『灰を駆ける者 ― ASH WALKER ―』 作:たーゆ。
西木屋町通と六角通の角地。
かつて工事現場だった跡地に、鉄パイプとベニヤで組まれた簡易リングが立っていた。
街灯の下、薄汚れたベニヤが湿った夜気を吸い込み、淡く影を落とす。
空気は重く、皮膚にまとわりつくような湿り気を帯びていた。
舗道には汗と雨が染み込み、夜の光を鈍く反射している。
蓮司が働く“殴られ屋”は、毎晩20時から23時まで。
時間を区切るのは、警察の目を避けるためだった。
もともとグレーな仕事だ。これ以上、踏み込みを受けるわけにはいかない。
蓮司には、この仕事以外の生き方を知らなかった。
殴られて金を得る以外の“術”も、“理由”も、すでに失っていた。
料金は30秒1,000円の前払い制。
客の平均は1~3分。狙ってよいのは頭と胴体のみ。
加えて、五つのオプションがある。
・オプションA:足をゴムチューブで縛り、動きを制限する(+500円)
・オプションB:スポーツチャンバラ用のエアソフト剣を使う(+1,000円)
──短刀、小太刀、長剣、杖、棒、槍の中から一本
・ オプションC:蓮司が避けず、一方的に殴られる(+2,000円)
・ オプションD:マジックテープ式8オンスグローブでスパーリング(+2,000円)
・ オプションE:素手で殴り合う決闘(+2,500円)
注文の多いのはA、B、C。
Dはときどき、Eはまずない。
誰も、本気の殴り合いなど望んではいなかった。
それでも、蓮司はこの仕事で一晩に40万円以上を稼ぐ。
必要な金は衣食住、そしてサプリメント類――
EAA、マルチビタミン、マルチミネラル、カルシウム、亜鉛、マカ、ホエイプロテイン。
残りの大半は貯蓄に回す。
金を使うことにも、もう意味はなかった。
リングの端で、蓮司は黙々とテーピングを巻く。
掌は汗ばんでおり、白いテープが指にまとわりつく。
小さく息を吐き、貼り直す。
湿気が多く、手元の感覚がいつもより鈍る。
周囲には、観客がちらほらと立っている。
スマホを構える者、息を潜める者、ただ通り過ぎる者。
空気には酒と揚げ物の匂い、タバコの煙、そして川沿いの湿った土の匂いが混ざる。
熱気が重く、リングの上はひときわ息苦しい。
それでも、手は止まらない。
テープのざらつき、遠くのバイクの排気音、虫の声――
それらすべてが混ざり合い、奇妙に静かなリズムを作っていた。
準備を終えると、蓮司は軽く拳を握り、
拳と拳の間に生まれる“距離”を確かめるように、前後に小さくステップを踏んだ。
視線は冷ややかで、相手の体格や立ち位置を、無言で計測している。
リングの外から、大学生くらいの青年が一歩前に出る。
緊張と興奮を抱えたまま、リングの中へ足を踏み入れる。
その瞬間、蓮司と目が合った。
わずかな沈黙が、夜の喧噪を切り裂く。
この3分間――
誰も言葉にしないまま、互いの力と虚無を測る時間が、静かに始まろうとしていた。
今日は午前にも投稿してみました!
読んでいただけると嬉しいです!!