『灰を駆ける者 ― ASH WALKER ―』 作:たーゆ。
大学生がリングを降りると、熱を帯びた視線がその背中を追いかけた。
リング周囲のざわめきは、雨上がりのアスファルトに散った熱のようにゆっくりと広がっていく。
誰もが、今しがた目の前で繰り広げられた動きの余韻を口にしたかった。
「すげえ、マジで避けてたな……」
スマホを握りしめた少年が息を呑むように呟く。
横で友人が笑いながら肩を叩く。「でもさ、まだ余裕ありそうじゃね? 次、もっとやばいかも」
ふたりの笑い声は湿った夜気の中に吸い込まれていった。
リングの周囲では、他の観客たちもそれぞれに感想を交わしている。
「空手経験者だって言ってたけど、思ったより速かったな」
「いや、あれは速さじゃねぇ。蓮司が全部見切ってるんだよ」
「でも、フックのとき一瞬ヒヤッとしたろ?」
「うん、でもあいつ、首の角度ほとんど変えてないのに避けてた。やべぇわ」
話の合間に缶コーヒーのプルタブが開く音、
タバコを擦るライターの火花、
遠くを走るトラックのエンジン音が夜に混ざる。
ベニヤ板で囲われた簡易リングの隙間から、街灯の光が斜めに差し込み、
白い息と煙がぼんやりと浮かび上がっていた。
リングの中央では、蓮司が無言のまま立っていた。
肩で呼吸する気配もなく、汗が頬を伝う様子さえ見えない。
彼の足元では、先ほどの大学生が残した汗の跡が暗く染みている。
その無機質な静けさが、かえって観客の胸をざわつかせた。
「……表情、全然変わらないな」
「試合中もだ。人間って、あんなに静かに動けるもんなんだな」
「プロっていうか、なんか機械みたいだった」
観客の中には動画を見返す者もいた。
画面越しに映る蓮司の動きに、スロー再生のコメントが飛び交う。
「これ見てみ、パンチが来る前に重心がもう抜けてる」
「マジだ、完全に予測してんじゃん」
「これが金で見れるなら安いもんだな」
笑い混じりの声がいくつか上がり、拍手のような音が小さく響いた。
ふと、風が吹き抜ける。
街灯の光がわずかに揺れ、ベニヤ板の影がリングに歪む。
湿った土と汗とタバコの混じった匂いが、夜気に重く漂う。
その中で、一人の男がゆっくりと立ち上がった。
グレーのスーツに細身のネクタイ。
胸ポケットからは少し曲がった名刺が覗いている。
観客の何人かが「あの人、やるのか?」と息を呑む。
男は上着を脱いで丁寧に畳み、ネクタイを外しながら無言でリングに上がった。
革靴を脱いで靴下のまま、ぎこちない足取りで中央へ進む。
その姿に、観客席から小さな笑いや囁きが漏れた。
スマホの光が揺れ、リングの湿った板に反射する。
「スーツの人、いくぞ」
「おい、サラリーマン参戦だ!」
「おい、本気かよ」
「いや、あれは酔ってんだろ」
「でも、意外とやるタイプかもな」
観客のざわめきが一気に熱を帯びる。
誰かがスマホを高く掲げ、録画を開始する。
数秒後、シャッター音とフラッシュの光が夜空を白く裂いた。
笑い混じりの声が再び夜気に広がり、リングの外周を淡く包み込む。
そのざわめきの奥で、蓮司はわずかに息を整え、目を細めた。
蓮司は、まだ表情を動かさない。
彼の視線は静かにスーツの男を捉え、
まるで目の前の喧噪がすべて遠い世界のことのようだった。
観客の笑い声、囁き、遠くの犬の鳴き声。
静寂と喧噪の境界が、再び揺れはじめていた。
それらすべてが薄い膜の向こうで揺らめいている。
その静寂の中で、次のラウンドの鼓動だけが、確かに鳴っていた。
今日も1日2話投稿していきます!
次話は夜の予定ですので、読んで頂けると幸いです!!