『灰を駆ける者 ― ASH WALKER ―』   作:たーゆ。

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第5話「目覚めの残響」⑤

 昼下がりの木屋町。

人の声よりも、古びたアスファルトを叩く靴音の方がよく響いた。

喫茶《とうどう》を出た蓮司は、吐く息の白さを確かめながら歩く。

高瀬川の水面が鈍く光り、川風が冷たく汗ばんだ頬を撫でていく。

酒とタバコ、排気と汚物が混じった、街の“終わりかけの匂い”。

それでも蓮司の足取りは乱れない。

何も感じず、何も選ばず、ただ前へ。

その無意識こそが、いまの彼を生かしていた。

 

 

 立誠自治会館の角を曲がると、錆びた雑居ビルが現れる。

壁の塗装は剥がれ、看板には「BOXING GYM」の“B”だけが残っていた。

風が吹くたび、鉄骨が鈍く鳴る。

外階段を上ると、金属が軋み、蜘蛛の糸が光を反射した。

この階段を、彼は何百回も上り下りしてきた。

理由はない。ただ、身体がこの場所を覚えているだけだ。

 南京錠を外し、扉を押す。

軋む音が夜気を裂き、鉄と汗と埃が混じった空気が肺を満たす。

生温い金属の匂い――。

それは、時間が止まったままの場所の匂いだった。

室内は荒れていた。

壁のポスターは色を失い、ロープは灰色にくすんでいる。

それでも床には埃が少ない。器具には磨かれた跡がある。

秩序だけが、かろうじて残っていた。

誰もいないのに、ここはまだ“生きている”。

蓮司が通い続ける理由は、それだけだった。

 

 

 リングへ足をかける。

木の床のざらつきが靴底を通して伝わる。

メッシュのボクシングシューズが、かすかに鳴いた。

息を吸い、吐く。

呼吸とともに、世界の音が遠のいていく。

まずはステップ。

右足を前、左を後ろ。

母趾球(ぼしきゅう)で床を押し、踵で重心を支える。

「トン、トン、スッ……」

軽いリズムが、心臓の鼓動と重なる。

 ただの前後運動のようでいて、その一瞬一瞬が“生と死”の境界だった。

重心の移動はわずか。

しかし、その一瞬が勝敗を分ける。

右に踏み込むと、後ろ足の筋肉が伸び、腰が先に回る。

回転が拳を導く。

腕では打たない。骨ごと、全身で打つ。

その瞬間だけ、彼は完全に“生きていた”。

 

 

 ステップを止め、サンドバッグの前に立つ。

黒い革の表面を拳で軽く叩く。

パン――。乾いた音が、静寂を裂いた。

打点を変える。右、左、ボディ。

音が少しずつ変わっていく。

「抜くほどに深く沈む」――それが拳の理(ことわり)。

臀部、太腿、腰、肩、肘、拳。

すべてがひとつの線で繋がっている。

腰が遅れれば力は抜け、肩に力が残れば衝撃は逃げる。

その正確さを、何千回と繰り返して身体に刻む。

 蓮司にとって、殴るとは“音を作ること”だった。

いい音が鳴れば、身体は正しい軌道を描いている。

パン、パン、パン。

リズムが呼吸と一体化していく。

汗が頬を伝い、背中を冷やす。

誰もいないリングで、その音だけが確かに生きていた。

 

 

 パンチングボールを吊るす。

錆びたチェーンが軋み、ボールがゆらりと揺れる。

タタタッ――。一定のリズムで拳が当たる。

速すぎても、遅すぎても、ボールは跳ね返って頬を打つ。

「呼吸と間、それだけだ」

時間が濃くなり、世界が狭まる。

チェーンの揺れまで、攻防の一部に思えた。

動きを止めずに、彼は淡々と続ける。

呼吸、重心、音。

その全てを“死なないため”に反復する。

――急所を描く。

 拳を動かすたび、脳裏に淡い光点が浮かぶ。

こめかみ――脳を揺さぶる。

みぞおち――息を奪う。

肝臓――痛みで身体を止める。

下腹――重心を崩す。

顎、喉、頬、眼窩、後頭。

 その位置を、身体の記憶として刻む。

殺すためではない。

“死なないため”に覚えている。

殴るとは、生き延びること。

 

 

 呼吸が荒れ、鏡が曇る。

そこに映る自分は、誰か別の人間のようだった。

唇が乾き、胸の奥が焦げる。

それでも拳は止まらない。

 ジャブ。前足で沈み、肘を閉じて突く。

 ストレート。腰の回転を乗せて、一直線に伸ばす。

 フック。横回転の軸で頬を打ち抜く。

 アッパー。地面の反発を拾い、顎を突き上げる。

 右ストレート、左ボディ、左フック、右アッパー。

空気が一瞬、凍る。

 鏡の中の自分が同時に動き、そして止まった。

沈黙。

拳が震える。

恐怖ではない。

“まだ、生きている”という証だった。

 

 

 リングを降り、肩の力を抜く。

倉のような空間に、冷たい光が沈む。

棚からシェイカーを取り出し、粉を入れる。

ホエイ、EAA、マルチビタミン。

水を注ぎ、蓋を閉める。

カチリと鳴る音が、静寂を満たした。

一気に飲み干す。

冷たさが喉を滑り落ち、筋肉の隙間に染みていく。

 

 

 窓の外、夕日が沈む。

埃の粒が光を受けて舞い、灰のように見えた。

灰色の世界の中で、ただ一人、息をしている。

この時間が、蓮司にとっての祈りだった。

誰にも知られず、誰にも届かない、生の形。

それが、彼にとっての救いだった。

 




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