僕と動くインクの奇妙な同棲が始まる。
その染みは、僕が修復を手掛けていた古い植物図鑑から現れた。
季節は秋で、冷たい雨が何日も続いていた。僕の仕事部屋はアパートの二階の角部屋で、北向きの窓からは隣の建物の湿ったコンクリート壁しか見えない。それがかえって好ましかった。直射日光は古書の天敵であり、そして僕自身の天敵でもあったからだ。
僕はフリーランスの古書修復家として、細々と生計を立てている。大学で保存科学を学んだ知識を活かし、主にインターネット経由で依頼を受け、この薄暗い部屋でピンセットや刷毛を相手に一日を過ごす。
その日扱っていたのは、十九世紀後半に出版されたと思しきドイツの植物図鑑だった。表紙は革装がひび割れ、ページにはカビの胞子が無数の小さな黒点となって散っていた。僕はカビを殺菌し、湿らせた和紙でページの破れを補修していく。
集中が途切れたのは、夕食のために席を立った時だった。作業台に戻ると、開いていた「トリカブト」の銅版画のページに、見慣れない黒い染みが一つ増えていた。大きさは小指の爪ほど。カビではない。インクをこぼしたような、濃く、縁が滲んだ染みだ。
僕は自分の作業着の袖や道具を確かめたが、インク瓶はしっかりと蓋が閉まっている。ため息をつき、染み抜き剤の準備をしようと目を凝らした、その時だった。
染みが、動いた。
それは蠕動と呼ぶにはあまりにも滑らかで、まるで生きた影が紙の上を滑るようだった。染みはトリカブトの緻密な根の絵柄を避け、ゆっくりとページの余白へと移動していく。僕は息をのんだ。染みはページの端まで来ると、紙の断面に染み込むようにして姿を消した。
幻覚かと思った。疲れているのだろう。僕はその日は作業を切り上げ、冷えたパスタを無心で胃に流し込んだ。
翌朝、恐る恐る図鑑を開くと、昨日のページに染みはなかった。ほっとしたのも束の間、数ページ先の「スズラン」の挿絵の影に、それが潜んでいるのを見つけた。昨日より少しだけ大きくなっている気がする。
A-B-C-D-E
それは数日間、図鑑の中を転々としていた。ある日は活字の行間に細長く伸び、ある日はページの隅で小さく丸まっていた。僕がページをめくろうとすると、慌てたように次のページへと逃げ込んでいく。
僕は修復作業を一時中断し、その図鑑をデスクの隅に安置した。そして、万年筆用のインクを小皿に出し、図鑑の隣に置いてみた。
一晩経つと、インクは綺麗になくなっていた。そして図鑑の表紙、タイトルが型押しされた窪みに、その黒い染みは鎮座していた。僕が近づくと、それは僅かに身じろぎした。まるで満足げに腹をさすっているかのように。
どうやらこれは、インクを糧にするらしい。そして、この図鑑を家と決めたようだった。
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奇妙な同居生活が始まって一月が経った頃、染みは形を変え始めた。最初は不定形だったそれは、次第に輪郭を持つようになった。細い四本の脚、長い尻尾、そして二つの尖った耳。僕が子供の頃に飼っていた黒猫によく似たシルエットだった。
僕はそれを「クロ」と呼ぶことにした。名前を呼んでももちろん返事はしない。ただ、僕がデスクに向かうと、クロは図鑑からそろりと這い出てきて、デスクライトが作る影の縁に座り込む。僕が作業に使うピンセットの金属光が反射すると、影の奥へと後ずさる。光が苦手なのは、僕と同じようだった。
クロは言葉を話さなかったが、意思の疎通は可能だった。
クロは僕の書斎にある本棚を自由に移動した。ページからページへ、本から本へと、まるで水が染み込むように音もなく渡り歩く。そして、何かを伝えたい時、クロは僕の目の前に一冊の本を持ってくる――正確には、本棚からその本を床に落とし、僕が拾い上げるのを待つのだが。
僕が本を開くと、クロはそのページの上に現れ、特定の単語から単語へと器用に移動して、文章を組み立ててみせるのだ。
ある夜、クロは夏目漱石の『吾輩は猫である』を本棚から落とした。開くと、クロは「吾輩」の文字の上に乗り、次に「腹」の文字へ、最後に「減った」の文字へと飛び移った。
「ああ、インクか」
僕が新しいインクを小皿に注ぐと、クロは嬉しそうにシルエットを揺らし、インク皿へと滑っていった。
クロは読書家だった。いや、食書家とでも言うべきか。僕の蔵書を片っ端から移動し、その内容を吸収しているようだった。おかげで、クロが組み立てる文章は日毎に複雑になっていった。最初は単語の羅列だったものが、やがて助詞を補い、文法的に正しい文章を指し示すようになった。
僕がカフカの『変身』を読んでいると、クロはページの余白に現れ、僕の手元にあった辞書(クロのお気に入りの一冊だ)のページを前足(のようなもの)で器用にめくり、「孤独」「共感」という二つの単語を続けて指し示した。
「君も孤独なのか」
僕は尋ねてみた。クロはしばらくじっとしていたが、やがて『変身』のページに戻り、主人公がベッドの下に隠れる場面の挿絵を、その黒い体でそっと撫でた。
僕もまた、ベッドの下に隠れる主人公に共感する部類の人間だった。外の世界は眩しすぎ、騒がしすぎた。古紙の匂いと、インクの静かな黒だけが満ちるこの部屋こそが、僕のシェルターだった。
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冬が来た。暖房の乾いた空気が、古い紙をますます脆くする。僕は加湿器の水を絶やさぬよう気を配った。クロは、僕が一番気に入っている革装の『博物誌』の分厚いページの間で、冬眠のように丸まっていることが多くなった。
クロがこの部屋に来てから、僕の生活は少しだけ変わった。以前は食事も忘れて作業に没頭することもあったが、クロが『猫である』の「腹」を指し示すたびに、僕も一緒に食事をとるようになった。僕がトーストをかじり、クロがインクを舐める。静かで、奇妙な食卓だった。
クロはどこから来たのだろう。あのドイツの植物図鑑は、神田の古本市で他の本とまとめて仕入れたもので、来歴は分からなかった。
ある日、僕は作業の手を止め、クロがいる『博物誌』を開いた。
「君は」と僕は口に出し、それから思い直して、ノートに万年筆で文字を書いた。「前の持ち主のところに、帰りたいか?」
クロは僕の文字をじっと見つめていた。インクの匂いに誘われたのかもしれない。やがて、クロは『博物誌』の「海」のページへと移動し、そこに描かれた深海の挿絵を指した。光の届かない、静かな場所。
そして、僕のノートの上に戻ってくると、僕が書いたインクの文字の隣に、小さな黒い染みを一つ、ぽたりと落とした。それはまるで「点」のように見えた。肯定か、否定か。
クロはさらに移動し、僕のノートの白紙のページに、自らの体を使って文字を書き始めた。それはたどたどしく、インクが滲んで判読しづらかったが、こう読めた。
「ココ」「静カ」「好キ」
僕はペンを置いた。「そうか」とだけ呟いた。僕も同じだった。
その年の瀬、大掃除をしようと思い立ったのが間違いだった。僕は普段動かさない本棚の裏まで掃除機をかけようと、本棚を少しずらした。その拍子に、一番上に積んであった数冊の本がバランスを崩して床に落ちた。
その中に、クロが住処にしていたあのドイツの植物図鑑があった。
本は、僕がカーテンを開け放っていた南向きの窓の真下に落ちた。冬の、低く、しかし刃物のように鋭い直射日光が、開いたページに容赦なく突き刺さった。
「あっ」
声が出た。クロが、トリカブトのページの上で、苦しそうに身をよじらせていた。その黒い体が、まるで陽炎のように揺らめき、端から蒸発していくように薄くなっている。クロは必死にページの影になった部分へ、活字の裏へ、紙の繊維の間へと逃げ込もうともがいていた。
僕は床を滑るようにして駆け寄り、カーテンを乱暴に引き閉めた。部屋がいつもの薄闇に戻る。
僕は震える手で図鑑を拾い上げた。クロの姿はどこにもなかった。トリカブトのページには、クロがいた場所に、紙がわずかに焦げたような、淡い茶色のシミが残っているだけだった。
「クロ」
呼んでも、返事はない。僕は図鑑を抱きしめ、デスクの引き出しの一番奥、光が絶対に届かない場所へとしまい込んだ。
その日から三日間、クロは姿を見せなかった。僕はインクの小皿を机に置き続けたが、それは減らなかった。僕は仕事も手につかず、ただ何度も引き出しを開けては、図鑑の無事を確認するだけだった。
部屋はしんと静まり返っていた。以前は当たり前だったその静寂が、今は耐え難いほど重苦しく感じられた。
四日目の夜。僕がデスクでうたた寝から目覚めると、小皿のインクが半分ほど減っていた。
そして、僕のノートの上に、見慣れた黒いシルエットがあった。以前よりずっと小さく、色も薄くなっているように見えたが、それは間違いなくクロだった。
クロは、ノートに滲んだ僕の涙の跡を、その小さな体でそっと撫でていた。
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春が来た。北向きの窓から見えるコンクリート壁も、心なしか白っぽく見える。
クロはすっかり元気を取り戻し、以前よりも少しだけ大きくなった。相変わらず光は苦手だが、僕が修復作業で使う手元のLEDライトの影には、興味津々で近づいてくるようになった。
僕はあの日以来、部屋のカーテンを日中でも厚手のものに変えた。クロも僕も、眩しいのは得意じゃない。
僕が和紙の繊維をピンセットで解きほぐしていると、クロがデスクの端に置いた辞書をめくり始めた。クロはもう本棚から本を落とさなくても、自分でページをめくれるくらいには器用になっていた。
クロが指し示したのは、「幸セ」という単語だった。
「どうしたんだ、急に」
クロは僕の顔を見上げ(たつもりになり)、次に僕の手元の修復中の本を指し、最後に自分の体(黒い染み)を指した。
僕たちは、この薄暗い部屋で、誰にも知られず、ただ静かに存在している。傷んだ本を直し、インクを舐め、時には言葉にならない言葉を交わす。そこには劇的な出来事も、輝かしい未来もないかもしれない。
でも、と僕は思った。
光が強すぎれば、影は焼かれて消えてしまう。僕たちのような影法師には、このくらいの薄闇がちょうどいい。物語にならなくても、誰かに見つけてもらえなくても、この静かな場所で一緒にいられる。
それだけで、十分すぎるほどだった。
「そうだな」と僕は言い、新しいインクの瓶を開けた。「僕も、幸せだよ」
クロは満足そうにシルエットを揺らし、僕のノートの隅に、小さな黒い猫の足跡のような染みを、一つだけ残した。