『灰を駆ける者 ― ASH WALKER ―』   作:たーゆ。

12 / 61
第12話「喧騒の中の静寂」⑤

「すげぇ……あのオッサン、怒りで動かしてるな」

「体に力入りすぎて、全然ステップできてないじゃん」

「でも、あの腕でかすっただけで肩ガクッてなってたぞ」

 数人の観客が肩を寄せ合い、興奮の余韻を分け合うように息を潜める。

湿気に混ざった汗の匂いと人の体温が、空き地全体に重く滞留していた。

ざらついた夜風が頬を撫でても、その熱気はまるで逃げ場を失ったように地面に張りついている。

 

 

「おい、次は誰だ?」

「カップルが来るらしいぞ。彼氏が見栄を張るやつ」

「それ絶対面白いな。彼女の前でカッコつけるとか、見てられんわ」

 笑いを含んだ声があちこちで弾み、リングを囲む空気がわずかに軽くなる。

スマホを構えた若い女性の声が混ざった。「撮っていいですか?」と、カメラに向かって微笑む。

周囲からは「撮れ撮れ」「早く始めろ」といった掛け声が飛び、観客は次の衝突を待ち構えている。

 

 

 リングに残る熱気と汗の匂いが、わずかに沈静化した頃、角の暗がりからカップルの彼氏が姿を見せた。

肩を軽く揺らし、恋人のスマホをちらりと気にしながらリングに足を踏み入れる。

その視線は観客ではなく、ただ一人、彼女だけを追っていた。

「……撮るんだろ?」

「うん、いいよ!」

 彼女の声は楽しげで、スマホを構える手がわずかに震えている。

観客席からはくすくすと笑い声が漏れ、リング上に漂っていた緊張感が一瞬だけ緩んだ。

だがその軽やかさの裏で、蓮司の眼差しだけが一点を見つめたまま動かない。

彼氏が選んだのは、オプションC――「避けずに全ての攻撃を受ける」。

 

 

「殴るだけで追いかけなくていいんだろ?」

 軽く笑いながらそう言う声に、蓮司はただ小さく頷く。

反撃がないと知っている彼氏の拳には、強がりと焦りが入り混じっていた。

自分を強く見せたい――その思いが筋肉を硬直させ、呼吸を浅くする。

見栄と虚勢が汗とともに滲み、夜の湿気に溶けていった。

 

 

 蓮司は膝を軽く曲げ、手のひらを開く。

テーピングに伸ばした指先は、微動だにしない。

表情は変わらず、ただ淡々と、次に訪れる痛みと動きを見据えている。

「……撮ってるんだろ、ちゃんと?」

 彼の声は少し強めだったが、その奥には明確な不安があった。

彼女は笑いながら頷き、スマホを構える手を少し高く持ち上げる。

その瞬間、彼の意識は完全にレンズの向こうに奪われた。

拳の軌道よりも、角度よりも、どう映るか――そこばかりが気になって仕方ない。

 

 

 観客の誰かが囁いた。

「お、彼女の前か」「見せ場だな」

湿った夜風が通り抜け、リングの板を鳴らす。

 蓮司はその音に呼吸を合わせるように、ゆっくりと息を吐いた。

静かな空間に、スマホの赤い録画ランプが小さく光り、

次のラウンドの幕が、音もなく上がった。

 




最近凄く寒くなりましたね、皆さんお身体は大丈夫でしょうか?


僕は布団と結婚したいです…。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。