『灰を駆ける者 ― ASH WALKER ―』   作:たーゆ。

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第7話「目覚めの残響」⑦

 玄関を開けた瞬間、室内にこもった熱気が頬を撫でた。

靴を脱ぎ、リビングの照明をつける。橙色の光が、家具の影を柔らかく伸ばす。

何気なくスマートフォンを見ると十九時を少し回っている。

無言のままキッチンへ向かい、

冷蔵庫からボトルウォーターを取り出して一気に飲み干す。

喉を通る冷たさが、火照った身体の中心まで届いた。

 

 

 しばらくして、浴室のドアを開ける。

湯気の代わりに、シャワーの冷水を選ぶ。

火照った皮膚が一気に冷えていく。

 流れ落ちる水音の中に、昼のざわめきも、夕暮れの残響も、溶けて消えていった。

今はただ、何も考えたくない。

思考の底でかすかにくすぶる何かを、冷たい水で押し流すように。

頭から浴びる水の衝撃が、思考を一気に沈めるようだった。

 

 

 焼け残った灰の匂い――あの日の記憶が、一瞬、喉の奥で揺れる。

それでも彼は、手を止めなかった。

流れ落ちる水音に、自分の心拍が混ざり、やがて一つのリズムを刻みはじめる。

 鏡に映った自分の顔は、どこか硬い。

ただ、目の奥だけは妙に澄んでいた。

そのことに気づき、少しだけ笑う。

まだ、動ける――そんな確信がわずかに胸の奥に灯る。

 

 

 髪を拭き、タオルを肩にかけたまま、クローゼットを開く。

Tシャツを白に替え、黒のスラックスに脚を通す。

Tシャツとスラックスの繊維がまだ湿った皮膚に貼りつく。

 その冷たさが、かろうじて「生」を知らせる。

腕時計をはめ、ポケットに小さなメモ帳とスマートフォンを滑り込ませる。

ドアノブに手をかける前に、深呼吸をひとつした。

 

 

 外の空気は少し湿っていた。

通りには、週末を待つようなざわめきが漂っている。

夜が、街を動かしはじめる時間だ。

蓮司はゆっくりと歩き出した。

木屋町まで――。

いつものように、しかしどこか、違う夜の気配を感じながら。

 

 

 古川町商店街を抜けると、風の温度がわずかに変わった。

昼間のぬるさを失った空気が、皮膚の表面を撫でていく。

それだけのことが、やけに鮮明だった。

照明の切れかけた看板が、虫の羽音と一緒にチカチカと瞬く。

 昼の喧噪はとうに消え、白川の水面が街灯を揺らす音だけが残る。

家に戻れば、静けさしかない。

整えられた部屋、整いすぎた生活。

乱れを生むものが何一つなく、何も失われもしない。

それを“平穏”と呼ぶなら、あまりに空虚だった。

帰る理由も、出る理由も、どちらも同じ。

 

 

 ――ほとんど、重さではない。

風が頬を撫でた。

冷たくもなく、暖かくもない。

感覚があるのかどうかも曖昧なまま、ただ歩く。

 足音が石畳に吸い込まれていく。

夜風が髪を揺らすたびに、胸の奥のどこかが冷えていく。

何かを求めているわけではない。

ただ、何かを感じないまま進むことに、慣れすぎてしまっただけ。

 

 

 木屋町の明かりが、遠くで揺れていた。

笑い声がかすかに聞こえる。

誰のものかを確かめる前に、もうどうでもよくなった。

 世界は遠く、音も光も、自分に触れる前に溶けていく。

何かを思い出しかけても、そこには何も残っていない。

灰をかき回すように、ただ空白だけが続く。

 

 

 木屋町に入ると、世界の温度が変わった。

湿った笑い声と、濃い煙草、新しいアルコールの混ざった空気。

川沿いの店から漏れる灯りが、地面をまだらに染めていた。

人々は酔ったように喋り、笑い、何かを確かめ合うように肩を寄せ合う。

その輪の中に熱があることは分かる。

ただ、それがどんな温度なのか――もう思い出せなかった。

 一歩ごとに、靴の裏がざらりと舗装を擦る。

感覚だけは残っている。

だがそれも、他人の身体を借りて歩いているようだった。

「生きている」ということが、いまの自分にどう関係するのか。

その問いを投げるほどの気力すら、とうに失われていた。

 

 

 視界の端にネオンの赤が滲む。

音が、光が、どれも遠くで鳴っている。

まるで世界全体が、厚いガラス越しに存在しているようだった。

立ち止まる。

夜風が髪を揺らす。

 どこかで音楽が鳴っていた。軽いビート、弾むようなリズム。

だが心拍は、そのリズムに反応しない。

 ――空洞。

胸の奥に、それしか残っていない。

かつてここで誰かと過ごした夜の断片も、

焦げついたように黒く変色して、もう形を留めていない。

 

 

 人の声が遠ざかっていく。

街の灯りが滲み、揺れ、やがてぼやけて消えた。

蓮司はただ、無音の中を歩く。

何かを探すわけでも、忘れたいわけでもない。

ただ、夜の温度に溶けないまま――灰のように、漂っていた。

 

 

 三条大橋を抜け、西木屋町通と六角通が重なる角の空き地で立ち止まる。

このあたりが、いつもの“現場”だった。

ネオンの光が高瀬川の川面に乱反射している。

店からは笑い声、グラスの音、チープなクラブミュージック。

その喧騒の中で、蓮司はただ一人、壁にもたれて立つ。

 

 

 背後は雑居ビルの冷たいコンクリート。

足元にはタバコの吸い殻と、雨上がりの水たまりがひとつ。

仕事の道具は、必要ない。

“殴られる”ために用意するものなど、何もない。

 動かせる身体と、壊れてもかまわない意識――それだけで十分だった。

「殴られ屋」という言葉は、他人が勝手につけた。

正確には、名前すらない。

ただここに立ち、誰かが金を出して拳を振るえば、それで成立する。

痛みを売る。それだけの仕事。

最初の一発が来るまでは、いつも長い。

 

 

 通りを行き交う酔客が何人も蓮司を見た。

笑う者、侮蔑の目を向ける者、あるいは興味を抱く者。

どの視線も、もう何も刺さらない。

 ――痛みは、感じなくなった。

 身体が勝手に反応するだけ。

打たれた瞬間、筋肉が収縮し、骨が軋む。

だがそこに「痛い」という感情はない。

殴られても、ただ反響があるだけ。

空洞の中で、音が鳴るように。

それが、彼の日常だった。

 

 

 最初は金のためだった。

だが、いつしか金の重さも分からなくなった。

ただ、殴られることで「まだ存在している」と思えた。

痛みを媒介にしか、現実を感じられなくなった。

通りの向こうで、数人の若者が足を止める。

笑いながらスマホを向ける。

「マジで殴られ屋いるやん」

 蓮司は顔を上げなかった。

視線は、どこにも焦点を結ばない。

風が頬を撫でた。

そのわずかな冷たさが、唯一の現実だった。

 ――夜が、動き出す。

 

 




初投稿のこの作品を投稿して明日で1週間になります!



ここまで投稿を続けられたのは読んでくれる皆さんのおかげです!!

本当にありがとうございます!!



この作品を引き続きよろしくお願いします!!!
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