『灰を駆ける者 ― ASH WALKER ―』   作:たーゆ。

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第16話「喧騒の中の静寂」⑨

 街灯の薄黄色の光に照らされるリングに、

影が差した瞬間、観客のざわめきが一斉に高まった。

スマホを構えた手が無数に上がり、光が点々と夜空を切り取る。

「おお、来た!」

「マジで本物だ!」

 現れたのは黒のジャケットにスリムなパンツを合わせた男性インフルエンサー。

照明の下で髪をかき上げ、

リング中央に足を踏み入れる姿は、どこかステージ俳優のようでもあった。

 

 

 その顔には自信と挑発が混ざり、観客の期待をさらに煽る。

「よっしゃ、今日は“決闘モード”で行くぞ!」

彼は小さく叫び、手首をひねって拳を確かめると、

腰につけた小型カメラの角度を調整した。

スマホを取り出しては、自撮り気味にフレームを確認し、

背景に観客の熱気とリングが映るよう微調整を繰り返す。

 観客のあちこちから歓声と笑いが混じる。

「おお、カメラ映えすごいな」

「これ絶対バズるやつだ」

「決闘スタイル、マジで楽しみ!」

若い女性が友人に囁く。

「見て、あの動き!絶対撮らなきゃ」

「ほんと、早く始まってほしい」

男子グループのひとりはスマホを構えながら言う。

「フォームも決まってるし、攻撃の素振りもきれいだな」

「演出も完璧。まるで映画」

 

 

 蓮司は無表情のまま、淡々と声をかけた。

「今回のオプションDは、グローブありの決闘です。ルールは——」

「契約書にサインしてください。注意事項も確認を」

インフルエンサーは軽く手を振り、鼻で笑う。

「あー、分かった分かった。面倒くさいな。

でも俺なら大丈夫。さあ、殴られ屋、楽しませてくれよ!」

 蓮司は何も返さず、ダッフルバッグからグローブを2組取り出す。

赤い8オンスのボクシンググローブ。

軽く、だが殴れば確実に衝撃が伝わるプロ仕様だ。

 

 

 一組を差し出すと、男はそれを奪い取るように受け取り、拳を数度振ってみせる。

「いくぞ、殴られ屋。どこまで耐えられるか楽しみだ!」

彼は観客に向けて拳を振り上げ、フラッシュが一斉に光る。

カメラの赤いランプがリングの中央に灯り、

男は動画撮影を続けながら挑発のポーズを取る。

「うわ、映えるな」

「あの光、完璧じゃん」

「これ、今日いちバズるぞ!」

 観客の声が波のように押し寄せる。

女性たちはスマホを掲げ、

「ほら、手の動き見て!」

「あの構えカッコいい!」

と笑い合う。

男子グループは前のめりになり、画面越しにリングを追う。

「スローで撮ろうぜ」

「あの瞬間、切り抜きたい」

 

 

 インフルエンサーは軽くステップを踏みながら、挑発的に言う。

「おい、カメラの準備できたか?行くぞ!」

 ――その時、蓮司は静かに構えた。

膝を軽く曲げ、体の軸をわずかに落とす。

 両腕は力を抜いたまま自然に胸の前に浮かび、眼差しだけが相手を捉える。

それは戦う者の構えではなく、相手の呼吸と動きを測る構え。

観客には静止しているようにしか見えないが、

ほんの数センチ単位で重心が揺れ、空気を読むようにタイミングを計っていた。

(息が上がってる。肩の入りが浅い。打ち慣れてない)

 

 

 インフルエンサーはその視線に気づかないまま、興奮気味にカメラへ笑いかけた。

「いやー、耐えられるかな?殴られ屋!」

観客がざわめく中、蓮司はわずかに息を吐き、前足を踏み出した。

それはステップ・インと呼ばれる基本動作。

ただ前に出るのではなく、一瞬で距離を詰め、体重を乗せて拳を打ち込む。

 ――まるで音が置き去りになるような踏み込みだ。

 次の瞬間、左フックが閃いた。

拳は空を切るように見えたが、顎先を正確に掠めた。

「——ッ!?」

インフルエンサーの身体が一瞬浮き、後方に弾かれる。

スマホが手から離れ、映像がブレたまま床を転がった。

 

 

 観客は息を呑む。

「えっ、今、当たった?」

「速すぎて見えなかった」

「秒で!?」

「マジで映像映えする!」

 リングに沈む男の呼吸が乱れる。

顔をしかめ、慌てて笑いに変えようとするが、頬が引きつっていた。

「いや、ちょっと予想外だっただけ!タイミングの問題だって!」

観客は一斉にスマホを掲げる。

 

 

「マジで見苦しいw」

「完全にやられてんじゃん」

「顔真っ赤w」

「これバズるけど笑いモノだな」

 SNSのコメント欄が、笑いと嘲りで埋まっていく。

リアルタイム配信のチャットが爆速で流れ、赤い絵文字の嵐が画面を覆う。

男はグローブを握りしめたままリングを降り、顔を赤くしたまま走り去った。

 

 

 観客の笑い声が背中を刺し、スマホの光がその姿を追う。

蓮司はリングの中央で、ただ静かに息を整える。

 観客の熱気、笑い声、湿った夜気が混ざり合い、

世界が遠ざかっていくようだった。

拳を開く。手のひらには微かな汗と、打撃の余韻。

テーピングを巻き直しながら、彼はまた、無音の夜へと沈んでいった。

 




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