』

 

だが、やがて風向きが変わった。

主に里の女達が彼女の母親を糾弾し始めた。

 

「こんな怪物を産んだ女にも原因があるわ!」

「あの阿婆擦れも同罪よ!」

「親子一緒に殺すべきだわ!」

「母親も縛り付けなさいよ!」

 

女達の言葉には身体を売っている母親に対する嫌悪的な感情が如実に混じっていた。男達も最初は言いにくそうにしていたが、やがて女達に混じって母親を非難し始めた。気付けば“こんな娘を産んだ母親も悪い”という空気に満たされていた。

 

『娘は困惑した。自分が責められる分には一向に構わなかったが、まさか母親までもが槍玉に挙げられるとは思ってもいなかった』

 

「そもそもあの淫乱女が悪いんだ」

「人間如きに犯されるなんて馬鹿が過ぎる」

「あの卑しい女は自分から人間を誘ったんだろう」

「あんな雌狐死んだ方が里のためよ」

 

エルフ達はもはや断罪することよりも、彼女の母親を侮蔑することに熱心になっていた。彼女はゆっくりと顔を上げた。エルフ達は石を投げることすら忘れ、母親の悪口を言い合うことに夢中になっていた。

 

『娘は愛する母親を貶される事が許せなかった。だから燃やしてやろうと考えた』

 

少女は蒼い瞳を動かして標的を一人一人見定めていった。

大きく息を吸って、深く息を吐いた。

それから意識を集中させるように眉間に皺を寄せた。

――しかし

 

「駄目よ」

 

彼女を止めたのは母の声だった。

彼女は弾かれたように顔を横に向ける。

茂みの蔭からこっそりと出てきた母親が、木の根を跨ぎながら神木の根元にまでやって来ていた。

 

『断罪中に神木の根を踏み越えることは重罪だった。だが母親は娘を止めるために罪を犯すことを選んだ』

 

母親は彼女の正面に立つと、しゃがみ込んで目を合わせて言った。

 

「絶対にみんなを傷つけては駄目よ」

「でも……!」

 

少女が言葉を続けようとすると、母親は娘の両肩に手を置いて首を横に振った。

 

「我慢するの……」

 

蒼い瞳には強い意志の籠もった輝きがあった。

だがそんな母親の思いを嘲笑うかのように心無い罵倒が背中へと飛んでくる。

 

「おい、阿婆擦れ女が一緒に死にに来たぞ!」

「掟破りだ! あいつも罪人だ!」

「投げろ投げろ! 石を投げろ!」

「穢れた親子をぶっ殺せ!」

 

沢山の石が勢いよく投げつけられる。

力強い投擲には明確な殺意が込められていた。

それでも母親は娘の前から一歩も動かなかった。

その背中に幾つもの石が跳ね返り、そのうちの一つが後頭部を直撃した。

 

「ママ!?」

 

母親は頭をよろめかせたが直ぐに顔を起こし、安心させるように娘の目を見つめた。

 

「耐えるのよ……」

 

だけども絶え間なく石は飛んできて、母親の背中に次々と石が打ち付けられる。後頭部にも何度も当たる。だけどもその度に母親は衝撃で頭を揺らしては起こしてを繰り返し、

 

「我慢よ……」

 

と口にした。

だけど母親の後頭部に何度目かの石がぶつかって頭を大きく揺さぶったときに、少女はとうとう我慢の限界を迎えたようだった。

少女は母親の肩越しに見える遠くに立つエルフ達を強く睨み付けた。

今にもエルフ達の身体が激しく燃え上がりそうだった。

だけど。

またしてもそれは――阻まれた。

 

「っ!?」

 

母が娘にキスをした。

途端に、キツく細められていた娘の眦が穏やかに緩んだ。

瞳から敵意が失われた。

 

『エルフは体内の魔素を唾液に混ぜて送り込むことで相手の心を落ち着かせる事が出来た』

 

「死んじまえ!」

「くたばれ淫乱女!」

「汚い親子め!」

 

少女は浴びせかけられる罵倒の言葉などもう気にしていないようだった。

 

「とっとと死ね!」

「里から失せろ!」

「エルフの恥さらし共!」

 

少女は瞳をトロンと蕩けさせて母からの口づけに溺れ、母親の背後に投げつけられる石をぼんやりと眺めていた。

 

「よっしゃあ! また頭に当たったぞ!」

「おい動くなよ! 殺すぞ!」

「投げろ投げろ投げろ!」

 

その呆けた表情はとても幸せそうだった。

だけどその幸福も――長くは続かなかった。

 

「がはっ!?」

 

母親が突然血を噴き出して娘の顔を赤黒く濡らした。正気に引き戻された少女が目を見開く。

 

「ママッ! ママッ!」

 

口から血を垂れ流しながら驚いたように目を剥いている母親に少女は血相を変えて呼びかける。だけど返事は返ってこず、代わりに再び口内で果実を破裂させたかのように勢いよく血を放射状に噴き出して娘の顔を赤く上塗りしてから、生気を失った瞳で少女の身体に倒れ込んだ。縛り付けられていて両手の自由が利かない少女の身体に母親が頭を擦りつけながら下へと崩れていった。少女は確かめるように恐る恐る下を向いた。母親の背中の左胸辺りに矢が二本突き刺さっていた。少女は眼球を動かしてゆっくりと視線を前に向けた。弓を構えた女性のエルフが立っていた。

 

『矢を放ったのは兎を殺した少女の母親だった。儀式では石を投げること以外は御法度だったが、彼女は憎しみに駆られて矢を放った。娘も一目見てそれを理解した』

 

少女は唇を震わせて、それから奥歯を割れんばかりに噛み締めて歯茎を向きだしにして――

 

「ぐうううううううううぅぅぅぅぅぅぅあああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

 

咆哮を上げた。

――周囲にあった全てのものが一瞬にして燃えた。

エルフ全員と森の木々と茂みと波打つ木の根が炎に包まれて火の海になった。

 

ゴロピシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!

 

彼女の怒りに呼応するように雷が鳴り響く。

烈火の中で少女は喉を焼きながら泣き叫んでいた。

 

暫くすると、老人が業火の中を歩いてきた。老人の身体は不思議な青いベールに包まれていて、炎が弾かれて、着ているローブが燃えることは無かった。

老人は倒れている少女に近付いた。

 

「生きたいか?」

 

嗄れた声で老人が尋ねた。

少女はわずかに目を開けて、喉の焼けたざらついた声で言った。

 

「死にたい……」

 

老人は“そうか”と言って身を翻した。

立ち去ろうとした丸い背中に少女が言った。

 

「でも……生きたい……」

 

老人は振り返って少女の元へと近付いていった。

 

『儂は代々この建物の守護と儂の知識を書き写す手伝いをエルフの里長に任せてきた。だが年寄りの身体は見事に黒焦げになっていた。だから代わりにあの娘を連れて行くことにした。そして辛うじて息のあった母親も、魔力で生き長らえる白くて細長い生命体“ネグロイ・マグロイ”に姿を変えてこの建物へと連れてきた。それからあの娘はずっと一人で何百年もこの建物を護り、儂の手伝いをしてきた』

 

━それがあの娘の、全てだ

 

 

 

 

 

目を開けるともはや見慣れた白い天井が見えた。

私の部屋のベッドの上だった。

視線をずらせばベッドの端に腰掛けたイリアス・オートルの姿があった。首元から足先までゆったりと覆う黒いワンピースを着た彼女は、窓から差し込む陽の光を浴びて、青黒色の短い髪を美しく輝かせながら、肩の襟から伸びる褐色の腕の先のしなやかな手で革表紙を支え、顔を俯かせて優雅に本を読んでいた。やがて私の視線に気付くと顔を上げ、静かに手元の本を閉じ、蒼い瞳を細めて穏やかに言った。

 

「おはよう、アリス。調子はどう?」

 

ベッドの上で身体を起こしてみたけれど特に普段と変わらなかった。

 

「本の山の上で寝てたからここまで連れてきたんだ。もちろん、ベッドの上に寝かせる意外は何もしてないよ」

 

微笑を浮かべた彼女が冗談めかして両手を挙げる仕草をしたのを見て、自分が嵐の夜に彼女を夜這いに来たと決めつけて、一方的に責め立てたのを思い出した。

今思えば、それは愚かな勘違いだった。

いや、意図的で最低な思い込みだった。

私はイリアスの切れ長の蒼い瞳を真っ直ぐと見据えて言った。

 

「ごめんなさいイリアス。私は貴方に酷い事を言って傷つけました。最低なのは私の方でした。本当にごめんなさい」

 

拒絶されるのが怖かったけれど、精一杯の誠意を伝えるために私は彼女の瞳から視線を逃がさなかった。イリアスは緊張した私の心を解すように頬を緩めた。

「勘違いは誰にでもあるものさ」

 

柔らかい低音が鼓膜を優しくなぞる。

 

「僕も誤解させるような振る舞いをして悪かった。ごめん」

 

彼女は必要のない非を認めて謝罪した。発せられたその言葉は“このまま真情を伝えずに済ませてしまえば良い”と甘い誘惑をするけれど、彼女の過去を知った今、私だけ胸の内を隠すのは“対等”では無いと思ったので、私は偽りの無い言葉を紡いだ。

 

「違うんです。本当はわざと思い込んだんです。イリアスが私を襲ったって」

 

イリアスが少し驚いたように目を丸くした。

 

「それは……どうしてだい?」

「イリアスが悪い人の方が私にとって都合が良かったからです」

 

困惑する彼女のために、私は“これまで”の事をぽつぽつと話し始めた。

 

「私はイリアスに会うずっと前、田舎の村に住んでいたんです。だけどある日に伯爵がやって来て私はお屋敷のメイドになりました。待っていたのは伯爵家族からの暴力でした。逃げだそうとしても騙されて連れ戻されて、痛みからは逃れられませんでした。だけどある日、竜が襲ってきて、私は屋敷から逃げ出すことが出来ました。その代わり私は竜に追われる身になりました。そんな時に会ったのがイリアス――貴方でした」

 

ここから先は勇気がいるので、一旦言葉を句切って深く息を吐き出した。

イリアスはそんな私の決意を見守るように、こちらにじっと穏やかな視線を投げかけて、私の言葉を待ってくれていた。

私は覚悟を決めた。

 

「私は貴方を信用していませんでした。どうせ今まで出会った人間と同じで私を傷つけるのだろうと思いました。なので道連れにすることにしました。どうせ竜に喰われるのならば、最後に悪人に一矢報いてやろうと思ったんです。貴方を殺そうとしたんです。でも貴方は善人でした。私に危害を加えようとはしなかった。だけどそれじゃあ困ってしまうので、私は貴方を悪人だと思い込むようにしました。ちゃんと復讐が果たせるように。最後に笑って死ねるように。そうやって私は自分に都合良く嘘を付いたんです――最低な人間なんです」

 

私はいよいよ咎められる恐怖に耐えかねて視線を逸らして俯いた。

私は痛烈な言葉を待った。

利己心に尻尾を振って認知を易々と歪めた、醜悪な私への軽蔑の言葉を。

窮地を救われた恩も忘れて堂々殺意を向ける、恥知らずな私への憎悪の言葉を。

何を言われても仕方が無いと思った。

どんなに鋭く尖った言葉も、柔らかな心臓で甘んじて受け入れようと思った。

ただ、言葉を待った。

だけど。

私の耳に届いたのは――

 

「そんなに気にしなくていーのに」

 

軽々とした陽気な声だった。

私が顔を上げるとイリアスは、嫌味の無い爽やかな笑みを浮かべていた。

 

「皆きっとさ。色んな経験をして、綺麗な事も汚い事も胸の内でごちゃ混ぜにしながら生きてるんだからさ。そこまで気にする必要は無いよ」

「でも私はイリアスを道連れにしようとして――」

「アリスに謝って貰えたから。それで僕の気持ちは確かに晴れたから、それで良いのさ。言葉と気持ちがいつも一致してるなんて、凄く難しいでしょ?」

 

何と言って良いか分からなくて口を半開きにしたまま言葉を詰まらせると、彼女は目を細めてクスクスと笑った。

 

「わざわざそんな胸の内まで僕に明かさなくて良いのに。アリスって、とっても真面目で可愛いね」

 

彼女が私の言葉から感じ取った“素直さ”を手放しで褒めるのを見て、私は話が噛み合わない違和感の正体に気が付いた。

彼女の過去を覗いた事実をまだ伝えていなかったのだ。

私は本来ならば秘匿されるべき彼女の過去を知ってしまったから、対等な立場になろうとして自分の過去も喋ったけれど、彼女からしたら、目の前の少女が大した脈絡も無くいきなり過去をペラペラ喋り出したように思えた事だろう。言葉の温度感に差が生まれるのも当然だ。

だけど彼女の過去を勝手に見たことを素直に口にすることもまた憚られた。

だってそんなの誰でも嫌に決まってる。

私だって過去を覗かれたら嫌だと思う。

でもこれ以上嘘を重ねるのは……。

私が悩んでいると彼女が首を僅かに傾けて尋ねた。

 

「どうかしたかい?」

 

穏やかな蒼い瞳と優しい声色。

彼女の物腰柔らかな雰囲気に後押しされて私は口を開いた。

 

「イリアスの過去を覗きました……」

「……え?」

 

彼女は心底驚いたように目を丸くした。

 

「異空間で本を書いている老人に出会って、その人がイリアスの過去が書かれた本を見せてくれて……」

「ああ……ああ……なるほど。賢人に会ったのかぁ。それでかぁ……」

 

彼女は何かを考えるように部屋の何も物が無い空間をぼんやりと見つめた。

私は今度こそ罵倒されると思った。

今はその言葉を考えている時間だと、そう思った。

でも違った。

イリアスは眉を下げて、悲しげな笑みを浮かべて私を見た。

 

「ということは、アリスには僕の全部がもうバレちゃってるって事だよね……それってすっごい恥ずかしいね……」

 

言葉とは裏腹にその顔は、羞恥よりも哀愁で染まっていた。

突然に影を落とした彼女の表情に私は困惑し、同時に胸が締め付けられる思いがした。

彼女が掠れた声で言う。

 

「君と初めて会ったとき僕が何て言ったか覚えてる……?」

「……すみません。あの時の記憶はおぼろげで」

「あ、そうだよね。変なことを訊いてごめんね」

「いえ」

「僕はね、君の絶望を貼り付けたような暗い顔を見て“似てる”って思ったんだ。昔の自分にそっくりだなって」

「似てる……」

「そう思ったら何だか助けてあげたくなって。ここまで連れてきてしまった……」

 

大して日が経っていないのに、遠い過去の話をされているような気がして不思議な気分になる。きっと彼女のゆったりとした口調が侘しさを助長している。

 

「君との生活は楽しかった。数百年も独りぼっちだったから、誰かの気配がするだけで心が舞い上がってしまった。君が笑うと嬉しかった。それでいっぱいちょっかいを掛けちゃったりしてね」

 

彼女が“ふふっ”と寂しげに笑う。

終わったなにかを懐かしむような、そんな感じ。

 

「……でも直ぐに気付いてしまったんだ。僕が僕に似てる表情をしていた君に手を差し出したのは、昔の“やり直し”がしたいからだって。友達はおらず、母からの愛もほとんど受けられなかった憐れな自分を、君を通じて救いたいからだって。さっきの君の悲しい話を聞いて更にその思いは強まった。君は虐げられた過去まで持ち合わせていて、それは僕にとっては申し訳ないけれど好都合な事で、虐げられた共通点が君の中に見える子供の頃の僕の輪郭をますます色濃くした。だから話を聞いている間内心では凄くうずうずしてしまっていたんだ」

 

彼女は目から逃げるように視線をずらして、私の首元を見た。

罪を告白するみたいに沈痛な面持ちで言う。

 

「今までに君を何度抱きしめたい衝動に駆られたか分からない。膝上に乗せて本を読んで上げたいとも思ったし、本をいっぱい運ぶのを頑張った君の頭を撫でて上げたいと思ったし、夜は一緒に布団に入ってくっついて眠りたいとも思った」

 

彼女が再び私の目を見る。

蒼い目を僅かに細めて唇をぎゅっと引き結んで、何かをじっと堪えるような悲しい表情。

 

「それってさぁ……」

 

口の端を引き攣らせて物憂げに笑う。

 

「――とっても気持ち悪いよね」

 

暗い影を纏ったその笑顔は酷く美しかった。

本当は辛い筈なのに感情を押し殺して無理をしている健気さが切ない笑顔から滲み出ていて、心が惹かれた。

私は言葉を忘れて魅入っていた。

彼女は私から距離を取るようにベッドから立ち上がると、大げさに両手を広げ軽快な口調で捲し立てるように言った。

 

「さあ、今のうちにこの建物から出て行った方が良い。僕がそのうちに何をしてしまうか分からないし、君を傷つけるのは全く本意じゃない」

 

私がベッドの上から動かなかったので一瞬の沈黙が生まれてしまって、彼女は腕を組んで顎に手を当ててモノを考える仕草をしながら言った。

 

「うーん。よし。近くの町まで送っていこう。森は獣が出て危険だからね。大丈夫。僕は森から出られない。だからそこでお別れだ。あれ、でも、そうか。竜か。竜が追ってくるのか。どうしようか。流石にどうにかしないとだよね……」

 

悲しみに隙を与えないように矢継ぎ早に話を進めていく彼女が痛々しくて、これ以上見ていたくなくて、気付けば私は彼女の黒いワンピースの腰の辺りを掴んでいた。彼女の言葉が止む。

 

「あの、嫌じゃないので……」

 

彼女が驚いた表情で私を見下ろす。

私は蒼い瞳を見上げる。

気持ちが伝わるように言葉をぽつぽつと紡ぐ。

 

「イリアスに構って貰うのは、その、悪い気はしなくて……。むしろ私もイリアスの過去を知ったときに“仲間”を見つけた気がして、ちょっと嬉しかったりして……だからその、行く場所も無いので……もう少し一緒に居ても良いでしょうか……」

 

彼女が目を丸くしたまま固まってしまったので、私はその隙に慌てて言い忘れた言葉を補足する。

 

「あの、竜が来る前にはここから出て行くので。絶対に迷惑を掛けないようにするので、お願いします」

 

言いながら自分でもなんと滅茶苦茶な事を言っているんだろうと思った。

一緒に居る事でいつか竜に襲われるかもしれない恐怖をずっと味わされ続けるのは、酷い苦行だろうと思った。ましてや実際に竜が襲いに来たとして巻き込まないなんて多分無理だ。賢人の書いた沢山の本を収めたこの建物諸共食べられてしまうかもしれない。そもそも。竜は今一体どこで何をしているんだろう……。

私があれこれ考えていると、彼女が勢いよくしゃがみ込んで私と目線を合わせた。まじまじと私の目を見つめる蒼い瞳が輝いていた。

 

「本当に僕と一緒にいてくれるのかい!? ここを出て行かないのかい!?」

「は、い」

 

勢いに気圧されながら肯定の言葉を絞り出す。

それを聞いた彼女は、目を見開いて、口角を吊り上げていって――

 

「ありがとう!」

 

満面の笑みでそう言った。

その細められた蒼い瞳と弾んだ声色は喜びに満ちていて、私も思わず笑顔になった。

すっかり感極まった彼女はいそいそと膝立ちになると、笑顔で両手を広げて私を抱きしめようとした。けれど、途中で何かに気付いたように薄目を開けてぴたりと手を止めた。

たぶん、“抱きしめたい”ってさっき自分で散々言ってたから、感情が昂ぶった末の純粋な抱擁行為でも私に“やらしい”と受け止められないか心配したんだと思う。

“嫌じゃない”って折角伝えたのに……。

私は心の中でちょっとだけ苦笑しながら、たとえ彼女から甘やかされる行為であっても私には受け入れる意思がある事を示すために、自分から両腕を開いた。

 

「いいですよ?」

 

その言葉を聞くと、彼女は嬉しそうに目を輝かせた。

尻尾があったらぶんぶん振ってそう。

 

「アリス!」

 

彼女は大きな犬みたいに飛び込んできた。

背中に腕を回されて小さな身体をぎゅっと抱き寄せられた。

身体が柔らかくて温かい感覚に包まれた。

それはとても心地が良かった。

もっとくっつくために私も彼女の肩に顎を預けて背中に腕を回した。

身体と身体が密着し合う安心感があった。

あらゆる不安を忘れさせてくれるような。

そんな優しい温もりがあった。

――私はその感覚に浸ろうとした。

彼女の匂いで、温もりで、柔らかさで、頭の中をいっぱいにしてもらおうとした。

安らぎで、心地良さで、幸福感で、心を埋めてもらおうとした。

全てを彼女で満たしてもらおうとした。

――でも駄目だった。

どれだけ気を逸らそうとしても意識の端っこの方にそいつは、いた。

虐げられ続けて溜まりに溜まった、怒りや恨みや憎しみや悲しみがごちゃ混ぜになったヘドロみたいな黒い奴。

“君の為に最期に復讐を果たすから”と約束して今まで何とか我慢してもらっていたのに、とうとうその約束すら果たされない事が発覚して、さっきまでそいつは酷く不機嫌で、心の隅で駄々を捏ねるように暴れ回っていた。

その衝撃が心を揺らしてずっとムカムカしていた。

あんまり五月蠅いから夜に部屋で一人になったら口を開けてそいつの代わりに叫んでしまうかもしれない。暴れ回ってもしまうかも知れない。泣いてしまうかも知れない。

でも仕方が無い。

嘘を付いたのは私だから。

責任を持って苦しむしかない。

きっとこれからは、ずっと苦しんで生きていくしか無い。

幸運なことにもうすぐ死ぬから。

それまで苦しんで苦しんでそいつを抱えて最期は竜に食べられて……。

 

「それで、どうしようか」

 

抱きしめたまま耳元に口を寄せた彼女が突然息をたっぷり含んだ低い声で尋ねてきたので、私はビクッと身体を震わせた。

一体何のことだろうと思った。

何かの話の途中だったっけ?

私が聞き返そうとしたところで彼女が続けた。

 

「折角悪い人に復讐しようとしてたのに出来なくなっちゃって、きっと心がモヤモヤしたままだよね」

 

私は目を見開く。

彼女の穏やかな声が鼓膜を揺らす。

 

「辛いよね。虐げられた記憶はそう簡単に消えなくて、鬱屈とした感情がずっと残り続けて」

 

彼女の言葉が身体に溶け込む。

 

「引き延ばされた絶望って感じ」

 

それはまさしく。

私の心情を的確に言い表した言葉だった。

どちらからともなく身体を離した。

私はどこか得意げな笑みを浮かべる彼女と見つめ合った。

 

「どうして……」

 

言いながら、答えなんて分かり切っていると思った。

 

「だって僕は――君と同じだから」

 

彼女は誇らしそうに笑って言った。

――そうだ。

イリアスも虐げられた側だから。

私の気持ちなんてお見通しなのだ。

私は真っ暗な視界に一筋の光が差し込んだ気がした。イリアスなら。

私の心の理解者である彼女なら。

この絶望の抜け出し方を教えてくれると思った。

私は縋るような気持ちで彼女に訊いた。

 

「どうすれば……救われますか……」

 

だけど彼女は、神様では無かった。

彼女はさっきと同じ、眉の下がった悲しげな笑みを浮かべて言った。

 

「ごめんね。それは僕にも分からないんだ」

 

沈んだ声色には私を救えないことを辛く想う気持ちがありありと籠められていた。

またイリアスに辛そうな顔をさせた。

私は身勝手な期待をした自分を恥じた。

 

「私の方こそごめんなさい。イリアスも辛い思いをしたのに」

「そんなの全然気にしなくて良いよ。むしろ、僕の方が何百年も長く生きているのにこの不甲斐なさだ。情けない限りだよ全く」

 

彼女は皮肉な笑みを浮かべて自らを嘲笑した。

私は彼女が自分を恥じ入る必要は無いと思った。

それどころかこの“引き延ばされた絶望”を何百年も耐えてきたことを思えば、彼女は称賛されるべき偉業を成し遂げていると思った。

私は素直な言葉を口にした。

 

「イリアスはすごいと思います。ずっと孤独に苦しんできたなんて」

「ふふっ。確かに自分のことは褒めて上げても良いかもね。“偉いっ偉いっ”って」

 

彼女は自分で言ってて可笑しそうに笑った。

 

「偉いっ偉いっ」

 

私は手を伸ばして彼女の頭を撫でながら称賛の言葉を口にした。私達は“対等”だから、11歳の少女が数百歳のエルフを偉そうに褒めたって許されるのだ。

一瞬驚いたように目を丸くした彼女は直ぐに目を細めて嬉しそうに笑った。

 

「ありがとう」

「いえいえ」

 

そうして彼女も私の頭に手を伸ばす。

 

「アリスも生きてて偉いっ偉いっ」

「ありがとうございます」

 

しなやかな手に髪を撫でられるのは気持ちが良かった。

私達は二人で暫くお互いの頭を撫で合って褒め合っていた。端から見たらとても奇妙な光景なのだろうけど、私達は間違いなく至福の中にいた。

こういうささやかな幸せに飢えているんだ、私達は。

もちろんその場凌ぎでしか無いけれど。

ずっと辛いよりマシだ。

 

「――救う方法は分からないけれど、気晴らしをする方法なら知っているんだ」

 

気付けば彼女の膝の上に座っていてひたすらに一方的に髪を撫で回されていた私は、不意に彼女の言葉を聞いた。

気持ち良さですっかり呆けていた私は口を半開きにしたまま上を向いた。

顎を引いた彼女は笑みを湛えて私を見下ろす。

 

「少々野蛮なやり方だけど」

「野蛮……?」

「試してみるかい?」

「はい……」

 

私は気の抜けた返事をした。

 

 

 

 

 

 

「君は死者に会うことになる」

 

イリアスの後に従って廊下を歩いていると、彼女は背を向けたままそんな説明から始めた。

 

「元々はママに会いたくて作った部屋なんだ。賢人の知識を借りて、難解な術式を張り巡らせて、100年くらい掛けて作った部屋。死者を呼び出すための部屋」

 

耳心地の良いざらつきのある彼女の低い声が、緩やかな曲線を描いて続く廊下に響く。

一定の速度で離れ行く背中を私は黙々と追いかける。

 

「けれどママには会えなかった。どういう訳だか姿を見せてくれなかった。代わりに現れたのは会いたくない者ばかりだった」

 

揺れ動く褐色のうなじを眺めながら黙って耳を傾けている。

 

「彼らは無抵抗だった。そして僕の手元にはナイフと憎しみがあった」

 

やがて彼女が廊下の石壁に埋め込まれたとある扉の前で足を止めた。

私も隣に立った。

 

「ここだ」

 

それは木製の扉だった。

中央にナイフが刺さっていること以外は特に変わった所がない、質素な扉だった。

ただ、建物を案内された初日に“この部屋には入らないように”と端的に忠告された事だけは覚えていた。そのせいか飾り気の無い目の前の扉が、どこか物々しい雰囲気を放っている気がした。

 

「扉の先の部屋の床は沢山の動物の血を混ぜ込んだ泥が敷き詰められている」

「泥……」

 

私はイリアスを見上げた。

扉を見つめていたイリアスは視線に気付いて、私を見つめ返した。

 

「引き寄せた死者の魂に肉体を与える為の素地だ」

「この中では死んだ人たちがうじゃうじゃしているんですか?」

 

私は森で大きな石をひっくり返したときに見ることになる、大量の蟲が蠢く光景を想像した。

彼女は愉快そうに微笑んだ。

 

「そんなことはないよ。呼び戻せるのはこの部屋に足を踏み入れた者の心に強く呼ばれた者の魂だけだ」

 

よく分からなくて首を傾けると、彼女が更に言葉を続ける。

 

「想いの力はそれ程に強力なんだ。現世に執着する死者が亡者となって何時までもこの世を彷徨うように、生者が相手に向ける愛おしさや恋しさ、憎しみや恨みといった強烈な感情が、死者の魂を現世へと引き戻そうとする」

 

彼女が視線をちらと扉に向ける。

 

「僕がこの部屋に施した術式は、その想いの引力を幾重にも増大させて、死者の魂をあの世から強引に引き摺り出し、強制的に泥の肉体に閉じ込めてしまう。そういう身勝手でおぞましい術式なのさ」

 

彼女は自らを嘲笑するように皮肉げに笑った。

私は言葉を返すことが出来なかった。

彼女に呆れたわけでは無くて、摂理を歪める魔術の神秘性に驚いたのだ。

私は扉に顔を向けた。

部屋に足を踏み入れて現れそうな人間の顔を想像した。

――残念ながら家族では無かった。

金色の髪を後ろに撫で付け穴のように黒い二つの眼球を持つ壮年の男。

後ろ髪を薔薇のように纏めて醜悪に笑みを歪める中年の女。

眉目秀麗な顔立ちの悪魔のような笑みを浮かべる若い男。

私は愛情よりも憎しみの方が遙かに強大なエネルギーを持つことを自覚しなければならなかった。

まじまじと扉を見つめる。

恐怖のせいか。

憎悪のせいか。

身体が震えた。

 

「大丈夫。彼らは所詮、泥人形だ。指一本動かせないよ」

 

私の震えを恐怖が原因だと見て取ったらしい彼女が、隣で宥めるように言った。

私は再び彼女の顔を見上げる。

 

「そのような状態でもお母さんに会いたいと思ったのですか?」

 

言った後で意地悪だと思われてしまったかも知れないと不安が一瞬頭をよぎったけれど、彼女は全く気にしていない様子で微笑を浮かべた。

 

「会話は出来るからね」

「喋るんですか……?」

「うん。言葉は魂に刻まれるものだから、彼らは自由に物を話すことが出来るんだ」

「それは……困ります……」

 

私は情けなく言葉を零していた。

頭に浮かんでいたのは言うまでも無くあの三人だった。奴らは暴力だけでは無く言葉でも私を痛めつけたから、もしも奴らの言葉を聞いたら私の心は直ぐさま怯えを取り戻し、無様に身体を震わせるだろうと思った。

だけどイリアスはそんな私の不安を掻き消すように、あっけらかんとした口調で言った。

 

「喉を切り裂いてしまえば良いよ」

 

思いも寄らぬ言葉に呆然とする私を尻目に、彼女は扉に右手を伸ばしてナイフの柄を握りこみ、ぐっと力を込めて抜いた。そのまま右手でナイフを遊ばせるように鮮やかにくるくる回して、刀身の根元を人差し指と中指の間で挟んで摘まみ、棒状の柄の部分を私に差し出した。

私は恐る恐る右手を伸ばし、手の平で柄を握りナイフを受け取った。

 

「そのナイフの刀身には特別な魔力が込められていてね。肉体の朽ちた相手であっても、魂そのものを傷つけることが出来るんだ」

 

彼女は穏やかな笑みを浮かべて言った。

私によく見せてくれる朗らかな表情だった。

だけどちょっと違和感があった。

自然な振る舞いを装って、何か内側に汚いものを隠している感じ。

気になって彼女の僅かに細められた蒼い瞳をじっと見つめていたら彼女はニコリと微笑み返してきて、そのとき理解した。

――なるほど。

“気晴らし”ってそういうことか。

 

「痛そうでしたか?」

 

私は言の葉の裏の意味を悟ったことを知らしめるようにさりげなく言った。

“恨んでいる人を蘇らせて刺したんですね”

って遠回しに言った。

その言い回しは逆にわざとらしくて滑稽だったので、彼女は目を見開いた後、

 

「ふふっ」

 

と愉快そうに笑った。

それから彼女は自分の胸の内がバレたことを喜ぶみたいに嬉しそうに蒼い目を細めて、言った。

 

「とっても痛そうだったね」

 

二人して白々しい会話をしていることが可笑しくて、私達はお互いにクスクスと笑った。

私達は共犯者みたいだった。

もう罪を犯した者と、これから罪を犯す者。

虐げられた私達だからそのくらいの悪事は許されるよねって、低俗な意識を共有し合って傷を舐め合っている二人。

その秘密ごっこには甘い快楽があった。

彼女は一息吐いてから、言った。

 

「私はここにいるから。いつでも戻っておいで」

 

私はこっくりと頷くと、靴を脱いで、扉に手を掛けた。

彼女が待ってくれているなら安心だった。

 

 

 

 

 

不気味な部屋だった。

石造りの壁と天井に囲われていて窓は無く、物も置いておらず、ただ真っ暗な暗闇が、四角い部屋の中に充満していた。光源は壁に掛かった幾つかのランプで、橙色の明かりが床一面を覆う黒い泥をぬらぬらと闇の中に照らし出していた。

白いスカートの端を表面に触れさせながら、足首まで泥の中に呑まれている感覚は決して心地の良いものでは無かった。

裸足を、固体にも液体にもなりきれない中途半端などろどろに纏わり付かれて足の輪郭を徐々に食べられていくような、鳥肌の立つ気持ち悪さがあった。

私は扉から数歩進んだ位置でぼんやりと立っていた。静寂の中で自分の息遣いを聞きながら暗闇をじっと眺めていた。

不意に。

眼前の闇の中に青い灯火が現れた。

炎のような輪郭を絶え間なく揺らしながら闇に浮かぶ不定形の塊。

それを見たとき私は「あ、魂だ」と思った。

当然実物を見たことは今まで一度たりとも無かったけれど、宙を漂うそれを目にしたとき不思議と自然にそう思った。

魂は暫くふよふよとその場に浮いていた。

目的も意思も感じられない無害な塊だった。

――それは突然だった。

魂の真下に広がっていた平らな泥が、急に波のように高く盛り上がったかと思うと、魂を呑み込んでそのまま泥中へと引き摺り込んでしまった。まるで水鳥を下から急襲する巨大魚のようだった。

後に残ったのは静寂で、泥は何事も無かったかのように再び底に溜まっていた。

私はぞっとした。

この泥は生きているのだと思った。

じっと息を潜めて魂を襲う機会を伺っていたのだ。

やがて、正面の泥に変化が現れた。

さっき魂を呑み込んだ辺りの泥の表面が、沸騰した水みたいにぽこぽこ湧き上がっていた。

何かが起こる気がした。

予感は正しかった。

 

「っ!?」

 

私は目を見開いた。

泥から人間の足が生えてきた。

毛に覆われた薄茶色い滑らかな肌のそれはまさしく人間の足だった。

その足はどうやら泥によって形作られているようで、天井に向かって高く高く盛り上がっていく泥の人型模型を直ぐさま着色していくみたいにして、人間の裸体が下半身から徐々に出来上がっていった。

スネ、膝、太もも、腰、陰茎、腹……。

やがて、金色の髪を後ろに撫で付けた壮年の裸の男が出来上がった。忘れもしない穴のように黒い二つの目――伯爵だった。

伯爵は身動き一つせず、一言も喋らず、ただ黙って私を見てきた。

元から何かをじっと観察する人だったから、身体が泥人形なせいで動けないのか、私を“見る”ために動かないのか、分からなかった。その得体の知れなさが、不気味だった。

じっと向けられる粘っこい重たい視線。

真っ黒な瞳は酷く恐ろしかったけれど、ここで逃げては駄目だと自分を奮い立たせて私は必死に見つめ返した。

意識が穴の中に吸い込まれるような恐怖を感じた。

感情を奪われるようなおぞましさを感じた。

自分の輪郭が溶けていくような気持ち悪さを感じた。

私は私が私である事を確かめるために声を発した。

 

「私を散々に痛めつけて罪悪感は感じなかったのですか?」

 

もちろん返答に興味などない。

常人なら持つ筈の感覚が欠如している伯爵を非難して、気持ちを少しでも晴らそうとしただけだ。

だけどそんな私の神経を逆なでするかのように、伯爵は律儀に答えた。

 

「全く、感じなかった」

 

掠れた声が鼓膜を揺らした。

“お前にそんな価値は無い”と馬鹿にされているようで腹が立った。

そういえば言葉を発するときに口元が動いた。

もしかしたら身体は動かせなくても、表情くらいは変えられるのかもしれない。

どうでもいい。

 

「一度もですか?」

「ああ」

「他の傷つけたメイドにもですか?」

「いいや」

「……えっ?」

「他の者には罪悪感を感じた」

「……」

 

私は言葉を失った。

この男が如何なる人間に対しても罪悪感を感じない鬼畜野郎である前提で軽く質問したのに、予想に反して“罪悪感を感じた”と来た。

だとしたら。

私はとりわけ軽んじられていた事になる。

私だけが。

――なんで。

追求する前に伯爵の方から口を開いた。

 

「名前は知らないが5年くらい雇った、綺麗でしなやかな手を持つメイドがいた。それの左手の中指の第二関節を逆方向に折り曲げて二度と戻らなくなったときに罪悪感を感じた。尻の美しいメイドがいて、それを内側から壊そうとしてその結果、日頃から糞を垂れ流すようになってしまったとき、罪悪感を感じた。胸の美しいメイドがいて、その先端を――」

「もういいです!」

 

頼んでもいないのに次々に披露される話の恐ろしさに耐えきれなくなって、私は思わず制止した。

頭の中では、この男が最悪な勘違いをしているという予想が立っていた。

私はそれを確かめるために尋ねた。

 

「美しい壺を割ったときにも同じように感じましたか?」

「ああ、全く同じ感覚を抱いた」

「絵画を破いたときも」

「そうだ」

「宝石を砕いたときも」

「もちろんだ」

 

――私はこの男が間違っていると確信した。

その勘違いのあまりの醜悪さに私は歯をぎりぎりと噛み締めた。

この男は、喪失感と罪悪感を履き違えているのだ。

純粋に自分のお気に入りの美しいモノを自分の手で壊してしまったことに悲しみを感じているだけで、自戒の念など微塵も抱いてはいない。この男に相手の痛みを想う気持ちなどない。あるのは美しいモノ破壊する歪んだ快楽への渇望だけ。

そんなどこまでも自己本位で身勝手な感情を、罪悪感という聞こえが良い感情と、悪意すら無く勘違いしているおぞましさに、私は鳥肌を立てた。

この男はどこまでも私に嫌悪感を抱かせる。

 

「私がこうして現世に蘇ることが出来たのは一時的な幸運なのだろう?」

 

伯爵が掠れた声で尋ねてきた。

これ以上話をしていても仕方が無いので、私は伯爵を前にした瞬間から心の内でぐつぐつと湧き上がっていた暗い欲求に素直に従って、右手のナイフを握り締めて、伯爵の元へと近付いていく。

 

「ならば死ぬ前に今一度、お前の裸を見せてはもらえないだろうか。私はそれを目に焼き付けてから再び死に、“天国”へと昇る長い旅の間、お前の美しい裸の記憶を観賞して退屈を凌ごうと思う」

 

泥から足を抜いては沈めてを繰り返す。

びちゃびちゃと泥が跳ね散る。

 

「確かにお前の胸に埋まった瞳は酷くおぞましい。だが最期の記憶が竜の口内であるよりはずっとマシだ。それにお前は身体の各部位の美しさも格別だった」

 

伯爵の黒い眼を睨みながら近付いていく。

ナイフを突き刺す妄想を繰り返す。

目玉をぶっ刺す。抜く。

目玉をぶっ刺す。抜く。

目玉をぶっ刺す。抜く。

 

「お前の足は小さくて美しい。膝下も大きな湾曲が無く真っ直ぐに足首に繋がっていて美しい。腰から横腹にかけての曲線も美しい。へその浅い凹みも美しい。平たい腹も美しい。微かに浮き出るあばらも美しい。僅かに膨らむ乳首の色と形が美しい。滑らかなか――」

「うああああああああああぁぁぁぁぁぁ!!!!」

 

私は叫びながら伯爵に飛びかかった。

黒い穴目がけて右手を大きく振り下ろしてナイフを右眼の眼球にぶっ刺した。

 

「ああがあぁぁぁぁっ!! 目がああああああぁぁぁっっ!! 目がああああああああぁぁぁぁぁぁっっっ!!」

 

伯爵は叫び声を上げて背中から泥へと倒れていく。

ナイフの勢いに押されて泥人形が直立出来なくなったのだろう。私は右手で伯爵の眼球に突き刺したナイフを握ったままだったから、後頭部から泥へと落ちていく伯爵と共に前のめりに体勢を崩して、気付けば泥に膝をついて伯爵に馬乗りになっていた。

私は両手で柄を握って眼球に刺さったナイフを引き抜いた。縦に刻まれた傷跡は即座に塞がって、元の真っ黒な瞳孔に戻った。

何も無かったみたいに。

ふざけるな!

無かったことにするな!

私の痛みは本物だ!

苛立って左眼に向かって身体ごと両腕を振り下ろして眼球にぶっ刺す。

 

「いぎいいぃぃっっ!! 目があぁぁっ!! 目が潰れるううぅぅぅっっ!! やめてくれええぇぇぇっっ!!!」

「うるせえよ変態野郎っ!! 見てんじゃねえよっっ!! 気持ち悪いんだよっっ!! くそ野郎っっ!!!」

 

私はそう叫んでナイフを引き抜くと、再び右眼の眼球を振り下ろして抜いて左眼の眼球に振り下ろして抜いて右眼の眼球に振り下ろして抜いて――を交互に延々繰り返す。全身を揺らして体重を乗っけて獣みたいに暴力的に一心不乱に、刺しまくる。

 

「おらっ! おらぁっ! 変態っ! 死ねぇっ! 変態っ! くたばれっ!」

「ぐっがぁっ! ぁがぁっ! やめろっ! やめてくれっ! 痛いんだぁっ! 痛くておかしくなるぅっ!」

「知らねえよっ! 散々っ! 痛めつけたっ! くせにっ! 泣き言っ! 言ってんじゃねぇよっ!!」

「悪かったっ! お前を壊したかっただけなんだっ! 傷つける気は無かったんだっ! 美しかったんだっ!」

「何言ってるかっ! 分かんねえよっ!!! 気持ち悪いんだよっ! 苦しめよっ!! 苦しめええっっ!! もっと苦しめええぇっっ!!」

 

今まで痛めつけられて溜まりに溜まった怒りや恨みや憎しみを叫び散らしながらナイフで刺した。ひたすらに刺して刺して刺して刺し続けた。刺しても刺しても伯爵の瞳の奥を満たすのは所詮は泥でしかなくて全然刺した気になれなくて苛立ってやっぱり刺した。刺す度に伯爵はもみっとも無く悲鳴をあげて口元を歪ませてやめてほしいと懇願して気品を手放して憐れな被虐者に成り下がって、その程度の人間に痛めつけられていた自分が酷く惨めで苛立ってやっぱり刺した。

 

「謝れええっ! 謝れぇぇっ!! 全部謝れっ! 謝罪しろぉぉっ!!!」

「すまなかったっ! 申し訳なかったっ! 私が愚かだったっ! 私が間違っていたっ! だからもう止めてくれっ! 目玉を刺さないでくれえぇっ!!」

「うるさいっ! うるさいっ! 謝ってんじゃねえよっ! 図々しいんだよっ! 変態っ! 苦しんで死ねよぉっ!!」

「頼むうううっ! もう無理だぁぁっ! 気が狂いそうなんだあああぁぁっ!」

「うるさいっ! 勝手に狂ってろっ!! 死ねっ! 死ねっ! 死ねええぇっ!!」 

 

叫びながら無我夢中で眼球にナイフを振り下ろした。快楽があった。

かつて私を苦しめた権力者が、痛みの前に屈服して無様に泣き叫ぶ姿を見て心が躍った。情けなく苦しむ様を見てもっと痛めつけたい衝動に駆られた。ナイフを突き刺す度に胸がすくような爽快感があった。

もう痛みの権力の虜だった。

私は目をかっぴらきながら、自分が気持ち良くなるためだけに一方的に伯爵の眼球をナイフで潰し続けた。

――やがて

 

「あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ」

 

人を嘲笑う下卑た響きの笑い声が聞こえた。

振り返ると見覚えのある全裸の青年が泥の中に立っていた。

親譲りの金色の髪、目鼻立ちの整った爽やかな顔立ち、口の端の吊り上がった邪悪な笑み。

公子だった。

 

「おいおいクソ親父ぃっ! 派手にやられてんなああぁっ!!」

 

公子は三日月状に目を細めて心底愉快そうに笑いながら言った。

 

「いいぞぉっ! もっとやれぇっ! 痛めつけてやれぇっ! そいつは生きる価値のないクソ人間だぁっ!!」

 

私は両手にナイフを握ったまま立ち上がった。

そうして公子の元へ泥を散らしながら駆け出した。

 

「あああああああああああああぁぁぁぁぁっっっ!!!」

 

傍観者のフリしてんじゃねえよ馬鹿息子!

叫びながら勢いのままに腹にナイフをぶっ刺した。

 

「うぐぅっ!?」

 

公子は目が飛び出るほどに見開いて歯を噛み締めたまま、泥に背中から倒れ込んだ。

私はしゃがみ込んでナイフを右手で乱暴に引き抜き、公子の腹の上に馬乗りになる。

顔を引き攣らせて怯えている顔を見下ろす。

 

「痛いの好きでしたよねぇ!?!?」

「す、好きなわけ無いだろっ! 俺は痛めつけるのが好きなんだっ! い、いいから俺の上から離れろっ! その汚らわしい尻をどけろっ!」

 

ムカついた私は右手に握ったナイフを頭上に掲げて、男の顔に向かって前のめりに倒れ込みながらナイフを振り下ろし、眼球に切っ先が突き刺さる寸前で顔の横に手を着いて身体を支え、ナイフを止めた。

 

「ひ……ひぃ……」

「まだ立場が分かっていない馬鹿なんですねっ! また刺しちゃいますよ!?」

「や、やめてくれっ! 痛いのは嫌だっ! 痛いのは嫌なんだっ!」

「だったら今までの仕打ちを全部謝れよっ!」

「悪かったっ! 勘違いだったんだっ! ジジイもババアもお前を雑に扱っていたからっ! お前はそういうメイドなんだとっ! 痛めつけるためのメイドなんだとっ! そう思ったんだっ! だからっ!」

「ふざけんなぁぁぁっ!!!」

 

言いながら私は腹立たしい言葉を喋る憎々しい口の中に、ナイフを勢いよく振り下ろした。

 

「ごぱあぁっ!?」

 

喉をナイフで貫かれた公子は苦しげに呻き声を漏らした。

私はナイフを引き抜くと今度は首の根元に突き刺す。

 

「ぐぎがあああぁぁっ!!」

 

苦悶の浮かぶ表情を眺めながら今度は左腕に突き刺す。

 

「あっぐぁっ! 痛いっ! 痛いぃぃっ!! やめてくれぇっ! 勘弁してくれっ!!」

 

次は鳩尾に。 

 

「ぐいいいぃぃっ!! いってええぇっ! えうううぅっ!!! なんなんだよくそぉっ!!」

 

腹に。

 

「があっ! 痛いっ! いたいたいたいっ!! もう嫌だっ! もうやめてくれっ!」

 

公子が顔を歪めながら必死に懇願する。

私は憎しみに身を任せながら、確かに甘い快楽を感じて頬が吊り上がっている事を自覚している。

今まで優位な立場に立って自分を散々痛めつけていた人間が、痛みに恐れをなして動物みたいに怯えている姿を見るのは、気分が良かった。

痛みは平等だった。

誰に対しても等しく苦しみを与えた。

その揺らぎの無い力で人々の間に存在する不条理な立場の格差を破壊する公平さが、とても魅力的に思えた。神様も“痛み”を見習ってもっと平等に人間を作って欲しかったと思った。

私は更なる快楽を求めて、しなびた男根の根元にナイフの刃先を当てた。

 

「頼むぅ! そこはっ! そこだけはやめてくれえぇぇっっ!!」

 

公子は眦を開き血相変えて哀願した。

もう死んで肉体が無いというのに、偽りの泥の男性器にさえ執着する青年の姿は酷く滑稽だった。

頭に浮かんでいたのは今まで公子が私の性器に行ってきた数々の“悪戯”だった。それを思うと羞恥と怒りで腹が煮えくり返りそうになって、なんとか同じ様な目に遭わせてやりたいと思ったけれど、生憎公子は男だった。だから腹いせに男根を切り取ってやろうと思ったのだ。

私はナイフを振るうために男根の根元から刃先を僅かに遠ざけた。

その時にふと――ひらめきが訪れた。

まるで、私のことを不憫に思った神様が知恵を貸してくれたみたいだった。

男にも穴はある。

それを思い出した。

私は立ち上がると公子の右肩を蹴り上げた。骨も肉も無い身軽な泥人形の身体は、非力な少女の私の足蹴りでも簡単に引っ繰り返った。

 

「ぶぼぉおっ!」

 

泥に顔が埋まった公子が何かを言っていたが、背を向けて背中に腰掛けた。

私はナイフの刃先を尻の割れ目の根元にある穴に当てた。汚物をひり出す皺だらけの排泄器官。その狭い穴を穿るようにして刃先を何とか沈めると、一気に深くまで沈めた。

 

「がぼぼばばばばばばばばばばばばっっっ!?!?」

 

後ろから溺れるような声が聞こえたが私は丸っきり無視をして、公子の身体を内側から“壊す”ために、様々な角度を付けて何度もナイフを抜き差しする。

内臓がぐちゃぐちゃになる所を想像して掻き回す。

 

「がぶぶっばばっぼぼぼっごぼぼぼぼごばばっっ!!!!」

「痛いですか!? 痛いですよねぇ!? 私も痛かったんですっ! だからいっぱい苦しんでくださいっ!」

「がぼぼっぼぼおおっ!!! がぼぼぼぼっぼぼぼっ!!」

「覚えてますよねぇっ!? 無抵抗な私を何度も痛めつけた事をっ! 泣き叫ぶ私を笑いながら罵った事をっ! お前が全部悪いと言った事をっ!」

「ぐぼぼぼぼぼぼっぼぼっごぼぼぼぼっぼぼぼぼぼっっっ!!」

「お前がぜえええええんぶ悪いんだぁぁっ! もっともっと痛がれぇぇっ!!!」

 

私は叫びながらナイフを縦横に動かして、何度も内側を抉った。

“苦しめ苦しめ”と願いながら何度も何度も。

 

――ここまで来たら当然、あの女だって蘇る。

 

「きゃあああああああああああああぁぁぁぁっっっ!!!!」

 

突然悲鳴が聞こえて、私はナイフを動かす手を止めて立ち上がった。

声のした方向に顔を向ければ、予想通りの女の姿があった。

後頭部に薔薇のように纏めた髪型をした、白粉によって不自然なほどに肌の白い、赤い唇の中年の裸の女。

――夫人。

彼女は神経質そうに忙しなく目を動かして、足下に広がる泥と遠くに転がる夫と息子の姿を見て顔を引き攣らせている。

 

「何なのよここっ!? 気味悪いっ! 身体も動かせないしっ! どうなってるのよっ!?」

 

夫人は混乱したように騒ぎ立てた。

私はゆっくりと夫人の元へと歩き始めた。

泥を一歩一歩踏みしめながら、頭の中を満たしていた破壊的な怒りの衝動が引いていくのを感じた。代わりに沸々と心に湧き上がってきたのは嫌悪感だった。三人ともに憎しみを抱いているのは間違いないけれど、この女に抱くそれはどうにも毛色が違った。

多分純粋に嫌いなのだ。

この女の事が。

やがて夫人の前に立つと彼女が睨み付けるように眦を細めて私を見下ろした。

 

「どこよここっ! お前の仕業なんでしょ! 何が目的よ! 早く説明しないさいよ!」

 

捲し立てるように聞いてくる夫人に軽い苛立ちを覚えながら口を開く。

 

「ここは私が過去に貴方たちに暴力を振るわれた鬱憤を晴らすための部屋です。あそこに転がっているのは貴方の旦那と息子です。次は誰だか分かりますよね?」

 

私はそう言ってナイフを夫人の腹に突き付けた。

怯える夫人の顔を拝んでやろうという意地の悪い考えが頭にあった。

目論見通り夫人は顔を青くして狼狽えた。

 

「な、なによ!? 今更復讐しようって言うの!? おかしいんじゃないの!? 私はもう死んでるのよ!? 頭イかれてるわよ!?」

 

お前が死んだ程度で私の憎しみが消えるわけ無いだろうが。

私は苛立ちでナイフを握る右手をぎゅっと握りしめながら、刃先をより一層夫人の顔に近づけてへそに触れさせた。

夫人はぎょっと目を見開いた。

 

「ちょ、ちょ、ちょっと待ちなさい! 私はあの二人とは違うわ! 私はお前に暴力を振るったことなんて一度も無いわ! も、もちろん時々引っぱたいたりはしたけれど……それは、メイドとして必要な教育をしただけよ! 恨まれる筋合いは全く無いわ! だ、だから早く、その手を下ろしなさい!!」

 

夫人は喚き散らした。

――そうだ。

そういう女だった。

自分にとって都合の良い言い訳を幾らでも作り出す狡い女だった。ただ感情に身を任せて私を引っ叩いていたというのに、言い訳を並べて暴力を正当化しようとする意地汚い女だった。その狡猾で臆病な心から来る言動の醜さが本当に受け付けない。誤魔化しの効かない暴力の痛みを受けている私の前で、よくもまあ責任逃れの言い訳をぺちゃくちゃ並べることが出来るもんだって。責任から逃げ回る臆病女って。そう思ったのだ。

――喰らえ。

私は腕を引いて身体で体当たりするようにナイフを勢いよく腹に突き刺した。

 

「いぎゃあああああぁぁぁぁぁぁっっ!!」

 

夫人は悲鳴を上げながら後ろに引っ繰り返った。

驚きと痛みで目を剥いた夫人は口元を震わせながら腹からナイフを生やして泥に浮かんだ。その哀れな姿を見下ろして、ナイフの柄に裸足の右足を乗っけて腹に深く刺さるように“ぐっ”と踏み付けながら、

 

「痛いっ! 痛いっ! やめなさいっ!」

 

罵倒した。

 

「馬鹿だなってずっと思っていたんですよ。“夫の誘いに乗って抱かれているんだろ”とか“夫と一緒になって私の悪口を言っているんだろ”とか“お前のせいで夫は私に見向きもしないんだろ”とか言いがかり並べて私を叩いて。ずっと軽蔑してました。憐れだなって」

 

私がそう言うと痛みで口元を歪めていた夫人は表情を一変して、感情を高ぶらせたみたいに瞳孔をかっぴらいた。

 

「ば、馬鹿言ってんじゃ無いわよ! そんなこと一度も言ったこと無いわ! アナタ! 本当よ! 本当に私はそんなみっともない事は言っていないわ! 一度たりともよ! 私は最期までアナタの良き妻だったのよ!!!」

 

夫人は離れた位置で浮かぶ伯爵の耳にも声を届けようとしたのか大きな声で言った。

私は夫人の見苦しさに絶句した。

この女は死んでも尚、自分を守るために見栄を張った。

 

「むしろこの女はアナタの悪口をよく言っていたのよ! “髪が薄い”とか“不細工”とか“臭い”とか! だから私はこの失礼なメイドをよくぶっていたの! 教育していたのよ!」

 

一体何の話をしているのだろう?

 

「お前は本当に最低よ! 礼儀がなってないの! 田舎娘の悪い癖よ! そんなだからあの二人にも痛めつけられたの! 醜いメイドなのだから当然よ! 恥を知りなさい!」

 

私が悪いの?

 

「お前が悪いのよっっ!!!」

 

私は無性に腹が立った。

この女の口を塞がなければならないと思った。

ただナイフでベロを串刺しにするだけでは収まらないと思った。

この汚い口に相応しい汚い物で塞いでしまって、自分が如何に汚れた言葉を喋る汚れた口を持っているかを自覚させてやりたいと思った。

だから私はナイフを握って男共の所に歩いて行った。

泥に浮かぶ伯爵の陰茎を握り締め根元から切り取った。

 

「あぎああぁぁぁぁぁぁっっ!?!?」

 

泥に沈む公子の陰茎を握り締め根元から切り取った。

 

「ごぼがばばばばばっっ!?!?」

 

私は二本の陰茎を手に持って夫人の元へと戻ってきた。肩を挟むようにしゃがみ込んで口の中に二本とも突っ込んでやった。

 

「むぐううぅぅ!? むうううぅぅっ!? んんぐうううっっ!?」

 

私が片手で口を押さえ込んでいる間、夫人は目を丸くして呻き声を上げた。

言葉は喋れるのに吐き出す力は無いようで、私が手を離すと、陰茎を口に含んだまま夫人は器用に喚いた。

 

「お前! なんてものを口に突っ込むのよ! 気持ち悪い! 気持ち悪いわ! 早く取り出しなさい!」

 

うるさかった。

この女の言葉にはもううんざりだった。

私は夫人の肛門に肘まで腕を突っ込んで何かを掴んで引き抜いた。便なのか泥なのか知らないが、黒いべっとりとした塊を掴んでいた。この女の内側にあった汚物。私はそれを女の口に突っ込んでいっぱいにした。

 

「んんんんんっっ!? んううううぅぅっ!? ううううううぅぅっっ!?」

 

夫人はようやく汚い口で言葉を喋ることが無くなった。

それから私は夫人の身体をめった刺しにした。

ありったけの恨みを込めてめった刺しにした。

もちろん伯爵も公子もめった刺しにした。

怒りの限りめった刺しにした。

――何度も何度も。

――罵倒しながら。

全てを、めった刺しにした。

 

 

 

 

 

部屋から出たとき私の身体は泥まみれで、白いワンピースは真っ黒に染まっていて、頭から爪先まで酷く汚かった。

それでもイリアスは汚れるのも厭わずに、私を強く抱きしめてくれた。

私はイリアスの腕の中で咽び泣いた。

悲しかった。

 

 

 

 

 

 

イリアスに可愛がられる日々だった。

朝起きて廊下で会って挨拶をすると「おはようアリス!」と彼女はにっこりと笑ってそのまま私の額にキスをした。本を運ぶのに疲れてニョモに背をもたれて休憩していると、目が合って近寄ってきた彼女は“頑張ってて偉いね”と私の頭を撫でた。文字の難しさに苦悶しながら必死に本を読んでいると、どこからともなくやってきた彼女が私を膝の上に抱きかかえて、朗朗と文字を読んで楽しげに文字の読み方を教えた。夜は同じベッドの上で横になって私を抱き枕にした。

イリアスは日常において積極的にくっついてきた。

彼女はお喋りで愉快な同居人でありながら、時々お母さんのように私を甘やかした。

別に悪い気はしなかった。

彼女と一緒に過ごす時間が好きだった。

彼女のざらついた声も優しい手つきも好きだった。

抱きしめられたときの安心感が好きだった。

髪を撫でられたときのくすぐったさとかも好きだった。

彼女が好きだった。

だから私はこれから先の死ぬまでの短い毎日ずっと、彼女に可愛がられる覚悟をしていた。

友達のように楽しくお喋りして、時々子供みたいに甘やかされる。

そういう日々が、竜が来るその時まで続くんだろうなって思っていた。

それって結構悪くないなぁ、って思っていた。

幸せだなぁ、って思っていた。

だけど。

――そうはならなかった。

彼女はそのうちに一切くっついてこなくなった。

気付けば、今までの私を猫可愛がりしていた態度は形を潜めて、顔を合わせても取り留めの無い会話をするだけだし、夜寝るときも私の部屋に来て抱きしめたりすることは無くなった。

彼女は突然、元の良き同居人に戻ってしまったようだった。

私は何か気に障ることをしてしまっただろうかと頭を悩ませた。彼女に直接訊いてみたこともあったけど、いつもの微笑を讃えた涼しげな表情で「んー。特になんにも無いかなぁ?」とあっさり返されてしまった。本人がそうは言うけれど、イリアスは確かに変わったのだ。

くっついてくれなくなった。

あの温もりが恋しい。

寂しい。

私はひとり悶々としていた。

――そんなある日のことだった。

いつものように私は本の山から選んだ四冊を両手に持って、ニョモの背中に乗った。だけどニョモは螺旋階段へとは向かわずに、代わりに廊下を目指し始めた。私が困惑している間にニョモは円状の空間から抜け出て廊下へと差し掛かり、そのまま目的地が定まっているかのように一直線にどこかに向かい始めた。

ニョモが動きを止めたのはとある部屋の扉の前だった。

 

「書斎?」

 

チロチロ。

 

いつもイリアスが籠もって、賢人の知識を書き写す作業をしている部屋。

作業の邪魔になるといけないから部屋に入ったことは殆ど無いけれど……。

 

「入るの?」

 

チロチロ。

 

頭を持ち上げたニョモはまるで私に扉を開けるのを促すように、私と扉を交互に見た。

私は暫し迷ったけれど、結局扉を開けることにした。実は賢人の知識を書き写す作業がどのように行われるのか前々から興味があったのだ。だから私は手元の本を扉の脇に置くと、扉に右手の甲を近づけて“こんこん”と二回ノックした。

沈黙。

部屋の中からは一切の返答が無かった。

 

(自分の部屋に戻っているのかな……?)

 

そう思った私は幾らか軽い気持ちで扉の取っ手を掴み、ゆっくりと僅かに押し開いた。

扉の隙間から中を覗き込めば、部屋の奥に置かれた作業机が見えた。背後と両脇を本のびっしり詰まった大きな本棚に囲まれていて、知識の気配が集中しそうなその中央に、黒光りする立派な箱形の作業机がおかれていた。本棚に背を向けて机に向かって作業をしている普段のイリアスの姿がありありと想像できたけれど、今は肝心の本人の姿は無かった。不思議に思って扉を最後まで開けた。すると部屋の手前側の内壁にもたれかかって座り込んでいる彼女の姿を見つけた。

黒いローブを着た彼女は、膝を両腕で抱えて俯いていた。

何かに絶望しているみたいだった。

私は目を見開いた。

直ぐさま彼女の元へと歩み寄って、しゃがんで、肩に手を添えた。

 

「イリアス? 大丈夫ですか?」

 

彼女は気怠げにゆっくりと顔を上げた。

その瞳は寝起きみたいにぼんやりしていて、私に焦点が合うと僅かに口の端を緩めた。

 

「ああ……アリス。どうかしたかい?」

「それは私の台詞です。落ち込んでるみたいに見えましたけど、何かあったんですか?」

 

私は瞼の重そうな蒼い瞳を覗き込みながら尋ねた。

彼女は私に微笑んだ。

 

「いいや、特に何も無いよ。ちょっと考え事をしてたら寝ちゃってたみたい。心配掛けてごめんよ」

 

どうにも納得出来なかった。

人攫いのワゴンの中で見た絶望に項垂れる子供の姿を思い出して心がざわついていたからかもしれない。

だから彼女が「さて続き続き……」と呟きながら床に手を着いて、何事も無さそうに立ち上がろうとしたとき、私は彼女の両肩に手を置いて体重を掛けて、押しとどめていた。

 

「待ってください」

 

彼女は驚いたようにパチパチと瞬きを繰り返す。

 

「アリス……? 急にどうしたの?」

「お話ししましょう」

「あ、うん。それは勿論、いいけれど」

 

壁にもたれ掛かって膝を抱えて彼女と全く同じ姿勢で隣に座った。

話すことが思いつかなかった。

まだ問題は解決していないという根拠の無い胸のざわめきに従って咄嗟に引き留めただけで、特に何か思いついているわけでは無かった。

ぼんやりと石畳を見つめる。

本棚。机。

気まずい沈黙。

やがて思いついた話題は、彼女が近頃私にくっついてくれなくなった事についてだった。前に理由を尋ねたときは軽く流されたけれど、真意は別にある気がしていた。だけどあらためてまじまじと訊くのも気恥ずかしくて、なかなか言葉が出て来なかった。

視線を横に向ければ、彼女の美青年みたいに端正な横顔があった。

長いまつげに彩られた蒼い瞳で真っ直ぐ前を向いたまま、私の言葉を待ってくれていた。

結局沈黙を埋めるために私は無難なことを訊いた。

 

「何について考えていたんですか?」

「超遠隔転移魔術についてさ」

 

彼女はまるで私の質問を予想していたかのように、正面を見つめたまま間髪入れずに答えた。

彼女の説明が滔々と続いた。

 

「賢人の頭の中では理論はどうやら完成しているみたいなんだけどね。僕には理解が難しくて。特に転移転の設定の為の術式の説明が複雑でさあ。エングルフェンの法則だとかシ・デル現象だとか、第五級聖魔方陣だとかアーシャット呪術だとかアルマ熱だとかエルフの僕でも全然知らない単語ばっかり出てきて、それを文字に起こさなきゃいけないから、もう大変なんだよ」

 

――嘘だと思った。

内容が、では無く、考えていたという点が。

イリアスは、確かにお喋りだけどそれにしても饒舌すぎると思った。淀みなく紡ぐ膨大な量の言葉で何かを覆い隠そうとしているような気がした。

あとこっちを見てくれない。

いつも喋るとき目を合わせてくれるのに。

まるで頭の中のメモを読み上げているみたい。

だから私は――思いきって口にしていた。

 

「本当は、何を考えていたんですか?」

 

驚いたイリアスが私に顔を向ける。

私は蒼い瞳を真っ直ぐ見つめ返す。

 

「イリアスが私と距離を置く事と関係がありますか?」

 

彼女は目を見開いて暫くの間黙っていた。まるで私を見つめながら色々なことを思索しているかのようだった。私は彼女から目を逸らずに、じっと言葉を待ち続けた。

やがて彼女は観念したように笑みを零した。

 

「アリスの目って凄いよねぇ……」

「え?」

「嘘がつけなくなるんだもん」

 

彼女は冗談ぽく言って、続けた。

 

「実はねアリス、君のことを考えていたんだよ。ずっと、ずっとね」

「……私?」

「うん。僕はさぁ君を確かに抱きしめたり撫でたりしたいと思ったんだよ。それをすれば心の心が満たされる予感がしたんだよ。だけど違った。君を可愛がっても満たされたりはしなかった。むしろ君を抱きしめれば抱きしめるほどに余計に虚しさに襲われたんだ。だから僕は君に触れなくなった。だけど他に良い方法も思いつかなかった。折角救われると思ったのに、それすらも間違っていて……僕は僕が何を求めているのか分からなくなって……それでずっと悩んでいたんだ……」

 

彼女の眉は下がって随分と弱り切った顔をしていた。控えめな笑みからは無力感に苛まれる苦しみが伝わった。満たされない辛さが表情から滲み出ていた。

だけど、きっと私は薄情なのだろう。

彼女が苦しんでいるというのに、私は内心こう思ってしまった。

“なんだ、そんな簡単な理由か”と。

彼女の言葉を聞いて直ぐに気付いた。

要は前提が間違っているのだ。

イリアスは救いたい側では無くて、救われたい側だ。

だから私を愛して自分も愛された気分を味わうなんて回りくどいことをしないで、もっと直接的に愛を求めるべきなのだ。子供になりきって、私に甘えて、愛を求めるべきなのだ。

すなわち――

 

「私をママにすればいいじゃないですか」

「え?」

「イリアスがママになるんじゃ無くて、私をママにするんです。そうすればイリアスは好きなだけ甘えて自分の飢えを満たすことが出来ます」

 

彼女は呆然としていたが、やがて顔を赤くして慌て始めた。

 

「いや、いやいやいや無理だよ! そんなの無理だよ! だって僕は300歳だよ? それがアリスのような可愛らしい少女にママになってもらって甘えるなんてっ! そんなの絶対無理だよっ!」

 

必死に否定する彼女は羞恥で慌てふためく可憐な少女で、いつもの凜々しい雰囲気は微塵も感じられなかった。

 

「無理じゃありません。想像してみてください。私がイリアスをぎゅってしたり、なでなでしている様子を」

 

私が追い打ちを掛けるようにそう言った。

すると彼女は実際に私に甘える場面を想像しているのかぼうっとした表情で虚無を見つめて「うわぁ……」「あぁ……」と何かを羨むような呻き声を漏らして、「いやいやいや……」と自分で自分を否定してを何度も繰り返していた。

私は妄想に忙しそうな彼女を眺めて冷静になって納得していた。

彼女が勘違いをしてしまったのは多分彼女の生きてきた長い年月のせいだ。あまりにも年齢がかけ離れていて私の容姿が子供過ぎたから、自分から甘えるという発想にそもそも至らなかったのかもしれない。

だけども大丈夫。

私には妹や弟がいた。そう考えれば、イリアスも大きな妹みたいなものだ。いや、娘にしなければいけないのか。

 

「大丈夫ですよ。どうせここには私達以外誰も居ませんし。それに私はイリアスに甘えられても全然気にしませんよ。ちゃんと甘やかしますよ」

「そうじゃないんだよ! プライド! プライドの問題なんだこれは!」

 

イリアスは酷く騒いでいた。

だけどもはっきりと拒絶の言葉を口にしないことから本心では嫌がっていないことが明らかだった。

だとすれば後は彼女の勇気次第だ。

私は彼女の口にする“プライド”とやらを崩壊させるために、両腕を広げて迫った。

 

「試しに今ママって呼んで抱きついてみましょう」

「むりむりむりむりっ! むりだってぇ!」

「大丈夫ですいけます」

「いけないっ! いけないよっ!」

「ほら呼んでください」

「呼ばないっ!!」

 

彼女は往生際が悪かった。

それならばと、私の方から倒れ込んで抱きつこうとすると――

 

「あっ!」

 

彼女は私の広げた腕の間からするりと抜け出して、駆け出して、脱兎の如く書斎を逃げ出したのだった。

 

 

 

それからも彼女はやっぱり全然甘えてこなかった。

顔を合わせても普通だし、本を運んでいても構ってこないし、寝るときは別々だし。

前と変わらない日々だった。

私はとにかくもどかしくて、次第には腹まで立ってきた。

彼女は約三百年もの長い間苦しんできて今ようやく幸せになれる方法が見つかったのに、なんでわざわざ足踏みするのだろう。私はいつまでもここに居れないのに。その短い時間の中でも、人間として大好きな彼女を本気で幸せにしたいと思っているのに。恩返しがしたいのに。私の望みも彼女の望みも、彼女の持つ“プライド”とやらに邪魔されて果たすことが出来ないでいる。

彼女を幸せに出来ない事が苛々する。

むかつく。ママって呼べ。早く甘えろ。陥落しろ。私の娘になっちゃえ。

私は心の中で悶々とし続けた。

神は見ている。

――私を苛々させた報いがやがて彼女に訪れる。

 

 

 

 

 

「ニョモー。この本どこに戻せば良いと思う?」

 

チロチロ。

 

私は裏返した本の背を見つめながら言った。

本棚に囲まれた円状の空間の中心に積み上がっている本の山から適当に拾い上げたその本は、他の本とは違って背の下部に記号も数字も一切書かれていなかった。これでは本棚のどの位置に収めるべきなのか分からない。私の手元の本を覗き込むニョモも赤い舌を出し入れするばかりで、私の疑問に答えてくれるわけでは無さそうだった。

イリアスに聞いてみることにした。

彼女ならば何か知っているかも知れない。

私は本を片手に抱えたまま廊下を歩き出した。

 

ゴロピシャアアアアアアアアァァァァ!!

 

書斎を目指して開いていると、空気を切り裂く雷鳴を何度も聞いた。廊下の石壁に等間隔で埋め込まれている窓は完全に閉まりきっているけれど、窓の向こうの森に落ちる雷の凄まじい轟音は、透明な窓も石壁も容易に貫通して建物内に轟々と響き渡っていた。

やがて書斎に辿り着いた。

ノックしても中から返答は無くて、扉を開けても誰も居なかった。自室に戻っているのだろうと思い、私はイリアスの部屋へと向かう。

 

ドピシャアアアアアアアアァァァァ!!

 

やたらと雷が落ちる。

竜が来たのだろうかと身体が身構えてしまうのであんまり聞きたくない。胸に埋め込まれた瞳はまだ疼きを発していない。大丈夫そう。

やがて彼女の部屋へと辿り着いた。

ノックをしたけれど返答は無かった。

扉を開けると真っ暗だった。

ベッドの上に転がる人影を見て私は部屋に足を踏み入れて、近付いた。彼女は私に背を向けた姿勢で胎児のように身体を丸めて、がたがた震えていた。

 

ゴロゴロゴロシャアアアアアアアアァァァァ!!

 

また壁の向こうで雷が鳴った。

 

「ひうっ……!」

 

目をぎゅっと閉じている彼女は甲高い悲鳴を上げて身体の震えを激しくした。その姿に大人のカッコよさは無くて、可哀想な幼子そのものだった。

私の心境は、半分は驚きで半分は納得だった。

この前悪夢を見た私を救うために彼女がキスをしてくれたけど、そのときの唇は微かに震えていた。あの時は気持ちが動転していて気にも留めなかったけれど、今考えれば彼女も雷に怯えていたのかも知れない。実際神木に括り付けられているときも酷い雷が鳴っていた。彼女にとって雷が恐怖の象徴になっていてもおかしくはなかった。

私はベッドに左手を着いて前のめりな体勢になり、彼女の肩に触れようと右手を伸ばす。

不意に声に気付いた。

 

「ママ……助けてママ……怖いよ……ママ……」

 

イリアスが祈るように母に助けを求めていた。ママを呼んでいた。彼女のか細い声を聞いて、私の中の未熟な母性本能が擽られた。

彼女のママになれるのは、唯一私だけだ。

私は靴を脱いで、ベッドに挙がって彼女の背中にくっつくように横になると、震える肩を抱きしめるように左腕を回した。彼女の身体は一瞬びくりと震えた。

 

「私が傍にいます」

「ア……アリス……?」

「違います。ママです」

 

彼女がもぞもぞと動いて身を反転させた。

薄暗闇の中で不安げに揺れる蒼い瞳と目が合った。

今にも泣き出しそうなくせに彼女は怯えを取り繕うように笑った。

 

「へ、へっへへ……格好悪いところ見られちゃったね……」

「ママの前では格好を付ける必要は無いですよ」

「ありがとうアリス……」

「ママです」

「うん」

「呼んでください、ママって」

「……」

 

無理をして浮かべた笑みのまま彼女の表情は、完全に固まってしまった。雷にビビってびくびく震えている姿までバッチリ見られてしまっているにもかかわらず、この期に及んで彼女のなけなしのプライドはまだ私をママとは認めてくれないらしい。

 

「そうですか……」

 

私はそう短い言葉を言い残すと彼女に背を向けてベッドから立ち上がり、この場を離れるフリをした。

もちろん作戦だ。

往生際の悪い彼女の心を陥落させるための見せかけの行動に過ぎない。正直、意地悪なことをしている自覚はあるけれど、意地を張っているイリアスだって悪い。だから、起き上がろうとしたときに見せた彼女の絶望に凍った表情なんかは私の心を酷く痛めつけたけど、それでも私は鉄の意志で作戦を遂行した。

そしてイリアスは――ちゃんと堕ちてくれた。

 

「待ってっ! 言うっ! ちゃんと言うからっ! お願いっ! 置いていかないでっ!」

 

ベッド脇に立つ私の腰に後ろから縋り付くように腕を回して、彼女は悲しみの籠もった声で叫んだ。

私が後ろを振り向くと目に涙を浮かべた彼女が私を見上げていた。

 

「ほんとうですか?」

「本当だからっ! ママっ! ママっ! いかないでぇっ! 一人にしないでぇっ!」

 

彼女は凜々しい顔をぐしゃぐしゃにしながら泣き叫び、腰に回した腕の力を強めて背中に顔を埋めた。

私は彼女を泣くほど追い詰めた事に酷く罪悪感を感じながら言った。

 

「分かりました。一緒にいましょう」

「ママぁっ……ママぁっ……」

 

彼女にくっつかれたまま、ベッドの上に胡座を掻いて座り直した。彼女は私の背中に腕を回してお腹に顔を埋めた。

 

ゴロゴロピシャアアアアアアアアァァァァッッ!!!!

 

「ママぁ……雷怖いぃ……ゴロゴロしてるぅ……ママぁ……」

「大丈夫大丈夫。私がついてます」

 

私は右腕でイリアスの背中を抱きしめ左手で青黒色の髪を撫でる。一度陥落した彼女は今まで格好付けてきた反動が来たみたいに夢中になって私に甘えた。

 

「ママぁ……もっと撫でて……頭なでなでてして……」

「分かりました。イリアス、いい子いい子……」

「あぁ……ママぁ……気持ちいい……好きぃ……」

 

ゴビシャアアアアアアアアァァァァン!!

 

「ひううぅっ!?」

「こわくない、こわくないですよ……」

 

私は彼女の柔らかな髪を撫で続けた。

私のお腹に縋り付く彼女は幼女みたいで可愛かった。

やがて私は彼女に尋ねた。

 

「他にして欲しいことはありませんか?」

 

すると彼女はお腹にくっついたまま顔を上げた。

涙で潤んだその蒼い瞳は私への期待で満ちていた。

 

「キス……キスして欲しい……」

 

私は目を見張った。

私が知っている人間の常識では子供が親にキスをねだることは無いから。チューでは無くてキス。唇同士の触れ合い。でも直ぐにエルフにとっては行為の意味合いが異なることを思い出す。エルフは唾液に魔素を込めて送りむことで、相手の心を落ち着かせることが出来る。だからきっとキスは、親が子を宥める為に行う一般的な行為だ。まあもちろん私の身体に魔素なんて流れてないけれど、彼女が求めるのならば何でも応えてあげたい。魔術が使えなくたって彼女を幸せに出来るはずだ。

私はそう意気込んで、彼女に覆い被さるように上から顔を近づけた。彼女も背中を反らして口を上に突き出し、私達は唇同士を重ね合わせた。

 

「……っ!?」

 

彼女は直ぐに舌を割り入れてきた。

そのまま唾液を求めるように長い舌先で、私のベロの裏側や表面をなぞり上げた。

 

「んっ……んんっ……」

 

ベロからくすぐったいような甘い快楽を感じて、鼻に掛かった吐息が漏れ出た。イリアスはエルフの本能に刻まれているのか執拗に舌を絡ませてきた。そうなると彼女のベロの表面から分泌される唾液が私のベロに塗りたくられることになる。

彼女の唾液は甘かった。

蜜のように優しい甘さの唾液が、舌上から吸収されてとろりと心へと垂れ落ちて、心地良い安らぎで満たした。鳴り響く雷鳴に私も内心びくついていたけれど、その恐怖心さえも完全に溶かしてしまう。

どんどんと気持ちよくなっていく……ってだめだめ。

今は私がママなんだから。与える側だ。受け身になっちゃ駄目だ。

私は不利の形勢の逆転を狙って彼女のベロを押し返しながら、逆に彼女の口内に舌を割り入れてやった。彼女はわずかに薄目を開けたが、直ぐに受け入れたかのように目を閉じた。

どうやら私の抵抗は大した脅威にはならなかったらしい。

彼女は私の突き出した舌を唇で挟んでしゃぶり始めた。私が伸ばしたベロの裏側にベロの表面を密着させて、まるで赤ちゃんがお母さんのおっぱいを吸うみたいに、私の舌をちゅうちゅうと吸った。

私は今度は強く求められる快楽を味わった。彼女が私のベロを引き込もうとする度に、私という存在を欲しがっている気がして、自尊心が擽られた。それにやっぱり舌同士が触れ合って唾液を摂取させられるから、強制的に気持ちよくさせられた。心が蕩けていくような心地良さだった。私はママがどうだとか頭からすっぽりと抜け落ちて、ただ幸福に浸っていた。

 

ドピシャアアアアアアアアァァァァン!!

 

大きな雷が鳴った。

それが、不幸をもたらした。

驚いたイリアスが私の舌を思い切り噛んだのだ。

 

「~~~~~~~っっっ!」

 

舌の先っぽの方に生じた鋭い痛みに、私は声にならない悲鳴を上げた。目を剥いたイリアスが慌てて口を開けて、私のベロはようやく解放される。

ベロを口内に仕舞うと、ぴりっとした痛みと血の味がした。

 

「ご、ごめんよ……」

 

身体を起こした彼女が申し訳なさそうに眉を下げて謝る。

私はベロを突き出して、抗議した。

 

「いひゃいです……」

「ごめんアリス……」

 

イリアスは叱られた子犬みたいにしゅんと沈んだ表情をした。

どうやら私を傷つけた罪悪感が彼女を現実へと引き戻してしまったようだった。

私は不憫な彼女に挽回の機会を与えようと思い、ベロを突き出したままおねだりした。

 

「なおひてくだひゃい……」

 

情けない発音だったけれど言葉の意味はちゃんと伝わったらしい。

彼女は目に活力を取り戻してこくこくと頷くと、私の両肩に手を置いて、顔を近づけてきた。

目を閉じると、再びベロが柔らかくて温かくてぬめりけを帯びたモノに絡み付かれる感触がした。それから交わり合うベロを閉じ込めるみたいに唇同士が重なり合う感覚もした。

ベロに口の中を蹂躙されながら容赦なく唾液を注ぎ込まれる。

 

「んぅ……ふぅ……」

 

甘い吐息を漏らす私はやっぱり快楽で身体を溶かされて、気付けば押し倒されていた。

目を開ければ、私の頭の両横に肘を置いて馬乗りになっているイリアスの顔が間近にあって、彼女は蒼い目を細めて鼻息を少し荒くしながら私の口内を貪っていた。

私は彼女がまた雷の音に驚かされたら可哀想だと思い、両耳を両手で塞いだ。すると彼女は少しだけ驚いたように目を見開いた後、さっきよりも目を蕩けさせた。それから彼女はお返しとばかりに私の両耳も両手で塞いだ。耳が塞がれたことで口内の舌が絡み合う“くちゅくちゅ”という水の音が脳内に直接響くようになって気持ちよかった。キスの気持ちよさと唾液による心地良さで私の身体からはすっかり力が抜けてしまって、何だか心細くなってしまったので、私は彼女の浮いている腰に両脚を絡ませた。すると彼女は私の心情を察したのか、うつ伏せに体勢を崩して、身体が密着するように覆い被さってくれた。私は彼女の大人の身体に潰されるような体勢でずっとキスをしていた。

気持ちよかった。

 

 

 

それからイリアスはすっかり“べったり”になった。

しょっちゅう書斎から抜け出てきては「疲れたぁ~」と嘆きながらよろよろと近付いてきて私のお腹に顔を埋めて「撫でてぇ~」と顔を擦り付けた。

ご飯を一緒に食べているときは「んあぁ~」と言いながらおもむろに口を開け、私に期待の籠もった眼差しを向けた。

お昼に外の草むらで日向ぼっこをしているときは草の上に座って本を読んでいる私の太ももの上に勝手に頭を乗せて、気持ちよさそうに目を閉じた。

私はイリアスの“おねだり”を全て受け入れた。

“偉いね”と褒めながら彼女の頭を撫でたし、雛鳥のように食べ物を待つ彼女の口の中にポトフの野菜が乗ったスプーンをふうふうして冷ましてから何度も突っ込んだし、昼寝をする彼女に太ももを貸し出して起こさないように静かに本を読んだ。

彼女に甘えられるのは全然苦じゃなかった。

むしろイリアスは大きな妹みたいでとても愛らしかった。彼女が嬉しそうだと私も嬉しくなった。それに彼女が一方的に喜ばせてくれる瞬間だっていっぱいあった。

例えば頭を撫でてあげたとき。彼女は凜々しくてカッコいい大人の顔をすっかり破顔させて無邪気な笑顔を見せてくれた。私は胸がいつもドキドキして嬉しくなった。

大人のおっきな褐色の腕をお腹に回して、私のことをよっぽど大事なモノみたいにぎゅっと抱きしめてくれたとき。私はいつも胸がキュッとして嬉しくなった。

すっかり無防備に太ももの上であどけない寝顔を晒してくれたとき。私はいつも胸がホカホカして嬉しくなった。

彼女と過ごす時間で一番好きなのは夜眠るときだった。ある夜から毎日彼女と同じベッドの上で寝ていた。抱き合ってキスをし合って疲れたら寝る事を繰り返していた。最中の彼女は可愛かった。大人のエルフなのに犬みたいに舌を出して、目を細めて、私にキスのおねだりをするのだ。その姿を見ると私はいつも胸が締め付けられる思いがした。多分ママだだから。娘の可愛い姿は堪らない気持ちになった。それで私はいつもベロを突き出してキスをしてあげた。お返しとばかりにくれる唾液は、私を無条件に心地良い気持ちにしてくれた。だから私は夢中になってキスをして、彼女と身を寄せ合って、いつも夢見心地の中で安らかに眠ることが出来た。

そして――あるときに気付く。

恨みという感情を忘れていたことに。

あの部屋で散々復讐してそれでも消えなかった粘っこい感情だったけど、彼女と笑い合う日々の中ではすっかり忘却されていた。勿論完全に消えたわけでは無くて、ふとした拍子に強く意識させられて心がざわつくけれど、幸せそうな彼女を見ればマシになった。

どうやら――幸福の喜びが不幸の苦しみを和らげてくれているみたいだった。

気付いたときに私はとても驚いた。

私の短い人生史上これは未曾有の大発見で、寝る前にベッドの上で向かい合って横になっているときに興奮して話した。

 

「知ってた!?」

 

するとイリアスは目を丸くして“ふふっ”と愉快そうに笑った。彼女が私を友達として見ているときの顔だった。

 

「もちろんだよアリス。僕は結構前から気付いてたよ」

 

闇の中で笑みを深めた彼女はどこか得意げだった。

 

「同じ年頃の子供に尿を掛けられたり、裸で木に吊されたり、大人に殴りつけられたり……山ほど嫌な記憶はあるけれど、アリスとこうやって過ごしているときは不思議と忘れることが出来る……」

 

彼女は暗闇に映える蒼い瞳で私を見据えてニコリと笑った。

 

「アリス。君のおかげだ」

 

――ありがとう。

 

薄い唇が緩やかに動いて、ざらついた美しい低音が私の鼓膜を揺らした。

私はイリアスが自分と同じ気持ちだったことが嬉しくて、弾んだ声色で言った。

 

「私の方こそ! イリアスのおかげで心が楽になってる気がする! だからありがとう!」

 

彼女は興奮している私が可笑しいのか楽しげに笑った。

 

「それじゃぁ今日も幸せに眠ろうね」

 

そう言って、いつものように目を細めて開いた口から舌を出した。

キスのおねだり。

私はもう吸い込まれるように口を近づけて、舌を触れ合わせて、唇を重ねた。

いつものように心地良さに満たされて、何度も啄み合って、疲れて、寝た。

 

 

 

 

 

 

――その日は当然やってきた。

私は胸を焼かれるような激しい痛みで目を覚ました。突然の痛みで身体がびっくりして硬直してしまったので、変に飛び跳ねたりはせず、後ろから私に抱きついて眠っているイリアスを起こさずに済んだ。

目に映るのは、イリアスの部屋を満たす真夜中の暗闇と視界の左半分を埋めるベッドのシーツ。私は丸まった姿勢のまま慌てて自分の身体を見下ろした。胸の辺りは私の着る白いワンピースの平らな布地が広がるばかりで、別段おかしな事は起こっていなかった。背後から私を抱きしめるように回されたイリアスの右腕がお腹の位置にしな垂れているのもいつも通り。

けれども胸は酷い疼きを発していた。

ずきずきと脈打つような熱い痛みだった。

その感覚には身に覚えがあった。

私は、胸に埋め込まれた竜の瞳が痛みをもたらしている事を察した。

 

ゴロゴロゴロピシャアアアアアアアアァァァァン!!

 

窓の向こうではやっぱり雷鳴が轟いていた。

イリアスと一緒にベッドに横になったときは聞こえなかった轟音だった。

激しい胸の疼き。

響き渡る雷鳴。

私はとうとう「竜」がやって来たのだと直感した。

それからの私の行動は迅速だった。

身体をもぞもぞと動かして、彼女の腕からこっそり抜け出し、静かにベッドの脇に降り立った。そのままベッド下に置いてあった靴を履いて、足音を立てないように部屋を出て、廊下を歩いた。

玄関扉を開けて、外へと出た。

夜霧に包まれた黒い森が視界いっぱいに広がった。

 

ギャオオオオオオオオオオオォォォッッッ!!

 

空気を割る重低音の咆哮が森全体に鳴り響く。

直後に“ずんっずんっ”と一定の間隔で地響きが起こり“めきっめきっ”と木がなぎ倒される音がし始めた。

やはり竜は迫ってきていた。

私は追い立てられるように森の中を駆け出した。

木々の間を走り抜ける間、私の心は意外にも冷静だった。

きっと今まで沢山考える時間があったからだろう。

何度も繰り返し想像した竜の鋭い牙に食い千切られる自分の身体。想像上の死が私の心に恐怖への耐性をもたらしたらしい。泣き叫びながらの無様な最期を迎えずに済みそうで良かった。

 

ずんっ ずんっ ずんっ ずんっ

 

地響きが迫ってきていた。

 

めきめきっ! めきめきっ! めきめきめきっ!

 

木々が薙ぎ倒される音も。

私は行く当てもなく走り続けた。とにかく建物から距離が離れるのならば、どこだって良かった。イリアスに迷惑を掛けないのならば、それで良かった。

そんな消極的な精神だったからきっと、無意識に見覚えのある道を足が選んで、その場所に辿り着いてしまったのだろう。

川だった。

よくイリアスと水浴びをした川だった。途中までは進めるけど、半分ほど行った辺りで私は足が付かなくなるので、絶対に行き過ぎないようにとイリアスに口酸っぱく注意されていた川だった。

行き止まりだった。

私が思わず足を止めると、直ぐ後ろで“ばきっばきっ”と木がへし折れる豪快な音がした。

振り返れば、目の前の木々を踏み潰す竜の足があった。

黒い鱗に覆われた、巨木の幹のように太い、4本の鋭いかぎ爪の生えた大きな足だった。

私は視線を上に辿っていった。

胴部はクリーム色の蛇腹で、夜空を覆う巨大な翼が生えていて、鋭利な白い歯を剥き出しにした獰猛な顔つきがあった。竜だった。

竜は琥珀色の隻眼で私を睨み下ろした。

 

ギャアアアオオオオオオオオオォォォォッッッッ!!!

 

鋭い歯の生え揃った口を大きく開けて竜が咆哮を上げた。その轟音は空気を割るような強烈な衝撃で、私の身体を内側から激しく揺らした。自分が被食者であることを振動を通じて強制的に理解させられた。私はくたりとその場でへたり込んだ。

 

「うっ……うぅっ……」

 

気付いたら私は涙を流していた。

ぽろぽろと地面に涙が零れた。

私はさっきまでの冷静な感情が死を目前にした強がりであったことを自覚しなければならなかった。竜を前にした私の心はいま、恐怖と悲しみでぐちゃぐちゃになっていた。

 

――なんでっ、なんで死ななきゃいけないんだよっ……死にたくなんかないよっ……!!

 

私は心の中で嘆いた。

だけども何も起こりはしない。

最悪な運命は私の前に立って私を見下ろし続けていた。

 

――イリアス……離れたくないよ……ずっと傍に居たいよ……!

 

私は心の中で願った。

だけども私は一人だった。

たった一人で死の恐怖に立ち向かわなければならなかった。

 

――やだやだやだやだやだっ! 死にたくないっ! 死にたくないよっ!!

 

恐ろしさで気が動転する。

 

「うううぅぅぅっうああああぁぁぁぁぁっあああああああぁぁぁぁっ!!!」

 

遂には私は大声を上げながら泣いていた。

泣きじゃくる私を竜は鬱陶しそうに睨み、大きな口を開けた。

やがて狼のように突き出た口部の周りに宵闇を赤く照らす火花がぱちぱちと飛び散り始める。

 

「燃えたくないいいいぃぃぃ燃えたくないよおおおぉぉぉぉっ!!!」

 

私の意思なんか丸っきり無視して竜は口の周りに炎を纏い始める。

私に出来ることは何も無くて、ただ運命を呪う。

 

「なんでええぇぇなんでこんなに酷いんだよおおおおぉぉぉっ!! 私ばっかりなんだよおぉっ!!! ふざけんななぁぁぁっ!! ふざけんなよおおおぉぉぉっっ! 神様のばかあああああぁぁぁぁぁっ!!!」

 

私がどれだけ怒りを喚き散らしたって、無意味だった。

竜は私に向かって炎を吐き出した。

私を焼き尽くそうとする獄炎が私に襲い掛かってくる。

 

「うあああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!」

 

それは怒りと悲しみが入り交じった叫びだった。

理不尽な運命に対する怒りとイリアスと別れる悲しみを込めた魂の絶叫だった。

 

運命嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌いふざけんなふざけんなふざけんな恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い死ぬ死ぬ死ぬああああぁぁ――。

 

視界を橙色の灼熱が満たす。

私は目を閉じる。

覚悟する。

 

イリアス大好き――さようなら

 

……だけど。

いつまで経ってもその瞬間は訪れなかった。

身体を焼かれる痛みも苦しみもずっと起こらないままだった。

私は不思議に思って目を開けた。

すると私の目の前に大きな四角い土の壁が建っていて、私を火炎から守ってくれていた。

 

「アリスっ!!!」

 

私が一番聞きたかったざらついた女性の声がした。

横を向けば、顔を青ざめさせたイリアスが私の元へと走ってくるところで、やがて傍でしゃがみ込んだ彼女に力強く抱きしめられた。

 

「アリスっ……! 良かったっ……! 生きてるっ……! 間に合ったっ……!」

 

イリアスは私の存在を確かめるようにぎゅっと抱きしめた。

 

「イリアスっ……イリアスっ……イリアスっ……!!!」

 

私はイリアスの胸に顔を埋めながらひたすらに名前を呼んだ。安堵と喜びが音になって次々と口から漏れ出て止まらなかった。

――やっぱりイリアスなんだ。イリアスだけが私を救ってくれるんだ。

幸福な確信が強まって私の心は安らぎに満たされた。やがてイリアスは私から身体を離した。

 

「ちょっと待っててね。すぐ終わらせるからね」

 

彼女は私に笑いかけ、頭を撫でてくれた。

それから立ち上がると私に背を向けて、数歩歩いた。私は心細かったけれど見送るしか無かった。

気付けば竜は炎を吹くのを止めていて、壁は崩れていた。

竜が忌々しげにイリアスを睨み下ろし、イリアスは腰に手を当てて怯まずに堂々と立っている。

 

「君もこの子を狙っているみたいだね」

 

彼女はまるで友人を相手にするみたいに竜に気軽に話しかけた。緊迫した空気にはおよそ似つかわしくない軽々しさだった。その振る舞いには彼女の勇敢さが現れている気がした。

 

「確かにアリスは可憐で可愛くて愛らしくて優しくて大人びていて魅力に溢れた少女だ」

 

イリアスは得意げに語った。

 

「それに頭を撫でる力加減が絶妙で、抱きしめたときの柔らかさが堪らなくて、キスがとても上手で、僕をトロトロに甘やかす天才だ」

 

朗朗と語った。

 

「だから――駄目だ。この子は僕のものだ。僕の友でママだ。生涯で最も大切な存在だ。君には絶対に渡せない」

 

独占欲を剥き出しにした力強い否定の言葉だった。

だけど竜にはもちろん彼女の言葉は通じなかった。

ただ、滔々と語る彼女の姿は竜の神経を逆なでしたようだった。

一瞬のことだった。

琥珀色の隻眼でイリアスをじっと睨んでいた竜が、鋭い歯のびっしり生え揃った悍ましい口を開けた。

――そして。

勢いよく首を伸ばして彼女の身体に襲い掛かった。

 

「イリアスッ!?」

 

私は後ろ姿に向かって叫んだ。

叫ぶ間にも頭は急接近して彼女の身体にかぶりつこうとしていた。

全身に鳥肌が立った。

希望が呆気なく打ち砕かれようとしていた。

さっきまで温もりを与えてくれていた女性が、目の前で食い千切られようとしていた。

酷く酷く恐ろしいことだった。

 

「イリアァァスっ!!!」

 

私はその背中に必死に手を伸ばした。

届かないとは知っていたけれど伸ばさずにはいられなかった。

イリアスを求める心がそうさせた。

だけど運命は、無慈悲だ。

私の願いなど嘲笑うようにいつも痛めつけてきた。

私が苦しむのを楽しんできた。

竜の大口が閉じられようとした。

――その刹那

 

「っっ!?」

 

――降ってきた巨大な氷の氷柱が竜の頭を貫いた。

一瞬のことで目の前の光景が信じられなかった。

ただ竜は、確かに頭から顎まで氷柱に串刺しにされて地面に縫い付けられていて、彼女は変わらずそこに立っていた。

彼女は食べられなかった。

私の心は喜びに打ち震えた。

竜もまだ生きていた。

竜は動かせない頭の代わりに大きな身体を暴れさせてのたうち回って何とか自由を手にしようとしていた。だけどイリアスはそれを許さなかった。

彼女が天に向かって両手を翳すと、先の尖った巨大な氷柱が幾本も生成されて宙に浮かび上がり、彼女が両手を勢いよく振り下ろすと無数の氷柱が一斉に竜の身体に降り注いだ。まるで彼女の運命への怒りが氷柱に形を変えて竜に浴びせられたみたいだった。長い首も丸い胴体も蝙蝠の羽のような翼も太い尻尾も全てが串刺しだった。

やがて全身から氷柱を生やした竜は口からドロドロと赤黒い血を垂れ流してぴくりとも動かなくなった。

私はイリアスの腰に飛びついた。

 

「イリアスぅ……!! イリアスぅ……!! イリアスぅっ……!!!」

 

とにかく生きていてくれたことが嬉しくて、喜びを伝えるようにぎゅっと抱きしめて頬を背中に擦りつけた。彼女も我に返ったように振り返ってしゃがんで、私を抱きしめてくれた。

 

「アリス……良かったぁ……アリスぅ……」

 

私達はお互いに抱きしめ合った。

息遣いや体温や身体の柔らかさを感じ合って、生きていることを確かめ合った。

私達は喜びと安堵を噛み締めるようにずっと抱き合っていた。

 

 

 

 

「ねえ、アリス」

 

やがて彼女が穏やかな沈黙を破った。

どちらからともなく身体を離して見つめ合うと、彼女の蒼い瞳は不安げに揺れていた。

 

「どうしたの? イリアス」

「僕は、竜を倒してしまったよ」

 

私は困惑した。

深刻な声色だったからどんな言葉が飛び出すのだろうと身構えたら、彼女が口にしたのはただそこに死体となって横たわる確かな事実だった。

 

「かっこよかったねイリアス」

「まだ――僕の傍に居てくれるかい?」

「え?」

 

眉を寄せた彼女は泣き出しそうな表情をしていた。

私には彼女の悲しみの理由が分からなかった。

彼女が潤んだ瞳で私を見つめて言った。

 

「アリスはもう自由になったから。あの建物にいる意味もなくなったんだろう?」

 

私は目を見開いた。

――そうだ。自由になったんだ。もう竜に怯える必要もなくなったんだ。

イリアスが無事だった事が嬉しすぎて全然意識が向かなかった。

気付けば彼女が涙を流していた。

 

「お願いだアリス……置いていかないでくれ……ずっと傍に居てくれ……!」

 

私の両肩に手を置いたイリアスが、ボロボロと泣きながら私にねだった。

 

「どこに行ったっていい……故郷の村に戻ったって構わない……だけど僕の元に必ず帰ってきて欲しい……

僕と一緒に暮らして欲しい……傍に居て欲しい……」

 

彼女が涙ながらに訴えた。

 

「僕はもう君の虜なんだ……! 君がいなければ生きていけないんだ……! 君が大好きなんだ……! 大切なんだ……! 愛おしいんだ……! だから僕を捨てないで……! お願い……お願いだから……」

 

涙で濡れた蒼い目を見開いた。

 

「一゛生゛僕゛を゛幸゛せ゛に゛し゛て゛ほ゛し゛い゛っ゛……!」

 

ガラガラの声で叫ぶように懇願した。

その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃで精悍な褐色の顔つきが台無しだった。それ程に大事な言葉で、きっと彼女にとっては一世一代の告白だった。

一方私はと言えば――口の端が少しだけ緩んでしまった。

もちろん彼女を馬鹿にした訳では無かった。

ただ、そのあまりのいじらしさに堪らなくなって、勝手に口角が吊り上がっていた。

だってそれって私の中では当然の決定事項だったから。これからもイリアスと一緒に過ごして、甘やかして、甘やかされて、お互いドロドロの幸せに満たされて生きていくのだ。私だってイリアスがいなければもう生きていけないのだから。そんなの当然だ。それなのに彼女は私を失うことを恐れて、涙を流しながら懸命におねだりした。

その姿が痛ましいほどに愛らしくて、私は彼女の涙で濡れた両頬に手を添えて言った。

 

「もちろんです。私と一生幸せになりましょう」

 

彼女は涙で光る蒼い瞳を真ん丸に見開いた。

私は約束をするつもりで、その唇にキスをした。

 

 

 

 

 

 

私はそれから何度も故郷の村に帰ることが出来た。

彼女が完成させた超遠隔転移魔術で送り迎えをしてくれたからだった。

故郷のみんなは相変わらず貧しかったけれど、逞しく生きていた。

イリアスは私が稼ぐ手段を身に着けるまでの間、賢人の手伝いの合間を縫って、生活に役立つ魔術を集めた魔術書を執筆して貴族に売ることで、お金を稼ぎ、私の家族に送ってくれた。私は読み書きを猛勉強して、やがて小説を書いて貴族に売ってお金を稼ぎ、家族を助けられるようになった。

私は森の奥でイリアスといつまでも一緒に暮らした。

 

━いつまでも幸せに暮らした。

 

 

 


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。