『灰を駆ける者 ― ASH WALKER ―』   作:たーゆ。

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第9話「喧騒の中の静寂」②

 大学生が軽くグローブを握り、リングの中央へ足を踏み入れた。

体格は蓮司よりも一回り大きく、肩には若さの張りと筋肉の厚みがある。

動きは荒いが、どこか自信に満ちていた。

時折浮かべる笑みは、緊張よりも“楽しさ”の色が濃い。

 

 

「おう、やっとリングか。俺、昔ちょっと空手やってたんだぜ」

軽口に観客が反応する。「お、空手経験者?」「楽しみだな」と小さな笑い声が漏れた。

蓮司は黙ったまま、リングの中央に立つ。

 大学生は肩を回し、軽くジャンプして体をほぐした。

その仕草に、まだどこか“遊び”の匂いが残っている。

彼はポケットから折りたたんだ封筒を取り出し、蓮司のリュックへ押し込む。

紙の擦れる音が、湿った夜気の中でやけに生々しく響いた。

 

 

「まあ、今日は楽しませてもらうよ」

口元を緩め、グローブを構える。

観客の中から「先払いか、やるな」「いいぞ!」と声が飛ぶ。

蓮司は視線を動かさない。

 ただ、足の裏で地面の硬さを確かめ、呼吸を整えた。

大学生の右拳が弧を描く。

フック気味の拳――風を切る音がわずかに鳴った瞬間、蓮司の上体が沈む。

肩を落とし、腰をひねりながら頭をずらす。

 

 

 それが〈ウィービング〉。

頭を左右に小さく弧を描くように動かし、拳の軌道を外す。

首と腰を同時に使い、重心ごと滑らせる。

 

 

 パンチの“下”をくぐるのではなく、“横”を抜ける感覚。

ほんの数センチの差で拳が頬をかすめ、空気が揺れる。

続くストレートに対して、蓮司は膝を軽く折り、上体を沈めた。

 

 

〈ダッキング〉。

膝と腰を連動させて一瞬だけ頭を下げ、拳の下をくぐる動き。

重心を落とすとき、視界が一度だけ暗くなる。

その暗闇を抜けると、再び相手の腹の高さに世界が戻る。

 

 

「見ろよ、このフォーム! 空手の型だぜ!」

大学生は息を弾ませながら連打を放つ。

右、左、右。

拳は力強いが、無駄が多く、打ち終わりに隙が残る。

それでも観客からは「速いな」「当たりそう!」と声が上がった。

 

 

 蓮司は避けながら、ただ呼吸を数える。

〈一、二。吸って、吐く〉

パンチの風圧と、湿った空気と、観客のざわめき。

 すべてが混ざって、遠い世界の音のように響く。

汗が額を伝い、テーピングの端が湿気を吸って指に張り付く。

それが妙に不快で、現実に引き戻される。

だが、その“現実”すら、すぐにまた溶けた。

 

 

 大学生は息を荒げながらも笑っていた。

「いやー、昔の稽古が役に立つなんてな! 俺、意外とやれるかも?」

 観客の笑い声が重なる。

誰もがこの戦いを“ショー”のように見ている。

蓮司だけが、その熱気の中で一人、静かに呼吸を続けていた。

 

 

 数分後、大学生は大きく息を吐き、後ろへ下がる。

額の汗を拭い、笑顔で言った。

「サンキュー、面白かったな」

 観客から小さな拍手。

「次も見ようぜ」「あの動き、やばいな」と囁きが混ざる。

蓮司は膝を曲げて拳を開き、再びテーピングの感触を確かめた。

封筒の重みがリュックの底で揺れる。

夜気の中、金と汗と湿気の匂いが、ゆっくりと混ざり合っていた。

 




今日は頑張って1日に2話投稿しました!!

土日のどっちかは1日に2話投稿できるよう頑張ります!!!
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