『灰を駆ける者 ― ASH WALKER ―』   作:たーゆ。

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第32話「赦しの残火」①

 割れたグラスの欠片が、カウンターの下で小さく光っていた。

掃除機の低い唸りと、モップを絞る水の音が混じり合う。

Avalonの店内には、まだ戦場の余熱が残っていた。

けれどその熱も、少しずつ冷めていく。

 キャストたちは無言で動いていた。

誰もが疲れていたが、誰も文句を言わなかった。

黒やワインレッド、白

 ――それぞれの個性を宿したバニースーツに、

ところどころ汚れや埃がついている。

それでも彼女たちは黙々と手を動かしていた。

グラスを洗い、床を拭き、倒れた椅子を直す。

そうして、少しでもいつものAvalonを取り戻そうとしていた。

 

 蓮司もその輪の中にいた。

黒いパーカーの袖をまくり、無表情のまま床を拭く。

背中にはリュック。あの重さは、仕事を終えても手放すことができなかった。

濡れた雑巾を絞りながら、彼は周囲をゆっくりと見回した。

カウンターの端では、蘭華が深々と頭を下げている。

 

「……さっきは、本当に申し訳ありませんでした」

 

 その声は低く、震えてはいなかった。

彼女は完璧な姿勢で、客たちに頭を下げていた。

何度も、何度も。

先ほどの騒ぎで巻き込まれた常連客たちが、まだ席に残っていた。

ボトルを抱え、煙草を吸いながら、微妙な空気を漂わせている。

“怒っている”というより、“どう反応していいかわからない”という沈黙。

 蓮司は、その様子を黙って見ていた。

蘭華の黒いバニースーツが、照明の下でかすかに光る。

長い髪が肩から落ち、額にかかっても、彼女はそれを直さなかった。

その姿は、どこか祈るようでもあった。

彼女の「店」を守るための、静かな儀式のようだった。

 

「蘭華さん、もうええって。気にしてへんから」

年配の常連が言った。

 

「……でも」

「こういうこともある。怪我人も出とらんしな。な、みんな」

「まぁ、確かに……でも雰囲気は戻らんやろな」

 

 別の男が肩をすくめる。

笑いながらも、どこかぎこちない。

心の奥では、まだ恐怖と警戒が混ざっていた。

蓮司はその会話を聞きながら、モップを立てた。

 カウンターの奥へと歩く。

無言のまま、リュックを下ろす。

中から取り出したのは、黒いセカンドバッグ。

ジッパーを開けると、そこには帯封付きの札束が整然と並んでいた。

それは、“この世界”の中では見慣れた重さだった。

蓮司はテーブルのそばまで歩き、客たちの前で足を止めた。

 

「……騒がせて、すまなかった」

 

 そう言って、無造作に札束を三つ、テーブルの上に置く。

包み紙に「壱〇〇」と印字された帯。

静かな音が、空気を裂くように響いた。客たちは目を見開く。

誰も、すぐには言葉を出せなかった。

やがて、一人が息を呑み、笑うように声を漏らした。

 

「……なんやこれ、映画みたいやな」

「百……万、ずつ、か?」

「え、ちょ、ちょっと待てや……」

 

 蓮司は返さなかった。

ただ無表情のまま、テーブルの上の灰皿をどけ、そこに封筒を整然と並べる。

 

「迷惑料だ。……今日は、それで水に流してくれ」

 

 静寂が落ちた。

誰かのグラスが、わずかに揺れる音だけが響いた。

やがて、一人の常連が笑った。

 

「……おいおい、太っ腹やな」

「さすがや。ここの“黒服”はレベルが違うわ」

「いや、黒服やないやろ。あんた……何者や?」

 

 蓮司は答えなかった。

ただ一礼し、ゆっくりと背を向けた。

その後ろ姿に、誰もそれ以上の言葉を投げなかった。

彼らの視線が、少しずつ柔らかくなっていく。

 

「ほら見ろ、蘭華。もう笑ってるぜ」

「……ほんとね」

 

 蘭華は小さく息を吐いた。

その顔には、ようやく微笑が戻っていた。

カウンターの上では、グラスの氷が静かに溶けていく。

その透明な音だけが、Avalonの夜に残された余韻のように響いていた。

 蓮司は再びモップを手に取り、何も言わずに床を拭き始める。

蘭華がその背中を見つめていた。

言葉にはならない、感情の残滓だけがそこにあった。

 ――この店を守るために、どれだけの夜を超えてきたのか。

蘭華は、胸の奥でそう呟いた。

雨の夜は過ぎ去った。

けれど、その跡はまだ、床の上に微かに残っていた。

 

 

 




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